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2018年5月27日(日曜日)

使う側の心の問題

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時35分21秒

今朝の京都新聞の「天眼」に生物学者で歌人の永田和宏京都産業大学教授が、WEBやDBのサービスで論文などが集めやすくなったが、そのために、ふとしたことで、今目的としているものでない情報に出会う機会が減っているのではないか、という文章を書かれていた。

永田さんは、連れ合いの八杉の家と何かと関係があって(岳父龍一も生物学者で歌人だった)、僕の家でも話題になることが多く、また、書かれる文章も好きなものが多いのだが、この文章には落胆。

IT、特にWEBやSNSが人々の関心を蛸壺化しているというのは、実際に起きていて、情報学の研究対象にもなっている現象だが、これは実は、ITの問題ではなくて、それを使う側の問題だ。この現象の原因をITに求めるのは、間違いで、特に研究者の様に、知性で生きる人が、それではいけないと思う。まあ、そういう意図の文章だったのかもしれないが、ITが悪い、便利なったのが悪いとも読めた。

実は、WEBなどは、多様な情報、自分とは関係がないと思っていたが、実は関係がある情報を集めるのに、非常に役立つツールだ。

僕が典型例で、ITと、それを使うスキルをもっていなれば、元数学者・工学者の僕が、今のような、歴史、それも京都学派の思想史など、とてもできなかった。歴史学や、古典にITが適用されるようになった、その時代に、たまたま、歴史学のプロになったという、大変な偶然のお陰で、今のようなことができている。

昨日も、今、他の機関と共同で翻刻・解析をやっている、ある哲学者の残した史料(奥歯にものが挟まったような言い方ですが、あと数日でプレスリリースのため、それまで秘密 :-)。リリースされたら書きます)の一つが、Kuno Fisher の哲学書の読書ノートであることを、WEBサーチと、その哲学書(1865年刊)の電子化されて Google Play で数百円で売られていた検索可能なテキストを利用して、1時間もかけずに発見できた(archive.org にも無料版があるが、OCRのかけ方が酷くて、テキストが使い物にならない。Fraktur だからか?Google は、Fraktur もちゃんと読んでいる。)

Kuno Fisher は名前程度しか知らない僕が、ITなしで、同じことをするのは、まず不可能だろう。それが1時間もかからずにできる。これがITの力だ。

ITで蛸壺化が起きるのは、求めるものを fix して、求める努力を減らすからで、情報を求める努力を減らさず、求めるものに上限を置かなければ、得られる情報は増える。つまり、同じ情報を10分の1の手間と努力で得るのでなくて、同じ手間と努力で10倍あるいは100倍の情報を得る。それがITの正しい使い方だ。

そして、世界の研究者や、意欲ある人々の多くは、そう使っているのだが、なぜか、日本では、逆の使い方をしている人が多いように思う。なぜだろうか…。それがいつも疑問なのだが、答えがない。

ただ、Max Scheler が、日本について「保守的な人民を、革新的な官僚たちが引っ張っている国だ」という意味のことを書いていた。これは第2次世界大戦前の話。日本人の本性なのだろうか…。


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