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2011年7月28日(木曜日)

西田・田辺記念講演会2011「種の論理再考―数理思想史の観点から」レジュメ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時39分16秒

2011年西田・田辺記念講演会の林の講演のレジュメ「種の論理再考―数理思想史の観点から」を公開。変な文章が数箇所見つかったので修正。

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2011年7月23日(土曜日)

modernism, modern arts

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時59分21秒

近代美術館でMoholy-Nagy in Motion をやっていたので、「ゲーデルと数学の近代」の調査の一環として見にいく。
大収穫。

このモホイ・ナジという人、知らなかったが、ハンガリー出身、ワイーマール前後のドイツで活躍ということで、多分、関係があるだろうと思って
見に行ったが、light-space modulator などは、メルテンスのデュシャンの泉などより数学のモダニズムに
対比するのには、より適当だと感じる。泉は抽象的だが、構成的ではない。ヒルベルトの抽象数学
(公理論)は、要素へ分割し、純化して、構成(総合)しなおす。そして、時として構成の際に未知の対象・空間に入る。それ以後の抽象数学は、
分解と構成して戻す。時代とともに、この「戻す」がドンドン弱くなる。部品がそろってしまったので、そこから始まり、自由に構想して構成する。そこまで行くと
カンディンスキーの抽象絵画のレベル。light-space modulator は、van der Werden のレベル。情報で言えば「WEBでXXプログラミング
ができる」現代に対応する。ただし、これは1930年。泉は1917年。
要するに、Weyl とか van der Werden にあたる。そうなると泉が、同じ1917年のヒルベルトの Axiomatisches Denken に
重なる。Hilbert 1862-, Kandinsky 1866-,
最初の抽象画とも云われる Aquarell ohne Titel が1910か1913。
代数はもともと抽象的だから幾何で考えると、Hausdorff の位相概念が1914年。手法的にはすでに Grundlagen der Geometrie があるが、カンディンスキーたちの抽象画に比較するならば、Frecht の距離空間もキュービズム程度で、やはりハウスドルフだろう。となると、数学と芸術でほぼ並行して進んでいる。場所は、ほとんどドイツ語圏(カンディンスキーはロシア革命前はドイツ在住。一旦帰国するが後にバウハウスで教官)。

あやうくパスしかけた4Fの日本の関係図書の展示で、大変おもしろいものを発見。上の進行におよそ10−20年程遅れて、日本のモダニズム。展示の問題だった可能性も高いが機械への興味が強い(村上)。これはデュシャンやモホイ・ナジなどもそうだから当然か?板垣は新カント派の解説も書いている。いずれも1920年代から30年。このあたりが戸坂が、第一次世界大戦後に、初めて新カント派が流行した、と書いたことの一部か?どこかに話を聞ける専門家はいないものだろうか…. 永井さんに聞いてみよう。

新カント派は旧か新か。モダンかモダン以前か。面白い問題だ。やはり、ヒルベルトはそのあたりに位置するのだろう。

で、Plato’s Ghost で、こういうことがどう料理されているか見てみたら、芸術関係への言及が実はスカスカだった。
最初のイントロでこそ、おもしろい議論があるが、本文では、ほぼ、数学の中で閉じてしまっているといわれても仕方ない
位の議論しかない。その意味ではCorryの批判は妥当すると言える。


modern arts 村上知義

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時23分47秒

村上知義著 構成派研究 「機械化」の節。Check it.


modern arts 板垣鷹穂著作

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時17分43秒

板垣鷹穂著作
1.モダン都市の新形態美
和田博文編. – ゆまに書房, 2009. – (コレクション・モダン都市文化 / 和田博文監修 ; 51).
収録著作情報
優秀船の芸術社会学的分析 / 板垣鷹穂 [著] 新しき芸術の獲得 / 板垣鷹穂 [著] 機械美と写真 / 堀野正雄 [著]
人環総人
1F 和書
361.7||K||32||51
200015077120
200015077120

2. 新カント派の歴史哲學 板垣鷹穂著. – 改造社, 1922.7. – (文化哲学叢書 ; 第2編).

日本哲学
6||I-1||1
8690970936
97051601


2011年7月22日(金曜日)

谷島さんの記事

一橋大学の中馬さんを通して、久しぶりにソフトウェアの振興政策、
人材関係での仕事の依頼があったが、ちょっとブランクがありすぎる。。。
でも、本の企画の意図はよくわかるので、一応、依頼者の同志社
の方にあうことにした。まあ、地理的に近いので何となく親近感がある
ということも否定できない。

で、それが数日前のことで、思い出したように、それに関連することを
日経から配信された記事で読んでいたら、関連記事で、面白そうな
ものを発見。読んで、「その通り!良い記事を書く人がいるなー」と
思いつつ、著者を見たら、谷島さんだった!まあ、当然と言うか、
納得と言うか。とにかく、良い記事だった:
谷島宣之の「経営の情識」 「トレードオフの概念は日本に無いのか」三菱東京UFJ銀のシステム一本化報道に思う 

それを読んでいた、以前からぼんやり気になっていたことに
答が(答の候補)が出たので記録:
80年代、日本は安い価格で99.99%の最後の9%を達成する
品質の高い商品で世界を驚嘆させ賞賛された。ところが、谷島さん
が(上の記事より前の記事で)書き、それに読者が反応したように、
それに何百億もかけるのはソフトウェア開発では馬鹿げている。
この違いは何か?80年代ならば、それほどまでに拘ったことに
賞賛があつまるだろうし、それは確かにpayした。しかし、これは
オーバースペックの弊害論と矛盾する。なぜ現実は、そうか?

答はあまりに簡単:銀行等の勘定システムは、本質的にコピーが
一つ、あるいは、少数しかない。そこにおけるウン百億は、大変
なコスト。そういうソフトは、本質的にオーダーメイド。コストは、
それ一本にかかる(厳密には間違い。その経験は企業のものと
なり、次の受注において意味を持つようになる)。ところが、
拘ったものが、それゆえに多く売れ、それにより大量生産を
可能とし、大量生産するとコストが下がるならば、拘りにより大量生産の
可能性を広げたことになる、廉価ながら高い品質、という競争力を得た方が
長期的には有利となる。

そして、これらの中間は多くある。品質に拘るか、拘らないか、
どちらが妥当かは、それぞれの場合で異なる。答はない。
答はないというのが答かもしれない。


2011年7月9日(土曜日)

sano君

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時59分08秒

6月のエントリーがゼロでした。
ただし、サボっているのではないぞ、学生諸君!
プログラミングとかハイデガーの勉強とか、水5の講義の準備とか、そちらが忙しかっただけ。
月により活動に偏りがある。

今日は、佐野君の就職祝いの宴会。
久しぶりにめでたい!!
もっと文系に光を当てないとこの国は滅ぶ。
#もう滅びかけているけど…

が、それは年寄りからみた世界。
若者の世界は我々のあずかり知らぬ所で動く。
それを潰さず応援・支援したい!
#ゾンビは早く排除したいが、一体どれだけの
#ゾンビがいるのか?人口の半分より多いかも..
#老人社会だからな…と鏡に映る自分の
#眉毛の白髪をみつつ思う。


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