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2016年7月5日(火曜日)

闘う西田幾多郎 –ある同僚の証言–

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時36分00秒

田中上柳町の西田幾多郎旧宅の一部保存に関わったことで、色々と調べが進んで面白いということを一つ前の投稿で書いたが、実は、その投稿の前に書きかけて、途中で入力が飛んでしまった話を再録。

西田幾多郎「悲哀の哲学」の現場 西田幾多郎田中上柳町旧宅についてで、静かな泰斗というイメージが強い西田幾多郎が、実は壮年時代、特に京大時代、少なくとも場所の論理の前までは闘う人であり、その背景に「悲哀の哲学」があるという「新しいイメージ」を出して記述した。

で、「新しいイメージ」に括弧がついているのは、そのページでも引用した藤田正勝さんの岩波新書「西田幾多郎」などで詳しく論ぜられているように、西田の「悲哀の哲学」というイメージは、多くの専門家に共有されているイメージだと思うからである。確か、関西学院大学の嶺さんも悲哀の哲学のことを書いていたし、哲学館にいくと、吹き抜けの空間に、こういう巨大なタペストリーがかかっている。

しかし、「闘う西田幾多郎」というイメージは、藤田さんの本でも、それほど強調されているようには思えない。嶺さんの著作でも、あまりこれは強調されていないように思える。

で、「闘う西田」には妥当化というか、証拠が必要だが、その一つとして、西田のある同僚の話を記録。

それは下村の「西田幾多郎 同時代の記録」の pp.73-6の朝永三十郎の「古人刻苦光明必盛大ー西田博士の書」というエッセイ。オリジナルは西田全集、昭和26年10月月報。

朝永三十郎は、西田と一歳違いで、西田が京大哲学の教授であった時代に、哲学史の教授であった人。京大文への赴任は西田の1910年より三年早い1907年(明治40年)。

この人が、次のような面白い話を残している。実は、大半は「闘う西田」とは直接の関係はないのだが、こういう人物の証言ならば信用できるだろうという意味で、これをここに採録。

———–
私の長男が家庭を離れて東京で独立の修業生活を営むことになつた際、私は西田さんに、何か若い者を鼓舞するやうな言葉を、と言つて揮毫を願つた。気軽るに引きうけて数日後に持つて来て呉れられたのは、「古人刻苦光明必盛大」といふ慈明和尚の語であつた。それを掛け軸に仕立てたのを長男は、下宿の自分の部屋の床の間に掛けて居たらしかつたが、どれくらゐか経つたあとに帰省した際、家内に、あの軸を掛けて置くと何だか始終叱りつけられてるやうな気がして、苦しくて仕様がないから、折角いただいたのだが、何か外のものに取りかえてほしい、と言つて代りの軸を持つて行つた、といふことであつた。
 その後このことを西田さんに打あけたところ、西田さんは一寸軽い感動の色を示したやうであつたが、ただ静かに、さうかと言つただけであつた。それで私は、此語が与へるこの様な圧迫感は語から来るのだらうか、筆の力から来るのだらうかと問ふて見たところ、語の力さ、といふ簡単な答へであつた。(あとで考へると、私のこの問は甚だデリカシーを欠いた問であつたといふことに気づいたのであつたが。)その後鈴木大拙さんに会つた際私は、何かの話しのきつかけに此事を話し、且つ同様の問をかけたところ、それに対する答へは、そりや筆の力だよ、といふのであつた。これは西田さんなほ存生中のことである。
———–

この後、朝永は、「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたのである。

朝永三十郎という人は、軽妙洒脱な人であったのではないかと思う。今、京都学派アーカイブの新版の用意をしているが、そのトップページには、西田、田辺を始め、朝永を含む20数名の思想家たちの肖像写真が並ぶ。その写真群の中で、ある意味で最も異彩を放っているのが、朝永三十郎の写真である。

朝永の写真で解像度が良いもので著作権処理ができそうなものがなかなか見つからなかった。解像度が比較的良い写真の朝永は、何故か奇妙な服装をしていたが、それを使うことにした。しかし、変な服装だなと思って、よくよく見てみると、朝永が着ていたのは割烹着らしいのである。キャプションによると、どうも鰻の蒲焼を作っている際の姿らしい。僕等のような「旧帝大の小遣い同然の、現代の旧帝大の教授」と違って、朝永の当時の教授職の地位は高かった。そういう人が割烹着を着て料理を作り、その写真を撮らせるというのは、拘りが少ない、自然な人だったはずである。

三木が西田を「激しい魂」と呼んでいるが、三木自身が激しいので、少し割り引いてしまいたいところがある。しかし、朝永が「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたものは額面通りに受け取れると思うのである。

ところで、西田が書いた古人刻苦光明必盛大とは、猛烈に精進せよ、という意味である。その西田の書に「叱られているようで苦しい」といった、朝永の長男というのは、後のノーベル賞物理学者朝永振一郎である。東京での修行生活というのは、1931年に理科学研究所の研究員になったことをいうのだろう。そうすると、このとき朝永三十郎は60歳、西田は61歳である。

朝永振一郎が1965年に日本人として二番目のノーベル賞を受賞したき、新聞で朝永の写真を見た。それはまな板の上で大根か何かを切っている図で、料理は遅いが上手なのだ、という説明がついていた。まだ子供で、家庭科以外では料理をしたことがなかったが、それを何か妙に好ましく思ったのを思い出す。


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