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2014年6月24日(火曜日)

Emil du Bois-Reymond の伝記

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時28分29秒

Emil du Bois-Reymond の伝記が昨年出版されていたことに気が付き昨日注文。ハードカバー版が、もう今日大学に届いていた。

Anne Harrington は、Ignoramus et Ignorabimus を、物理万能主義、機械論的世界観に基づく傲慢として理解しているようだが(物理学、化学などの19世紀的自然科学で語ることができること以外については、科学者は語るべきでないという意見だという理解)、ビスマルクとローマン・カソリックとの間の Kulturkampf を背景とするものだという解釈まであるらしい。この時代らしい、科学の大政治家の発言だから、複合的なものか?

Harrington の解釈は、おそらく、このページに引用されている Cassirer の Determinismus und Indeterminismus in der Modernen Physik 1937 の解釈と同様だろう。Emil du Bois-Reymond の科学的・社会的背景を考えれば、Cassirer, Harrington の解釈が自然だ。Cassirer の文章の、Accordingly the demand for “explanation” not only cannot be fulfilled here - strictly speaking it cannot even be raised: ignorabimus is the only answer that science can give to the question of the essence and origin of consciousness. というフレーズが面白い。この解釈は Wittgenstein の Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. の意図の哲学を科学に置き換えたものになっている。 Tractatus logico-philosophicus は1921年刊。これが第一次世界大戦の戦場で書かれたのは有名な話。一方、Cassirer の Determinismus und …. は 1937

Cassirer の次のフレーズが面白い:

Of course the attempt was made to escape from the radical consequences he had drawn. There was no ready surrender to the apodictic dogmatic conclusion of du Bois-Reymond’s speech. But there seemed to be no doubt that here an important and pertinent problem had been raised with which epistemology and science had to wrestle using every power at their disposal. Even the neo-Kantian movement, which began in the early seventies almost at the time of du Bois-Reymond’s speech, did not at first alter the situation substantially.

Cassirer は、新カント派の哲学も、du Bois-Reymond の materialism に答えられなかったと自ら書いていることになる。第一次世界大戦という経験の意味の重さ…

いずれにしても、これは、容易に判断しがたい。調査が必要。Cassierer の1937の原典も読むこと(人文研図書館にあり。なんと、山本義隆さんの和訳がある!)。

この調査のために、この本は実にありがたい。Harrington の本では決定論者についての情報が圧倒的に欠けていたので、これから一次史料にあたって調べるのは大変だなー、と思っていた所だった。医学部図書館に行くと、こういう時代の資料がちゃんとあって読めるのだが、僕の知識が圧倒的に欠けている生物学史・医学史をやるのは大変だなー、と思っていた時に、この本を見つけたのだから、\(^ ^)/ バンザーイ・バンザーイという感じ。それに、大好きだった岳父龍一と同じ分野の研究ができるのが何かうれしい。 :-)

ヒルベルトの、あの過剰ともいえる反応は何だったのか?ヒルベルトは、Emil du Bois-Reymondの半世紀近く後の時代の人だ。慎重な判断が必要。

いずれにせよ、忘れ去られていたEmil du Bois-Reymondの伝記が、しかも、英語で出版されるということは、今の歴史研究の状況の象徴だ。

これからの10年、20年で、日本でも数学基礎論論争がらみの既存歴史観が音たてて崩れ、新たな史料ベースの歴史観が広まるだろう。これに向けて、岩波新書と、フェレイロスの和訳を頑張らねば。もうすぐ7月、フェレイロス和訳プロジェクトに参加している人たちに一度集まってまらわなくてはいけない!

京都学派の史料保全の仕事もしなくていけない。今日、常滑市の「谷川徹三を勉強する会」から、田辺元から谷川への書簡をまとめた簡易製本の書籍が届いた。ご自身たちでは「勉強する会」と謙虚に称されているが実に立派な仕事。大学の先生方も、特に哲学(「史」が付かない哲学)と称している人たちには、見習ってほしいほどだ。それなのに「勉強」と称しているのは、ちゃんとしている人ほど謙虚だという経験則の例のようだ。

今回の挑戦的萌芽研究の科研費は、こういう、それぞれの地域、グループ、個人で、行われている京都学派の資料保全の努力を社会と未来に伝えるための「場」を提供することを目的とする旨、先日決まったが、こういう活動は、正に我々が記録し紹介すべき活動だろう。実に、素晴らしい!他にも同様な動きがきっとあるに違いない。


2014年6月20日(金曜日)

自立ロボットと Umwelt

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時56分20秒

ついに、京大も後期から全科目授業評価をすることになった。別に悪いことではない。

僕は自分の授業はすべて全力投球している自信があるし、神戸大時代にエンターテイメントを目指してやった全学授業(250名位かな…質問票で後ろの人がうるさいので静かにさせてくださいとあった、そのうるさい声が僕には聞こえない位の広い部屋でやっていた)で、自分でも「あり得ない!」と思うほどの高い評価を貰ってから、あまり授業評価は信じない。そのころの全学授業は、TVの番組をモデルにしていた。

その様な状況で「受ける」のは、今の京大の状況ではどうでもよい。少数の学生しかいないが、こちらが考えさせられる質問が、高い確率で帰ってくる、今の状況での、質問票による学生たちとのインタラクションの充実の方が遥か意味があるし、そういう優秀な学生を持つことができない殆どの大学教員の方たちには申しわけないとは思うものの、この幸運を手放すつもりはない。

同僚たちはサバティカルを取るが、僕は賢い学生たちに話を聞いてもらえる権利を手放すなど短期間でも信じられない。授業があるお蔭で僕の学問はコンスタントに進む。実に有り難い。

で、前置きが長くなったが、月曜日の特殊講義が、自分でも滅茶苦茶面白いフェーズに突入してきた。Uexküll の Umwelt 概念が、ハイデガーの Sein und Zeit に関係があることは知っていたものの、これが現在の、計測やシステムとここまでピッタリ合うとは思わなかった。Uexküll は、アン・ハリントンの本によると、チェンバレンへの手紙で「太陽は自分の周りを廻る。それが subject としての自分の信念だ」という意味のことを言っているが、これを工学的に言い替えると「自律ロボットを制御するプログラムは、主観的アプロ―チを採らざるを得ない。利用できるセンサー・データは、自分の周り(Umwelt)に貼りついているセンサーしか前提できないだろう。それだけの外界データ、センサーデータだけで、ロボットを制御するとしたら、Uexküll の Umwelt 概念、Funkitionskreise の概念に依拠するしかないだろう」ということになる。やはり、工学は好きだな。現実が、理想を超えていくから!


2014年6月15日(日曜日)

何種類かの数学

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時58分02秒

八杉のお供で、科学基礎論学会のワークショップに参加。

上野健爾さんの20世紀代数幾何学の発展の話がすごく良かったので、スライドをお願いした。

ヴェイユからグロタンディエクへの道を中心とした、数論幾何学的・代数幾何学、それを取り巻く数学、が20世紀数学の最大の精華というのは、僕も賛成だが、どうも、「一般化=本質を見る」という方向しか見ていないところがあるので、物理現象、非線形現象を研究する応用数学系の仕事が、ブルバキ以後に評価されるようなっているが、そういうものはどう考えるか、数学ではないのか、と質問したところ、良い数学の理論の出発点となるという返事。しかし、そういう応用数学系の数学にフィールズ賞が多く出る様になったのが20世紀の終わりころからの話で、これは出発点というより、それぞれが終了点、あるいは、カルミネーションだからだろう。そこを指摘したら、そういうのも数学だと思うと、どうも渋々認めるという感じだった。

また、後の議論で、Atiyah の数学がブルバキと随分違うというような話もあった。これは恐らく、Atiyah が物理など、ブルバキの主流ならば手を出さない様なものにも手を出したことを言うのだろう。で、数学には色々とある。たとえば、公理的アプローチの20世紀数学に限っただけでも、

  • グロタンディェク
  • ブルバキ
  • ヒルベルト:幾何学基礎論、物理の公理化、積分方程式論
  • フォン・ノイマン:ゲーム理論、量子力学

など皆違うし、アーノルドなどの力学系の理論もかなり違う印象を与える。フォン・ノイマンに近い?
ネーター、ファン・デア・ウェルデンなどは、ヒルベルトとブルバキの間あたり。

これが非線形微分方程式となると、もう全く違う世界。上野さんが語った「本質=一般化」の数学が、砂漠や宇宙のような、遠い視界が約束された場所で、遠くを見通すことを目的とする数学であるとすれば、僕が龍谷で同僚だった人たちの粘菌の動きを説明するための数学とか、あるいはパンルべなどの仕事は、いわば局所の「現実」の数理を見ようとする態度。西田、田辺の積分と微分の違いのような話。もちろん、「局所の現実の数理」も数学で、歴史的にはこちらの方が古いし、むしろ、今は、これが盛り返しているし、社会の役に立つのは実はこちらの方だ。その点、上野さんも話にだしていた、ルレイがナチの捕虜時代に非線形現象の数学をやると、ナチを利するので、層の理論を創始する研究を行ったという「逸話」(本当かどうかは不明だが、今は信じておく)は、非常に示唆的。つまり、層の理論は、まさに「見はるかす数学」なのだが、「局所の現実」をバリバリ解明するための道具ではない。やはり龍谷の別の同僚が、佐藤理論は美しいが、それでは自分が解きたい現実の問題が解けない、といっていたことも、この話。

岩波新書の原稿で、こういう異なった立場、価値観を、モダニズムの「主義」の群に例えて説明し、それで、数学者と数学基礎論学者がすれ違う理由を説明したのだが、これは、どうも数学の中の価値のすれ違いにまで拡大した方がよさそう。そういう節を一つ入れること!今は、脚注ひとつですませている。つまり、20世紀現代数学=ブルバキに代表される数学、というのと、20世紀の数学、の違いを説明する。もっとも、僕は、ヒルベルト、フォン・ノイマンまで20世紀現代数学に入れているので、それの中での違いと、非線形現象の数学とか、物理数学とか、数理論理学とか、計算数学とか、そういうものの違いも説明する。ただし、「ゲーデルと数学の近代」で必要なのは、数学基礎論と数学の主流との価値観の違いのみであることを強調すること。

帰りの道すがら、八杉とも話したのが、現実には、すべてが、それぞれの場所で、それなりの意味を持っている。その規模と深さ、というようなことを言えば、明らかに20世紀の数学の代表は、「見はるかす数学」だろうが、それは、あまりに空を飛び過ぎていて、その反省というか反動として非線形現象、解析学、物理数学などへの回帰が20世紀終わりに起きたというべきだろう。今はビッグデータなどが出て、神戸の同僚だった統計学者が「数学と見てもらっていない」(実際、数学ではないのだそうだが、これはもちろん、数学などではない、つまり、物理や数学などではない同じにしてもらっては困る、というのと同じ意味)と愚痴っていたが、それが今では「統計は最強の科学」などと言われる。何かの価値観に拘るのは、実にバカらしいのだが、どうして、みなさんこだわるのだろうか。しかも、かなり古いものに…

上野さんと話をしている間に、シュバレーのブラウワー理解が深いことを話して、ついダメットの方向でブラウワーの直観主義を説明してしまっていた野家啓一さんの話と比較してしまった。もちろん、これはシュバレーがエルブラン追悼集会の基調講演で語ったように、ブラウワーの本質は時間直観。ダメットのものは、ハイティングによるブラウワーの「外延化」のさらなる「外延化」。一瞬、僕の後ろを上野さんが見ていたところをみると、野家さんが後ろにいたらしい。(^^;)

後で、調べてみたら、野家さんという人は、数学の哲学の人ではない。「何で自分が」と講演で仰っていたが、まあ、そういうことだろう。比較するのが気の毒。失礼しました。(^^;)ただ、分析哲学の人は、本当に歴史を調べないなと、つくづく思う。アン・ハリントン Reenchanted Science のp.18で、謙虚な態度として理解されることが多い Ignoramus-Ignorabimus が、「ニュートン力学で語れないものは科学的には語れない。だから、科学者は、それについて語ってはならない」という、実は「偏狭」な態度の例として引用されている。これはヴィトゲンシュタインの Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. という態度に一致しているわけだが、これが野家さんのスライドにあった。もし、これを「科学的哲学者の価値観」の表明と理解すると、これを最も強く受け取ったウィーン学団、分析哲学的価値観とは、哲学化したアリストテレス論理学としての数理論理学、集合論を使って哲学を行うこと、つまり、「科学者、数学者の様に語ること」が最大の目的と化した人たちということなる。だから、何を語るのかは、その「語りの方法」でしか評価されず、内容などというものはないのだとされる。だから、僕や八杉には、それが空疎なゲームに見えるのだろう。科学や学問は、形式だけでは進歩しない。それは、たとえ流動して変容するとしても「実質」Materie が無ければ学者は仕事ができない。


2014年6月7日(土曜日)

”リアリスト”はユートピアン

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時01分56秒

今日、金3の演習で、沼田君がEdward Hallett Carrの有名な著作を紹介してくれたが、
改めて、リアリストとイデアリストの対立について考える…

カーは、僕ならば、イデオロギーと呼ぶだろうものを、ユートピア、ユートピアンと
呼ぶ。また、彼は、「リアリスト」を、あまりに極端な「リアリスト」の意味に使う。

カーの意味の「リアリスト」は、僕には、この世ではあり得ない、あってはいけないユートピアを
求め、その不存在に失望した、ユートピアンの裏返しとしての「リアリスト」に見える。
実は、そういう「リアリスト」は、隠れイデアリストなのである。

本当のリアリストは、そういうものではない。


2014年6月1日(日曜日)

昭和30年代西谷の科学技術論

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時57分17秒

特殊講義「再魔術化」は、もう後、8回しかない。明日からは、Ann Harrington Reenchanted Science で、19-20世紀ドイツ生理学の話。もちろん、これにはヒルベルトが意識していたヘルムホルツもデュボアレイモンも、そして間接的ながら、クロネッカーの弟、ヒューゴ・クロネッカーも関係を持つ。つまり、数学基礎論史と同時代で、それに深く近接し、しかも、数学より深く哲学に関連していたともいえる話。

その準備でしんどくなって、西谷の方に「逃げた」ら、丁度、同型のテーマの所が目に入る。

第10巻「虚無と空」、pp.89-95の、科学・技術の話。技術に「目的論」が現れるというところあたり、僕や他のソフト関係者が言っている「目的因の目的=仕様」というのと同じなのだが、これが1960年代(50年代?)に書かれたものであるために、情報、特にソフトの話が日常的に人々の目に触れる以前、環境問題が温暖化のような大問題として立ち現れる前であるため、実に古臭い印象を与える。

まあ、おそらくは(勉強していないのでわからないが)、これはハイデガーの技術論と多くは違わないのだろう。そして、西谷が言いたいのは、この部分の後の、pp.95の二以後の方なのだから、まあ、これは大きな問題ではないのだが、この二以後も、現在の「感情マシンとしての人間」「感情というエネルギーを持つ部品(資源)としての人間」という、感情労働という言葉が社会学を超えて一般に使われるようになっている現在の状況も無縁の時代に西谷は生きて、そして、死んだ。

彼の議論は、現在、どこまでの意味を持つのだろう。しかし、感情を燃料として燃やすことを強いられる現代人の状況を「ニヒリズム」という単純な言葉で処理できるのだろうか?疑問!時代は、そこまで来てしまっている…


sg: タグは維持!!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時14分58秒

永崎さんの suggestion を詳細に検討した結果、いずれも使えないことが判明。
属性云々は、属性値が自由だという意味だったが、属性がないタグがあり、
任意の要素がリソース化可能としてるため(意味があるかどうかは別。
設計の一貫性の問題)、属性値なしと定義されたタグの要素がリソース化でき
なくなるので、これは駄目。

また、sourceDoc と zone, line を使う行表現は、これから導入する予定の
画像の line segments を集めて、一つの line にするという新しいアーキテクチャ
をカバーできない。これは SMART-GSでは画像行と翻刻行が対応できるという
前提を置いているため。(理由は翻刻作業時、特に協働翻刻作業時の作業点の
分かり易さと、現在の WordSpotting方式による画像サーチの特性、の二つ。)

sg:…タグをTEIモジュールと関係がない特殊な透過性のタグとして、
SMART-GSでは扱い、これを XMLなどのエクスポートする際には、コメント
にする。つまり、
<sg :r uri=”…” resourcedby=”….” time=”….">…

は、

<!−− sg :r uri=”…” resourcedby=”….” time=”…."――>…

と変換する。


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