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2011年5月17日(火曜日)

副題失敗した…

カテゴリー: - susumuhayashi @ 18時17分03秒

西田・田辺記念講演会の講演タイトル「種の論理再考―数理思想史の観点から」はまずかった。
これを考えた時点では、Riehlとか人間学とかわかってなかったので仕方ないのだが、
特化しすぎ。離す内容の半分から3分の1しか「数理」に該当しない…

仕方ないので、当日、変更することにする。しかし、どうかえるか??
Friedman が科学哲学史の人ならば、
「種の論理再考―科学思想史の観点から」
でよいだろうが、Friedmanはカント研究家とも
いうし。困った….

竹花さんから教えてもらった服部健二「西田哲学と左派の人たち」が来る。
確かに観点が非常に近い。しかし、今度は話内容とは、やはり、少し違う。
今回の最大のポイントは、田辺の「人間学」の時代に、M. Friedman たち
が指摘する、大陸哲学 vs 分析哲学の対立が、生の哲学 vs 学の哲学の
対立としてあり、その対立が、新カント派ではなく、それから出た幾人かの人たち
により担われていること、それがシェーラー、ハイデガーであり、そのもとには、
critical realism とか現象学とか、この両者の「調停」を目指す、
別の立場があり、これらの人たちはそこから出ていること、そして、今は我々の
視野からほぼ消えてしまっている、この情景を思い浮かべて出ないと、田辺哲学の
意味を正しく理解できないこと、これを理解すれば、さらには西田や他の京都学派
の人々、たとえば三木の思想(服部は三木、船山たちは田辺からインスピレーション
を得ているとする。非常に納得)を理解する手懸かりになるということ、これを
主張する。これをすれば少なくとも田辺以後の仏教系(?)でない京都学派
の人々を世界思想史の文脈におくことになり、Friedmanの、大陸哲学、
分析哲学の壁の撤去の試みに、さらに日本哲学を組み入れることができる
ようになる。という、それが最大のメッセージだろう。これに比べれば、
ブラウワーがどうのというのは、そういう主張の妥当性を証明するための
一傍証に過ぎなくなる。

だから、数理でなく科学。でも、Friedmanはどこに分類すればよいのだ????


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