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2012年1月27日(金曜日)

歴史学が消える?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時36分56秒

超長期のデジタルデータを保存する千年メモリの研究について質問され、
それ以来、omnipresent log (あらゆる場所のあらゆる時間のログをとるという意味で、
僕の造語。以下 oplog)が実現された時代以後の歴史学、あるいは、歴史、がどうなるのか、
そのことが頭を離れない。これは学問の問題ではなく、人間の社会・文化、人間存在
そのものを根本的に変えてしまうものかもしれないからだ。

僕は oplog が達成されたら、歴史学はやりやすくなると思っていた。しかし、同僚の小野沢さんと、
それについて議論して認識が変わった。oplogは歴史(学)という現在の概念を崩壊させる可能性も
ある。何でもスエズ運河を巡るエジプトと米英の間の紛争、スエズ紛争、については、時単位で
人々の行動が残っているのだそうだ。しかし、それを見ても歴史が描けないのだそうだ。

歴史学というのは、消えてしまう時々の事実が、記録、たとえば、公文書、メモ、通信記録、
日記、当事者の記憶とその証言、などにより、その一部が、ほんの一部が残されているとき、
それを通して、過去を再構成することだ。これは(再)構成であり、実際には、多くの部分は、
歴史家の創作である。別な言い方をすると解釈なのである。

一方に史料が物語る事実があり、一方で、歴史家の推理や解釈がある。
最初の方に忠実であることに重点を置けば歴史学となるし、後の方に
重点を置き、少々の矛盾、大きな矛盾が、史料との間に生じても、
面白さの方をとる、つまり、物語であることを重視すれば、歴史小説とか、
梅原猛日本学になる。

この時、史料の数が、それほど多くないからこそ、それに整合する歴史を
物語れるのであるが、その数が、途方もなく巨大だったら、そういうものを
作れるだろうか?これはデータマイニングのような、ビッグデータの話になって
しまうのである。

最近、オウムの平田容疑者が出頭してきて、その後、彼の映像を、
駅の監視カメラの記録から抽出したものを報道していた。それらの
映像は、平田容疑者が出頭する前に撮影されたものなのだから、
平田容疑者は駅構内の群集の一人に過ぎなかったのである。それが
記録されていて、必要ならば、それを抽出できるということは、僕についても
同じことができるわけだ。

これはGoogleやFacebookのさまざまなプロダクツについて
よく言われる問題と同じなのだが、それは主に現在のWEBの広がりの中で
語られることが多い。こういう透過性、一望性により、WEBは世界の経済と社会を
変えたわけだが、もう一次元増えて過去まで一望できてしまうと何が起きるのだろうか。

少なくとも一人の人間として、過去が何年たっても現在と同じような明瞭さで見えるとしたら、
これほど辛いことはないのではないか?昭和20年8月6日の広島の情景は、それを経験した人、
それを翌日経験した人の誰もが忘れたいものらしい。
昭和20年8月6日の広島の情景が、永遠にそのまま残るとしたら、
人間はそれに耐えられるだろうか。2012年3月11日に稼動していた監視カメラ、報道のカメラ、
アマチュアのカメラ、ケータイのカメラ、は、すでにこの問題を引起しているはずだ。それが
一見ないようにみえているのは、報道や、個人が、それを隠しているからだろう。
インド洋の津波の場合には、流される人々の映像がかなりあった。それが全くといって
ないというのはおかしい。要するに隠しているのだろう。しかし、それをもし全く隠さなかったら
耐え切れなくなって生き続けることができなくなる人が沢山いるはずだ。

死と言うものが大変すばらしい「発明」であることは、年をとってからヒシヒシと実感できる
ようになった。人は死ぬから、その後の世代が可能となる。誰も死ななければ、世界は混雑
し過ぎるから誕生というものが不可能となる。死があるから生がある(ムムッ!田辺に乗り移られたか!)。

冗談はさておき。

大方の過去の記憶が消滅するから、人間は過去を耐えることができるのであり、
また、大方の過去の事実が消滅するから歴史と言うものは可能なのだろう。

過去の全ての情報が、丸侭残ってしまったら、それは混沌とした現在と何も違わない。
つまり歴史学が持つ「理性的」な側面は維持できなくなるのだろう。

では、その時、少しでも「理性的」であるには、どうするか。

現在のWEB社会で行なわれている、ビッグデータで世界を動かす
という方法、キャッチコピーで言えば、集合知、データマイニング、
データ同化などの言葉が表していること、もっと、簡単に言ってしまえば、
「統計的」推論を使うことなのかもしれない。

しかし、それで一人の人間が圧倒的な現実を耐えられるとは思えないが…


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