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2012年2月28日(火曜日)

佐藤のテンソルの論理と田辺の種の論理

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時19分58秒

風邪で潰れて1日休んだら久しぶりの休養になり、資料が届いたこともあり、
絶好調となり田辺の力学関係の思考法がかなり解明できた。で、がんばり
すぎてダウン。今度は1週間近く寝込むハメに。漸く今日から何とか再開。
明日は会議…

種の論理の成立、発展における「力学」の役割りの理解のために佐藤省三
の「テンソルの論理」論が鍵。

佐藤は種の論理の前駆をなす「図式時間から図式世界へ」を意識しつつ、
種の論理より10ヶ月ほど先行しながら、新自然学である量子力学、一般
相対性理論の論理をもとめて、テンソルの論理の必要性を提唱する。
それは集合論に比すべき、孤立した質点のあつまりと「無媒介的に直達する
所謂遠隔作用」(p.28)に基づくニュートン的古典物理学から、「空間をば
連続的に充たせる力の場が作用伝播の媒介となる(p.28)」電磁論(電磁気学)
への物理学のシフトを意識したものである。そして、ニュートン的力学は、
幾何学的な運動学 Kinematik から、ガリレオにより『「幾何学的なるもの」
に還元することができない物体の質量とか、非外延的な「力」の概念』(pp.5-6)
が導入され、それにより Dynamik が誕生したのであるが(pp.5-6)、それに
対応する論理は一次の方向量の論理、つまり、ヴェクトルの論理である、
コーエンの論理学であった。(この幾何的運動学のレベルが0次の方向量の
であるスカラーの論理。)しかし、新物理学は、場の上の近接作用の学であり、
それをコーエンの微分の論理学で理解することはできず、その故に、近接作用
(古典物理学の範囲では、典型は剛体内の応力) を表す2次の方向量を
表すテンソルの論理が、これらの新自然学の論理となる。これが佐藤の論文
の主旨。その哲学的内容は、ほとんど最初の昭和9年1月の「近代に於ける
自然の論理」に現れており、その10ヶ月後の11月号の「哲学研究」に、
「社会存在の論理」の最初の部分が、12月の号に2番目の部分が発表される。
そして、翌昭和10年の1月号では「社会存在の論理」の最後の部分が
発表され、同じ10年の9月号と12月号に佐藤の論文の続編というべき
「高次の方向量の論理」が現れ、10、11、12月号に田辺の
「種の論理と世界図式」が現れる。そして、昭和11年の「論理の社会存在
論的構造」では「高次の方向量の論理」が引用される:「其限りコーヘンの連続
の論理は微分に止まるべきでなくテンソルにまで発展すべきものであったということも
出来る(佐藤省三氏『高次の方向量の論理』の着眼は此点から推奨に値する。)
併しそれが為には、コーヘンの如くカントの分析論に留まるのでなく彼の弁証論の
立場に進み、一度思惟を自己否定せしめなければならぬ。斯して連続の根源は、単に微分の如く
欠如の極限を課題の存在に繋ぐ肯定的原理にあるのではなくして、自己否定の極、
無からの行為に於て絶対否定の肯定に転換せしめられる否定即肯定の弁証法的原理となる。

以下、重要部分:

p.28:今や相互作用は空虚な空間を距て(へだて)て互いに独立的に存在する
質点の間にではなく、場によつて互いに近接し一体を成す力心(りきしん?)の間
に成立することとなる。

p.30:かくて近接作用の物理学を俟って(まって)初めて孤立され固定せしめられた
関係点 Relata に重きを置くのではなくして、これらの個物並びにその個々の作用
を寧ろ自己の抽象体とする、相互作用の共通の地盤、媒質たる全体者、普遍者が
顕揚され合理化され得るに到ったのである。
 上来の所論によって近接作用の物理学に於ける場の概念の意味は最早(もはや)
機械観からは理解し得られないことが明らかになったであろう。< 以下略>

p.33:古典的物理学に於ける因果律の範疇の位置に代る可き(べき)新しい範疇は、
機械観的物理学よりしては独立した新しい学的方法としての意義が承認されなかった
所の「相互作用の範疇」である。然し相互作用という語が関係点に優先が置かれる
遠隔作用の物理学に於いて生じたものなることを表示し、相互作用の地盤たる全体者、
普遍者を顕現していぬ点で不適当であるならば、新しい全体的な範疇の有する論理的
構造を先述のテンソル概念を用いて特色づけることが出来るであろう。

pp.33-34: 然らば「テンソル」とは如何なるものかと言うに、一方「ヴェクトル」が「スカラー」
の方向を有しない量であるのと異なり方向量として区別せられ而も一方向きの方向を有するに
止まるに反して、ヴェクトルよりも更に高次な、正反対の方向が互いに等しい資格を持った
方向量の謂である。故にヴェクトルは通常一本の矢←を以って表されるに反し、テンソルは
←→或いは→←の如き記号によって表される。

pp.34: テンソルの語は元来W.Voigtによって初めて名付けられしものである。然し彼の
考えたのは六つの。。。

pp.38-39:テンソル←→に於いて→と←とは常に相伴い一の存する所必ず他が存し、一が
増大すれば他も増大し、一が減少すれば他も減少し一が消失すれば他も消失し、全体は
それに従って増大し、減少し或いは消失するのを意味し... 浸透し、張り合ひ、緊張しつつ
一つの内面的統一、平衡的全体を形作る点に於いてテンソルの含む二動向は寧ろ一つの
全体者が二つの反対の方向に分化したものと考えられる可きである。

pp.76-77:相対性原理に於ける非ユークリッド的、双曲線的空間に属する時空の四次元融合体
としての世界テンソルを、ユークリッド空間に於けるフォァグトの所謂Tensortripelとしての
Ellisoidと同一視する事は勿論許されないにしても、今簡単の為にその相違を無視して時空融合
体をかかる Tensorellopsoidと考うるならば、時間軸そのものが一つのテンソルとして考えられない
であろうか。
#ここの種の論理における「切断」の芽がある。
#S9年の講義録 S09_004.jpg 右ページ最後から、左ページトップにかけてのテンソル的な図
#との関係!

右最下部

左最上部

丸で囲むのは、そこで絶対弁証法の渦流が起きているということと理解できる。「哲学通論」の絶対弁証法の
図を参照。


2012年2月21日(火曜日)

二つの多様体論の意義

カテゴリー: - susumuhayashi @ 09時51分17秒

二つの多様体論は、田辺哲学の「核心の理解」には貢献しない。

一方で、思想論文で指摘したような、田辺哲学を世界思想史の文脈におくという点では、
英米分析哲学(澤口)、フランス現代思想(中沢)の出発点としての意味を持つ。
特に後者は、フランス現代思想における擬似数学の利用という田辺哲学にも見られる
方法での両者の比較という大きなテーマにつながる。しかし、中沢は、これを田辺理解
としてしまった。そこに批判が起きる(田中裕や京大宗教学専修雑誌の論文)原因がある。
しかし、これを単にマスコミ学者の論とするのは間違い。
#ただし書きとして、中沢のアプローチ、特に調査、議論の問題点
#の批判。澤口論文の引用、アブラハム、野上、シンプレクティク幾何学、微分形式などもろもろ。

Plotnisky論文使う。quasi-math. という概念。

また、これを通して、math の概念の使い方の違いから、
逆に思想の違いを見る。たとえば、ドルーズ・ガタリの
リーマン多様体はどのような意味でもhomogeneousではない、
という文。田辺ならばハイデガー哲学など Hier-Jetzt の
思想から、これを批判するだろう。

非モダンという中沢の用語をモダンでない
もの一般に意味を変えて使う。たとえば、前モダン、
反モダン、脱モダン、超モダン、超(克)モダン。

田辺、京都学派は最後のもの。新カント派もそうだろう。
モダンは一応承認している。

これをギデンズなどのXXモダンと比較。


Voigtでなく佐藤?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時03分50秒

Voigtの教科書の田辺の書き込みには「テンソルは2次元」と読めるようなものは見つからず。
しかし、佐藤に次のような部分がある。おそらくこれか?

佐藤省三「高次の方向量の論理」、哲学研究、第234号、1022ff.

元来方向の一面性を持って特徴付けられるヴェクトルにあっては、
それが方向の規定を自分の外に有し、方向との間に偶然的、
外面的な関係を残す所の量と考えられるが故に、
その根底には上述のテンソルの如き方向の規定を自分の中に
含み之を必然化する所の一つの閉じられたる自己完結的なるものが
存しなくてはならぬ。方向の必然化とは勿論之を不動の一方向にのみ
固定化することではなくして、方向並びに大きさの可変性を容れ之を
自分の中に成立せしめることに他ならない。
<この後に、テンソルがベクトルの Operator であるという議論など
が続く>

かかるヴックトルとテンソルの関係が又成文の上から前者に対応せしめ
らるる系列と後者に帰せしめられる「系列の系列」としてのマトリックス
との関係を示唆し、ここに「テンソルの論理」と「マトリックスの論理」
とが必然的に連関し相通ずる所がある。我々が高次の方向量の論理
として特色付けた近代の自然の論理は又他方に於いて一次元的な
「系列の論理」ではなくして二次元的な、かかる系列としての
「マトリックスの論理」であるとも言うことが出来るであろう。
然しマトリックスの論理的意義については後章に於いて論ぜんとする。

<以上>

ここでは佐藤も「次」でなく「次元」としている。


微分->極微

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時17分20秒

初期科学哲学の時代には、一貫して微分と言っているようにみえる。極微はまだ、
見つけていない。極微の最初のものは、細谷が指摘した「カントの目的論」の
ものが最初か?

私は一般に当為というもおはかならず極微 infinitesimal を現実を含まずしては成立しないものであると思う。


2012年2月20日(月曜日)

田辺の「局所的科学」、ドルーズ・ガタリ、多様体の論理

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時31分34秒

多様体は局所的にはニュートン的な絶対空間と同形。ドルーズたちが言うように、
それのバッチワーク。ドルーズたちは、それを The Mathematical Model として使った。
田村が葉層構造について説明したことを強調してアナロジカルにいえば、多様体的な社会(種)
は、互いに同形の小さなコミュニティーのパッチワークとなる。

この社会の多様性や、ツリー構造の不在ということがドルーズたちの
論点だったのだろう。それに対するものとしてマルクス主義唯物弁証法が
あげられている。(TODO: ここ正しいか?杉村さんに教えてもらう!!)
たとえば、The Mathematical Model の冒頭に(英訳、p.482)、次のような
フレーズがある:
It was a decisive event when the mathematician Riemann uprooted
the manifold from its predicate and made it a noun, “manifold”.
It marked the end of dialectics and the beginning of typology
and topology of multiplicities.
#脚注で、RiemannのMannigfaltigkeitがHerbartの教育心理哲学から来ていることを
#注意。これがわかったのが、Scholzの1980年代最初の研究だから、ドルーズ・ガタリの本(1980)が出版された頃に
#研究されていることになる。ちなみに、ドルーズ・ガタリの索引で、Riemann が Georg Reimann になっているの
#愛嬌。(^^;)確かに、Georg Friedrich Bernhard なのだが、普通 Bernhard という。

田辺の用語でいえば、多様体の哲学は一般相対性理論と同じレベルになるので、局所性の哲学ということになるだろう。
これは、その基礎が局所的なものからできているという意味。その局所的なものの多様性に眼を向けて、それを研究すれば
多様体のローカルな研究となるが、葉層構造は田村が書いたように、特にその大域的な性格に注目する理論。
中沢が葉層を持ち出したのは、単に模様を入れたい、田村の2つの図を使い、それを田辺の文章に重ねたかった
だけなのだろう。また、フラクタルもイメージしたのかもしれない。
中沢の多様体の哲学は、それを意図的に同一論理化した澤口の…

ToEdit

決定性のフラクタル コーエン・ナトルプの微分>非決定性のフラクタル〔海岸線など) ブラウワーの自由選出列>田辺の切断

フラクタルは、そのものが複雑だから面白いのではなく、単純な決定形のはずなのに、
繰り返しや再帰を入れると複雑だったり、非決定的システムのように振舞うというのがポイント。
しかし、それには随分ルールが入っている。たとえば、ハウスドルフ次元。これはせいぜい、
量子力学の確率的予測のレベル。あるいは、どんどんせばまるブラウワーの自由選出列。
田辺の切断には、そういう制約がまったくなく、自分の環境さえ変える。

だから、フランス現代思想だと、全然、田辺の絶対弁証法に到達できない。

近傍はコミュニティのアナロジになる。バザー vs カセドラル。
しかし、田辺はコミュニティなどどうでもよい。彼にとっての問題は国家・社会と個の対峙の問題。
種の論理とは、実は、「種に対峙する個」のための論理。
田辺は自立した個として国家を愛する明治人であった。

しかし、そこに猛烈な複雑性の絶対弁証法が極微のレベルで入っている。

中沢の多様体哲学は、確信犯澤口が、田辺哲学の心臓を切り落としてくれていた
ために、フランス現代思想的な枠に埋め込むことに成功したもの。しかし、それは
田辺哲学の死骸のようなもの。

田辺哲学の哲学の理解を助けるために、丁度、田辺がテンソルを持ち出しかけたように、
そういうものを考えることができるかもしれない。しかし、其の場合、多様体では足りない。
せめて、ブラウワー的な層モデルくらいを持ち出す必要がある。しかし、それは無限に
精度を高めることができるだろうが、それは決して田辺哲学ではない。


ToEdit:数学的にテンソルが行列式の発展(3)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時09分53秒

佐藤省三には「2次」(スカラー量のindexが二つ必要という意味)はあるが、
「2次元」を連想させるものはないし、行列式云々も該当しそうなものはない。
Voigtは、田辺が書き込みをしているあたりにはない。

佐藤、Voigtともに3個の異なるベクトル対で直行したもの Tensortripel (Voigt)
で、その点における全ての方向の応力(など?)を表すという方法。

これでは、(1),(2)のような説明での「2次元」にならない。これで2次元といっている
のではなさそう。佐藤に該当するものが見つからず、どういう意味で言ったのか不明。
佐藤の論文は「高次の方向量の論理」。田辺もおなじく「高次の方向量」と書いている。
これはこのころの一般的書き方か?Voigtにないか?

しかし、このテンソルの「2次元的」とういう言い方は、中沢が引用した部分くらいに
しかでない。まず、テンソルが盛んに議論されるのは、論理の社会存在的構造のみで、
ここでは20以上の出現がある。しかし、それ以後の論文では、ほぼなくなり、
「種の論理の意味を明らかにす」全集6巻,p.499、では、おそらく1つ。しかも、
次のように「社会存在的構造」でなぜテンソルを議論したかを説明しているだけ。
これが、前に私が連続を、統一と封立との封立として力の張合に比し、テンソルに依ってその構造を考へようとした理由である。

種の論理と世界図式では、p.237(全集6)にあるが、これは相対性理論のテンソル。

6巻のほかの論文にはテンソルがないらしい。また、戦後も議論はない。関係ないと見たほうがよい。

また、田辺のテンソルが応力テンソルをイメージしていることは、上の「明らかにす」の記述や、
次の記述からわかる:

論理の社会存在的構造
全集6、p.316
実に力の場は錯動原因の互に活動し抑圧し合ふ場所なのである。物理学者
が数学的にテンソル量として力の場を’相反封し合ふ量の交互性の統一として考へようとしたのもこれが為めであらう。


極微=コーエンの無限小の証拠

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時09分31秒

種の論理に対する批評に答う
全集6.p.408
併しそれだからといって’逆に微分法が弁証法の代用となるものでな
いこと’後者の本質の否定媒介にあることを理解するものにとって’明白でなければならぬ。弁証法の質的否定たる
無を無限判断の述語たる非有で置換へ’之を欠如として極微有と解したコーへンの微分論理は、たしかに私の探く尊
敬する偉業である.併しそれはその標榜にも拘らずプラトンの論理を徹底するものでなく、却てそれが不当に貶斥す
るアリストテレス論理への接近に外ならないのである.

追加21日:
これより
http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/modules/wordpress/index.php?p=199
の例の方が良い。そちらを使う。


2012年2月19日(日曜日)

来年度の追加アイテム(2)

存在とは「もの」とは?

「ものづくり歴史観」「ものづくり論」の観念性・狭小性。

形而上学的なものが存在かどうか。
ゲームを行う時、このアバターは実はCGが生成した
画素のパターンで…と考えるかどうか。それでゲームが
できるかどうか。DeNAのモバゲーのCMを見せる。
http://www.youtube.com/watch?v=rf5MpFxZyKY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=yVHd0LT5zjU
http://www.youtube.com/watch?v=I6UXRZPBl8o&feature=related

ゲームができないならば、Wordはできるか?アイコンの認識は?
ものとは?世界観とは?

アイコンと数や円、点、を比べてみよ。


局所性、微視性、極微性

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時38分41秒

田辺の微分、西谷:積分 vs 微分、細谷:局所的微視的

局所的=一般相対性理論=葉層構造的見方 これは多様体でもよい。絶対空間の拒否。ノッペリした、どこまで均質で見渡せるものへの否定。
微視的=量子力学。これに対応する哲学的観点はないか?

全集12, 「局所的微視的」p.47:
新物理学の局所的微視的自覚内容は、古典物理学の普遍的巨視的概括に於ける二律背反的矛盾の
分裂危機を救活し(cf.古典力学の弁証法)或はそれから脱出するために、革命的に物理学の理論に
導入せられたものである。

全集12, 「局所的微視的」p.39:
ハイデッガーの実存主義が、私のいわゆる即今 Hier-Jetztの自覚の立場に立つことは、
彼の『形而上学とは何か』の劈頭に明示する所であって、彼はそこで形而上学的の問が、常に
全体の立場から発せられるものとして、必然に形而上学そのものを同時に問題とするものであると共に、
また問者自身のここに今現存する境位から問を発するという、即今の自覚に立脚しなければならぬことを
宣べて居る(のべている)。これは全く私のいわゆる局所的微視的自覚の立場を表明したものであって、
まさに、この特徴を有する現代的思惟が、その性格上実存主義的という傾向を有することを疑念の余地
なきまでに明示するといってよい。

全集12, 「局所的微視的」p.55:
哲学は宗教と科学との行為的媒介であるという一般的関係を、即今の立場に於いては、実存主義と
マルクシズムとの歴史的対立の尖端に於て具体的に媒介するのが、今日の弁証法的哲学の課題で
あると考えられるゆえんである。

西谷、細谷による、積分が西田哲学(西谷の別の言い方「上からの哲学」。「西田哲学」p.285)
微分が田辺哲学という観点とこれの関係:
微視的=微分=極微ではない
「局所的微視的」での議論では常に大きさを意識している。特にイントロで、局所的微視的に
local, microscopicと原語をつけている。


田辺の否定原理 by 西谷

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時58分07秒

西谷「西田幾多郎」p.218.:内容としては、その前のページまで。
高坂正顕「西田哲学と田辺哲学」
西谷:「西田哲学をめぐる論点」これは同書のp.246以後。


ToEdit:田村の説明:葉層構造=大域構造

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時41分21秒

田村一郎「葉層のトポロジー」岩波文庫数学選書、序:
トーラス上の特異点のないベクトル場において、軌道はトーラスにストライプ模様を与え、
トーラスを軌道(複数)の和に分解する(図1.10)。葉層構造(Foliation)
とはこのように多様体を葉とよばれる弧状連結な部分集合の和に分解することに
よって得られる’模様’で、葉(複数)が局所的にはEuclid空間を幾重にも層を
なして積み重ねた形になっているものである(図4.2,図4.4)。上述のトーラスの
例では一つの軌道が一つの葉である。葉はそれ自身多様体であって、もとの
多様体の次元と葉の次元との差をその葉層構造の余次元という。

一つの多様体の(与えられた余次元の)葉層構造はしたがって局所的にはすべて
同じ構造
であるが、大域的にはその’模様’はさまざまに変化している。’コンパクトな
葉が存在するか’、’稠密な葉が存在するか’或いはまた’すべての葉が同相であるか’
といった葉層構造の大域的な性質を位相的視点から論ずるのが’葉層のトポロジー
(Topology of Foliation)’である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
この序に引かれている図4.2,図4.4が「フィロソフィア・ヤポニカ」pp.104-5で
多様体のイメージを示すために使われた図。中沢は、p.103で、田辺全集6,pp.

To edit!

http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/modules/wordpress/index.php?p=185


田辺とBeck: 西谷,Habermas

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時45分25秒

両者の思想の類似性を西谷、Habermasによる説明からし示す:
西谷:「西田幾多郎」p.222の三の直前:先に言ったような、相対有としての自己の実践において絶対無が
絶対否定として現成するという思想を突き詰めてゆけば、そのような絶対媒介の立場に当然帰着するのである」
として refer されている話全体。
Habermas:ベック「<私>だけの神」,pp.100-101の引用。元は政治エッセイ集,
pp.229-230


来年度の追加アイテム(1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時48分29秒

Surveillance

http://en.wikipedia.org/wiki/Mass_surveillance
日本語項目無し

drones:
NYTimes
http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/subjects/u/unmanned_aerial_vehicles/index.html
とくに drones による surveillance
SFなどの映画のシーンに結びつける。部屋の中を飛び回るスパイ昆虫。シンドバッドの映画?たしか、他にもあった。
Wikiのhttp://en.wikipedia.org/wiki/Unmanned_aerial_vehicle
引用100超える。日本語は10にも満たない(殆どがリンク切れ)。

オウム平田信(まこと)容疑者の写真
http://aoiumihakodate.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e9f0.html

http://cacm.acm.org/blogs/blog-cacm/146122-most-smartphone-apps-are-spyware/fulltext

http://cacm.acm.org/magazines/2011/12/142547-visual-crowd-surveillance-through-a-hydrodynamics-lens/fulltext


数学的にテンソルが行列式の発展(2)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時26分51秒

「ここが佐藤の論文,Voigtの本ではどう説明されているかチェック。
行列式のシグマ使い方から、テンソルのそれができたのか?
形式的には確かに行列式は、特殊例(0,N)−型テンソルでそれでよい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tensor
しかし、発展といっているので、これは田辺の数学史の認識の問題になる。調べる!」
という点について。

どうも行列式の研究からテンソル計算が生まれたということはなさそう。
ルーツの一つは不変式論とか代数形式(ヒルベルト!)らしい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tensor#History
Die Entwicklung des Tensorkalküls, Karin Reich:
http://books.google.co.jp/books?id=O6lixBzbc0gC&redir_esc=y
大学にない!
しかし、Google Books!!
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=&id=O6lixBzbc0gC&oi=fnd&pg=PA11&dq=Die+Entstehung+des+Tensorkalk%C3%BCls&ots=z4o8wcWlw9&sig=J57YrpH6tJwbgSfJ3Ga4V1uqO2o#v=onepage&q=Die%20Entstehung%20des%20Tensorkalk%C3%BCls&f=false

数学史的には関係ないらしい。しかし、佐藤、田辺がどうおもっていたかは別。

しかし、おそらくは、「発展」は「拡張」の意味。


数学的にテンソルが行列式の発展(1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時44分46秒

全集6のp.321。「数学的にテンソルが行列式の発展としてかんがえられる意味をもつのも
この構造に由ってその根拠をある程度まで理解し得られはしないか。
「ある程度まで」に注意!テンソルになると外延。
「とにかくテンソルの2次元的伸展凝収の力的緊張は、変化運動の一次元的ヴェクトル構造に対し
明瞭に区別せられなければならぬ。是に由りそれが運動の無限なる重畳を却って静止の緊張に
湛え(たたえ)、極微的に運動の沸き立ち張り合う根源たるのである」という文章がくる。

ここが佐藤の論文,Voigtの本ではどう説明されているかチェック。
行列式のシグマ使い方から、テンソルのそれができたのか?
形式的には確かに行列式は、特殊例(0,N)−型テンソルでそれでよい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tensor
しかし、発展といっているので、これは田辺の数学史の認識の問題になる。調べる!!

これ以外の部分の意味:「それが運動の無限なる重畳を却って静止の緊張に
湛え(たたえ)」というところから応力テンソルをイメージしていることがわかる。
物理学の本来(古い)意味のテンソルは、外から力がかかっている
剛体の内部の微細な平面を通る任意のベクトルmに沿う伸展あるいは凝収の力(テンション)がテンソル。
この平面をその法線 n で表すので、それを記述するときに二つのベルトルn,mが必要となる。
C.f. 山本、中村、解析力学I、pp.76-78。二つのvectorに対して力が決まるので、
応力テンソルは(0,2)-tensor、2階共変テンソル。
要するに2つの covariant vectors のテンソル積。それでくテンソルの2次元的伸展凝収の力的緊張
と書いたのだろう。
C.f. 山本、中村、解析力学I、pp.70-71および
http://en.wikipedia.org/wiki/Stress_(mechanics)#Equilibrium_equations_and_symmetry_of_the_stress_tensor

nの方向のテンソルの力が対立の大きさを表すから、それが横の「次元」、そして、
mが対立が起きる場所(面)を表すから、これが縦の「次元」。そういう (横、縦)-型
テンソル場を考えるということ。テンソル・バンドル?
http://en.wikipedia.org/wiki/Tensor_bundle


2012年2月17日(金曜日)

内部対立では種としては不十分

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時27分56秒

全集6、論理の社会存在論的構造、p.320: ところで種が自己否定を本質とし、
無限なる反対とその抑圧との二重の否定的対立性の重積であるとしたならば、
一見種の内部に於いて相異なる種と種とが否定し合う如く見えるでもあろう。
併し仔場合に重要なのは、若し互に否定し合うものが相異なる種であってそれが一の
種の内部に対立的に並存するならば、両種を其内部に含む一の種は類的性格を現し、
恰も赤と青とに対する色とふ如きものとなり、同一の種が自己否定をなすとは
いい難いことである。赤と青との何れとも限定されずして而も何れでもあり得る如き
種的類としての色は、例えば音の如き異なる種的類に対して相異の関係を有するものとして
種の性格をもつとしても、自己の内部に赤と青との異種を共存せしめる限り類的であって、
種が種として自己否定をなすということにはならぬ。寧ろ赤自身が自己の両立
し難き青を自己の内部から発展せしめ、又青が自己の否定者としての赤を自己の
内部から産出するという如き事態にして、始めて自己否定的とふことが出来るであろう。
併し其様に一を否定する他が一の内部から発生してそれが一に更わるならば、
其事態は変化であって、一の種が他の種に代わるに止まり、種がテンソル的構造を有する
といふことにはならぬ。それは単にヴェクトル的運動的というに止まる。
———————————-
種がテンソル的力学的構造を有する為には、その自己否定をなす媒介となるものが、
飽くまで依然当該種そのものとしてそれの外に離れ出でることなく
それと統一せられるのでなければならぬ。即ち否定的なるものも其自身として
それの対立が種の統一に禁圧せらるという二重の対立性に於いて有るので
なければならない。従って種の統一は種の自己否定に由り自己の内部に無限の
層をなして自己とその否定者との交互的緊張を引渡し、
横に自己とその否定との対立する均衡を、縦に自己自身の内部に無限の層を
成して重ね合はせる如きの構造をもつと云ってよい。
数学的にテンソルが行列式からの発展として考えられる意味をもつのも此構造に
由って苑根拠を或程度まで理解し得られはしないか。
とにかくテンソルの二次元的伸展凝収の力的緊張は、変化運動の一次元的ヴェクトル的構造に
対し明瞭に区別せられなければならぬ。
是れに由りそれが運動の無限なる重畳を却って静止の緊張に堪え、プラトンのティマイオス篇の
質料を狂乱怒涛の大海に比した其比喩
の正確なる意味は、此の如きものでなければならぬ。
———————————-
斯かる種の激動的自己否定態に於いても、勿論分析的外延的に考えれば一の種を否定するものはその種に
対する他でなければならぬ。自己否定に於ける否定者といえども、単なる否定者という一般的概念ではなくして
特定の積極的内容をもつ種そのものでなければならぬ。ただ、その他たる種がその否定すべき一の種の外に
外延的に並存するのでなくして一の種の内部から内包的に湧出し、而も(しかも)それの否定的対立性が依然として
一の種の統一に圧えられ(おさえられ)、それの内部に保たれるのに由って、他の種が他にしても而も一に
帰し一の種と内面的に繋がるのである。相違する二つの種が連続する場合に、一つの種の外に
他の種が並存するのでなく一の種が他の種に入込み他の種が一の種から滲出すること、ベルグソンの純粋持続
の構造に比すべきものがあるとすれば、その所謂相互貫入の統一は即ち種の自己否定の構造に他ならぬ。


2012年2月16日(木曜日)

切断は本来力学的

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時05分29秒

全集12、古典力学の弁証法、pp.82-83:旋回回転についての議論で:
回転運動は並進運動と独立なる第二種の運動として、第ー種の運動たる後者と相俟ち、主体基体相即の力学世界を構成するのである。
之を集合論的に観れば、テンソルが伸長を意味する空間―時間の総合として、その伸長の方向が一点から無限に多くの方向(それの濃度c)
に向うと考えられた極限の場合に於いて、その濃度cなる無限多の縦線ヴェクトルの
総体が、すなわちその超越的自覚として旋回に相当するものと認められる。集合論上濃度cなる連続は、可算的有理系列の絶対的否定的
根源として思惟さられ、その要素としての無理数或は切断は、系列の否定即肯定なる転換の象徴として無を原理とするものであり、超過即不足
なる反対統一を表号するものとして、それ自身旋回回転の運動を行なう主体に相当するものと解せられるならば、無理数或は切断はもはや単に
数論的乃至幾何学的概念と規定さられるべきではなく、むしろ本来は力学的ともいうべきものであろう。解析が力学の数学として発達した歴史的
理由はここにあると解釈せられる。


2012年2月14日(火曜日)

勤務時間

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時50分22秒

総務掛長のWさんに教えてもらったこと。忘れるから、ここに書いておこう。ブログは本来、こうつかうべきものだな。 :-D

僕らの勤務時間は昔は8時間だったが、今は7時間45分になっている!
非常勤の研究員の人たちの勤務時間は、それ以内で計画しないと
いけない。そのため普通は7時間でやることが多い。(ここを間違えていた!!!)
7時間45分を越えると、0.25のオマケ(?)がつく。

給料計算しなおし!


理系が多い…

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時51分53秒

全学共通科目「ゲーデルと数学の近代」の採点完了。登録者の半分くらい、出席者の2/3位しかレポート無し。
まあ、これは京大では当たり前でむしろ多いほうだが、ということは出席者のかなりの数が抽選に外れたのに出ていて
くれたということか… 可愛そうなことをした。100名といわず、200名くらいにしておいてもよかったかな…
でも、そうすると多分毎回部屋が2/3以上埋まってしまい、あまり環境としてはよくない。大きな部屋だったし…

と考えてみたら、米国の全学共通レベルの講義とか、京大でも法、経の講義などを、外からチラと除くと、
数百人規模の大教室にギッチリというのが多い。神戸大でオートマトンと形式言語など教えていた時は、
それに近かかったな… もう7年目になり、文学部のスタンダードに染まったのかも。しかし、あまり
多いのは関心しない。あのくらいだから、講義の後に熱心な学生と議論しても、せいぜい(?)、
15−20分程度しか、後の演習に遅れなかったが、もっと増えたら、もっと大変で僕の研究室の学生は
困ったろう。

最近、マスコミで見かける京大で一番人気の特任教員Tさんの講義と同じ時間だったらしく、
もっと少ないかと思ったのだが、理学部の諸君はあまり起業とか興味がないのかも…

と思うほどに理学部の1回生のレポートが圧倒的に多く、しかも、良い点を奮発したくなるレポートがかなり
あった。1回生で大したものだ。

で、ハタと考えた。今は、文系向けとして書いている岩波新書だが、これはもしかして理系向けに書くべき
なのか?講義にでてくれた諸君は、半分以上はお世辞の学生さんもあるだろうが、かなりの数は、
本当に面白がっていた。つまり理系ながら、自分がやっていることの文系的文脈にも興味がある、あるいは、
僕の講義で、その部分が刺激されたということらしい。これは物凄くうれしい。

NISTEPを辞めた理由に、政府の政策で、さらには経団連のような民間の努力で、
日本のIT業界を良くしようとおもっても駄目で、日本の理工系の人の意識、さらには、日本社会
全体の意識を変えないと駄目だ、幾ら遠回りで、百年河清を待つ行為だ、
と言われても、その努力を続けるしか解決策はない、と現場の
取材を通して考えるようになったことがある。
#それが可能だ、だから協力すべきだと本気で思っていた。
#それを「アホ」といわれれば、そのまま受ける。しかし、最初から、
#斜に構える奴等を僕は全く評価しない!!!

政府や大学の努力で、優秀な人材は間違いなく作れる。実は優秀な若者を育てることは、
それほど難しくない。気が付いていない人が多いようだが、
それだけの若い人材が、この国にはいるということだろう。

しかし、彼ら彼女等を社会に送り出すと、変化していない既得権を維持したい老人たちの社会が、
#僕ももちろん老人です。
その若者達を、まるで琉球列島に群がる米国艦隊の対空砲火が特攻機を打ち落とすように、
「打ち落として」下さる。(^^;)

この特攻隊の光景、米軍の対空砲火に、それほどの戦果もなく虚しく海上に落ちる、
其の座席には若者が一人か二人のっている….
繰り返しTVや映画で見せられたその光景、が、国内で最も成功しているIT教育と僕が評価した、
はこだて未来大の演習の担当者(発案者)を取材していたとき、「では、親御さんは、
そういう風に教育した学生さんをどう思っていますか?」と質問したきに、なんとも悲しそうな
表情で、その担当者が話してくれた実例を聞いた時に、僕の心のなかかに浮かんだ映像。

悲惨な太平洋戦争から半世紀以上がたちながら、同じことを我々はしている。そう思ったときの
絶望感….

「これは僕の今のやり方では駄目だ….」と、とてつもない
絶望感に襲われた。まあ、それまでNISTEPで威勢の良いことを言っていた手前(^^;)、
これは黙っておくことにして(恥です。認めます!!!まあ、雰囲気としては、言っても、
1,2名の人が黙ってうなずくだけで、反発だけで終るだろうと
思ったことの方が大きいかも。あまりはっきり書くと大臣官房を通らないだろうとも言われたし)、
本心は隠したまま、レポートをまとめて暫くしてからNISTEPに行くのは止めた….

脱線したが、兎に角、その時に感じた絶望感からしたら、今回の学生諸君の反応は実にうれしい
ものだったといえる。たとえ百年かかっても河の護岸工事を進め、浚渫を進め、河を清くせねば
ならない。そうやって生きることは、百年ただ川岸に座っているのとはまったく違う生き方だ。
僕はあと数十年も生きられないだろうが、僕の後に、きっと誰かがおなじことをやるはずだ。
だからその人にバトンを渡すために、自分の前にも、そういうことを不完全ながらもやっていた
バカがいたという共感・安心感を、未来の仲間にもってもらうためだけにでも〔実は、
チャールズ・バベッジの”コンピュータの父”としての効用は、それだけだった。それでも、
エライ!こういう共感がどれだけの励ましになるか、誰もやっていないことをやったこと
がある人にはよく判るはずだ。始めての場所って、新鮮ではあるが、同時に物凄く不安
な場所でもあるから…)、今は僕はやるべきだ、と、思っていたが、実際に、少しだけ
できたのかもしれない。もし、本当にそうだったら僕はうれしい。

ということで、これを岩波新書にもつなげたい。

其の場合、ターゲットは理系中心化か、文系中心か。採点するまでは、
文系中心と原稿にも書いていたのだが考えたが揺らいだ。とは言うものの、
この講義は文系科目にしたので、それで理系の諸君が「これで文系科目が1つ
楽勝」と思って殺到した可能性は否定できない。

うーむ。わからん!千葉さんに相談しようと
思い電話するも留守。また、かけよう。

しかし、むずかしい…..


2012年2月12日(日曜日)

調査する: Planck, Max; Mach, Ernst

カテゴリー: - susumuhayashi @ 19時37分50秒

Planck, Max:Einfuehrung in die allgemeine Mechanik, 2. Auflage. 1920.
群馬大文庫 432,P71, **

Mach,Ernst: Die Mechanik in ihrer Entwicklung.
F. A. Brockhaus, 1912. ***

ともに目録p.206。どちらも京都にはない。

そのそばにポアンカレのドイツ語の本、Die neue Mechanik, 1920.
科学と仮説もドイツ語で読んでいる!


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