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2012年3月29日(木曜日)

旋回

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時37分18秒

田口茂『「転換」の論理」p.159(岩波「思想」):「旋回」が、ヘーゲル弁証法の時代にすでにある。
全集3、p.199。この時点では、これが悪の自由に結び付けられている。ここで旋回があると、
Voigt への書き込みも、戦前でありえる?

「旋回」にもっと「元」はないのか?


2012年3月12日(月曜日)

物理 v.s. 数学、歴史 v.s. 哲学、実質 v.s. 形式

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時36分53秒

「日本哲学史研究」の論文執筆にために、さらにシンプレクティック幾何学、物理学などの勉強。
田辺をやったお陰で(せいで)、ハイデガーから、物理学、数学、はてはドゥルーズ・ガタリまで
読むハメになった。大変。 :-?

でも、そのお陰で以前から気になっていた物理学と数学のセンスの差など、
腑に落ちるレベルでわかるようなった。やはり、物理の人は、どれだけ
数学的装置を使っていても指向しているのは「物」。数学は形式が中心で、
それが「もの」になっている。これが擬ベクトル pseudo vector とか、
contravariant, covariant の議論にでている。これ全く、Stone dualityなどの
dualityと、同じ話。だからカテゴリ論で、同じものがでてくる。と、漸く納得!

で、僕はやはり物理の人たちに近い。人文学でいえば、もの(史料)がある
歴史と、そういうものがない哲学の違いにこれが対応している。僕が哲学には
どうしても違和感をぬぐえないが、史料がでてくるとウキウキというのと、
同じ。ITの世界だと、理論的計算機科学は、covariant、余接バンドルの世界。
ソフトウェアづくりは、接バンドルの世界だろう。

もっと端的にいえば、これは実質vs形式の話。
#4月からの講義につながった! :-)

最初、数学やらTCSをやっていたのに、ソフトウェア工学に移ったり、
さらには社会学的な考察に移るのは、こういう傾向があるからだろうな。
で、思想史の場合、やはり、思想よりは史の方に軸足があることになる。

色々と納得。

これも澤口・中沢の思想を解明する(それが種の論理理解としては駄目だ
ということを理論付けること)という、厄介で、アカデミックな常識からは、
損な役回りをやったお陰。対象が異形とか奇妙であればあるほど、解析は
しんどく、しかし、それが出来た時の見返りは、しんどくあればあるほど
多いようだ。
#でも、本の代金がバカにならないな…


『具体的』=直観的=実質的

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時10分33秒

二つ前の田辺の引用での「具体的」の使い方をみると、それが直観的というか、
演繹を経ずに直接にわかるものと読める。

演繹は否定的媒介とはことなる。否定的媒介は、たとえば、失敗により、
ある肯定的事実が「腑に落ちる」こと。これが直観。ブラウワーの
直観ではない。これは実は形式であり演繹。西田の純粋経験などと
同じで、形式が支配する現代へのアンチテーゼであるが、体系性を
得るために、それ自体が形式となっている。うーんと、西田は
体系的でないかも。個人の資質ですね。田辺は過剰に体系的であって、
また、歴史に翻弄されたために(歴史に「否定」(的に媒介)されたということ)、
体系的でなくなって「しまって」いるところがある。
#ハイデガーとかドゥルーズなどは、それを断ち切りたくて、
#ああいう文体になるのかも?しかし、それも結局形式になる。
#形式に抱きついて、しっかり抱え込み、ロデオをするしか、
#形式を超える道はないはず。うん?これギデンズだな。 :-D


翻訳すると!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時59分26秒

p.82 基軸ヴェクトルは分極変位ヴェクトルと同列に置かれるべきものではない。前者は後者の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って前者の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

基軸ベクトルは、おそらく axial vector = pseudo vector = covariant vector。つまり、1−形式。
分極変位ベクトルが、おそらくpolar vector = vector = contravariant vector。つまり、ベクトルというか速度。

訳:1次の微分形式(1−形式)は共変ベクトルではあるが、それは真のベクトルとしての反変ベクトルと同列に置かれるべきものではない。
前者(微分形式)は、後者(速度としてのベクトル)の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って微分形式の理論の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

……

何か変…

これおかしい。どうしてだろう。??? :roll:


回転、スピノール、類(=超越性)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時53分57秒

2012.02.11に書いた、田辺の回転が A の意味大体わかる。やはり、量子論のスピン、スピノール。
このことから、Voigtの書き込みは、戦後でほぼまちがいなし。古典力学の弁証法(昭和24年)、
#夫人の死去の2年前。
pp.78-79: ディラックの理論というものは、歴史的に力学の発展の現在に於て達した頂点に相当するものであって、
もはや力の概念を超え、その具体的根底としての愛の極限にまで迫るものではないか。<中略>
又彼の力学の特色をなすスピン、スピノールとかいう概念は、愛に於ける反対方向の両旋回の統一を象徴するものと解して、
始めてその具体的意味が明らかになるのではあるまいか。スピノールが半ベクトルと規定せられて、それの二成分の合成がヴェクトルに相当すると解せられるのは、ヴィクトルが力学的存在の存在性を表す概念として、
存在の自然存在性を位置と速度とにより規定するであるのに対し、それが不確定性原理により崩壊せしめられることを通じて
絶対無に転換せられ、自己否定的愛の復活存在としてのみ媒介的に実存する、その交互的否定の両契機を意味するものと考へられる。
すなわちベクトルの平常的自然的存在を表号するに対し、スピノールはその否定即肯定なる分裂崩壊を通じて始めて達せられるる
宗教的実存の反対契機、
すなわちその自己否定的両面の転換を象徴すると解される。それはまさに愛の自覚すなわち無の自覚に相当するのである。
自己否定的旋回としてのスピンの在り方に対応すると考えられるのも、この理由によるであろう。

スピノール。知らなかったが、之面白い!バリ島のカップトリック!田辺に見せたらどんな顔をしただろうか。 :-D
Balinese cup trick / candle trick / spinor demonstration
Your palm is a spinor
Dirac belt trick
以上、つぎからのリンクhttp://en.wikipedia.org/wiki/Plate_trick :evil:

p.82 基軸ヴェクトルは分極変位ヴェクトルと同列に置かれるべきものではない。前者は後者の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って前者の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。
<続く>
この後、旋回してぐるりまわった連続がでてきて、それが切断となる!だから、切断は力学的で、解析が力学の
数学だった根拠をこれに求める!!!

この旋回が懺悔!

ウーム!なんという人だ…


2012年3月3日(土曜日)

フラクタルでなく連続体

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時28分41秒

フィロソフィア・ヤポニカ p.112

「論理の社会存在論的構造」からの引用。この論文での、唯一のテンソルへの言及。ただし、回顧的・説明的
とでもいう言及:

<1行略>
その際特に重要なことは、質料が分裂性多様性というごとき抽象的規定を意味するのではなく、
その自己否定は種が種を否定することであり、しかもそれらの種が互いに対立する別個のもの
として単に並存するのではなくかえって相互に含み含まれ連続的に相違なるものの内部において
一部が他部を否定することを意味するにある。いかに分割するももはや分割するあたわざるい
わゆる不可分者(原子)に到達することなく、かかる単純要素を有するのでなくして、いかに
分割を進むるも分割しない前と相似の、反体力の張り合う構造を示すのが種の特色であって、
私がこれを前にテンソル力場に比したのもそのためであった。<以下略>(「論理の社会存在論的構造」)

<ここから中沢の文章>
「種」はどのように分割を進めていっても、分割しない前と相似の構造を示す、力学的な構造を
している、と田邊元は考える。彼の思考は、ここであきらかに今日「フラクタル」と呼ばれてい
る構造を、はつきりととらえている。
<中略>「種的基体」は反対力の張り合う力学的な多様体(シン
プレクティック多様体)として最初描き出されたが、ここまでくると、田邊元の直観のとらえて
いる空間は、今日私たちが手にしているような多様体論(その数学は基本的には微分可能な、
「滑らかな多様体」を扱っている)ではとても手におえない複雑さ、深遠さをおびてくるように
なるのだ。そして、それが自然のなかに存在している、もっとも具体的な空間の構造をしめして
いる。それは無限小の超薄領域に、非有(無)を折り畳みこんだ「バシュラール・パイ」のよう
な出来上がりをし、いたるところに対立する力の緊張が張り渡された空間なのである。田邊元の
思考は、じつにとてつもない構造を直観していたものである。

<ここから分析>

中沢がフラクタル的な自己相似集合の構造を読み取った「いかに
分割を進むるも分割しない前と相似の、反体力の張り合う構造を示すのが種の特色であって」は、
そういう無限に降下するフラクタルのツリー構造を言っているのではなくて、その後に
「私がこれを前にテンソル力場に比したのもそのためであった。」という文があるように、
これは応力テンソルのような剛体内部の力のようなイメージ。田邊が言いたいには、
部品のようなものから種が成り立っているのではなく、それが連続体であること。
連続体の局所的な切片は、幾ら分割しても、同じ相似な切片となる。
現代数学的に言えば稠密姓にあたる性質だが、これが一九世紀終わりに、
デーデキント、カントールなどにより、連続性が一種の完備性として
明瞭に定義される以前の連続性のイメージのかなりの部分をしめており、
たとえばパースなども、一次は稠密性が連続性を導くと考えていたらしい。
田邊の初期科学哲学の時代の1922年の「実在の無限連続性」では、
この稠密性の議論をもちいてデーデキント切断のカントール基本列に対する
哲学的優位性が主張されており、このころ、まだ、これが我が国においては、
消化されるべき問題であったことがわかる。1874年に連続性の最終的定義
が登場してから、48年後のことであり、現在で言えば2012−48=
1964年、つまり、東京オリンピックのころの数学的発見の哲学的意味について
議論している感じになる。代数幾何のSGAが、このころ。

とにかく、この場合のテンソルとは佐藤省三のケースと同じく、テンソル概念の
創始者Voigtから来ているので、応力テンソルをイメージしていると考えるのが、
妥当だろう。外から力がかかっている剛体中の一点にかかる力、たとえば、その剛体が
木の円柱で、その両端から大きなプレス機で力をかけたばあい、その円柱の中の
あらゆる点で、両側からの力がかかる。そのときある点pにかかる点を決定するには、
pを通るベクトルmを考えて、その方向の応力を考えればよさそうに思うのだが、
そうではなくて、pを通る面Sを考え、その面を通して働く応力のベクトルm方向成分
を考える必要がある。これが応力テンソルであり、n,m二つのベクトルにより、
決まる量であるために2階のテンソルとなる。(たとえば、山本義隆、中村孔一
「解析力学I」、例1.5.1.応力テンソル、pp.76-78のp.78の記述を参照。)
そのテンソルの計算では、面Sを有限の大きさにとり、その面を通しての応力を
計算し、その後にSを無限小にまで小さくして、点pにおける面Sを通しての応力を
考える。これを説明するのにVoigtは、pを含む小さい立方体を考えて、それの
三次元の三つの方向の面での応力を考え、これを Tensortripel (tensor triple)
と呼んだ。立体は小さくしても、より点pに近づくものの、また、同じ情況(相似)
の応力を考えることができて、応力という力のTensortripelが円柱という「種」
のなかに張り巡らされていることになる。そこには原子のようなものはなく、例え
点という極微の極限があっても、それは佐藤がいうように局所近接作用の場、
つまり、「環境」の中で考えるしかないものである。

中沢が、ここでフラクタルを持ち出していることから、中沢が、イメージテいるものが、
ドゥルーズ、ガタリの「千のプラトー」などに現れた思想であることがわかる。
「千のプラトー」ではマンデルブローが引用されフラクタルの図も掲載されている。

中沢がいうように田辺の種のイメージ、より精確には、絶対弁証法のイメージは、
多様体のようにノッペリしたもので理解することはできない。それはどのような一点も、
世界の全体を反映するようなホリーズムを前提にしており、それがたとえば晩年の
絶対還相の議論、絶対無が、この世に顕現できるは、各個の行為を通してのみ
だという議論につながっており、実は、この思想は彼の戦前の切断論にすでに現れている。
WHHERE?どこだった?「論理構造」か?


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