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2011年5月29日(日曜日)

Heidegger哲学てそんなに狭いのかーっ?!!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時21分32秒

西田田辺記念講演で、種の論理における人間学的要素について論じるために、田辺の人間学の時期(種の論理の直前)におけるハイデガーの「存在と時間」の哲学への言及(ただし、成立前!)を理解するため、いろいろとハイデガーを調べる。
 で、Design や渕さんについて調べていた頃、Winograd さんの本を読んでから、どうももやもやして変だったものが氷解したような気がするのでメモる(あるは、さらに誤解しただけ?これから検証、とりあえず検証のために纏める)。それにより、M.Friedman の構図、分析哲学、大陸哲学、田辺哲学の位置、Winograd さんやドレイファスの哲学、ハイデガーとITのことなど、何か全部がまとまった。
 疑問はいくつかあった:

  1. なぜ「存在と時間」の哲学が現実のITのプラクティスの場で役立つのか(Winograd)
  2. なぜ「存在と時間」のような語り方で存在論が議論できるのか?(できるはずがないと感じていた)
  3. なぜハイデガーが偉大な哲学者として持て囃されたのか

 これは僕がハイデガー哲学がライプニッツとか、カントとか、ヘーゲルとか、そういうものと同列のものだと誤解していたから。この2グループはドレイファスがいう『前者は「哲学者」、そして、ハイデガーやらヴィトゲンシュタインはnon-philosopher』という分類に似ていて、(ドレイファスではむしろ方法論の相違が強調されるが)見ている対象が異なる。実は、ハイデガーなどの「非哲学者」は、パラドキシカルなことに「哲学者」より、「科学的」になってしまっている。つまり、世界を一括して理解したいという本来の西洋哲学に充満していたはずの欲と言うか目的が失われていて、「この分野に限定」という後退がある。これが田辺には我慢がならない。それが、ハイデガー批判であり、西田批判になる(ただし、西田批判の方は少し違って実践の問題が大きいのだろう。逆にハイデガーにはナチスに拘わったという「実践」がある)。
 破壊と構築―ハイデガー哲学の二つの位相,門脇 俊介やら、この阪大の高田さんという人のパンフレット、そして、田辺の日本最初のハイデガー哲学紹介(一つ前の投稿タイムライン参照「…転向」)からすると、ハイデガーは要するに存在論をOeffentlichkeit(公共圏:田辺訳)に限定してしまい、そこだけで存在論をDasein の「直観」のみから構築しなおすという戦略で哲学を進めたということになる。これは田辺の説明の受け売りで、正しいかどうかしらない。しかし、これは「存在と時間」出版の数年前の説明であることに注意!つまり、個人教授の先生だったハイデガーから田辺は、これから書かれる「存在と時間」でとられることになる方法論について「親しく聞いた」わけだ。本を書くときには、最初の意図どおりにはまず書けない。ということは、この田辺の記述は逆にハイデガーに極めて近い哲学者からのハイデガーの研究戦略の「証言」なのである。(で、気になるのが群馬大田辺文庫のハイデガーの講義のノート。もし、あれが個人教授のときのものならば田辺研究ではなくハイデガー研究のための第一級史料となるはず。講義のものでも重要だろう。ちゃんと読んでみなくては!)
 要するに、田辺が後に批判するように、ハイデガーは世界を相手にしていない。ハイデガーの世界は狭い意味の社会学が扱うような、人間の社会、公共圏についてしか語っていない。もしそれこそがそれのみが Dasein に語りえることだというのならば、我々のような理系の人間からしたら「まったくの現実無視!」といいたくなる。それは哲学者が文系の都市住人であり、そこに生きる世界が限定されているからだろう(当然、ここで京都学派左派の問題が生じる。しかし、今、京都学派として知られものには、多かれ少なかれ「文人・墨客」のイメージがつきまとう)。哲学者ならば相手にしているのはみんな人だろう。しかし、工学者や理学者、そして、数学者が相手にしているのは人間ではない。都市以外の住人ならば、たとえば農業のように否応なく自然に対峙する人もそうだろう。僕には、これについては庭仕事くらいの経験しかないので大きいことは言えないが、僕が実際に直接、かつ、長年経験している、ソフトウェアの世界、数学の世界、そして、IT教育の(インフラ整備の)世界では、この世界観は全くなりたたない。
 たとえば、百数十台のワークステーション(平成元年の話)の世話をして、それで学生たちを教えるといときに日常性として起こるハードウェアの障害(Winograd ソフトウェア論では、そういうものは異常事態として説明される)は、同僚やら学生やらとの関係と同じように重要だし、さらには、個人でできる研究に没頭し始めると最も身近なものは人ではなく物(ソフトウェア含む)となる。要するにハイデガー哲学には、ヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては語ってはならない」としたような狭さというか、学問がなりたたないからそこは無視しましょう、という卑怯さのようなものがみえる。田辺にはそこが許せなかったはずだ。たとえば、こういう哲学では1945年8月6日に広島に(偶々)いたということと、その帰結について何らの「納得」もできなくなる。おそらく、そういうものはハイデガーには「語りえぬもの」なのだろう。要するに基礎付け主義というか、厳密主義にすぎないので、裏返しの分析哲学のようなものだろう。ぼくには、田辺の態度の方が共感できる。(態度の問題で哲学のシステムとしてどうかというのはでないことに注意!)
 では、そのように狭いにも拘わらず、なぜ、ハイデガーがもてはやされたか?それはもてはやした人たちが、「同じタイプの公共圏」に住む人たちだったからだろう。そして、そういう問題、田辺の言い方を真似れば、「体系的学問的明証的であることを保ちつつ、Leben について自分という Dasein に直接与えられていると信じることができるものだけを使って哲学したい」ということを可能にし、しかも、それまでの哲学をちゃんと総括できるという、職業的哲学者として実に際立った能力で処理された哲学体系であり、しかも、それに乗れば自分たちも何某かのことができると見えたからだろう。実に近代的であって、分析哲学と対抗する位置に立つに相応しい思考のスタイルであったわけだ。
 ハイデガーの議論のスタイルを使えば、職業としての哲学が継続しえる。しかも、自然科学などという、その時点ではドイツ社会に投げ入れられている Dasein 自身としてはあまり語りたくもないものと決別して哲学という「仕事」を継続しえる(ある伝記によるとハイデガーも最初、数学の方向にいこうとしていたそうだ。本当ならば大変納得)。そうなると「とにかく哲学をやりたい」という人たちには、物凄く魅力的に見えるだろう。プロイセンの科学・工業の時代ころから、哲学は成立しないという強迫観念にドイツの哲学者は長く直面しているのである。そして、哲学者のなかでも、そうでない人たち、特に自然科学とか、ハイデガーが「語りえぬもの」にしてしまったことを語ろうとする人たちは、ほぼ同時期に記号論理学という別のスタイルを得て分析哲学への道を歩み始めていたわけだ。つまり、フリードマンが言う分裂である。
 では、そのような自然科学とかに全く関係のないはずのハイデガー哲学が、どうして、ITの世界で重宝されるのか?これは簡単で、要するにWinogradさんとか、僕とか、Google などのWeb2.0企業とか、そういう人たちが対面しているITの世界というのが、圧倒的にハイデガーが住んでいた哲学の世界に近いから。つまり、そこには津波も原爆も加速器もない。インターネットというやつは、おそろしく安定的で、物理的・自然的干渉から独立だ。だから、ほぼ、物理的・自然的制約を無視できる。もちろん、ケーブルにケッつまずいて電源落ちて何年分かのコードが消えた原稿が消えたということはありえるわけだが、それは僕らの若い頃までの話で、今はOSやマシンが凄くロバストだし、ネットがあれば分散してのストレージというのもありえるし、また、アマゾンで本を注文してもアメリカから1日で洋書が来たり、Math. Ann. の古い巻のページをドイツのサーバで楽々と検索し閲覧できる時代。つまり、工学者や実験系の科学者が日々対面しているような問題からほぼ自由で居られる(ディズニーランド化の技術的原因)。
 Winograd さんはワープロの電子機器としての存在はユーザーにはそれが故障するまで立ちあらわれないというところから、ハイデガー存在的発想のソフトウェア開発での重要性を説明したが、要するに実質的にその「故障」がほぼなくなってきている。つまり、ほぼハイデガー的世界だけで、サイバー世界だけで閉じて生きられるような世界になっている。もちろん、アマゾンの最終部分が(本当の最終は宅急便なのだが)FCであるように、また、 Googleの大きな技術的競争力がデータセンターの運営能力であるように、物理的なものはかならずある(それが田辺では第3次元)。しかし、それがあまりに安価かつ容易に提供されるものだから、それはないに等しいわけだ(しかし、提供側にはその分、凄まじいほどの能力が求められる)。そういう世界でプラクティカルにはほぼ不必要な物理的存在までケアしようとする哲学(形而上学)より、ハイデガー存在論が便利なのは当たり前だ。ソフトウェアはハイデガー的 Dasein とのその公共圏の中だけで構築されるのだし、そうしないと、複雑すぎて、とても構築できない。
 しかし、そうはいっても津波は来る。災害は起きる。事故も起きる。ハイデガー哲学のターミノロジーでは、その「稀」なことにはなんら対処できない。実は社会自体が、こういう世界では自然としてたちあらわれる。ハイデガーにとってのナチスと連合軍、田辺にとっての日本ファシズムと連合軍が、そういう意味での自然となる。そういうものをハイデガーは自分の圏内から実質的に排除しているのではないかと、全然ハイデガーを読んでないのに(^^;)思う。これに反して、Ulrich Beck のリスクの概念などは、ちゃんと危険からリスクに問題の多くの比重が移動したという形で両者について語れる。このことが、現代ではハイデガー的なものは、むしろITの技術の背景として立ち現れ、Dasein のために世界観としては成り立たなくなっている理由の一つだろう。この方向に行くならば北森や晩年の田辺のような方向に行くしかない。
 もうひとつ考えたことを書いておかねば。ハイデガーの立場は、あるいみでヒルベルトの有限の立場とかブラウワーの直観主義の立場と同じ。要するに、どれも基礎付け主義、近代的なのだが、この方向に多くの人が進んでしまう理由、誤解の理由が有限と無限の問題にあるように思う。これは数学の有限・無限ではなく、Dasein としての自分と超越の関係のこと。しかし、長らく集合論のような無限で超越的な対象を考え続けた人にとっては、パイの1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000桁目の数字という有限的存在より、巨大基数の方が余程慣れ親しんだ具体的存在になる。実験物理学にちゃんと通じるような形の物理学、たとえばCERNで実験をするような人などにとっては、我々には意味も理解できないような素粒子(?)の方が具体的であるはずだ。このようにヒルベルト的に考えれば、19世紀終わりから20世紀初頭の数学や哲学の基礎付け主義の誤りがわかる。ゲーデルなどは、それから自由なのだが、それが彼が古臭く見える理由なのだからおもしろい。田辺はもしかしたら超古いので新しいのだろうか?
 この問題は、さらに京都学派左派の三木、戸坂などの「実践」の問題に繋がるが、長くなりすぎたので、ここで打ち切り!
プログラミングとか、講演のレジュメ書きとか、頽落せねば! :-D
#新書原稿も忘れてはいません。>千葉さん


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