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2013年4月19日(金曜日)

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時26分54秒

„Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.“ 
ヴィトゲンシュタインの有名な言葉だが、これを高校生のころ読んだときには、
「何とかっこいい言葉だろう」と思っていたのだが、物事が解るようになるに
つれ、この言葉が嫌いになった。

正確に言えば、(おそらくは)ヴィトゲンシュタイン本人の意図ではなく、
以後の論理実証主義、分析哲学の「哲学ゲーム」、つまり、哲学者という過去には確固たる存在だった
人たちの生活や語りの形だけ真似たい人たちが、その仕事や生活の形(様式))が現代では無効になっていても、
どうしても形だけでも真似たいので、この命題を悪用する、その悪用された場合のこの命題が
(ようするにそれを悪用している似非学者が)嫌いなのである。

で、これを「語りえぬものこそ、語らなくてはならない」などと言い換えていたのだが、
どうもしっくりこなかった。しかし、明日の田辺哲学資料の読解演習の資料を編集していて、
「語りえぬものは語り続けなくてはならない」というのを考えついた。要するに、
これが田辺の切断なのである。

ただ、こういう風に「続けなくては」という temporal な表現
にすると、ブラウワーやドゥルーズと区別がつかなくなる…

ウーム、やはり、内包を外延から区別するのは難しい。
#それがTuringテストの意味。

ヴィトゲンシュタインが小学校の教師になった意味は
そこにあるのだが、それが実践できないところが、
この人の弱い所。やはり、この言葉と曲げた人たちと、
実は同種の人間なのだろう。だから、後期哲学は
奇妙に捻れている。その意味ではローティやドレフュス
が、この人をキルケゴールやニーチェとならべるのは、
間違いなのではないかと思う。


2013年4月3日(水曜日)

まさかナトルプでは???

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時56分05秒

月曜日、文学部前を歩いていたら、たまたま伊藤さんに遭遇。
ひとつ前の項目と、前から気になっていた新書の最後の項の
「宇宙における人間の位置」について教えてもらう。
後者は、シェーラーを意識したのではなく、シェーラーの時代の
前に、同じよなフレーズでの問いかけがかなりあり、その全体を
意識したものとのこと。たとえば、
http://www.scottishphilosophy.org/andrew-seth-pringle-pattison.html

ドォルーズのセリーの方は、畑違いで、ご存知なかったが、数列由来ではないかとのこと。
それならば、メシアンなどのトータル・セリエリズムの影響があると思われるドゥルーズの
セリーの概念、位でよいだろう。ポイントは、メシアンやトータル・セリエリズムではなくて、
それと本質的に同じブラウワー集合論との類比なのだから。しかし、時代的にいえば、メシアンたち
音楽家もドゥルーズも、ともにブラウワーからインスピレーションを得た可能性もゼロではない。
おそらくは、違うだろうが。しかし、そうならば、ソースが何かあるのではないか。ベルグソンの
持続では連続性が出過ぎているように思う。ナトルプではないだろうな….


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