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2010年11月9日(火曜日)

Whitehead process 哲学の背景

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時13分30秒

25日に田中裕先生に会いに行くためにwhitehead哲学の泥縄勉強中。 ;-)田中先生の「ホワイトヘッド 有機体の哲学」を摘み食いで読む。で、ホワイトヘッドの哲学の背景が、あるフレーズで大体解ってしまった(ような気に勝手になる。ほんまか? :-P)。pp.63-64, ホワイトヘッドは相対性理論の哲学的基礎を作るため、従来の個が先、その集まりとしての外延が後、という方向を、PM により逆転する。これを the fallacy of misplaced concreteness と呼んだらしい。現代代数幾何学の言葉を使えば、説明は簡単で「点より代数多様体の方具体的である」となる。つまり、2次の無限小を x^2=0 という「代数多様体」(スキームというべきなのだろうな本当は。代数幾何の理論をちゃんと知らないからわからないけど用語の問題なので気にしないことにする。で、「」をつけておいた)として見るという見方。これは数学を知らない人には辛いだろうが、Kronecker 流の代数学の系譜につらなる数学では常識。たとえば、Stone duality とか、ゲーデルの完全性定理とか、米田のレンマ関係の圏論の完全性など、すべてこれに類した話。ただし、正確に言えば、完全性の場合は、どっちが先とも言えないよ、ということ。形式からさえ(唯名論の名前からさえ)、点(個)が作れる(実在が作れる)という話だから(ただし、そこに何らかの超越、たとえば集合論が使われている事に注意。もっとでかい存在から、ちいさな存在の存在を言っているわけだ)。しかし、Whitehead は「形式」(表現)がより concrete (有限)だとした。要するに Kronecker や現代代数幾何学の思想と同じ。

面白いのは、これを Whitehead はPM を使って基礎付けたらしいこと。田中の記述によれば「この手法は、『数学原理』の集合の理論を用いている」となる。これは、誤解されやすい文章だろう。田中の(Wの?)真意は、PM で実際に集合を一つ記述しようとすると、点の集まりを直接記述する、つまり、外延的定義は、ほとんどの場合不可能。結局、論理式を用いて内包的に定義することになる。だから、そちらの方が実は concrete なのだ、という意見。つまり、「『数学原理』の集合の理論」というのは、「PM の形而上学」という意味でなくて、「道具としての PM の使い方」という意味になる。

Whitehead の PM 以前の著作が、universal alg. の大著であることと関係あるかも。
# しかし、いままで気が付かなかったが、Peter Johnstone とか Martin Hyland とか、Cambridge のこの系譜に載っていると言えるのかも….
# ちなみに、Peter は King’s で Martin は Trinity, Whitehead は Trinity。これは無関係だろうけど。

僕のように計算機上で組織の業務モデル、家電製品のモデルを動かしたい、となると、当然、『最初に表現あり』になる。人間が直接かけるのは表現しかないのだから。で、アリストテレス論理学・存在論紛いのオブジェクト指向フレームワークになっていくわけ。だから、僕等のような人間には、これは常識というか、これでしかやれない。そうなると、process と reality といわれれば、当然ですよね、自然ですよね、という風に答えることになる。しかし、これは多く人のものの考え方とは逆なのだろう。だから、Whitehead 哲学は難しいといわれるのだろうし、ソフトウェアも難しいといわれるのだろう。でも、後者はとにかく動くし、多くの人がマスターしている。後者を先に理解すれば、前者はむしろ自然に見えるのかもしれない。

とは、いうものの、上の話は、W の中期哲学までの話、それで後期哲学まで推し量っている。

そのスペキュレーションついでに、なぜ、僕がトポスとかKripke 意味論とかで、非西欧的な思想を意味づけようとする人に反発を感じるのかも解ったような気がする。つまりは、僕は duality により、どっちもどっち、と思っている。ヒルベルトが Synthetic geom. も analytic geom. も理論的には同値だと証明したのと似ていて、どちらでやるかはどうでもよいである。その時々にやりやすい方に飛び移ればよい。ただし、そこでは相対主義の問題がでてくるが、人間、そんなに頻繁にOSを変えることはできない。そこで「粘性」「摩擦」のようなもので、あるところに長く止まる。その時、そこが世界の中心となる。その時には、それに絶対的に teilhaben する。これは Weber 的な非相対主義だ。Wertfreiheit。これはWert がないという意味ではない。Wert に絶対的なものはないというだけで、それぞれの Wert は、価値、つまり、絶対なのだから。

丸山君が哲学をやりたがっていたが、Whitehead が良いかも。


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