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2017年11月28日(火曜日)

西田裕作などメモ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時43分22秒

一つ前の投稿に関連してサーチをしているとき、以前から気になっていたことについての情報を少しみつけたのでメモ。

西谷啓治の長男でライプニッツなどを研究して京大文の助教授だった西谷裕作のこと:

1.何時だったか立教大学数学科にいたころ、良く数学史の講義を拝聴していた村田全先生が、
「裕作君が…」といって、西谷裕作のことを僕に話されたことがあったが、どんな話だったか忘れてしまった。
村田先生が亡くなったのが2008年のことらしいので、僕が田辺研究を始めたころだったのかもしれない。
京都学派研究を始める前も J. Gougen さんから聞いて、西谷の名前だけは知っていた。
2.こういうものがある。調べること:村田全「下村先生と西谷裕作君のこと」『下村寅太郎著作集』第13巻月報
3.関連リンク:
http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/koshikata-utf.pdf
http://www.kousakusha.co.jp/planetalogue/leibniz/leib14.ht
https://books.google.co.jp/books?id=mrl1CQAAQBAJ&lpg=PT13&dq=%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E8%A3%95%E4%BD%9C&hl=ja&pg=PT13#v=onepage&q=%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E8%A3%95%E4%BD%9C&f=false

http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/koshikata-utf.pdf
によると村田先生と西谷裕作は、北大で短期間、同じ数学科かなにかの同級生だったらしい。


北軽井沢と軽井沢

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時00分25秒

佐藤優「学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む」を少し読む。

北軽井沢が軽井沢の一部か近くだと誤解しているらしい。

佐藤優氏は、最近、色々な所で、「太平洋戦争末期に軽井沢や箱根に住むのは「卑怯者」の証明」という議論をしているらしく(たとえば、これ)、「佐藤優 箱根 軽井沢」などでサーチすると、色々と出て来る。要するに、そういう人たちは、各国の大使館、公使館の避難先だった、軽井沢、箱根は米軍が爆撃しないだろうと考えたのだという主張。

これを使い、田辺の昭和20年の北軽沢隠遁(これに疎開の意味もあったのは、お弟子さんたちの証言からまず間違いない)を田辺の人間性に疑問符が付く証拠としていて、まず、これを前提にして田辺論が始まる。しかし、これは北軽井沢を軽井沢の一部か近くだという誤解に基づく議論だ。

北軽井沢は、本物の軽井沢から遠い、現在は寂れてしまった別荘地で、群馬県吾妻郡にある。一方で、軽井沢は、その南に位置するが、長野県北佐久群にある。

富裕層が別荘を構える軽井沢では無理だが、学者でも別荘は持てるのだ、という対抗意識もあってつけた名前が北軽井沢らしいことは、北軽井沢大学村の草創期から山荘を構えていた野上弥栄子さんの短編などからわかる。もともとは地蔵川という場所。そこに法政大学の関係者が法政大学村という学者の別荘地を開いた(鉄道の煙突から飛んだ火の粉が原因といわれる山火事の跡)。

北軽沢には二回行ったことがあるが、随分、アクセスが難しい、辺鄙な所だなとは思っていたが、距離などをちゃんと調べたことがなかったので、Google maps で距離を測ってみた。

旧田辺山荘である群馬大学北軽沢研修所(大学村の南東の外れの位置になる)から北陸新幹線軽井沢駅までを測ってみたら、13.22km だった。京都駅と大津駅の間が10km 無いので、かなりの距離。東京だと東京駅から千葉の浦安市街くらい。

Google Maps で、軽井沢駅から群馬大北軽井沢研修所への経路を調べようとしたら、なんと計算不可能だった。辺鄙…(^^;)

ということで、いずれにせよ、佐藤優氏の議論は実は成り立たない。北軽沢という地名をサーチするだけで、直ぐに解ることなのだが…。

田辺は色々言うし、本人は命がけのつもりで政府の政策批判をしたりしているのだが、最後の最後で逃げてしまうというのが、僕の持っている田辺像。

先日、京都哲学会で、田辺元と西谷啓治について話したときにも、そのことは言っておいたが、以前から、こういう問題が、つまり、田辺にそういう印象を持つ自分は、同じ様な状況でどう行動できるのか、という問が、咽喉に刺さった魚の骨みたいな感じでいる。

昭和20年に北軽井沢の夏の山荘に疎開の意味を含めて移転したことには、色々ある田辺への違和感のひとつ。北軽沢は米軍が爆撃対象にするには、あまりに小さく辺鄙で、軽井沢以上に安全であったはずだ。そして、京都から北軽沢に移住したのに疎開の意味もあったのは、ほぼ確実である。

ただ、一方で、田辺夫妻は、元々が関東の人で(田辺は東京神田、夫人は逗子辺りだったはず)、京都に染まった感じが全くないこともあり、定年退官すれば、関東に戻るのは自然な流れ。昭和20年の大混乱の中、関東に戻るとすれば、その目的地が、自分が所有する夏の山荘であることは極く自然だったろう。

明治人で、生まれた家のこともあり、田辺は大日本帝国には疑問を持たなかっただろうと思われる。それを現代から批判しても仕方がないと僕は思っているが、問題は、「国や社会の進む方向がおかしい」と判断した場合、そして、三木や戸坂のように検挙される可能性があるとき、あるいは蓑田の様なウルトラ右派から攻撃をうけそうなとき、そういう様な状況で自分がどう行動できるだろうかということ。

まだ、十分調べられてないので、確実ではないが、三木、戸坂は生命の危険をどれくらい考えていたかは疑問が残る。一番危なかったはずの戸坂さえ、死につながった二度目の収監の際に、攻撃してくるウルトラ右派に憤慨して反撃してやろうと思うという大親友西谷啓治に、戦争はすぐ終わる、自分もすぐ出て来る、そんなの無視して置けという意味のことを言ったらしい。それがああいう結果になった。歴史とはそういうもの。

大島康正は国立の帝大の教員である間は、政府に協力するのは当然で、そうでないときは、まず、国立大学の教官であることを辞めるべきだというのが、田辺の見解で、(戦後)国立大学教官でありながら政府批判をしている人に比べて倫理観として田辺の方に共感するという意味のことを書いているが、これは、田辺研究を始める前から、僕自身も考えていた問題で、それでNISTEPなどの霞ヶ関の研究所などへの協力は積極的にやるというスタンスにしていた。

僕の場合は、ITをやっている仲間たちに大企業の人が多く、そういう人たちと普通に仲間として付き合いながら、昔は強かった大企業批判に同調するのは卑怯ではないかという問題意識だったが…

僕は、諸般の理由で、30代のころから、大学を辞めても数年は無職でも生きられるような経済的条件を維持するというのを意識的にやっていた。それもあって、自分以外の教授会のメンバー全員と意見対立するというのを、龍谷でも神戸でも経験したが、こんなのは学部長になりたいとか、学内政治力を持ちたいとか、そういう気が無ければ、そして、一定の条件に恵まれれば、全然平気でできること。

しかし、田辺の時代と同じような時代に自分が置かれたとき、自分はどういう行動・態度をとれるか。正直のところ、田辺以上に毅然として立つ自信がない…

数学基礎論史とか、京都学派とか、20世紀の戦争の時代の歴史をやっていると、こういう問題に出くわしてしまった人たち、しかも、学者としての自分の先輩のような人たちの姿を目にすることになる。特に、ドイツはシビアだ。亡命するユダヤ人学者、強制収容所から逃れるため一家で自殺する学者、ナチ党に入党する学者、様々である。それに比べれば、京都学派の人々は幸せにさえ見えてくる。

今の時代は、この時代に非常に似てきている。僕と同じ時代をやっている人の多くは、そう思っているらしい。

もし、そうなったとき、僕はどう行動できるか?

田辺は、日本の敗戦が確実になり始めるまでは、恵まれたエリートコースに乗る学者だったと言える。一方で、西田は、京大に職を得た後も、小康の後、定年退職することまで、個人的な不幸続きだった。そして、京大に移るまでは職でも苦労している。その西田の晩年は敗戦の前に亡くなることも含めて比較的幸運であった。それに対して、田辺の人生は、昭和10年代ころから暗転していく。

その田辺が群馬の山奥で太平洋戦争末期を過ごしたのに対して、西田は米軍の上陸も想定された鎌倉で最晩年を送った。そのころ太平洋に面する鎌倉では米軍機の攻撃会うことが多かったらしく、同じ鎌倉に住む親友鈴木大拙に、最近は米軍の攻撃が酷くて、会いに行きたいが思う様にならない、という意味の葉書を送っている。

性格も含めて、実に対照的な二人であるが、晩年も対象的であった。

西田は海、田辺は山。


2017年11月26日(日曜日)

日本のIT遅れ

今日だが、昨夜だかに、JBPressから、
——————————————————————————————————————
すべての戦略は デジタル前提に!

現在、デジタルの世界は転換期にあります。テクノロジーやビジネスにおける変化の
速度は、私たちの理解をはるかに超えています。

いまだかつて、こんなにも多数の新しいテクノロジーやパラダイムが集中して
登場したことはありませんでした。ITとビジネスの戦略の交差が複雑になるにつれ、
事業予測、事業計画、競合優位性に関するこれまでの前提事項はすべて消え去りまし
た。

企業は今、あらゆることについて再考を強いられています。
——————————————————————————————————————
という内容の記事の配信があり、驚く。

最初、「この記事は、その通りなのだが、20年前、遅くとも10数年前に配信されるべき記事だ」と思った。
そういうことが、これからすぐに起きるので、日本はIT化に対応しなくてはならないと、
NISETPの「日本の危機としてIT人材問題」などを書いていたのが、もう10年ほど前なので。が…

しかし、よく見ると、この記事では「消え去る時代がすぐ来ます」でなくて、「消え去りました」となっている。

「消え去ったのに、日本の企業は、それに対処できていない」という趣旨らしい。

暗然となり、色々とネットブラウジングをする。

「日本 IT」でググると、何と、https://wirelesswire.jp/2017/01/58716/ というような、
日本社会のIT化は世界に遅れてしまったという趣旨の記事ばかりが出てくる。そうでもない
内容のものもあるが、日付が2010年だったりする。随分、変わったものだ。
で、やはり、遅れが産業の現場で肌で感じられるようになってきたらしい。

しかし、それは産業のレベルであって、日常生活では、まだまだ、世界のIT革命から隔離されたままという気がする。

スマホなどの普及を言う人もあるかもしれないが、スマホやタブレットを使っているだけでは、本当の意味での社会のIT化は成されない。

JBPress の記事の意味での「デジタル化」「IT化」は、日常生活もガラリと変えるものなのである。

しかし、この国では変えないようにしようという力が強く目立つ。

僕は兼業主婦なので、良くデパ地下などで買い物をするのだが、いつも違和感がぬぐえないのが、
クレジットカード式のポイントカードをだして、ポイントをもらいながら、現金で払っている人が
圧倒的に多いこと。これが、中国だと、すでにアリペイなどが、主流と聞くし、
北欧では、国が現金を無くそうとしている

そのアリペイが、日本でも使えるようになるとか、
中国人観光客が、配車サービスを使い、中国人が運転する白タクを使って、
日本のタクシー業界に影響を与えているが、それを一斉に摘発したとか、
そういうニュースが増えている。

あるいは増加する外国人観光客が日本に風穴をあけるのか?

うーん……

多分、難しいだろうな… :-(

出島の時代から、日本は、そういうのを隔離するのには長けている。
外国人技能実習制度など「現代の出島」だ。

広島の牡蠣打ちで、中国人実習生による殺人事件が起きたときでさえ、
マスコミが、本当の問題を隠蔽してしまったかのようだったし…

あれは、その少し前に放映された、広島・宮島でロケが行われた
NHK「鶴瓶の家族に乾杯」を見ていたら、ある程度、予測できた。
僕は偶然見ていたのだが、出演者が話しかけた外国人実習生の
無表情と無反応が、完全に、番組の「日本的空気」を崩していた。

多くの人は、こういうことはITと関係ないと思っているらしいが、
実は、ITは社会を根本的に変えることができる技術なので、
社会の在り方、そのもの、社会の持つ価値観と、直接、
連動したり、対立したりする。

つまり、社会のIT化とは、社会の変革そのものであり、
それを前例のないスピードで達成できるようにする技術が
ITだと理解すべきだ。つまり、変革しよう、という意思が
ない限り、ITという技術は、それほど重要な結果を産まない
のである。

幕末のころの西洋文明との対応に似て来ているが、
今度は、中韓が日本の位置に、日本が中韓の位置にいる。


2017年11月20日(月曜日)

RIETIペーバー完成とブログ再開

経済産業研究所RIETIのAIの社会影響研究のプロジェクトの成果である、ポリシーディスカッションペーバーの最終版を、漸く完成。

実は、すでにプロジェクトは終了しているのに、遅れていたもの。RIETIの担当者の方たち、特に小林さんには、本当に御迷惑をおかけしました。平にお許しを!!我ながら、実に困った奴です。 :hammer:

これで、一応、AI研究は終わりにして、歴史研究にもどる。来年度末で定年なので、それまでに、積み残しの数学基礎論史関係の本やら論文やら、何とかしたいのだが、とても1年半でできる量ではないものが残っている。 :-?

まあ、一部は定年後にやるしかないか…

こういうことを避けるために、定年までは、新規の仕事を引き受けたり、始めたりをしないことにした。

それに伴い、長く書いてなかったプログを再開。新規の仕事を避けるようにしたためか、少し時間に余裕がでてきたように思うので。

と、いいつつ、先日の京都哲学会で話した「西谷啓治と田辺元――空と種」の論文版を書かねばならない。

当面は、主な仕事は、岩波新書の「ゲーデルの不完全性定理」(仮題)の原稿だが、これ以外にも、西田幾多郎記念館から引き受けている仕事も結構忙しい。また、これは事務的なことが忙しく、何とか、定常状態に入りつつはあるのだが。

いずれにせよ、以前の様に、プログを書けるだけの時間を見いだして書きたい。

このブログは、僕があまりに沢山新しいことを始め、色々なことを同時に行うものだから、学生が林が今この時に何をやっているのか見えない、というのを聞いて、研究室の学部生・院生たちに、林が何をしているのかを伝えるために書き始めたもの。

その研究室「情報・史料学専修」も、新メンバー募集は、昨年度で終わり、今年度は、来年4月から発足する「メディア文化専修」の学生・院生だけを募集している。

この新専修は、情報・史料学専修と、二十世紀学専修が合併してできるのだが、僕は発足後、1年だけいて辞めるので、新専修の学生さんの卒論を見ることがない。つまり、このプログの本来の役目が、必要なくなりつつある。

それもあって、今後は、今までのブログの方針「学術的なことしか書かない、専修の学生や院生、そして、(広い意味での)同僚に、林が何をやっているのかを伝えることに目的を限定する」を取っ払って、好き勝手に書くことにしようと思う。 :-)

まあ、あんまり羽目を外すと、僕のことだから、何を書き出すかわからない。 :-D
注意、注意! ;-)


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