Welcome Guest 
メインメニュー
林晋ブログ 最近のエントリ
Blogカレンダー
2017年 11月
« 3月   12月 »
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
Blog 月別過去ログ
Blog 検索
カテゴリ一
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

リンク
検索

2017年11月28日(火曜日)

北軽井沢と軽井沢

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時00分25秒

佐藤優「学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む」を少し読む。

北軽井沢が軽井沢の一部か近くだと誤解しているらしい。

佐藤優氏は、最近、色々な所で、「太平洋戦争末期に軽井沢や箱根に住むのは「卑怯者」の証明」という議論をしているらしく(たとえば、これ)、「佐藤優 箱根 軽井沢」などでサーチすると、色々と出て来る。要するに、そういう人たちは、各国の大使館、公使館の避難先だった、軽井沢、箱根は米軍が爆撃しないだろうと考えたのだという主張。

これを使い、田辺の昭和20年の北軽沢隠遁(これに疎開の意味もあったのは、お弟子さんたちの証言からまず間違いない)を田辺の人間性に疑問符が付く証拠としていて、まず、これを前提にして田辺論が始まる。しかし、これは北軽井沢を軽井沢の一部か近くだという誤解に基づく議論だ。

北軽井沢は、本物の軽井沢から遠い、現在は寂れてしまった別荘地で、群馬県吾妻郡にある。一方で、軽井沢は、その南に位置するが、長野県北佐久群にある。

富裕層が別荘を構える軽井沢では無理だが、学者でも別荘は持てるのだ、という対抗意識もあってつけた名前が北軽井沢らしいことは、北軽井沢大学村の草創期から山荘を構えていた野上弥栄子さんの短編などからわかる。もともとは地蔵川という場所。そこに法政大学の関係者が法政大学村という学者の別荘地を開いた(鉄道の煙突から飛んだ火の粉が原因といわれる山火事の跡)。

北軽沢には二回行ったことがあるが、随分、アクセスが難しい、辺鄙な所だなとは思っていたが、距離などをちゃんと調べたことがなかったので、Google maps で距離を測ってみた。

旧田辺山荘である群馬大学北軽沢研修所(大学村の南東の外れの位置になる)から北陸新幹線軽井沢駅までを測ってみたら、13.22km だった。京都駅と大津駅の間が10km 無いので、かなりの距離。東京だと東京駅から千葉の浦安市街くらい。

Google Maps で、軽井沢駅から群馬大北軽井沢研修所への経路を調べようとしたら、なんと計算不可能だった。辺鄙…(^^;)

ということで、いずれにせよ、佐藤優氏の議論は実は成り立たない。北軽沢という地名をサーチするだけで、直ぐに解ることなのだが…。

田辺は色々言うし、本人は命がけのつもりで政府の政策批判をしたりしているのだが、最後の最後で逃げてしまうというのが、僕の持っている田辺像。

先日、京都哲学会で、田辺元と西谷啓治について話したときにも、そのことは言っておいたが、以前から、こういう問題が、つまり、田辺にそういう印象を持つ自分は、同じ様な状況でどう行動できるのか、という問が、咽喉に刺さった魚の骨みたいな感じでいる。

昭和20年に北軽井沢の夏の山荘に疎開の意味を含めて移転したことには、色々ある田辺への違和感のひとつ。北軽沢は米軍が爆撃対象にするには、あまりに小さく辺鄙で、軽井沢以上に安全であったはずだ。そして、京都から北軽沢に移住したのに疎開の意味もあったのは、ほぼ確実である。

ただ、一方で、田辺夫妻は、元々が関東の人で(田辺は東京神田、夫人は逗子辺りだったはず)、京都に染まった感じが全くないこともあり、定年退官すれば、関東に戻るのは自然な流れ。昭和20年の大混乱の中、関東に戻るとすれば、その目的地が、自分が所有する夏の山荘であることは極く自然だったろう。

明治人で、生まれた家のこともあり、田辺は大日本帝国には疑問を持たなかっただろうと思われる。それを現代から批判しても仕方がないと僕は思っているが、問題は、「国や社会の進む方向がおかしい」と判断した場合、そして、三木や戸坂のように検挙される可能性があるとき、あるいは蓑田の様なウルトラ右派から攻撃をうけそうなとき、そういう様な状況で自分がどう行動できるだろうかということ。

まだ、十分調べられてないので、確実ではないが、三木、戸坂は生命の危険をどれくらい考えていたかは疑問が残る。一番危なかったはずの戸坂さえ、死につながった二度目の収監の際に、攻撃してくるウルトラ右派に憤慨して反撃してやろうと思うという大親友西谷啓治に、戦争はすぐ終わる、自分もすぐ出て来る、そんなの無視して置けという意味のことを言ったらしい。それがああいう結果になった。歴史とはそういうもの。

大島康正は国立の帝大の教員である間は、政府に協力するのは当然で、そうでないときは、まず、国立大学の教官であることを辞めるべきだというのが、田辺の見解で、(戦後)国立大学教官でありながら政府批判をしている人に比べて倫理観として田辺の方に共感するという意味のことを書いているが、これは、田辺研究を始める前から、僕自身も考えていた問題で、それでNISTEPなどの霞ヶ関の研究所などへの協力は積極的にやるというスタンスにしていた。

僕の場合は、ITをやっている仲間たちに大企業の人が多く、そういう人たちと普通に仲間として付き合いながら、昔は強かった大企業批判に同調するのは卑怯ではないかという問題意識だったが…

僕は、諸般の理由で、30代のころから、大学を辞めても数年は無職でも生きられるような経済的条件を維持するというのを意識的にやっていた。それもあって、自分以外の教授会のメンバー全員と意見対立するというのを、龍谷でも神戸でも経験したが、こんなのは学部長になりたいとか、学内政治力を持ちたいとか、そういう気が無ければ、そして、一定の条件に恵まれれば、全然平気でできること。

しかし、田辺の時代と同じような時代に自分が置かれたとき、自分はどういう行動・態度をとれるか。正直のところ、田辺以上に毅然として立つ自信がない…

数学基礎論史とか、京都学派とか、20世紀の戦争の時代の歴史をやっていると、こういう問題に出くわしてしまった人たち、しかも、学者としての自分の先輩のような人たちの姿を目にすることになる。特に、ドイツはシビアだ。亡命するユダヤ人学者、強制収容所から逃れるため一家で自殺する学者、ナチ党に入党する学者、様々である。それに比べれば、京都学派の人々は幸せにさえ見えてくる。

今の時代は、この時代に非常に似てきている。僕と同じ時代をやっている人の多くは、そう思っているらしい。

もし、そうなったとき、僕はどう行動できるか?

田辺は、日本の敗戦が確実になり始めるまでは、恵まれたエリートコースに乗る学者だったと言える。一方で、西田は、京大に職を得た後も、小康の後、定年退職することまで、個人的な不幸続きだった。そして、京大に移るまでは職でも苦労している。その西田の晩年は敗戦の前に亡くなることも含めて比較的幸運であった。それに対して、田辺の人生は、昭和10年代ころから暗転していく。

その田辺が群馬の山奥で太平洋戦争末期を過ごしたのに対して、西田は米軍の上陸も想定された鎌倉で最晩年を送った。そのころ太平洋に面する鎌倉では米軍機の攻撃会うことが多かったらしく、同じ鎌倉に住む親友鈴木大拙に、最近は米軍の攻撃が酷くて、会いに行きたいが思う様にならない、という意味の葉書を送っている。

性格も含めて、実に対照的な二人であるが、晩年も対象的であった。

西田は海、田辺は山。


TrackBacks

このコメントのRSS

TrackBack URL : http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/modules/wordpress/wp-trackback.php/385

この投稿には、まだコメントが付いていません

コメント

_CM_NOTICE

24 queries. 0.032 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress

XOOPS Cube PROJECT