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2014年6月15日(日曜日)

何種類かの数学

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時58分02秒

八杉のお供で、科学基礎論学会のワークショップに参加。

上野健爾さんの20世紀代数幾何学の発展の話がすごく良かったので、スライドをお願いした。

ヴェイユからグロタンディエクへの道を中心とした、数論幾何学的・代数幾何学、それを取り巻く数学、が20世紀数学の最大の精華というのは、僕も賛成だが、どうも、「一般化=本質を見る」という方向しか見ていないところがあるので、物理現象、非線形現象を研究する応用数学系の仕事が、ブルバキ以後に評価されるようなっているが、そういうものはどう考えるか、数学ではないのか、と質問したところ、良い数学の理論の出発点となるという返事。しかし、そういう応用数学系の数学にフィールズ賞が多く出る様になったのが20世紀の終わりころからの話で、これは出発点というより、それぞれが終了点、あるいは、カルミネーションだからだろう。そこを指摘したら、そういうのも数学だと思うと、どうも渋々認めるという感じだった。

また、後の議論で、Atiyah の数学がブルバキと随分違うというような話もあった。これは恐らく、Atiyah が物理など、ブルバキの主流ならば手を出さない様なものにも手を出したことを言うのだろう。で、数学には色々とある。たとえば、公理的アプローチの20世紀数学に限っただけでも、

  • グロタンディェク
  • ブルバキ
  • ヒルベルト:幾何学基礎論、物理の公理化、積分方程式論
  • フォン・ノイマン:ゲーム理論、量子力学

など皆違うし、アーノルドなどの力学系の理論もかなり違う印象を与える。フォン・ノイマンに近い?
ネーター、ファン・デア・ウェルデンなどは、ヒルベルトとブルバキの間あたり。

これが非線形微分方程式となると、もう全く違う世界。上野さんが語った「本質=一般化」の数学が、砂漠や宇宙のような、遠い視界が約束された場所で、遠くを見通すことを目的とする数学であるとすれば、僕が龍谷で同僚だった人たちの粘菌の動きを説明するための数学とか、あるいはパンルべなどの仕事は、いわば局所の「現実」の数理を見ようとする態度。西田、田辺の積分と微分の違いのような話。もちろん、「局所の現実の数理」も数学で、歴史的にはこちらの方が古いし、むしろ、今は、これが盛り返しているし、社会の役に立つのは実はこちらの方だ。その点、上野さんも話にだしていた、ルレイがナチの捕虜時代に非線形現象の数学をやると、ナチを利するので、層の理論を創始する研究を行ったという「逸話」(本当かどうかは不明だが、今は信じておく)は、非常に示唆的。つまり、層の理論は、まさに「見はるかす数学」なのだが、「局所の現実」をバリバリ解明するための道具ではない。やはり龍谷の別の同僚が、佐藤理論は美しいが、それでは自分が解きたい現実の問題が解けない、といっていたことも、この話。

岩波新書の原稿で、こういう異なった立場、価値観を、モダニズムの「主義」の群に例えて説明し、それで、数学者と数学基礎論学者がすれ違う理由を説明したのだが、これは、どうも数学の中の価値のすれ違いにまで拡大した方がよさそう。そういう節を一つ入れること!今は、脚注ひとつですませている。つまり、20世紀現代数学=ブルバキに代表される数学、というのと、20世紀の数学、の違いを説明する。もっとも、僕は、ヒルベルト、フォン・ノイマンまで20世紀現代数学に入れているので、それの中での違いと、非線形現象の数学とか、物理数学とか、数理論理学とか、計算数学とか、そういうものの違いも説明する。ただし、「ゲーデルと数学の近代」で必要なのは、数学基礎論と数学の主流との価値観の違いのみであることを強調すること。

帰りの道すがら、八杉とも話したのが、現実には、すべてが、それぞれの場所で、それなりの意味を持っている。その規模と深さ、というようなことを言えば、明らかに20世紀の数学の代表は、「見はるかす数学」だろうが、それは、あまりに空を飛び過ぎていて、その反省というか反動として非線形現象、解析学、物理数学などへの回帰が20世紀終わりに起きたというべきだろう。今はビッグデータなどが出て、神戸の同僚だった統計学者が「数学と見てもらっていない」(実際、数学ではないのだそうだが、これはもちろん、数学などではない、つまり、物理や数学などではない同じにしてもらっては困る、というのと同じ意味)と愚痴っていたが、それが今では「統計は最強の科学」などと言われる。何かの価値観に拘るのは、実にバカらしいのだが、どうして、みなさんこだわるのだろうか。しかも、かなり古いものに…

上野さんと話をしている間に、シュバレーのブラウワー理解が深いことを話して、ついダメットの方向でブラウワーの直観主義を説明してしまっていた野家啓一さんの話と比較してしまった。もちろん、これはシュバレーがエルブラン追悼集会の基調講演で語ったように、ブラウワーの本質は時間直観。ダメットのものは、ハイティングによるブラウワーの「外延化」のさらなる「外延化」。一瞬、僕の後ろを上野さんが見ていたところをみると、野家さんが後ろにいたらしい。(^^;)

後で、調べてみたら、野家さんという人は、数学の哲学の人ではない。「何で自分が」と講演で仰っていたが、まあ、そういうことだろう。比較するのが気の毒。失礼しました。(^^;)ただ、分析哲学の人は、本当に歴史を調べないなと、つくづく思う。アン・ハリントン Reenchanted Science のp.18で、謙虚な態度として理解されることが多い Ignoramus-Ignorabimus が、「ニュートン力学で語れないものは科学的には語れない。だから、科学者は、それについて語ってはならない」という、実は「偏狭」な態度の例として引用されている。これはヴィトゲンシュタインの Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. という態度に一致しているわけだが、これが野家さんのスライドにあった。もし、これを「科学的哲学者の価値観」の表明と理解すると、これを最も強く受け取ったウィーン学団、分析哲学的価値観とは、哲学化したアリストテレス論理学としての数理論理学、集合論を使って哲学を行うこと、つまり、「科学者、数学者の様に語ること」が最大の目的と化した人たちということなる。だから、何を語るのかは、その「語りの方法」でしか評価されず、内容などというものはないのだとされる。だから、僕や八杉には、それが空疎なゲームに見えるのだろう。科学や学問は、形式だけでは進歩しない。それは、たとえ流動して変容するとしても「実質」Materie が無ければ学者は仕事ができない。


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