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2012年11月23日(金曜日)

ソフトウェアプロセス改善カンファレンス2012 基調講演

10月10日に大阪であった、日本SPIコンソーシアム (JASPIC)主催、SPI Japan 2012
ソフトウェアプロセス改善カンファレンス2012で話した基調講演「社会とソフトウェア:あるソフトウェア工学者の経験」のPDFスライドが公開されていた。こちら、
http://www.jaspic.org/event/2012/SPIJapan/keynote/keynote.pdf

この講演の内容とも関連するが、最近、研究室の学生さんとか若い人たちと話しているとセレンディピティ(いままで、セレンディビリティだとおもっていた… :-()の話になることが多い。どうも、これを「運が良いこと」と「運が良いという能力」と思っている人がいるように思うが、そうではなくて、それは結局、物事を見落とさないことだと思う、というようにしている。実は、我々の目の前には、驚くようなこと、新しいこと、素晴らしいこと、重要なことが、沢山、そして、いつも通り過ぎている。しかし、それを気づかずにやり過ごしている。だから、本当はあるのに、ありがたい=滅多にない、と思ってしまうのである。

僕はプログラム検証論を捨てることを決意した後、驚く程セレンディピティが高まった。そして、今でもドンドンより高まりつつある。で、どうしてだろうと思って自分を観察してみると、簡単なことで、それまで超こだわる人だったのが、一番こだわっていたことをパブリックの前で捨ててしまったので、もうこだわること、つまり、格好良く見せようという気持ちがなくなったのである。もちろん、全然ないわけないのだが、それが検証論を捨てて半分以下にドンッ!と減った。そして、それから減り続けている(減り続けているのは、年取ってなんでも忘れてしまうようなったこともある。こだわりや怒りさえも忘れてしまう。 :-))それに伴って(反相関して)、セレンディピティがドンドン高まっている。

過去を振り返ると、自分のこだわり、自分の現在をそのままで保存しよう、という気持ちが、良いものを排斥して捨てさせていたことがわかる。コンピュータサイエンス関係で、一番大きかったのは、多分、古典論理とCコンビネータの関係だろう。Cコンビネータの発明者のMatthias Felleisenに、お前がやっているPXの様なコンテキストで、自分のCコンピネータに対応するものは何なのかと聞かれたのに、そんなものはないはずだ、と言ってしまって考えようともしなかった。苦労して作ったPXシステムが可愛かったのである。つまり、自分が、自分の作ったものが、一番で、それより良いものがあるはずはない、という奢った気持ちである。しかも、その後に、それと本質的に同じことを中野君が言い出したのに、その関係にまったく気がつかず、小林君と二人でアラを探して潰してしまった! :-(

で、その1、2年後にでてきたのが、Griffin の Cコンビネータの型が、古典論理の Peirce のルールである、という衝撃的な結果だった。Griffin は、そのころGUIみたいなことをやっていて、関係なかったのだが。

Felleisen に直接質問され、さらに、中野君が、Cコンビネータのことも知らないで、同じことを発想したのも聞かされて、その両方を聞かされて、それでも気がつかないというのは、これはわざわざ自分で目隠しをしていたとしか言えない。論理学の知識やら、Curry-Howard関係の知識・経験、Felleisen、中野君から話を聞いていたことからしたら、これに一番近いところにいたのは、Griffinではなく、明らかに僕だったのだが、そういう風に、ありがたい諸条件が、実際に目の前にあるのに、自分で、押しのけていたわけだ。

振り返ると若い頃は、そういうことを一杯やっていたのがわかる。だから要するに反セレンディピティ能力を人一倍持っていたわけだ。どんなに、美味しそうな料理が目の前に出されても、絶対に食べないぞ!と決めて、そんなもの不味いと言い張っていたわけである。 :-)

で、それで評価を受けていた検証論を捨てた途端、その反セレンディピティ能力が指向していた中心的存在がなくなったものだから、その反セレンディピティ能力が、憑き物が落ちたように「発揮できなくなった」。つまり、「物事を発見できなくする能力」がなくなったので、普通に存在する「ありえない幸運」につながる道を自然に歩けるようになっただけだ。そうなると遠くにぼんやりと見える行くべき道も見えるようになるので(遮るものがなくなるからだ)、ありえないことが連続して、常に起きるようになる。要するに、ありえない事は、実は、ありふれたことなのである。それをありえないことにしているのは、憑き物のような、自分のこだわりである。先に「京都学派の思想家の霊に呼ばれているような気がする」と書いたが、それも同じ仕組み。要するに何も抵抗せずに風に流されているので、自然にある場所、吹き溜りに、吸い寄せられているわけ。(吹き溜りというとなんか悪印象ですね。吹き寄せというと、実に美しい!丁度、今の季節だ。今年の京都の紅葉は事のほか綺麗なようだ。)

今のこの国の状況も、ほとんどは、そういう憑き物のためだと思う。まあ、そういうようなことを伝えたくて、あの基調講演をしたのだけれど、最後は、やっぱり、綺麗にまとめすぎているな… うーん、まだまだ反セレンディピティ能力が残っているのかも。 ;-)

後記
風に吹かれて飛ぶと、どこに落ちるかわからない。それに風に吹かれているというと何も努力しないで楽チンみたいだが、
実は、風に吹かれて飛んでしまうと、とんでもなくシンドイ仕事をするハメにも陥ることがある。先に、目の前にやるべきことがきたら、
それがシンドイことでも「よしやってやろうじゃやないか!」と楽しく思えるかどうかで、
人生が楽しいかどうかが決まると書いたが、それと同じこと。
しかし、純粋の不運というものはある。「幸運」が実はありふれているのと同じで、「不運」もありふれている。
それを避ける努力(左右確認とか、鍵をかけるとか)を、我々はいつもしている。
だから、不運は滅多に起きないが、我々の努力を軽々と超える不運はいくらでも存在するから、それは起きる時には起きる。


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