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2011年10月26日(水曜日)

消費

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時04分50秒

以前、社会学で「羽入・折原論争」というのがあって、ある意味で日本社会を象徴するような、
がっかりするような事態が起きたのだが、そのとき、このサイト「羽入・折原論争」の作成者の北大の橋本さんに、
お願いして、その中でコメントをしていた学者でない人を紹介してもらい、メールで議論をさせてもらったことがある。
議論は羽入・折原のそれと同じく、全く噛み合わず、「砂を噛むような」という使い古されて陳腐なはずの言葉がピッタリ嵌る状況を経験した。

その時のことを時々反芻し、それがその後の僕の執筆の態度にも影響をしている。それまでは「一般向け」の良い本を書きたいと思っていたが、
それからは、それがこの国では不毛だと思うようになった。それで、岩波文庫の「不完全性定理」(の解説)を書くときなど、
京大で教えている院生や、学部生の優秀な人たち、そして、お医者さんとか、別分野の学者さんを読者として想定して書いた。
#僕もその人種の一人だが「一般向け」の本は大好きだ。ただ、楽しめるもののほとんどが、
#そのオリジナルが海外の言葉で書かれているのが悲しいが…

で、そういう読者の設定の理由として、なんとなく「そうでない読者は、僕の本を消費する。
たとえ印税が沢山入っても、その代償に消費される本を書くのは嫌だ」と思ったことがあるのだが、
でも、その肝心の「消費」の意味が、自分でも分かっていなかった。

ところが、突然、それが分かった。多分、岩波「思想」1月号の結局は削除してしまった中沢新一批判の部分を書くために
中沢さんのテキストの分析を真面目にやったとこと、そして、卒論を書いているS君と、ハーレクイーンのような「消費される小説」
について議論したことなどがそれの原因なのだろう。

で、結論として、「AがBを消費する」とき、Aはそれによっては本質的に変わることがないという特性がある。
要するに消費者というのは、自分が本質的に変わることを嫌がる人である。哲学や数学、あるいは、
思想の古典などの「難解」と呼ばれるテキストと格闘し、それこそ何年も格闘し、それを「理解」したと思ったときには、
大抵の場合、自分自身が大きく変わっている。「理解」という言葉は、自分は円の中心にあり、動かず、変わらず、
何か外にあるものを摂取するかのようなニュアンスが少なくとも現代日本語ではつきまとうが、実は「本当の理解」
というのは自分がその「理解の対象」と融合し、あるいは、絡め取られることでもある。
外国語が自然にわかるようになるという経験をした人には、この意味がわかるだろう。
この様に変化する。そうでなくては、新しい自分の段階は得られないのだから、
たとえば、学者としては、消費としての「理解」は理解というに値しないものとなる。
学者の言う理解とは、それ以前ものを壊し否定することだから。

しかし、文化やテキストを消費する人は、一回ごとのエピソードで自分が変わることなど考えてはいない。
癒されました、とか、感動しました、とかいうのは、実は自分の本質は何も変わっていないという意見表明だ。
本当に変わったら言葉はでない。変化に圧倒されて言葉を出すことなど無理になる。
圧倒的に美しい自然を目にしたときのようにただ黙って見つめているしかなくなる。

これが消費される本か、消費されない本かの違い。つまり、消費者とは、怠け者だといえる。
しかし、ハーレクイーンならば、消費者は怠け者でないといけない。そのために、つまり、楽しむために、消費するために、その本は書かれているのだから。
ハーレクイーンを読んで「地下生活者の手記」を読むようなセンセーションを受けたのではかなわない。
以前、亡くなった森さんがおもしろいことを書かれていて、学生が感動するような講義をせよという人が多いが、
もし、全部の講義が感動ものだったら、学生は一日に幾つも講義を聴くのだから疲れて大変だろう、というのである。
なんと、真っ当な意見だろうと感動しつつ、大笑いした。

そういう意味で消費されるものはあるべきだ。むしろ、大勢は消費されるべきものだ。素人と玄人の人口比を考えれば、それは当然のことだ。
ただ、今は、玄人がなにもかもえらいのだという、僕らの学生のころまであった、いまとは逆向きの非現実的な支配的意見への反発として、
単に、それの裏返しが起きている。戦前の天皇陛下は神だ、の裏返しとしての、消費者は神だ、というのと同じ。
これらは方向が逆なだけで、実は同じ思想。僕は、こういうのが一番嫌だ。

だから、僕は売れる本は書きたくない。もちろん、しょうもなく世俗的な僕はお金は欲しい。しかし、そうでない要素も持っている僕は、
自分の感情に素直になると、印税より気持ちよさを取る。「僕の本が、現在の日本で、売れに売れたら、それは恥だ」と思うし、
そのまま発言して同僚に訝れたりする。もちろん、自分と同じ考えの人が増えて売れに売れたのならば、
もう、その時点で死んでもいいぐらいにうれしい。デモ、死ねません。センセイの世話をせねば。 :-)

ということで僕の意味での「消費」が漸く自分で理解できたいう話….. ウン?
学生諸君、以上の「理解」についての議論から、この「自分の意味での消費が漸く自分で理解できた」という文の意味を説明せよ!レポートの提出は….
#冗談です

ところで、全然関係ないのですが、sourceforge.jp のユーザ活動順位が月間7位、週間4位になってしまった。
どうなっているのだろう。玄人の学者が、こういうのをやるのは珍しいということかな…
#エートっ。この文をテキスト分析すると….


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