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2010年7月30日(金曜日)

高橋里美

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時07分34秒

「種の論理について」(全集4、p.221):田辺が「種の論理と世界図式」で高橋の哲学に多く言及したとあるが、どこがそれなのか?

田辺は(西田も?)言及先をなかなか明瞭に示さない。この不明瞭さは何なのか?時代か?それとも分野の文化か?あるいは京都学派の性向か、田辺が特にそうなのか?こういう部分は田辺や西田は批判されるべきだが、いずれにせよ、結果として、田辺の著作には、もって回った表現のゆえに隠されている「数学上の無知」が結構な数ある。西田は読んでないのでわからないのだが、これにも相当ありそう。

田辺の立場は、調べていて「これは気の毒だな、僕にはとてもつとまらない、僕だったら絶対逃げ出すな」と同情してしまうところがある。「国民的期待」という虚構の装置により、「絶対金メダル」と言われているスポーツ選手の様なもの(重圧をかけている方の中には、某かのジェラシーがありそう)。或る意味で追いつめられたあげくの「煙幕」の要素がドイツ留学後に増えているという感じがする。もちろん、無意識にだろうけれど。

ただし、田辺の数学理解は、現代日本のニューアカなどのマスコミ学者に比べれば随分とましだし、「自分は解っていない、数学的能力がない、それでも理解したい・せねばならない」と考えて大変な努力をしている点は共感できるし敬意を持つ。これに反して、80年代から最近まで、マスコミで「活躍」していた人たちは、すぐになんでも[間違えて]理解できてしまうらしい :-P。考えてみると、この人たちは José Ortega y Gassetの定義による「大衆」という事になる。だから「大衆」に受ける訳か。納得! :-D


2010年7月12日(月曜日)

語りえぬものこそ語らねばならない

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時13分24秒

今日届いた新書の幾つかを読む。高橋昌一郎さんの近刊の「分析哲学者の発言」を見て、今更ながらに感じた。何故、僕は技術的には親和性が高いはずの「分析哲学系」の思想が嫌いか?おそらく、最大の理由は「語りえぬものには沈黙を守るべきだ」という態度だろう。

ソフトウェア工学とかIT人材育成とか、そういう仕事をしていると「出来ないことを行う」でなくては何の意味もないことがわかる。これの意味は本当は「完全無欠の理想状況は出来ないことは端から判っていることを、少しでもましにする」という意味だ。ハイデガーたちは「科学が語りえぬものだけ」を語り始めたが、それはソフトウェア工学とか人工知能・自然言語理解という『哲学的工学』において「プラクティカルな形而上学」として機能した。技術者が使うソフトではなくて、「社会の中で使われるソフト」を作ろう、その作り方を知ろうとしたことがある人ならば、少々気の効いたソフトウェア構築法より、「ソフトウェアには被投性がある。その投げ込まれ方の理解がソフトウェア構築には重要だ」という「抽象論」の方が、どれだけ本当に役に立つか理解できるだろう。「被投性」という気取って奇妙な専門用語が使われているのが理解を妨げるが、そうならば「ゴール」のような小説仕立てで伝えればよい。実際には、小説まで書かなくても、態度で伝わる。工学においての現場の徒弟的コミュニケーションは実に重要だ。これが出来ない「知恵」は技術としては「役立たず」になる。

こういうコミュニケーションをしてまで「伝えたい、しかし、語りえぬ、不完全でしかし現に世界を変える知恵」の存在と、それを確かに次の世代が古い世代の行動から「読み取る」という意味での「コミュニケーション」が可能であることを知っていれば、「語りえぬことは沈黙しなければならない」というテーゼがいかに硬直しているかが理解できる。

このことを考えるときにいつも思い出す話:ある人が街灯の下で何かを探している。近づいて尋ねてみた「何を探しているんですか?」「いや、500円玉をそこの暗がりで落としてしまいましてね。」「???どうして、落としたとこでなくて、ここで探しているんでしょうか?」「え?!だって、あそこは暗いじゃないですか」


2010年7月9日(金曜日)

ポイカート2:それを生きる、それを知る

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時20分10秒

なぜ、ポイカートに共感できたか?

  1. 情報工学者、私大教員、中堅国立大教員として、近代のテーゼが示すものを生きていた。
  2. 『検証論』『ソフトウェア工学』の研究者だったために、「生きる」だけでなく、「それについて考える」ことを余儀なくされていた。
    だから、「近代を生きている」だけでなく、その生きている場所と時間に埋め込まれた形の「近代のテーゼを考える」をやっていた。
  3. さらに、それを大学評価などの大学経営などの埋め込まれたものと比較する機会を偶々得ていた。根は半ばはがされていた。丁度、それと同じ位のタイミングでポイカートや社会学文献を読んでいる。
  4. だから、ポイカートを通して、ウェーバーを知り、それを通してギデンズを知れば….それは容易に脱埋め込みできますよね!

そうだ、そうだ!!

:lol:

フムフム、なかなか複雑なリフレクション・メタ関係だなあ。 :-x

コラ!遊んでないで、講義資料を作れ! :hammer:


ポイカート

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時37分49秒

講義準備のために、物凄く久しぶりにポイカート「ウェーバー近代の診断」を読む。今やっていることの、あまりに多くがポイカートの史観と同じであることに驚く。ウェーバーという巨人の実像については、これで学んだのだが(「マクドナルド化…」がきっかけだから10年くらい前か?それぐらい文系オンチだったわけで…思えば遠くへ来たもんだ〜♪(^^;))、最初に読んだときに、すでに「共感」してしまっていたから、「診断のテーマ」はポイカートに学んだわけでないのだが、ポイカートから多く学んでいることは間違いなさそう。訳も良さそうだし、来年、これで特殊講義をするかな(学部演習には、ちょっと難しすぎだろう)。もし、ドイツ語原本でやったら、どれくらい学生がくるかな?著者は現代史家、テーマは社会学者と近代化、教師はもと理系、教科書はドイツ語!… :oops:


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