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2011年9月7日(水曜日)

ルドルフ・ブルトマン

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時44分02秒

思想の原稿締め切りが月末でなく10日と解って、大慌て。

田辺の晩年、死の哲学期というか、ハイデガーとの対決期の
諸著作から数学・科学の用語で語っているところを探す。

ハイデガー哲学を数学のコンテキストでみると、という
ような記述もあり、実に田辺らしい。当時の状況で
見捨てられる筈だ。 :-?

西谷の解説は、数理哲学の重要性を理解している
ように思えるが、肝心なところで議論をすり替えている
ような印象をうける。

面白いのは、田辺がルドルフ・ブルトマン
神学をハイデガー哲学を越えたもののように議論する点。
ブルトマンは反ナチ運動をしていたそうだから、田辺がやると世間的
には実に微妙な議論になる。

ブルトマンは初めて知ったが、ハイデガーに触発されての 
Existentiale Interpretation des Neuen Testaments
新約聖書の実存主義的解釈というのは、
面白い。調べてみる必要あり。これが、
Entmythologisierung des Neuen Testaments
新約聖書の脱神話化を意味するということは、
単純に考えれば、キリスト教の脱埋め込み。
それがハイデガー哲学を契機として起きるという
ことは、やはり、ハイデガーの存在と時間の哲学
はブラウワー数学が脱埋め込みであるのと同じ意味で
脱埋め込みなのだろう。ブラウワー連続体論を田辺は「公理化」と読んで、
その哲学的限界を惜しがったが、ハイデガー哲学への
態度(分析的にとどまるという批判。全集13, p.569あたり)と
ピッタリ一致する。

しかし、そうやっても、やはり田辺も近代に
なってしまっている。学を標榜するという姿勢を
メタに標榜する以上、幾ら無限の懺悔をしても、
還相をしても、同じ事になるのだろう。
そのために、田辺哲学の弁証法は、殺気立った
ものになる。

その点、ゲーデルは、そんなものだとストンと
納得している感じだなー。

二人の性格の違いを良く表している。

そのゲーデルの方が精神を一部病んでいて、
田辺の方は生涯正気のままで正座しつづけ
ているかのように死んでいったというのは何か凄い…

人間はそこまで鎧を着たままでいられるのか。
明治人というのはそんなものなのかもしれない。


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