Welcome Guest 
メインメニュー
林晋ブログ 最近のエントリ
Blogカレンダー
2014年 3月
« 1月   5月 »
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  
Blog 月別過去ログ
Blog 検索
カテゴリ一
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

リンク
検索

2014年3月6日(木曜日)

入学試験と人間とIT・AIの能力 その2

京大の入試では、室長がマニュアルに従い、「机の上に置いてよいのは、黒鉛筆、シャーブペン、…時計、ただし、計時機能のみのものに限ります、…」というような意味のことをアナウンスすることになっている。定規やコンパスの使用さえ認めない。(定規くらい良いだろうと思うのだが、これはかなり厳しく禁じられている)時計の条件も厳しくて、翻訳機能や辞書機能、計算機能があるものは絶対に駄目だということなっている。こういうのを使っているのを見つけたら、即時、受験不可となり失格、つまり、受験できなくなり、当然、合格はできない。(不合格の外に、失格というのがあるわけだ。true, false 以外の例外のようなものだなこれは…)

つまり、これには


入試においては、自分の能力を補助するものとして、時間を測るということ以外には、自動翻訳ソフトはもとより、記憶・計算などの知的活動をサポートするもの、IT機器はもとより定規・コンパスさえ用いてはいけない。

という意図が込められている。これは京大の例だが、東大、そして、おそらく他の大学も同じだろう。

ところがである。人工知能はもともとがIT機器なので、その存在自体が、この意図と矛盾してしまう。つまり、どの様な形態で受験しても、京大のルールに従うとAIが、その中に計時機能以外のIT機能を持つので、それだけで失格になってしまう。
#で、これは将来、チップを皮下に埋め込むようになるだろう、究極のウェアラブルができたときには、
#今の入試システムを維持するのがほとんど無理・無意味になるかもしれない、ということも意味している。
#つまり、人間がIT化してしまったら、サイボーグ化してしまったら個人の能力とは何なのか、
#という大きな問題が湧き上がってくる。これは、すでに、オスカー・ピストリウスの場合のように、
#身障者の人が能力を非常に高める補助具を使ってスポーツ競技を行うことをどう考えるかというのに
#共通する問題。一時問題となった高速の競泳スーツの問題もこれと類似。これは「衣服」なので、
#あまり問題とならなかったが、骨格・表皮・体毛に手を加えて抵抗を少なくしたのだとどうか。
#実はドーピングはなぜいけないのかという様な問題さえ出てくる。「新イデアリズムの時代」となるはずの、
#これからの時代、こういう問題はどんどん出てくる。話を戻して…

コンピュータ、人工知能には、当然ながらクロックがあるだけでなく、自動翻訳とか計算機能が備わっている。京大の入試では、そういう機能がある時計を使っていたら、それだけで不正行為になりますと、室長が注意する。ということは、そういう機能があるのが当たり前のコンピュータ、人工知能は、入試に挑戦した段階で、その存在自体が不正行為とみなされてしまうことになる!!つまり、合格云々という前の段階で弾かれてしまうのである。

しかし、そもそも人間でないので、受験資格の所で弾かれそう。高校どころか小学校も行ってないのだし。でも、文部科学大臣が認めると受験できるので、その手もある。などなどと考えが連鎖。

で、結局の所、一番可能性があるのは、東大に協力をお願いして、AIが作った解答を、誰かが手書きでそれらしく書きうつし(答を準備するためのメモもあり、これも採点対象となるらしいので、そちらもそれらしく偽造する!)、それがAIの解答であることを伏せて、採点の教員に解いてもらい、それをそのまま教授会にかけて、合否の判断をしてもらう。これならば「人工知能は東大に合格した」と言えるだろう。

もしやれたら凄く面白い。でも、東大は、これは嫌ってやらないだろうな、などと考えていたのだが、一日目の数学(文系)の問題を見ていて、東ロボ君プロジェクトの話を聞いて、僕が、そして、多くの人が考えたであろう、その社会的意味と、実際の社会的意味が大きくずれているらしいことに気が付く。

僕が、そして、多くの人が、直観的に思う、このプロジェクトの社会的意味は、「AIは平均的な人間並の知力をもつか、あるいは、平均的なそれより賢い、ということが示される」ということだろう。しかし、東大が協力して、上の様な意味でAIが合格しても、そういう結論にはならないのである。

で、このように思うようになったきっかけの問題は、僕が監督していた文系の数学の第4問の(2)。実は、これはAI/ITには、最も簡単な問題なのだが、人間には難しい問題であり、その故に数学の入試として良問なのである。まず、そのことを以下で説明する。

その問題は、これ http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/14/k01-23p.pdf

実は、このPDF文書の問4の(2)と問5は、単に定義に基づいて計算するだけで答えがでる。もちろん、出題者たちは、それを求めて出題しているのではない。ここがポイント。それは後で説明するとして、どれ位、これがAI/ITに易しい一方で、人間には難しく、その故に受験生の数学の能力を試す問題になっているかを説明しよう。

まず、これが受験生にとって難しいということは、予備校の解説からわかる。駿河台予備校の分析シートでも、代ゼミのこのページにある概評でも。今年の京大文系で、最も難しい問題という評価であることからわかる。(今は、両方ともリンク切れ)

しかし、実は、この問題は、数値を求める問題なので、コンピュータの数値計算能力を使うと、全問題中、おそらく最も易しい問題なのである。普通のPC上のExcel があれば、5分程度、おそらくは2,3分で答えがでてしまう問題なのである。

これが、そのExcelによる解答:xlsx, xls

もし、受験生が、この様な数値計算による正解を書いたら、京大の数学の採点者がとる自然な行動は、「この受験生はコンピュータを使う不正を働いた可能性が高い。この様な計算を人間ができるわけがない」という風に考えることだろう。つまり、先に説明した時計を巡るルールの背景意図にある不正が成されたとみなすに違いない。

たまに、フォン・ノイマンのように、そういう計算をする能力を持つ人がいるので、もし、そういうケースだと分かったとしても、多くの採点者は、駿河台などの回答例にみるような、計算をほとんどしない回答でないために、そういう計算の天才の回答に低い点をつけるだろう。センター試験とか私大の試験だと、答えだけを書かせるが、本来数学者ならば、答えが全然間違っていても、考え方が「賢ければ」良い点を与える。大体、ノイマンのような人を例外として、数学者は数値の計算が苦手な人が多い(式は別。)つまり、現代の数学者には、数値計算はアホらしいという価値観がある。これが、映画(小説も?)の「容疑者Xの献身」で、犯人になる大神が学生時代に湯川に言う「四色問題の(コンピュータによる)解決は美しくない」という価値観。実際の数学者の多くも、こういう価値観の人が多い。(大部、変わってきているらしいが。)

もし、ノイマン的な計算能力で4の(2)を解いた学生が数学科を受験した学生(これは文系の問題なのであり得ないのだが)だったとしたら、京大の数学の採点者は不合格点をつけたいだろう。計算能力だけ高い人は、現代の数学科には全く合わないからである。また、文学研究科・文学部の教員としても、そういう人は入学して欲しくない。もちろん、国語・英語の能力が高く、おまけとして、そういう計算能力があるのならば、是非、合格させたいところなのだが、数値計算の能力だけならば、文学部においては邪魔にはなっても、プラスにはならないからである。そういう能力は補助の能力に過ぎず、僕ら京大文の教員が期待している能力とは全然違うのである。

という風に、考えれば、人工知能を東大に合格させる、という命題は、例え、上に書いた一見よさそうな方法で実現しても、実は、「私の自動車は、ウサイン・ボルトより速く走れる」と言っているのと同じようなこととなる。もちろん、そういうことに意味を感じる人は少ないだろう。逆なら別だが(つまり、「ウサイン・ボルトは、自動車より速く走れる」ならば多くの人がへ〜!と感心するだろう。実際、ボルトは瞬間的には時速40km以上で走っているらしく、市街地の車よりは速いらしい。へ〜ッ!)。

これがどういうことか説明してみよう。

世の中は、多くの場合誤解しているが、入学試験というのは、ある人の実用的能力、また、大学に入ってからの学習、さらには研究大学ならば、将来、研究者になったときの能力を、絶対的に測るためのものではない。そういうのは、誰にも事前には測れない。AO入試とかでも、実は駄目。実際に長期間学習させてみないとわからない。だから、本当はアメリカの様に沢山いれて、入学後にドンドン落として大学をやめさせる、下位の大学に移ってもらうというのが一番良いと多くの教員は思っているはず。研究者養成が目的の場合は特にそう。

たとえば、以前勤めていた京大の理系の研究所で世話をしていた院生A君が、大変いい人なのだが、こと研究になると、やる気も能力も全然なくて修士論文も書くことができないので、指導しているものとしても大変に困っていた。そのとき別の院生B君(後に東工大の先生になった)が僕に話してくれたところでは、A君はB君も出た有名進学校で開学以来の神童と言われたそう。どうして、A先輩ができないのだろう、と後輩のB君は不思議そうな顔をしていた。しかし、実は、これは一流大学の大学教員は良く経験することで、僕は、今まで何度も経験した。京大文の同僚たちも、皆、同じように思っている。

ある人が、あることに、能力を持つかどうか、それを測るには、実際に、それをやらせるしかない。しかし、それが社会的条件で無理だから(たとえば、研究をしたいという人を全員院生にするのは無理。特に京大でそれをしたいという人を全員京大にいれるのは物理的に無理。キャンバスの面積、教室、教員、すべてが足りない。)、「その条件を満たせば、多くの場合、本当に欲しいと思う能力が、それを満たさない人より、圧倒的な場合に多い」という「条件」を見つけてきて、それを使って蓋然的に能力を測っているのである。まあ、天気予報、市況の予測、のようなものでしかありえないのである。

で、そういうコンテキストで考えると、京大文系数学第4問は、全5問の与えられた時間が計2時間であり、また、解答を書けるスペースが下書きを含めてもB5で10ページであり、また、受験生は人間であって、計算のための機械的補助を一切使用していない、という前提で、その条件下で、どれだけの知的能力を発揮できるのか、ということを見ているのである。つまり、スポーツで、ドーピングは禁止、特別な競泳スーツは禁止、などというのと同じわけである。しかも、スポーツの場合は、それ自体が目的化していて、それに優れたものは職業的スポーツ選手になり経済的にも成功することができるが、入試の場合は職業的受験生などというものはないので、事情が大きく違う。つまり、こういう「人間の学術的知的能力の可能性を蓋然的に測るために作られた知的ゲーム」に、IT,AIが「合格」するということには、それだけでは、社会的意味はなくて、AI研究者のために人工的に設定したゴールというだけに意味を持つ(ただし、それを応用して、工学の現場などで簡単な問題を解けるようになると社会的意味を持つ。実は、こういうことは、すでに色々なソフトにより、かなり実現されているので、これに役立つ可能性は高い。例えば、Mathematica や MatLab など)。

東ロボ君プロジェクトの意味は、Watson のケースの様な明確な実用的アプリの意味を持たない可能性が強く(これは最初から良く指摘されていたこと。ワトソンの方は、商業化が進行中らしい。しかし、実現できたら、かなり応用もあるのではと、僕は思う)、新しい技術が生まれるときの社会に向けてのアピール、あるいは、研究者が仕事を進める上での便宜的ゴールなのだろう。NIIでは技術の中心になられているらしい宮尾さんという方が、研究のために立てたゴールだと発言しているので、それで良いのだと思うし、人間とAIの能力の質的違いという、H. Dreyfus の古典的AI諭の問題に良い貢献をするのではないかと思う。

問題は、それをどう社会の意見、実際にはマスコミの評価、と調整するかだろう。妙に乗ってしまうと、FGCSでの渕さんの場合のような悲劇となるかもしれない。あるいは、日本の大学システムの問題が浮き彫りになるという、「予期せぬ」結果になるのかもしれない(新井さんは実はこれを狙っているのではと僕などは思ってしまうが…)。つまり、私立大学の高い偏差値のカラクリ(注1)が広く認識されるとか(すでに初年度の成果報告で、これが解るのだが、マスコミは気が付かないらしい…)、最初の意図と逆の方向の結論、つまり、AIが人間なみに賢いという結論ではなくて、「日本の中堅以下の大学はいまのままでは存在意義がない」というような結論になってしまうかもしれない。(注2)

しかし、分析が進み過ぎて、山口さんの本の内容とはあまり関係ないAI諭まで来てしまった。

山口さんの本の原稿に戻らねば…(^^;)

注1.これは龍谷大学の教員をやっているときに気が付き本当に驚いた。そのころはまだ平成の最初で、沢山の大学を受験する人が多く、合格しても辞退する人がすごく多かった。そのために、追加合格を出すための教授会が頻繁に開かれ、ある年などは、3,4回、もしかしたら、もっとやったような気がする。つまり、私学に実際に入学する人のかなりが追加合格の人たちなのだが、教授会が追加合格を出す前、最初に合格して、実際には、より上位の大学に入学する人たちの成績が、正式な偏差値として発表されているらしい。これが当時、産近甲龍の偏差値が東北大並だったことの仕掛けだった。慶応でさえ、あまり事情は違わないらしいし、今も、大きくは違わないらしい。当時、広島大学であった学会に行った際、乗ったタクシーの運転手さんが、僕が京都から来た大学教員だと知って、「先生、私の息子は京都産大に入ったのですが、偏差値が東北大より上ですよ。たいしたもんだ」と、凄く嬉しそうに話しておられたのに、僕は「(゜-゜)うーん」と黙るしかなかったことがあった。

注2.存在意義がないとは、僕は思わない。ただ、今のままでは駄目で、中堅以下の大学では、もっと実学に力を入れるべきだと思う。むしろ、大学レベルでの実学教育の社会的ニーズはどんどん増えている。大学生が専門学校に通うのがその証拠。これは、それより上の神戸大クラスでも考えないといけないこと。神戸大工にいたときは、僕は公にそう主張していたが、誰も賛成してくれなかった。これも神戸大工が嫌になった理由の一つ。背伸びをしなければ実績も多い良い学部なのに…


TrackBacks

このコメントのRSS

TrackBack URL : http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/modules/wordpress/wp-trackback.php/291

この投稿には、まだコメントが付いていません

コメント

_CM_NOTICE

24 queries. 0.038 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress

XOOPS Cube PROJECT