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2013年9月15日(日曜日)

田辺と西谷

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時05分20秒

後期特殊講義のシラバスが、どこか気に入らなかったのだが、
前期特殊講義の関連で始めた西谷啓治研究のお蔭で、その理由が判明。
事務の方には申し訳ないが、シラバスを更新予定。

後期講義は「危機の時代の思想家たち」がテーマなのだが、
問題は「何が危機だったのか」を簡単な言葉で説明することが
できていなかった点。これが西谷哲学を使うと、「ニヒリズムという
危機」として綺麗に説明できる。

西谷のニヒリズムの思想はニーチェ以来、繰り返されている思想の系譜
にのるものだが、それを説明する文章の明晰さが、僕の知る限りでは、
他に比べるものがない。そうそれが僕の言いたかったことなんですよ、
という感じで読んだ。やはり、この人は凄い。

これが解れば、「ハイデガー哲学が徹頭徹尾詩から生まれ、
田辺哲学が徹頭徹尾数理から生まれた」という彼の文章の
意味が実によくわかる。この立場から、すれば、ハイデガーも
田辺もニヒリズムなのである。

で、面白いことにゲーデルの歴史観の文章が、ほぼ、この西谷の
ニヒリズム論と同じ論調のこと。ただし、西谷の意味からすると、
ゲーデルの立場もある種のニヒリズムとなる。そこには
M.フリードマンの意味での parting ways がある。ゲーデルは、
西谷がいう「世界」*から一歩も出ない。そうなると、その世界には、
H.Weylがいう Perle が確かにある。しかし、宗教学者西谷の立場からすれば、
その様な淡水の海の Perle は真の Perle ではないのだろう。
数学者はある意味では、この世を生きていない。アルキメデスの死の
逸話がその象徴。クロネッカーの Ueber den Zahlbegriff のトーンが、
そして、ヒルベルトの1930年の講演が、それを良く物語る。

*この用語は、田辺の「図式世界」の「世界」
とほぼ同じ使い方。ただし、田辺が「存在と時間」以後、世界図式の
中の時は、外延的なものでなくハイデガー的になると言っている
ことに注意。彼は divide されてないから。これに反して、divide
されながらも、その division にこそ最大の問題を見る西谷がいう
世界は、田辺の言葉では外延的世界だろう。ただし、「存在と時間」
をニヒリズムの完成とみる西谷の立場からすると、田辺の「内包的世界」
も西谷の「世界」なのかもしれない。ここは調べる。

田辺が見たハイデガーの内包的時間も、西谷には、すでにニヒリズムの
産物。ハイデガーは、これを否定したようだが、どうも西谷の
方が正しい。死に至る時間という形式から倫理性を生み出そうとすると、
結局は 内包のWissenschaft になる。Wissenschaft は、どの様に
足掻いて、努力しても、本質的に外延的・形式的となる。
この構造は、ゲーデルが無限集合論を「右」と呼び、公理的集合論
まで「右」と考えていたように思われる点と重なる。

これは結局、ハイデガーが Sein und Zeit で、哲学が、心理学などの科学(諸学)
に解体されると書いたことに当たるか?しかし、淡水の Perle は、本当に
真の Perle ではないのか。もし、人間のすべてが Lotophagen ならば、
確かに社会は文明は滅びる。しかし、それ故に、数学者を lotus-eater を
呼ぶことも不自然だ。クロネッカーやヒルベルトの楽観には、確かに根拠が
ある。これは自分が数学者だった経験があるからか?一人の数学者がオルテガ・イ・
ガセットの意味で大衆となっている場合、末人と呼ばれるにふさわしいだろうが、
完全な Lotophage は大衆とは程遠い、たとえば、ゲーデル、小平。
この様な数学者を末人と言えるか。ニーチェの意味では?ウェーバーの(引用の
意図の)意味では?…


応用哲学会サマースクール (続き)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時18分11秒

21日に訂正とさらに追加の投稿あり。応用哲学会サマースクール (続きの続き)2013.09.21

応用哲学会サマースクールの司会だった久木田さんから、丸山君と僕にお礼のメール。(僕はなにもしてないのだけれど。 :-)

講師の森田さんは、自分の理解が浅いこと、専門家(丸山君)から色々間違いを正してもらったことに
レクチャーの際に、ちゃんと言及していたとのこと。

久木田さんに、圏論のレクチャーの司会をしなくてはならないという話を聞いたとき、
なんで応用哲学会で、と嫌みを言っておいたのだが、久木田さんのメールによると、
水谷さんが、初日のレセプションでの挨拶で、「圏論はトンでも哲学を誘発する危険がある、
そうならないよう圏論の基礎をきっちりと学んでおく必要がある」と発言していて、
それが企画の本旨だったらしいとのこと。(久木田さんは司会を頼まれただけで、
企画とかはまったくタッチしてないらしい。)

そういう趣旨ならば大変良くわかる。丸山君が国内にいなくて、相談に
のれなかった(どうも彼は応用哲学会の関係者らしい)ために、騒動が
起きたらしい。

しかし、今回のこと、森田さんという方の清々しい対応といい、丸山くんの頑張りといい、
若い人たちは実にすばらしい。

丸山君のメールによると、最初ちょっと感情的な行き違いがあったらしく、
自分は言い過ぎた(書きすぎた?)ので、謝罪したそうだが、
そういう風に、ちゃんと謝罪して修正できること、また、森田さんという
人が、資料改善の努力をし、また、自分の理解ががまだ十分でないことを
素直に表明するということ、これは、何も起きないより、よほど素晴らしいことだ。

現在の日本の「おとな」たちは、なんらの失敗も許さない
という非現実的態度に終始している。要するに問題が起きたときに対応しないといけない
(これを responsibility という。土下座して謝って見せることではない)のを
避けようとしているだけ。僕からみれば、これは大人げない態度だと思う。

多分、失敗することを恥だと思っているのだろうが、もしそうならば、
「恥を回避し続け、恥をかかない人生」なんて恥ずかしいのだろう。
#うむ、われながら名言。ハハ :-D  :hammer: なんだ?某アニメのOPテーマのパクリだろうが!

僕は、そういう人生を送るのが嫌なので、平気で恥をかくし、失敗する。
#でも、書類の間違いは、事務の人には迷惑。いつも、すみません。誰も読まないだろうけど…
しかし、一旦、間違いがあることがわかれば懸命に修正する。そして、そういう間違いと、
修正から、よりよい理解や社会が生まれるし、何より生きているのが楽しくなる。

日本のアカデミズムは、いわゆる庶民という怪物(正確に言えば、マスコミと大衆の
モンスター的共同体)を恐れて、発言を控える傾向があり、これが変なマスコミ学者を
産む温床になっている。アカデミズムを単に「お上」の一種として、最初から
ケンカ腰に対応する大衆の肥大化が現代日本の知の状況の最大の問題であることは明らかだが、
その状況を生んだ原因の大半は、むしろアカデミズムの努力不足にあったのではないか、
と僕は考えている(これは明治以来の知識歴史社会学、文化史として、ちゃんと検証
すべき、大きな問題なので、今は結論・意見でなく、ただのスペキュレーション・仮説
としてのみ書いている)。

で、アカデミズムの権威が地に落ち始めたころ(この権威は日本の近代化の特性のため、
主に権力に依存するところが多かったため、日本のアカデミズムは脆弱だったのだと思う)、
早めにアカデミズムが積極的に動いていれば、なんとかなった可能性もあるが、
今は、あまりに問題が肥大化し過ぎていて、何かしようと思っても茫然として、
大河の濁流の前で立ち尽くす、というような感がある。

それでも、アカデミズムで生きているものの仕事・責任(responsibility)として、
何も効果はないだろうことは半分以上わかってはいながら、
濁流に抗すべく、石を投げいれたり、懸命に櫂をかいたりするのだが、
僕自身の場合は、今のところうまく行ったことがあまりない。

その点、応用哲学会というアカデミズムの場所で起きたことではありながら、
森田さんという独立系の数学者を自称する方と、アカデミズムの世界の住民の
丸山君の間に、そして、応用哲学会との間に、こういうインタラクションが、
起きたということは、実に希望を抱かせる。

でも、森田さんは、数学者と名乗るより、サイエンスコミュニケータ、
数学コミュニケータと名乗った方がよいだろうけど。僕は、結城浩さんが
学者と名乗ったことを知らないし、本人は、全くそう思ってないようだ。

優秀なコミュニケータ、著者、教師は、ちょっと位優秀な学者
よりずっと凄いと、僕は思っている。
これはパートナーに聞いたのだが、*)(一昔前の?)イギリスの若者の
理想の人生は、イートンなどの教師になることだったとか。
どんな偉人でも、人生の長さを考えれば、一人で達成できることには
限りがある。しかし、自分が名前を残さなくても、自分から
教えを受けた多くの人たちが、歴史に名の残すようになることは
ありえるからだろう。そういう人たちが、あの時、あの先生に
教えを受けたことが、今の自分に繋がったのだ、と言ったり、
書いたりしたのを見たら、それこそ満足して死んでいける。
そういう考えからのことらしい。実にイギリス的で、パートナー
が教えてくれた多くのことのなかでも、僕は特に好きな話だ。
結城さんの活動には、その様な気持ちがありありと見えて、
だから僕は彼が好きだし尊敬するのだが、こういうメンタリティーの人が、
一人でも多く増えてほしい。
森田さんにも、それを期待したい。

*) このブログを見たパートナーが、それはあなたから聞いた、
ワタシじゃない、とのこと。??? なんじゃらほい…
老人(一歩手前)の記憶は怪しい。どこで聞いたんだろう、あるいは、
読んだのだろう… 同じの見た人がいたら教えてください。m(_ _)m
連絡はこちらまで:susumu@shayashi.jp
#ちなみに、当ブログは、本当のブログではなく、
#僕の活動や独り言を周囲(主に僕の研究室の学生さん)に
#知ってもらうためと、自分の研究上の記憶のために書いているだけ
#なので、コメントは一切できません。世間的意味のブログじゃないのよね、
#実際!要するに、僕のログなのです。


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