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2010年11月9日(火曜日)

切って繋ぐ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時39分09秒

澤口、「普遍概念としての多様体」、哲学研究、552号. pp.1794-5:「 (「理論的物理学新方法論提説」全集12で、田辺元)博士はデデキントの切断と関数論の解析接続のアナロジーを詳しく論じた。」

田辺「理論的物理学新方法論提説」全集12、pp.354-355: 「リーマンは電流のポテンシャル関数の非論に従い一般複素関数論を解釈し、その2点間を適当なるリーマン面に依って「切断することにより結合する」と言ったのは(Klein, S.260)、あたかも、私が最近の著書に於てデデキント切断の解釈に述べた所と符節を合する如くであって、私としてはまことに、空谷に跫音(あしおと)を聞く思がし胸の躍るを禁じ得ないのである。」

「私が最近の著書に於てデデキント切断の解釈に述べた所」という部分の意味:数理の歴史主義展開における、切断を「切って繋ぐ」、つまり、切れているままで、同時に繋がっている、あるいは切ることが即繋ぐことである、ような、弁証法的状況の象徴とする議論。田辺自身の書き方は、色々あるが、例えば、「数理の歴史主義展開」pp.9-10, 「ところで切断が今述べたやうに、張つた糸の如き連続体をきることによつて繋ぎ切口を入れてしかもそれを再構成するものであるとするならば、その切口を入れるナイフは全く厚さのない絶対に鋭利なる刃をもつものでなければならぬであろう。然らざれば、切口は必ず隙間を作つて連続を傷け、従って連続体を再構成することはできなくならざるを得ない。」要するに切るという行為によっても、その部分がそのまま繋がったままでないといけない。だからナイフに厚みがあってはいけないと言っている。これを社会の問題で考えれば、その意味は「真の社会変革を為すものは、個人的な欲や想いのような「厚み」をもって社会に切り込んではならない。自らを無に帰し、「厚み」のない存在として、身を捨てて行為するものだけが、真の社会変革者たれる。そうでなくては、その切断の行為は結局社会を破壊するだけに終る」くらいになる。本当に厚みのないナイフを考えているのではない。あくまでたとえ話。林晋"「数理哲学」としての種の論理 ――田辺哲学テキスト生成研究の試み(一)――” 参照。

上記で田辺が参照したKlein, S.260の内容: Entwicklung der Mathematik, Felix, Klein, Site 260, でコンパクトリーマン面上に nonconstant meromorphic functions (非定数有理型関数、http://en.wikipedia.org/wiki/Meromorphic)が必ず存在すること(Riemann がディリクレ原理を不用意に利用して証明し、Weierstrass が Riemann の原理の使い方に反例をだした、そして Hilbert が後に合理化した、という有名な話のあの定理)を、電気的な思考実験で示そうとした箇所。Klein は、Riemann が、そういう物理学的なイメージで、それを理解していただろうと書いており、澤口もそれを引用している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Riemann_surface 特に、
http://en.wikipedia.org/wiki/Riemann_surface#Functions および
http://en.wikipedia.org/wiki/Riemann_surface#Analytic_vs._algebraic を参照。

これには、和訳の大変良いのがある「クライン:19世紀の数学」共立出版、p.266。数学的内容はおそらく完璧と思われる。(この定理をちゃんと読んだことがないので絶対の自信はない)。

クラインの議論の要約:『Riemann 面を、まず、金属箔でモデル化する。Blaetter (葉)のDurchdringung (貫入)の部分、つまり、3次元空間では実現不可能で、曲面の一部(葉)が局面の別の一部を横断するところは、二つの葉を絶縁した二つの金属の櫛を組み合わせるようにして、電気を突き抜けさせて、さえぎる面の裏側に正しい電位が伝わるようにする。そして、そのモデルの2点 A1, A2 をとり、そこに電極をつけ電流を発生させたときのポテンシャル u を考える。 A1, A2 以外では u の値が有限かつ微分可能に決まり、更にΔu=0となる。ただし、in A1, A2 aber unstetig wird wie log r1 bzw. -log r2 となる。』[ポテンシャルというのと、この最後の意味がよく判らないのだが、どうやら電極の所が数学でいう極(pole)になるということらしい。ここは電気のことがわかってないので不明 :-( 。さらに調べる必要あり。ただし、問題はそれ以後の話なので、とりあえず、気にしない。]

問題は、このようにして Riemann 面を作った後に、u を実部にする複素関数 u+iv を構築するところ。それを要約せずに引用:「[このように作った Riemann 面を]2p個の横断線によって切断し、局面を分割しない回帰切断線(=周期経路)はもはや不可能であるようにする:次に一つの切断線によって A1, A2 も結ぶ。」(共立訳, p.266)。原文では “Wir zerschneiden sie zunaechst durch 2p Querschnitte so, dass kein nicht zerstueckender Rueckkehrschnitt (= Periodenweg) mehr moeglich ist; dann verbinden wir auch noch A1, A2 durch einen Schnitt.”

ここで田辺は誤読している。: 訳文がでわかるように、durch einen Schnitt の Schnittは切断する行為ではなく、その線にそってリーマン面を切り開くための曲線のこと。だから、Rueckkehrschnitt = Periodenweg となる。つまり、この Schnitt は Weg、経路、つまり、ここでは曲線のことであり、田辺が「切断することにより結合する」と言っていることは、「それに沿って面が切り開かれることとなる曲線によって」を意味する、durch einen Schnitt を、「切断することにより」と誤解し、「(A1, A2)を結ぶ」、つまり、「点 A1, A2 を両端点とする曲線を引く」を、「切断したものを、結ぶ」と誤解したことを示している。

結論:田辺が複素関数論について積極的に語り始めるのは1955年の「理論的物理学新方法論提説」が最初と理解してよいだろう。だから、それ以前の種の論理や前年1954年の「数理の歴史主義展開」は、このリーマン面の話と本質的には関係ない。「歴史主義展開」はトポロジーが着想のもとなので、複素関数論は、まだ視野に入っていないらしい。ということで、田辺哲学の「本体」は、この間違いに影響をうけないのだが、この論に積極的に載り、リーマン面が多様体であることから、種の論理を多様体に結び付けてしまった澤口の「哲学」は大きな痛手を負うことになる。Klein の本への田辺の言及を利用した中沢の多様体哲学の議論も同様。


Whitehead process 哲学の背景

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時13分30秒

25日に田中裕先生に会いに行くためにwhitehead哲学の泥縄勉強中。 ;-)田中先生の「ホワイトヘッド 有機体の哲学」を摘み食いで読む。で、ホワイトヘッドの哲学の背景が、あるフレーズで大体解ってしまった(ような気に勝手になる。ほんまか? :-P)。pp.63-64, ホワイトヘッドは相対性理論の哲学的基礎を作るため、従来の個が先、その集まりとしての外延が後、という方向を、PM により逆転する。これを the fallacy of misplaced concreteness と呼んだらしい。現代代数幾何学の言葉を使えば、説明は簡単で「点より代数多様体の方具体的である」となる。つまり、2次の無限小を x^2=0 という「代数多様体」(スキームというべきなのだろうな本当は。代数幾何の理論をちゃんと知らないからわからないけど用語の問題なので気にしないことにする。で、「」をつけておいた)として見るという見方。これは数学を知らない人には辛いだろうが、Kronecker 流の代数学の系譜につらなる数学では常識。たとえば、Stone duality とか、ゲーデルの完全性定理とか、米田のレンマ関係の圏論の完全性など、すべてこれに類した話。ただし、正確に言えば、完全性の場合は、どっちが先とも言えないよ、ということ。形式からさえ(唯名論の名前からさえ)、点(個)が作れる(実在が作れる)という話だから(ただし、そこに何らかの超越、たとえば集合論が使われている事に注意。もっとでかい存在から、ちいさな存在の存在を言っているわけだ)。しかし、Whitehead は「形式」(表現)がより concrete (有限)だとした。要するに Kronecker や現代代数幾何学の思想と同じ。

面白いのは、これを Whitehead はPM を使って基礎付けたらしいこと。田中の記述によれば「この手法は、『数学原理』の集合の理論を用いている」となる。これは、誤解されやすい文章だろう。田中の(Wの?)真意は、PM で実際に集合を一つ記述しようとすると、点の集まりを直接記述する、つまり、外延的定義は、ほとんどの場合不可能。結局、論理式を用いて内包的に定義することになる。だから、そちらの方が実は concrete なのだ、という意見。つまり、「『数学原理』の集合の理論」というのは、「PM の形而上学」という意味でなくて、「道具としての PM の使い方」という意味になる。

Whitehead の PM 以前の著作が、universal alg. の大著であることと関係あるかも。
# しかし、いままで気が付かなかったが、Peter Johnstone とか Martin Hyland とか、Cambridge のこの系譜に載っていると言えるのかも….
# ちなみに、Peter は King’s で Martin は Trinity, Whitehead は Trinity。これは無関係だろうけど。

僕のように計算機上で組織の業務モデル、家電製品のモデルを動かしたい、となると、当然、『最初に表現あり』になる。人間が直接かけるのは表現しかないのだから。で、アリストテレス論理学・存在論紛いのオブジェクト指向フレームワークになっていくわけ。だから、僕等のような人間には、これは常識というか、これでしかやれない。そうなると、process と reality といわれれば、当然ですよね、自然ですよね、という風に答えることになる。しかし、これは多く人のものの考え方とは逆なのだろう。だから、Whitehead 哲学は難しいといわれるのだろうし、ソフトウェアも難しいといわれるのだろう。でも、後者はとにかく動くし、多くの人がマスターしている。後者を先に理解すれば、前者はむしろ自然に見えるのかもしれない。

とは、いうものの、上の話は、W の中期哲学までの話、それで後期哲学まで推し量っている。

そのスペキュレーションついでに、なぜ、僕がトポスとかKripke 意味論とかで、非西欧的な思想を意味づけようとする人に反発を感じるのかも解ったような気がする。つまりは、僕は duality により、どっちもどっち、と思っている。ヒルベルトが Synthetic geom. も analytic geom. も理論的には同値だと証明したのと似ていて、どちらでやるかはどうでもよいである。その時々にやりやすい方に飛び移ればよい。ただし、そこでは相対主義の問題がでてくるが、人間、そんなに頻繁にOSを変えることはできない。そこで「粘性」「摩擦」のようなもので、あるところに長く止まる。その時、そこが世界の中心となる。その時には、それに絶対的に teilhaben する。これは Weber 的な非相対主義だ。Wertfreiheit。これはWert がないという意味ではない。Wert に絶対的なものはないというだけで、それぞれの Wert は、価値、つまり、絶対なのだから。

丸山君が哲学をやりたがっていたが、Whitehead が良いかも。


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