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2010年11月16日(火曜日)

リーマン面@田辺哲学

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時43分50秒

澤口「田辺元における数学の形而上学」, p.64「歴史的世界と位相的図形のあいだの相似性」を田辺が指摘したという。そして、その例として田辺があげたものが、メイビウス・バンドとリーマン面だとする。p.65 メイビウス・バンドの議論を批判するが、リーマン面については述べない。そして、p.67 の第四節の冒頭で、「種の論理の数理哲学は多様体の哲学において本領が発揮される。博士はリーマン面に触れているだけで多様体一般については論じていない。まず多様体の一般概念が種としていかに把握されるか、見ることにしよう。」という文章で、「多様体の論理哲学」のテーゼが、初めて登場する。

これに対する田辺の叙述は:「…歴史主義展開」全集12, pp.299-300, 文庫pp.347-349。ここでリーマン面についての議論は次の通り:
1.「…、すなわちリーマン面である。数学者には周知のこの事例について、数学に通じない私が喋々するのは、いかにも烏滸がましき限りであるからやめよう(例へば吉田洋一…)」として具体的言及をさける。
2.しかし、その上で、次の様に言う「ただここでも注意せられるのは、第一にこの位相学的事態が、静観的なる実変数関数論ならぬ、自動的運動的といつてもよい複素関数論に於いて始めて起こるといふこと、すなはちそれが、単に直観的ならぬ行為的自覚的なる立場に成立することを示すといふ点である。」これは、おそらく解析接続をイメージしている。そう思われる根拠:全集pp.354-5,「理論物理学新方法提説」。「今述べた如く自己の自由自覚の地盤を象徴すると解せられる収斂円(収束円が現代的用語)の解析接続が、対自的にその根底たる無の裏づけを展開して、複素平面の重層的立体性を自覚する成果が、すなわちリーマン面に外ならない。」田辺は、全集p.353 で近傍を「媒介」と書く。全集 p.353 「収斂円といふ位相学的「近傍」を媒介となし、収斂円の非連続性を否定契機として、却っていわゆる非連続即連続の弁証法を成立せしむゆえんこそ、コーシー・リーマンの微分方程式の意味する所であるといつて差し支えない。」ほぼ「トンでも」状態であるが、その後の「それが(収斂円が)相互独立完結にしてしかも接続せられることに、歴史の非連続的創造即連続的発展の構造が表明されるわけである」という文章からすると、「正則関数が与えられることにより、曲線状を移動する点の収斂円が点ごとに別々に存在すると同時に、それは曲線上で解析接続されていき、結局、リーマン面をつくる。このような局所の積み重なりで、大域的なものが連続的に作られていくことに歴史の構造との相似性がある。また、このような類似性を、その上で可能にする複素平面というものも、単なる実数の対という以上の潜在的な構造をもっており、それが複素数というものの哲学的いみだ」という風に田辺は考えていると理解できる。強い証拠なし!ただし、傍証:Alexandroff のEinfachste Grundbegriffe der Topologie 「田辺文庫、41, 110」p.8 に Hausdorff空間の近傍系の公理の説明がある。それに田辺は次のような書き込みをしている:Die Begriff des topologisches Raumes の一般論で、Alexandrof は、Nun beruht aber die Steigkeit auf Vorhandensein von Beziehungen, die als Nachbarschafts- oder als Umgebungsbeziehungen erklaert werden - … という文章を含む説明を書く。そこに田辺は「種ト個」という書き込みをしている。(実際の公理にも書き込みあり:近傍が open であることの条件には、より小さい近傍がとれるという意味ととって「無限可分」、ハウスドルフの分離公理は、「点ノ分立ハ近傍ノ分離(離は?)」)つまり、近傍に種を点に個をみている。これはブラウワー連続体論理解以来のパターン。
また、この Alexandorff は、その Hilbert の 前書きに、「ヒルベルトも非連続な論理に基づく公理主義の限界を感じ、位相学に望みを託したか」という、田辺によく見られる「現実の歴史の無視」の議論に使われたもの。「…歴史主義展開」全集12, p.310。この部分は、殆ど救いようがない。ヒルベルトが Harmonie zwischen Anschaung und Denken と書いたところに田辺は下線を引いている。直観と理論(形式)の両方が、通俗史観でいうほうどに形式主義者でない Hilbert には重要な要素として存在していた。official には形式主義者であっただけだ。その直観主義的要素を強調するために田辺は、 Hilbert が書いたものが、偶々、位相の本のイントロであったことをとらえて(このことには、何らの関連もない。たとえば、それは、彼自身の幾何学基礎論であってもよかった)、それを根拠にしてしまう。つまり、現実の歴史は必ず正しい哲学(形而上学)に従うという田辺独特の(しかし、Hartmann と共通の)思考法により、ヒルベルトが数学の歴史主義的側面に気が付いたのが、そのイントロを書いた理由としてしまう。これはもちろん、「トンでも」以外の何者でもない。Schnaedelbach がHartmann 哲学の崩壊の理由とした「現実の科学との突合せ」と同じ構造の弱点が「現実の歴史」を強調する田辺哲学にはある。外の例としては、リーマン面とデーデキント切断に関連があるのではないか、リーマンの講義にデーデキントはでていた筈だから、という全集12, p.354 の議論。もちろん、リーマンとデーデキントの友情は数学史では有名。誠実なデーデキントの支えがなければ、精神的に不安定だったリーマンはもっと早く「崩壊」していたのかもしれない(Laugwitz の「リーマン」を参照)。まあ、昔なので、デーデキントからのリーマンの妹への手紙などまで調べる現代の数学史の成果がなかったのでしかたなかったという面はある。ただし、この両者の思想的関連性を理解しているところは無碍に否定すべきではないだろう。現在の数学史では、これは「概念と思考による数学」がリーマン・デーデキントにより具体的に立ち上がってくる過程として理解されている。その源は、まだよく分かっていないが、二人ともが師事したディリクレの影響が大きいらしい。しかし、リーマンのは、ものすごく大胆で、やはり、リーマンがすべての出発点とするいささか強引な Laugwitz の論調などに、つい、賛成したくなってしまう。(でも、全面賛成はしない。)
3.おそらく田辺が複素数系に弁証法をみたのは、この解析接続の動的性格においてだろう。だから、リーマン面の議論がでる。しかし、田辺はリーマン面を十分理解できていたか怪しい。(投稿「切って繋ぐ」参照。)しかし、その動的性格は感覚で理解しているらしい。ここで重要なのは、「接続されていく」というところなので、「デーデキント切断論」の切って繋ぐとは、いささか雰囲気が違う。後者には、現在という時が反映されているが、解析接続にはそれがない。実際、田辺の議論は形式(収斂円が点ごとに「独立して」決まる)に頼りすぎていて、切断論ほどの力強さがない。しかし、澤口は、それに乗ってしまう。また、澤口の「普遍概念としての多様体」でも、同様の「哲学のための歴史の『捏造的解釈』」がみえる。田辺よりは稚拙かつ強引な議論。梅原の「法隆寺議論」といい、こういうのを読むと、歴史家である僕は、「ひどいものだ….」と頭を抱えてしまう。

これは京都学派の特性か?あるいは、哲学者の特性か?


2010年11月13日(土曜日)

岩波文庫 田辺元哲学選

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時17分27秒

藤田さんから田辺元哲学選靴鯆困。見本とのこと。書店にでるのは来週だろう。内容は「哲学の根本問題」と「数理の歴主義展開」。数学についての解説をチェックして欲しいとのことなので、そういう点を詳しく読む。さすがの藤田さんも、今回は細かい間違いが幾つかあるが、まあ、それはご愛嬌程度。数理の歴史主義展開への理解は、僕のものとほぼ同じで安心した。徒手空拳に近い形で2年ほど田辺研究をやってきたが、僕が手懸かりにしてきた文献は、専門家の藤田さんが、これは重要、とされる文献ばかりだった。まるで、僕の研究を承認してもらえたようで、大変に安心する。

しかし、やはり専門家にはまったくかなわない所があり、特に西田哲学を知らないので、西田との関係がからっきし駄目だし(本当は、これが凄く大切なはずなのだが)、もう一つは懺悔道・死の哲学が十分視野に入っていない。それでも「数理」をキーにしているから何とか意味のあることをやれているわけだ。

先日、藤田さんの懺悔道の講義で、Jasper との関係が重要という説明があり、これなど指摘されると、ウームという感じ。種の論理の成立には新カント派と関係しつつも、距離があった人々、特に Scheler と Hartmann が重要なようなのだが、この二人の哲学は認識論が中心らしいので、ここまでだと種の論理の中にある実存哲学的な傾向が説明できない。それより、Heidegger という巨大な存在の影響が、ドイツ留学時の「家庭教師」以後、ずっと続いていてこれの方が重要なはずなのだが、自然科学が対象にするような「世界」を常に視野にいれる田辺哲学では、Heidegger とすれ違いになるのである。Scheler, Hartmann などを盛んに refer しながらも、何故か冷たい、田辺の態度が不思議でしようがなく、新カント派とそれに続く哲学者との関係で、田辺哲学を見るという僕の思想史研究の方向に一抹の不安を感じていたのだが、藤田さんのこの説で、ストンと腑に落ちた感じ。

藤田さんの説明では、Jaspers ではumgreifen という行為により、Dasein が Welt に繋がる道筋が、その哲学体系の中に(中心にだろうか?)組み込まれているので、実存哲学が田辺哲学と通じることができる。もちろん、田辺は、絶対無の弁証法により、Jaspers も越えていると自負していたはずだが。これは非常に説得力がある考え方で、これで一挙にわかった気がする。おそらくは、Scheler, Hartmann などは認識論にとどまってしまって田辺には新カント派と同様の不満な存在だったのだろう。Jaspers への評価は、丁度、Brouwer を評価しつつも、「おしい」と書いた、そんな位置の取り方だったかもしれない。

幸い、藤田さんに聞かれた、Jaspers をテーマに論じた1939年(S14)の特殊講義「実存哲学対現実哲学」の講義メモを探したら、それと思われるものが僕が昨年撮影した資料の中にあった。これは群馬大の目録ではリストされてない箱に入っていた資料だが、比較的綺麗。早速、藤田さんに渡した。

こういう「偶然」、自分の力を超えた event が起きるのが史料ベースの歴史学の一番ワクワクするところで、こういうのがあるからやっているようなところがある。考古学とか、実験物理、生物学、天文学、などと同じセンスなのだろうな。工学も同じようなところがあったが、工学の場合、やっていたのがソフトウェア工学で、自分で作っている人工物相手の工学が主だったので、いまいち、「発見した!」感が乏しかった。史料だと、本当に、「何の気なしに棚から史料を手に取り、ペラッと捲って、『エッ、エエーッ!』」というのがある。これが楽しい。

この史料も至急、SMART-GS でサーチ&翻刻可能にしなくては!色々仕事が多くて、西田資料の画像も田辺資料の画像も清水光芸社に納入してもらったそのままになっている。NF休みを利用して至急にやらねば!

これで田辺の思想の大きな流れが、凡そ解明できることになるのではないだろうか。後は、一番の難物、西田との関係。これは資料的にも、ちょっと辛いけれども、おそらく群馬大、京大の蔵書書き込みとか手帳(日記)が手懸かりになるだろう。そういうところでは気を抜くので田辺も正直になる。田辺は、うそつきではないが、「気遣い」「気配り」が強いのが、出さない、婉曲にする、というところがあるように思う。ちょっと、「ドイツ人の沈黙」を連想。僕はドイツを研究しているが、どうもドイツ人は苦手な所がある。お喋りな(過ぎる?)僕には、ドイツ人は寡黙すぎる。それを「ドイツ人の沈黙」と名づけている(正直に言うと、今、名づけた ;-))。それに比べると、イギリス人とかアメリカ人、フランス人は、なにかと喋る。特に前二者とは僕は話しやすい。ドイツで学位をとった藤田さんはやはりドイツ系の学者を連想させる。自分は英米系ではないと思っていたけれど英米系なのかな…………..

ケルト系だったりして。 :-D


2010年11月10日(水曜日)

論文『「数理哲学」としての種の論理』

カテゴリー: - susumuhayashi @ 18時02分43秒

「数理哲学」としての種の論理 -田辺哲学テキスト生成研究の試み(一)-, 京都大学文学研究科、日本哲学史研究室紀要「日本哲学史研究」第7号、2010年9月、pp.40-75 の公開を開始しました。掲載を許可頂いた日本哲学史研究室に感謝します。
Download オリジナルPDF修正コメント付版PDFver.20101110

修正コメントなしオリジナル版


2010年11月9日(火曜日)

切って繋ぐ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時39分09秒

澤口、「普遍概念としての多様体」、哲学研究、552号. pp.1794-5:「 (「理論的物理学新方法論提説」全集12で、田辺元)博士はデデキントの切断と関数論の解析接続のアナロジーを詳しく論じた。」

田辺「理論的物理学新方法論提説」全集12、pp.354-355: 「リーマンは電流のポテンシャル関数の非論に従い一般複素関数論を解釈し、その2点間を適当なるリーマン面に依って「切断することにより結合する」と言ったのは(Klein, S.260)、あたかも、私が最近の著書に於てデデキント切断の解釈に述べた所と符節を合する如くであって、私としてはまことに、空谷に跫音(あしおと)を聞く思がし胸の躍るを禁じ得ないのである。」

「私が最近の著書に於てデデキント切断の解釈に述べた所」という部分の意味:数理の歴史主義展開における、切断を「切って繋ぐ」、つまり、切れているままで、同時に繋がっている、あるいは切ることが即繋ぐことである、ような、弁証法的状況の象徴とする議論。田辺自身の書き方は、色々あるが、例えば、「数理の歴史主義展開」pp.9-10, 「ところで切断が今述べたやうに、張つた糸の如き連続体をきることによつて繋ぎ切口を入れてしかもそれを再構成するものであるとするならば、その切口を入れるナイフは全く厚さのない絶対に鋭利なる刃をもつものでなければならぬであろう。然らざれば、切口は必ず隙間を作つて連続を傷け、従って連続体を再構成することはできなくならざるを得ない。」要するに切るという行為によっても、その部分がそのまま繋がったままでないといけない。だからナイフに厚みがあってはいけないと言っている。これを社会の問題で考えれば、その意味は「真の社会変革を為すものは、個人的な欲や想いのような「厚み」をもって社会に切り込んではならない。自らを無に帰し、「厚み」のない存在として、身を捨てて行為するものだけが、真の社会変革者たれる。そうでなくては、その切断の行為は結局社会を破壊するだけに終る」くらいになる。本当に厚みのないナイフを考えているのではない。あくまでたとえ話。林晋"「数理哲学」としての種の論理 ――田辺哲学テキスト生成研究の試み(一)――” 参照。

上記で田辺が参照したKlein, S.260の内容: Entwicklung der Mathematik, Felix, Klein, Site 260, でコンパクトリーマン面上に nonconstant meromorphic functions (非定数有理型関数、http://en.wikipedia.org/wiki/Meromorphic)が必ず存在すること(Riemann がディリクレ原理を不用意に利用して証明し、Weierstrass が Riemann の原理の使い方に反例をだした、そして Hilbert が後に合理化した、という有名な話のあの定理)を、電気的な思考実験で示そうとした箇所。Klein は、Riemann が、そういう物理学的なイメージで、それを理解していただろうと書いており、澤口もそれを引用している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Riemann_surface 特に、
http://en.wikipedia.org/wiki/Riemann_surface#Functions および
http://en.wikipedia.org/wiki/Riemann_surface#Analytic_vs._algebraic を参照。

これには、和訳の大変良いのがある「クライン:19世紀の数学」共立出版、p.266。数学的内容はおそらく完璧と思われる。(この定理をちゃんと読んだことがないので絶対の自信はない)。

クラインの議論の要約:『Riemann 面を、まず、金属箔でモデル化する。Blaetter (葉)のDurchdringung (貫入)の部分、つまり、3次元空間では実現不可能で、曲面の一部(葉)が局面の別の一部を横断するところは、二つの葉を絶縁した二つの金属の櫛を組み合わせるようにして、電気を突き抜けさせて、さえぎる面の裏側に正しい電位が伝わるようにする。そして、そのモデルの2点 A1, A2 をとり、そこに電極をつけ電流を発生させたときのポテンシャル u を考える。 A1, A2 以外では u の値が有限かつ微分可能に決まり、更にΔu=0となる。ただし、in A1, A2 aber unstetig wird wie log r1 bzw. -log r2 となる。』[ポテンシャルというのと、この最後の意味がよく判らないのだが、どうやら電極の所が数学でいう極(pole)になるということらしい。ここは電気のことがわかってないので不明 :-( 。さらに調べる必要あり。ただし、問題はそれ以後の話なので、とりあえず、気にしない。]

問題は、このようにして Riemann 面を作った後に、u を実部にする複素関数 u+iv を構築するところ。それを要約せずに引用:「[このように作った Riemann 面を]2p個の横断線によって切断し、局面を分割しない回帰切断線(=周期経路)はもはや不可能であるようにする:次に一つの切断線によって A1, A2 も結ぶ。」(共立訳, p.266)。原文では “Wir zerschneiden sie zunaechst durch 2p Querschnitte so, dass kein nicht zerstueckender Rueckkehrschnitt (= Periodenweg) mehr moeglich ist; dann verbinden wir auch noch A1, A2 durch einen Schnitt.”

ここで田辺は誤読している。: 訳文がでわかるように、durch einen Schnitt の Schnittは切断する行為ではなく、その線にそってリーマン面を切り開くための曲線のこと。だから、Rueckkehrschnitt = Periodenweg となる。つまり、この Schnitt は Weg、経路、つまり、ここでは曲線のことであり、田辺が「切断することにより結合する」と言っていることは、「それに沿って面が切り開かれることとなる曲線によって」を意味する、durch einen Schnitt を、「切断することにより」と誤解し、「(A1, A2)を結ぶ」、つまり、「点 A1, A2 を両端点とする曲線を引く」を、「切断したものを、結ぶ」と誤解したことを示している。

結論:田辺が複素関数論について積極的に語り始めるのは1955年の「理論的物理学新方法論提説」が最初と理解してよいだろう。だから、それ以前の種の論理や前年1954年の「数理の歴史主義展開」は、このリーマン面の話と本質的には関係ない。「歴史主義展開」はトポロジーが着想のもとなので、複素関数論は、まだ視野に入っていないらしい。ということで、田辺哲学の「本体」は、この間違いに影響をうけないのだが、この論に積極的に載り、リーマン面が多様体であることから、種の論理を多様体に結び付けてしまった澤口の「哲学」は大きな痛手を負うことになる。Klein の本への田辺の言及を利用した中沢の多様体哲学の議論も同様。


Whitehead process 哲学の背景

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時13分30秒

25日に田中裕先生に会いに行くためにwhitehead哲学の泥縄勉強中。 ;-)田中先生の「ホワイトヘッド 有機体の哲学」を摘み食いで読む。で、ホワイトヘッドの哲学の背景が、あるフレーズで大体解ってしまった(ような気に勝手になる。ほんまか? :-P)。pp.63-64, ホワイトヘッドは相対性理論の哲学的基礎を作るため、従来の個が先、その集まりとしての外延が後、という方向を、PM により逆転する。これを the fallacy of misplaced concreteness と呼んだらしい。現代代数幾何学の言葉を使えば、説明は簡単で「点より代数多様体の方具体的である」となる。つまり、2次の無限小を x^2=0 という「代数多様体」(スキームというべきなのだろうな本当は。代数幾何の理論をちゃんと知らないからわからないけど用語の問題なので気にしないことにする。で、「」をつけておいた)として見るという見方。これは数学を知らない人には辛いだろうが、Kronecker 流の代数学の系譜につらなる数学では常識。たとえば、Stone duality とか、ゲーデルの完全性定理とか、米田のレンマ関係の圏論の完全性など、すべてこれに類した話。ただし、正確に言えば、完全性の場合は、どっちが先とも言えないよ、ということ。形式からさえ(唯名論の名前からさえ)、点(個)が作れる(実在が作れる)という話だから(ただし、そこに何らかの超越、たとえば集合論が使われている事に注意。もっとでかい存在から、ちいさな存在の存在を言っているわけだ)。しかし、Whitehead は「形式」(表現)がより concrete (有限)だとした。要するに Kronecker や現代代数幾何学の思想と同じ。

面白いのは、これを Whitehead はPM を使って基礎付けたらしいこと。田中の記述によれば「この手法は、『数学原理』の集合の理論を用いている」となる。これは、誤解されやすい文章だろう。田中の(Wの?)真意は、PM で実際に集合を一つ記述しようとすると、点の集まりを直接記述する、つまり、外延的定義は、ほとんどの場合不可能。結局、論理式を用いて内包的に定義することになる。だから、そちらの方が実は concrete なのだ、という意見。つまり、「『数学原理』の集合の理論」というのは、「PM の形而上学」という意味でなくて、「道具としての PM の使い方」という意味になる。

Whitehead の PM 以前の著作が、universal alg. の大著であることと関係あるかも。
# しかし、いままで気が付かなかったが、Peter Johnstone とか Martin Hyland とか、Cambridge のこの系譜に載っていると言えるのかも….
# ちなみに、Peter は King’s で Martin は Trinity, Whitehead は Trinity。これは無関係だろうけど。

僕のように計算機上で組織の業務モデル、家電製品のモデルを動かしたい、となると、当然、『最初に表現あり』になる。人間が直接かけるのは表現しかないのだから。で、アリストテレス論理学・存在論紛いのオブジェクト指向フレームワークになっていくわけ。だから、僕等のような人間には、これは常識というか、これでしかやれない。そうなると、process と reality といわれれば、当然ですよね、自然ですよね、という風に答えることになる。しかし、これは多く人のものの考え方とは逆なのだろう。だから、Whitehead 哲学は難しいといわれるのだろうし、ソフトウェアも難しいといわれるのだろう。でも、後者はとにかく動くし、多くの人がマスターしている。後者を先に理解すれば、前者はむしろ自然に見えるのかもしれない。

とは、いうものの、上の話は、W の中期哲学までの話、それで後期哲学まで推し量っている。

そのスペキュレーションついでに、なぜ、僕がトポスとかKripke 意味論とかで、非西欧的な思想を意味づけようとする人に反発を感じるのかも解ったような気がする。つまりは、僕は duality により、どっちもどっち、と思っている。ヒルベルトが Synthetic geom. も analytic geom. も理論的には同値だと証明したのと似ていて、どちらでやるかはどうでもよいである。その時々にやりやすい方に飛び移ればよい。ただし、そこでは相対主義の問題がでてくるが、人間、そんなに頻繁にOSを変えることはできない。そこで「粘性」「摩擦」のようなもので、あるところに長く止まる。その時、そこが世界の中心となる。その時には、それに絶対的に teilhaben する。これは Weber 的な非相対主義だ。Wertfreiheit。これはWert がないという意味ではない。Wert に絶対的なものはないというだけで、それぞれの Wert は、価値、つまり、絶対なのだから。

丸山君が哲学をやりたがっていたが、Whitehead が良いかも。


2010年11月7日(日曜日)

分有、融即、参加

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時37分17秒

岩波文庫「種の論理」の藤田さんの解説を読んでいて、田辺が最初の種の論理論文「社会存在の論理」で大幅に依拠した、レヴィ・ブリュールの分有の法則のフランス語が、loi de participation であることに気が付く。これは今年の春ごろか、あるいは、昨年度の藤田さんの講義・演習で、指摘があったことだが、participation という語をすっかり忘れていた。Teilhabe, participation の重要性を理解できた今となっては、藤田さんが、言っていた、「participation」の訳としては、分有は適当でなく「融即」の方が良いという主張も良く理解できる。ただ、融即は確かに意味をうまく表現する言葉ではあるが、やはり academic jargon という気がするので、簡単に「参加」でよいのでは….


2010年11月1日(月曜日)

Programming, 帝国, Participation

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時36分37秒

夏休みからやっていた、SMART-GS の Spreads Selection の機能が漸く完成。神戸大工学部に移ってからは、自分でプログラミングをすることは、emacs-lisp を少し触るとか、そういうこと以外は、ほぼ無くなっていたので、少なくとも16年ぶりの本格プログラミング!しかし、神戸では学生に教えるためにトレンドを常におさえていた。それが自分でも使えるか不安ではあったのだが、杞憂だった。 :-)

自分では手を動かすことなく、学生に指示していた通りに、自分でもできる。学生に教えていたことが間違っていなかったことが確認できた。 :-D

それにつけても、eclipse のような開発環境とCPUなどのプラットフォームの進化は凄まじい。およそ、二十ウン年前、エジンバラの computer science で PX system をコンパイルしたり、その本の TeX source をコンパイルすると、20分ほどかかるので、tea time にしていたのを思い出す。それ以上のことが一瞬ともいえるスピードでできる。そのころに「原理的には、こうできるのだが…」と考えていたことがすべて実現されている。

で、そのころのプログラミングとの最大の違いはなにかというと、僕が、学生たちに「こうしてはいけない!」と言っていたことを自分でやっていること。つまり、「どうしてこう動くのか、説明して」と学生に言うと、「同じ様な例を見たりして、色々やったら動きました。理由はわかりません…」というので、「めっ!」とかやって居たのだが、自分でそれをやっている。

それが可能だし有効なのである。当時は自分の頭脳でプログラミングしていた。そうでないと、実質良いプログラミングはできなかった。ところが、今では「社会インフラ」でプログラミングできる。つまり、デザインパターンや Java 仕様などの共有された知、特にプログラミングスタイルのもとに書かれた、大量のマニュアル、ドキュメント、プログラミング例(これには、意識的に、自分で手を出さす、学生や企業に頼んで書いてもらったプログラムが入る。あるいは、これが一番大きい)を、サーチを使って見つけながら、時にはコピー&ペーストでプログラミングする。そして、大体は理屈がわかってはいるが、完全に解るまでは解析しない。コンパイラや eclipse が詳細を見張ってくれているので、そこまで考えるのは「やりすぎ」なのである。結果として、以前は、「めっ!」と言っていた学生と同じようなやり方でプログラミングをしている。つまり、「原則を大体わかり(といっても、僕は学生よりはずっと良くわかっているが)、詳細はシステムにまかせての試行錯誤」である。

つまり、WEBや Google search という「物理的媒体」に支えられた、デザインパターンやオブジェクト指向の社会(より具体的にはJava のコミュニティ)に「参加」(participate, teilhaben)することによりプログラムしている。SMART-GSは source forgeを使って開発しているから、まさしく reflexive になって「参加」になる。これこそが本当の「バザール」の意味で、構造化されていることはそれを実現するための条件にしか過ぎない。つまり、伽藍とバザールの比喩はおそらく間違っているということ。典型例はガウディの聖堂の「ボランティア」たちか?(ガウディのデザインがないとあれはできないし伽藍だ。)

この2日ほど、ネグリの「帝国」を読んでいるが、その「帝国」と同じ仕組み。今、講義のために、固めている Giddens 的な情報歴史社会学の話とも相即する(「相即」という言葉は田辺研究と「相即」している ;-))。SMART-GSはsource forge で公開されるから、当然のように僕も、この帝国に participate することになる。

この participate の意味を知りたければ、これの講義資料を参照。


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