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2012年1月2日(月曜日)

「多様体の哲学」について(1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時39分47秒

澤口昭聿「田辺元における数学の形而上学」分析1
 澤口昭聿「田辺元における数学の形而上学」、pp.48-76、武内他編「田辺元 思想と回想」、筑摩書房、1991の分析1

引用1p.48:博士晩年の著作『数理の歴史主義展開』は特異な数理哲学書というほかない。<略>
数学者が本書を読むならばほとんど真意を把握できないであろう。そきにはあまりにも強く形而上学が出ており、
直接には数学的に理解不可能である。
分析:評価が師である下村のそれと非常に近い。下村が澤口の師であることは、澤口の「連続体の数理哲学」東海大学出版会、
1977の序からわかる。

引用2p.48:したがって問題は第一に数理哲学においてはたして形而上学的な方法が必要であるか、ということである。そして、
その場合に田辺博士の歴史主義が適切であるかが第二の問題となる。
分析:文章に癖があり意味がわかりにくいが、本文の展開からすると、要するに「したがって第一に数理哲学においてはたして形而上学的
な方法が必要であるかが問題となる。そして、もし必要であるというのならば、田辺博士の歴史主義が数学の形而上学として適切であるかど
うかが問題となる。」という意味。

引用3p.48:結論をいえば、博士の方法は外見はともかく真相においては意外に現代数学に適合性をもっている。
分析:前の文章からの繋がりが悪いので、これも意味不明だが、pp.60-61の切断では「"抽象"が行なわれない」という記述、
および、p.63の「種の論理の真の活動の場は、”多様体"の哲学においでてあると考えられる。博士はリーマン面に触れているから、
特殊な多様体は考えているわけであるが、もっと全面的に拡大すべきである。」という記述、および、その後の、シンプレクティック幾何学、
シンプレクティック多様体の幾何学としての「多様体の哲学」の導入と、そこにおける類種個の解釈、および、「種の論理は「矛盾部分」
と「無矛盾部分」を持つ」という澤口の考え方からすると、種の論理が、シンプレクティック幾何学と似た構造を持つということを、
「意外に現代数学に適合性をもっている」と述べているらしい。しかし、澤口の最初の問い「数理哲学に形而上学は必要か」また、
「田辺の歴史主義が、数理哲学における形而上学の中で適切であるか」という問いと、この結論は、かなりずれている。
澤口という人の議論は、こういうものが多く合理的な分析は難しい。
このような情況なので、澤口の議論を分析にするには、文章をそのまま
理解しようとしては無理で、全体の流れを掴んで、言いたいことを類推するしかない。以下、それを行なう。

引用4p.48:現今の数理哲学は論理学的方法に集中された観がある。これはラッセル以来生じた顕著な傾向である。
初期の田辺哲学に見られるごとき数学の認識論はとうに学界の関心の外に忘れられている。
分析:現代の数理哲学は英米系の分析哲学に集約され、それ以前の数理哲学、たとえば田辺の新カント派的な
初期数理哲学は、現代(1991)では数理哲学として受け入れられなくなっている。と、いう議論。
つまり、フリードマンの2つの道の一方から歴史を見ている。

要約1p.49:ラッセルのプリンキピア・マテマティカで論理学が現代化され、それを利用して集合論が再建された。
思惟法則まで含めた数学が建設されたのである。このプリンテキアも「還元可能性の公理」という問題を含んでいた。
これは数学を実行可能にするための純然たる仮説である。しかし、この問題はゲーデルの構成可能性の公理に
よりほぼ解決されたとみなせる。ゲーデルのこの公理は還元可能性の公理を含み、さらには、「完全な形で
古典的集合論の論理学的再現を果たしたものと考えられる。さて、この集合論の論理学的再現は同時に他の
可能性に道を開くことになる。」と主張して、公理的集合論における独立性・無矛盾性のなどの研究への言及がされる。
分析:主張は三つだろう。プリンキピアで公理的集合論への道が開かれたこと。構成可能性の公理で還元性公理の
妥当性が保証されたこと。そして、さらに非標準的集合論の研究に構成可能性の公理が道を開いた、ということ。
澤口はコーエンの「連続体仮説」の訳者の一人だが、公理的集合論が分かっていたのかに疑問がもたれるような
議論である。構成可能性の公理は還元性公理、つまり、非可述的なcomprehension axiomより遥かに強い公理
である。これは非可述的なcomprehension axiomと本質的には同じ前提に立つような超限順序数の体系を前提
にすれば、その順序数で番号付けた変数、個体定数、述語記号などを持つ、超限的な論理学により構成される
集合論モデルLと「標準的集合の全体」Vが一致するという公理なのだが、一見、順序数の体系の中に、
非可述的性が入っているのが見えない。ヒルベルトはこれを非可述性なしでやれると思ったらしいが(それが、
かれの「無間に就いて」)、それで失敗して、それを見たゲーデルが、相対的無矛盾性という手法で、
それを前提にしてヒルベルトの議論を再構成して、構成可能性公理V=Lの無矛盾性を示し、それにより、
選出公理と連続体仮説の相対的無矛盾性を証明した。というわけで、このp.49の第2パラグラフの議論の
一番多い部分は澤口の数学的誤解と思われる。この部分は、その後の議論展開には影響はもたない。
しかし、澤口の記号論理学への理解に疑問が持たれる理由となる。他にも、そのような議論が、
この論考にはある。生前の澤口を知る数理論理学を正確に理解する哲学者の話では、
澤口の数理論理学理解には疑問がもたれるとのことである。おそらく、数学としては理解できて
いない。

引用5p.50:現代の集合論はさらに再拡大された同一性論理であると考えられる。
分析:p.49終わりの議論から、同一性論理=伝統論理学<記号論理学<集合論、と捉えていることがわかる。

引用6p.50:記号論理学を本質的に使用する数学を「形式的」formalと呼ぶならば、形式的数学が
現代数学の本姓をなすかどうか。これに対して多くの数理哲学者は肯定の答えを与えるであろう。
<略>しかるに数学プロパーの現状に目をやるならば、依然として別種の数学論理が働いている
と考えざるを得ない。<略>形式的数学に対して抽象的 abstract数学がそれであろうと思われる。
<略>ところで、田辺博士晩年の思索はこれに対してある種の示唆を与えるものと考えられるのである。
分析:澤口が言う抽象数学というのは、ブルバキ構造主義の数学、つまり、ヒルベルトの初期形式主義が
発展したモルフィズムが保存する性質により、数学の本質を語る数学のことである。特に、抽象という
ところが重要で、ヒルベルトと異なり、一意性を無視する、という所に、澤口は、弁証法的な
矛盾を回避する術があると考えている(これは後ででてくる議論)。


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