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2016年6月24日(金曜日)

哲学の道と西田

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時51分29秒

西田が哲学の道を歩いたかどうか、何か客観的証拠はないかと探していたら、高山岩男の文章を発見。

これは燈影舎燈選書13「西田哲学とは何か」に収録された雑誌「心」掲載の「西田哲学と私」(昭和54年, cf. p.260)という文章の「田辺先生のこと」pp.204-213のp.207-8の次の部分:

これより余程前からですが(注1)、先生(注2)は午後に吉田山界隈を散歩されます。戦後、私は京都を去りましたが、疎水支線の桜の並木道を「哲学者の道」と名づけていることを数年前に知りました。西田寸心先生も波多野精一先生も散歩をするが、疎水べりでお見かけすることはなく、もっと北の田圃道が多かったように思います。「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが、数年前或る人が"先生の頃から疎水支線の道を「哲学者の道」と名づけられていたそうですね"と申されたのには驚きました。私の頃にはまだそんな名称はなく、橋本関雪という日本画家が妻君の死を悲しんで桜の苗木を疎水支線に沿う何丁か植えた河べりがいい繁道となっていたのは事実です。まだ人家はまばらの時代で、私はこの近くに止宿していましたので、毎日散歩は致しましたが、「哲学の道」などという洒落た名前などはありませんでした。田辺先生もここまで足を延ばされていたかどうかは、詳しいことは知りませぬ。

注1. 「これ」とは、高山が田辺と吉田山を散策中に、種の話を聞いたという田辺研究者ならば皆良く知っているはずの逸話の時。
注2.田辺元のこと。

この文章で良くわからないのが、「「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」の、「大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」という所。おそらくは、ハイデルベルグの「哲学者の道」がネッカー川を挟んで大学と反対側にあるという意味だろうが、もしかして、この「大学側の反対」の大学が、京大だとすると、高山が「哲学者の道」を今出川通り北の疏水の部分を意識して書いたことになる。しかし、この部分は正式には「哲学の道」ではない。http://souda-kyoto.jp/map/area_04.html

公式には、東山に沿って南北に走る部分のみが哲学の道。気になるのが、高山が、西田、波多野が散歩した辺りとして「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている点。疏水は「哲学の道」の北の終点から、ほぼ東西の流れに変わり、農学部裏を通って北白川の現在は住宅地となっている地区へと続く。高山のころには、この辺りは田園であったはずで、こちらの方が「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている「北の田圃道」として自然。西田が良く散歩をするようになったのは、飛鳥井町の家に移ってからだが、現在、スーパーマーケット Grace たなかの西の裏手辺りにあったはずの、この家から現在の「哲学の道」の北の出発点までの道のりと、その出発点から「哲学の道」の南の終点までの道のりが、ほぼ同じ。ということは、現在の「哲学の道」にあたる地域を歩くために、その北端まで歩くというのは不自然なことになる。西田の散歩の目的は考えることにあったはずであり、風光明媚な風景を愛でることではなかったはずである。西田の散歩は、云わば、真剣勝負だったはずなのである。

そして、飛鳥井町から東に散歩するならば、東大路を超えて、百万遍知恩寺の裏手の辺りを通り、京大農学部の裏手辺りを歩くのが自然だろう。その時、気が向けば、さらに南に南下して、現在の「哲学の道」を歩くこともあったかもしれない。しかし、北行した可能性も高い。そう仮定すると高山の記憶に一致しているように見える。もし、高山が、当時、どこに住んでいたのか、書簡、葉書の住所などで特定できると、もしかしたら、ハッキリするのだが。


2016年6月23日(木曜日)

西田の三高寄贈書と旧宅部材の燻蒸

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時00分36秒

今日(23日)も西田幾多郎関係の仕事が二つ。

吉田南図書館の依頼で西田幾多郎寄贈の三高図書館蔵書の書き込みを調べる。
西田の筆跡とは異なるものや、西田ならば書き込まないだろう初歩的な
ドイツ語の読解に関する書き込みなど、やはり、どれも西田のものではない。
おそらく新品を買って寄贈したはずだから、西田の書き込みはないと見るのが自然
だろう。しかし、西田の墨書の筆跡が、良く知られている西田の手書き文字と比べて
非常に綺麗。本当に西田のものか、少し疑ったが、署名の特長的な「郎」の字など、
確かに西田のものらしい。他に、あの様に綺麗な楷書で書いた西田の手書き文字は
あるのだろうか?また、寄贈の時の台帳を見せてもらったが、
この台帳自体が、すでに貴重な史料と言える。

その後、博物館に行って、横山研究員に「哲学の廊下」などの部材の燻蒸を見せて
いただき、京都学派アーカイブ用に撮影もさせてもらう。燻蒸は、僕が想像していた
ものと異なり、大きなビニールのテントに部材を入れ、二酸化炭素を充満させて、
後は中で扇風機で送風するだけらしい。殺虫剤をドンドン入れるのかと思っていた。
しかし、ちゃんと殺虫が出来ているか、生きている虫を入れて確かめるというのは、
ちょっとかわいそう…… まあ、僕もムカデやゴキブリがでたらすぐに殺すから、
勝手なものだ。

キャンパス内の道路で土蜘蛛が歩いているのを見る。潰されないといいけど。
土蜘蛛というのだと思っていたが、地蜘蛛(ジグモ)の方が正式名らしい。


2016年6月18日(土曜日)

北軽井沢のひぐらし

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時33分00秒

今日は、本当に久しぶりで北軽井沢大学村を訪問。群馬大学田辺記念館の撮影をさせて頂く。

帰りに田辺記念館の管理人をされている茂木さんのご厚意で、僕の連れ合いの実家の八杉山荘を訪問。

多分、10数年振りだが、心配していたよりは、状況は良かった。

岳父が健在のころ、四人で八杉山荘の母屋から満月を仰ぎ見た時をおもいだす。

日暮らしが鳴いていた。山科のひぐらしとは歌い方が違うような…


2016年6月8日(水曜日)

西田幾多郎「哲学の廊下」解体保存

カテゴリー: - susumuhayashi @ 18時22分19秒

この5か月ほど、一番力と時間をつぎ込んでいた西田幾多郎とその家族が大正元年から11年まで住んだ家の一部解体保存の仕事が、今日で一応の目途がたった。
所有者のプライバシー保護のため、これについては一切具体的なものを公開しなかったが、解体して博物館に持ち込み、プレスリリースも終わり、今日から解禁。

最初は、1,2社にでも書いていただけたら、それが将来の展示につながれば、と思って計画したプレスリリースなのだが、驚くほどの反響で、新聞や通信社だけでなく、TVも毎日放送、京都放送、NHK京都と取材があった。

どうもみなさん西田や京都学派に興味があるらしい。若い女性の記者さんが西田旧宅の内部をみて、こんなところに住みたい、もったいない、と言っていたのが印象的だった。こういう人がもっと増えてくれればよいのだが。でも寒いですよーー。

それから、どうも二階外廊下を、僕が勝手に「哲学の廊下」と名付けたのが、面白がられたみたい。

この名前は、初めて内部に入り、廊下を行き来してみたときに突然浮かんだもの。

僕も考えに詰まると部屋の中をうろうろしながら考えるのだが、僕の家は、それほど大きくないので、歩きにくい。しかし、この廊下、歩いてみると、長さと幅が、考えながら歩くのに、実に具合がよかった。

で、「わー、こんな廊下があると考えるときに歩きやすいな。哲学の廊下だ!」と思った次第。

興味がある方は、http://www.shayashi.jp/nishidakitaroukyutaku/を見てください。

しかし、今日は、早朝から、講義が終わる6時まで、本当に忙しく、この5か月を象徴するような日だった。そのため4時半からの講義に少し遅れてしまった。今日は、僕が弁士になって ;-)、無声映画のSFの名品メトロポリスを見せる日だったので、映画を見る時間が10分ほど短くなり、学生さんたちは不満だったかも… ごめん!

しかし、福井工大の市川さんにも言ったのだが、実は、まだ、中間点。保存したものを展示できるようにして初めて仕事が完成する。

これは資金の問題もあり簡単にはできない…

がんばります!

おお、今日から、また、ブログが書けるぞ! :-D


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