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2019年1月14日(月曜日)

西田幾多郎講演に向けて準備中 (2)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時27分57秒

一つ前の記事の補足を少し。

幾久彦さんの話では、ピクニックの様に哲学の道あたりを歩いたとのことなのだが、
その終点が「山から疏水が下りてくるところ」、扇ダム放水路であったわけだが、
この放水路に沿って細い道があり、白川通まで歩くことができる。

その道は、昭和15年の地図でも確認できるのだが、その白川通の出口の
道を挟んだ向こう側に、動物園の東エントランス
がある。

西田は動物園が好きで、どうやら、子供や孫を連れて行くだけでなくて、自分だけでも行っていたらしい。
どうやって、子供たちと、そこまで行っていたのか、可能性が高いのは市電だろうかと思っていたが、
哲学の道沿いにピクニックを兼ねて歩くとしたら、まさに扇ダム放水路の沿って、白川通に出て、
そこから動物園に行くというようなルートも考えられる。

そう考えれば、散歩の終点が「山から疏水が下りてくるところ」だったというのは、
非常に納得ができる話だ。もっと早く調べて、幾久彦さんにお話しして、記憶を
辿って頂きたかったのに、僕がまごまごしている間に幾久彦さんが亡くなってしまい、
実に残念だった。


西田幾多郎講演に向けて準備中 (1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時10分46秒

今月30日の東京での西田幾多郎についての講演会のために、色々と準備中。

その間、二つ意外なことがあったので、ちょっと書いておく。

まずは、元旦に、散歩も兼ねて、西田のお孫さんの幾久彦さんから聞いた
「疏水が山から下りてくるところ」という場所が、蹴上のインクラインで
あることの証拠となるような写真を撮影に行ったのだが、これが予想と
違っていたという話。

疏水記念館から頂いた、幾久彦さんが見たであろう風景の古い写真と、
なるべく近い位置から現在の写真を撮る。その写真は船から撮ったらしく、
全く同じ位置からは撮影できなかったが、かなり近い位置から撮影できた。
道路や橋など、随分、今とは違っているが、小さな橋の欄干などがそのままで
残っていて撮影位置が特定できた。

良い写真が撮れたと思って、もう一つの候補、野村美術館向いにある
急傾斜の水路に向かう。ここの写真を撮って、こちらは「山から下りてくる」
という風ではないでしょう、と説明でするつもりでいた。以前は百万遍まで
自転車通勤で、気が向いたら、南禅寺の境内を通り、ねじりまんぽから三条通にでるという
ルートを辿っていたので、この水路の記憶は漠然とあり、水路として
小さすぎて、山から下りてくる感はないと思っていたのだが、現地に行ってみて
ビックリ。記憶と全然違う堂々たる水路で、その水源が、永観堂の境内の山を
背景にしているため、まさに「山から下りている」という風に見える。どう考えても、
こちらだ!一緒に行ったパートナーにも意見を聴いたら、同じく、こちらの方が
ふさわしいという意見。やはり、現地、現物を押さえないとだめだ。

問題は、この水路が、昭和10年代に既にあったかどうか。明らかに野村の
碧雲荘に水を供給しているので、おそらくあったはずなのだが、
これもちゃんと抑えねばならないと、疏水に関する昭和15年の書籍を買ってしてしらべたのだが、
あまり良い情報はなく、WEBの方で色々と情報が手に入った。

これは扇ダム放水路というもので、水路閣を通って北上する疏水が、
さらに二つのトンネルを通って、哲学の道横の疏水につながる中間点、
二つのトンネルの間のわずかな地上部分にある扇型の小さな水量調整池、
扇ダムからの放水路であることが判明。

この論文から、明治時代には、すでに真々庵などに水を提供していたことが公的文書に残っていることが分かり、これで確定。

また、これについては、ダム愛好家の夜雀さんのサイトに、詳しい情報や、永観堂の墓地から撮影した扇ダムの写真などがあり、
お願いして、これを講演資料に使わせてもらうことになった。

京都学派研究を思想史的にやっていると、現地が観光スポットと重なることが多いが、
その一例で、高校生のころに、白川書院の雑誌「月刊京都」を定期購読していた
僕としては、大変嬉しい。 :-)

というのが一つの話。

もう一つは、西田の数学についての面白い記述を見つけて、この人は、数学を、というより、
数学の思考方法というものを、よく理解していた人なのではないかと思ったという件。

西田の田中上柳町の家での悲惨な経験と、場所の論理とつなぐために、大正12年の有名な和歌
 我心 深き底あり 喜びも 憂いの波も とどかじと思ふ
をキーにすればよいことに気が付き、そのために、「心の底」に類する用語が西田の論文に
どの様に使われ、また、その哲学体系にどう位置付けられているかを、いろいろな論文で
調べている最中だが、もっとも端的に表れているのが、旧版全集11巻に収録の
西田最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」。

で、この11巻には、西田晩年の数学論・科学論が含まれているのだが、
一応、それも調査していたら、
 私には、数学者の集合の概念というものは、あまりに無造作に不精密なものと思われるのである。
 私は数の概念は私のいわゆる世界把握の論理たる場所的論理の立場から出立すべきであると考えるものである。p.245
や、
 数学者は非分析的に数の直覚の如きものと有つて居ると思う。p.250
というような文が、多々あった。

僕は数理論理学者だったので、どちらかというと集合よりの数学者だったが、
そうでない普通の数学者と自分の思考回路がなんだか全然違っていて、
数学科に入学した当初は、随分、違和感に苦しんだ。

まさに、整数論、代数幾何とか、複素多様体論とか、そういう数学中の
数学をやっている人たちは「数学者は非分析的に数の直覚の如きものと有つて居る」
だったのである。

数学科で鍛えられたお陰で、そういう直覚の様なものを少しは身に着けることが
できて、それから数学者の思考方法というものを、少しは理解できるようになったが、
今でも、正直言って、自分は数学者ではない、また、なかった、と思う。

ところが、恩師北条の勧めに反して、数学の道に進まず、哲学を選んだ西田だが、
どうやら、この人は、数学者のマインドを持っていたのではないか、という気がする。
数学を場所の論理で基礎づけるというのには、「西田先生、おやめください」と
言いたくなるが、まあ、それは愛嬌というものだろう。 :-D


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