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2016年7月2日(土曜日)

三木清と西田幾多郎

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時07分03秒

 京都学派について論じる時、常に伴う問題として「京都学派とは何か?」という事がある。
 京都学派とは西田幾多郎の思想に端を発する絶対無の哲学であるとすると、マルクス主義に傾倒した、所謂、西田左派とか言われる人たち、三木清、戸坂潤、船山信一、こういう人たちが、すべて京都学派から滑り落ちる。しかし、それは西田のお子さんたちの証言に見られる、西田が最も心配していたのが三木と戸坂のことであったという事実にそぐわない。
 マルキスト戸坂の最も親しい友人が、戦前はヒトラーを称え、その故にか、あるいは、悪名高い座談会「近代の超克」に参加した故か、戦後GHQによる公職追放にあった西谷啓治であったように、この時代の人間関係を、その後のイデオロギーの目から見ることは空しい。
 それは『後知恵』に過ぎない。そういう後知恵で、過去を裁く行為は、空しく、また、歴史学として間違いである。思想史家と自称する以上、如何に難しくとも、その時代に生きた人たちの、あるいは、それにより近いマインドで、その時代を理解したいと思う。
 もし、私のこの方法論が正しいとしたら、三木や戸坂、特に三木を西田から遠ざける如何なる解釈も妥当性を持たない。三木こそが「京都学派」形成のキーマンだからである。
 以下、三木清全集からの引用。

西田幾多郎先生のこと
三木清全集17巻、p.245
 西田先生に初めてお目にかかつたのはちやうど先生が『自覚に於ける直槻と反省』を書き上げられた頃であつた。「この書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドッキュメントである」と云はれてゐるが、先生に接して私のまづ感じたのは思想を求めることの激しさであつた。私は嘗て先生の如きほんとの意味において激しい魂に會つたことがない。
 この激しさは先生がつねに何物かに騙り立てられて思索してゐられることを示すものである。それは先生のうちに深く藏せられた闇、運命、デーモンと云つても好いであらう。先生の哲學から流れてくるあの光はこの闇の中から輝き出たものである故にそれだけ美しいのである。先生は早くからロシア文學を好んで讀まれたやうであり、つい最近にも、ドストイェフスキーは非常に面白いと話してゐられた。意味深い事實である。先生は自分自身に大きな問題を負うて生れて來られた。この問題の大きさが先生の哲學を大きくしてゐるのだと思ふ。

西田先生のことども
昭和十六(一九四一)年八月『婦人公論』。
三木清全集17巻、pp.295-312
 大正六年四月、西田幾多郎博士は、東京に來られて、哲學會の公開講演會で『種々の世界』といふ題で、話をされた。私は一高の生徒としてその講演を聴きに行つた。このとき初めて私は西田先生の馨咳に接したのである。講演はよく理解できなかつたが、極めて印象の深いものであつた。先生は和服で出てこられた。そしてうつむいて演壇をあちこち歩きながら、ぽつりぽつりと話された。それはひとに話すといふよりも、自分で考へをまとめることに心を砕いてゐられるといつたふうに見えた。時々立ち停つて黒板に圓を描いたり線を引いたりされるが、それとてもひとに説明するといふよりも、自分で思想を表現する適切な方法を摸索してゐられるといつたふうに見えた。私は一人の大學教授をでなく、「思索する人」そのものを見たのである。私は思索する人の苦悩をさへそこに見たやうに思つた。あの頃は先生の思索生活においてもいちばん苦しい時代であつたのではないかと思ふ。その時の講演は『哲學雑誌』に発表されて、やがてその年の秋出版された『自覚に於ける直観と反省』といふ劃期的な書物に跋として收められたが、この本は「余の悪戦苦闘のドキュメント」であると、先生自身その序文の中で記されてゐる。
 その年、私は京都大學の哲學科に入學して、直接西田先生に就いて學ぷことになつた。私がその決心をしたのは、先生の『善の研究』を繙いて以來のことである。それはこの本がまだ岩波から出てゐなかつた時で、絶版になつてゐたのを、古本で見附けてきた。その頃先生の名もまだ廣く知られてゐなかつたが、日本の哲學界における特異な存在であるといふことを私は聞かされてゐた。その後先生の名が知れ亙るやうになつたのは、當時青年の間に流行した倉田百三氏の『愛と認識との出發』の中で先生のこの本が紹介されてからのことであつたやうに記憶してゐる。『善の研究』は私の生涯の出發點となつた。自分の一生の仕事として何をやつていいのか決めかねてゐた私に、哲學といふものがこのやうなものであるなら、哲學をやつてみようと決めさせたのは、この本である。その時分は、一高の文科を出た者は東大へ進むことが極まりのやうになつてゐたが、私は西田先生に就いて勉強したいと思ひ、京大の哲學科に入らうと考へた。高等學校時代にいろいろお世話になつた速水滉先生に相談したら、賛成を得た。かやうにして私は友人と別れて唯ひとり京都へ行つたのである。<中略>
 その時分は九月の入學であつたが、七月の初め、私は歸省の途次、速水先生の紹介狀を持つて洛北田中村に西田先生を訪ねた。どんな話をしたらいいのか當惑してゐると、先生は出てこられるとすぐ「君のことはこの春東京へ行つた時速水君からきいて知つてゐる」といつて、それから大學の講義のこと、演習のことなどについていろいろ話して下さつた。哲學を勉強するには先づ何を讀めばいいかと尋ねると、先生は、カントを讀まねばならぬといつて『純粋理性批判』を取り出してきて貸して下さつた。その頃は世界戦争の影響でドイツの本を手に入れることが困難で、高等學校の友人の一人がレクラム版の『純粋理性批判』のぼろぼろになつたのを古本屋で見附けてきて、得意氣にいつも持ち廻つてゐるのを、私どもは羨みながら眺めてゐたといふやうな有様であつた。
 最初にお目にかかつたとき親切にして戴いた印象があつたからであらう、その後私は學生時代、月に一二度は先生のお宅に伺つたが、割に氣樂に話をすることができた。先生は自分から話し出されるといふことが殆どなく、それでせつかく訪ねてゆきながら、どんな質問をしていいのか迷つて黙つてゐるうちに半時間ばかりも時が經つて、遂に自分で我慢しきれなくなり「歸ります」といふと、先生はただ「さうか」と云はれるだけである、―― そんなことが多いと學生仲間で話してゐた。考へてみると、あの時代の先生は思索生活における悪戦苦闘の時代で、いはば哲學に憑かれてゐられて、私どもたわいのない學生の相手になぞなつてゐることができなかつたのであらう。私は通學の途中、先生が散歩してゐられるのを折々見かけた。太い兵兜帯を無造作に巻きつけて、何物かに駆り立てられてゐるかのやうに、急いで大股で歩いて行かれた。それは憑かれた人の姿であつた。先生の哲學のうちにはあの散歩の時のやうなひたむきなもの、烈しいものがあると思ふ。

 
 
 


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