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2012年3月12日(月曜日)

物理 v.s. 数学、歴史 v.s. 哲学、実質 v.s. 形式

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時36分53秒

「日本哲学史研究」の論文執筆にために、さらにシンプレクティック幾何学、物理学などの勉強。
田辺をやったお陰で(せいで)、ハイデガーから、物理学、数学、はてはドゥルーズ・ガタリまで
読むハメになった。大変。 :-?

でも、そのお陰で以前から気になっていた物理学と数学のセンスの差など、
腑に落ちるレベルでわかるようなった。やはり、物理の人は、どれだけ
数学的装置を使っていても指向しているのは「物」。数学は形式が中心で、
それが「もの」になっている。これが擬ベクトル pseudo vector とか、
contravariant, covariant の議論にでている。これ全く、Stone dualityなどの
dualityと、同じ話。だからカテゴリ論で、同じものがでてくる。と、漸く納得!

で、僕はやはり物理の人たちに近い。人文学でいえば、もの(史料)がある
歴史と、そういうものがない哲学の違いにこれが対応している。僕が哲学には
どうしても違和感をぬぐえないが、史料がでてくるとウキウキというのと、
同じ。ITの世界だと、理論的計算機科学は、covariant、余接バンドルの世界。
ソフトウェアづくりは、接バンドルの世界だろう。

もっと端的にいえば、これは実質vs形式の話。
#4月からの講義につながった! :-)

最初、数学やらTCSをやっていたのに、ソフトウェア工学に移ったり、
さらには社会学的な考察に移るのは、こういう傾向があるからだろうな。
で、思想史の場合、やはり、思想よりは史の方に軸足があることになる。

色々と納得。

これも澤口・中沢の思想を解明する(それが種の論理理解としては駄目だ
ということを理論付けること)という、厄介で、アカデミックな常識からは、
損な役回りをやったお陰。対象が異形とか奇妙であればあるほど、解析は
しんどく、しかし、それが出来た時の見返りは、しんどくあればあるほど
多いようだ。
#でも、本の代金がバカにならないな…


『具体的』=直観的=実質的

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時10分33秒

二つ前の田辺の引用での「具体的」の使い方をみると、それが直観的というか、
演繹を経ずに直接にわかるものと読める。

演繹は否定的媒介とはことなる。否定的媒介は、たとえば、失敗により、
ある肯定的事実が「腑に落ちる」こと。これが直観。ブラウワーの
直観ではない。これは実は形式であり演繹。西田の純粋経験などと
同じで、形式が支配する現代へのアンチテーゼであるが、体系性を
得るために、それ自体が形式となっている。うーんと、西田は
体系的でないかも。個人の資質ですね。田辺は過剰に体系的であって、
また、歴史に翻弄されたために(歴史に「否定」(的に媒介)されたということ)、
体系的でなくなって「しまって」いるところがある。
#ハイデガーとかドゥルーズなどは、それを断ち切りたくて、
#ああいう文体になるのかも?しかし、それも結局形式になる。
#形式に抱きついて、しっかり抱え込み、ロデオをするしか、
#形式を超える道はないはず。うん?これギデンズだな。 :-D


翻訳すると!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時59分26秒

p.82 基軸ヴェクトルは分極変位ヴェクトルと同列に置かれるべきものではない。前者は後者の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って前者の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

基軸ベクトルは、おそらく axial vector = pseudo vector = covariant vector。つまり、1−形式。
分極変位ベクトルが、おそらくpolar vector = vector = contravariant vector。つまり、ベクトルというか速度。

訳:1次の微分形式(1−形式)は共変ベクトルではあるが、それは真のベクトルとしての反変ベクトルと同列に置かれるべきものではない。
前者(微分形式)は、後者(速度としてのベクトル)の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って微分形式の理論の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

……

何か変…

これおかしい。どうしてだろう。??? :roll:


回転、スピノール、類(=超越性)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時53分57秒

2012.02.11に書いた、田辺の回転が A の意味大体わかる。やはり、量子論のスピン、スピノール。
このことから、Voigtの書き込みは、戦後でほぼまちがいなし。古典力学の弁証法(昭和24年)、
#夫人の死去の2年前。
pp.78-79: ディラックの理論というものは、歴史的に力学の発展の現在に於て達した頂点に相当するものであって、
もはや力の概念を超え、その具体的根底としての愛の極限にまで迫るものではないか。<中略>
又彼の力学の特色をなすスピン、スピノールとかいう概念は、愛に於ける反対方向の両旋回の統一を象徴するものと解して、
始めてその具体的意味が明らかになるのではあるまいか。スピノールが半ベクトルと規定せられて、それの二成分の合成がヴェクトルに相当すると解せられるのは、ヴィクトルが力学的存在の存在性を表す概念として、
存在の自然存在性を位置と速度とにより規定するであるのに対し、それが不確定性原理により崩壊せしめられることを通じて
絶対無に転換せられ、自己否定的愛の復活存在としてのみ媒介的に実存する、その交互的否定の両契機を意味するものと考へられる。
すなわちベクトルの平常的自然的存在を表号するに対し、スピノールはその否定即肯定なる分裂崩壊を通じて始めて達せられるる
宗教的実存の反対契機、
すなわちその自己否定的両面の転換を象徴すると解される。それはまさに愛の自覚すなわち無の自覚に相当するのである。
自己否定的旋回としてのスピンの在り方に対応すると考えられるのも、この理由によるであろう。

スピノール。知らなかったが、之面白い!バリ島のカップトリック!田辺に見せたらどんな顔をしただろうか。 :-D
Balinese cup trick / candle trick / spinor demonstration
Your palm is a spinor
Dirac belt trick
以上、つぎからのリンクhttp://en.wikipedia.org/wiki/Plate_trick :evil:

p.82 基軸ヴェクトルは分極変位ヴェクトルと同列に置かれるべきものではない。前者は後者の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って前者の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。
<続く>
この後、旋回してぐるりまわった連続がでてきて、それが切断となる!だから、切断は力学的で、解析が力学の
数学だった根拠をこれに求める!!!

この旋回が懺悔!

ウーム!なんという人だ…


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