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2011年5月7日(土曜日)

史料メモ#126、明証の所在

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時31分51秒

明証の所在、全集4巻

(1)pp.273-286. Sosein 対 Dasein の関係をキーに、Ontologismus の話が続く。
p.276に「今日の数学の基礎に関して公理主義形式主義を採る人は最も明白にこの立場を代表する。」
この立場とは、「数学的対象のDaseinはそれのSoseinを越えてそれの外に成立するもではない」、
つまり、現実とは形式そのものなり、という立場。p.277 に「数学的の存在の明証は、
対象の Sosein を規定する公理の志向する所を、意識に於いて直観的に充実する途が与えられて
始めて成立する。これ公理主義形式主義に反対する直観主義の主張に外ならぬ。私は今日重要なる
論争点となって居る両主義の対立に関し、明証論の上から観て公理主義には未だその説に何か欠けている所が
あるのであって、直観主義の方が一層具体的なる立場に立つのではないかと思ふ。
ともかく後者が意識に於ける対象の構成に対し直観の通路を重要視するのは疑いもなく正当であろう。」

(2)p.281 併しながら ideale Gegenstaende に於いてそれの Dasein が有限の
Sosein に含蓄せられるのと、reale Ggenstaende の Dasein が Sosein の無限系列の総合の極限
をなすのとは、本質上一に帰せられない相違を有する。

ここにも、種の論理成立にブラウワーの数学思想が絡む「理由」が見出せる。

(2)をuniversal algebraなどのduality、完全性定理の言葉で言えば:
しかしながら、形式系・代数系において、それの構文論的モデル(自由代数、リンデンバウム代数)が有限の
形式系や代数系により記述されるのと、現実の無限「モデル」(現実も数学的存在)が、有限的な形式系や
代数系の無限系列の極限となるのとは、本質上同じこととは言えないのである。
#数理哲学的には、二つの見方がある。ひとつは、トポス理論的に考えて、否一致する、という立場。
#もうひとつは、集合論的に考えて、そのとおり、その差を生み出す、本質こそ、ウルトラフィルター
#が表現するものであり、選択公理である。そこに無限の本質があり、ライプニッツの
#contingent truth は、それを意味している。Cohen の無限小もそれであろう。
僕は、こういう思考はできる(というか、得意)だが、する気がない。意味がないという立場なので。
ただ、それを歴史学的にウラに回って見ることは意味があるという立場。たとえば、
後者はホワイトヘッド哲学に通じるか?あるいは、それは前者だったのか?
という問題ならば興味津々。


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