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2010年3月18日(木曜日)

Nicolai Hartmann

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時46分48秒

種の論理成立の昭和9年の特殊講義のタイトルは「認識の形而上学」 Metaphysik der Erkenntnis. この「認識の形而上学」は,Nicolai Hartmann のテーゼ.Hartmann は Marburg Schule から出た人.田辺の特殊講義をガリ版刷の本としたものに最初の方で言及されている.H. シュネーデルバッハ「ドイツ哲学史 1831-1933」, 法政大学出版局, p. 308「ハルトマンは,存在そのものの諸原理や諸層について科学的な説明を行うことを求めたため,経験的な自然科学との競合にさらされ,そこで敗北せざるを得なかった.とりわけ自らの層理論によって彼は,たとえば進化論や,そればかりか経験的な根拠を欠いた心理学的な問いに対してまで態度表明を迫られた」 この本によると、当時はハイデガーと対比されるような人だったらしいが、今は日哲の院生の人たちも知らない。


du Bois-Reymond

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時31分22秒

Emile du Bois-Reymond を,scientism の系列に置くのは間違いだろう.少なくとも,昭和8年頃の日本で「新カント派などに親和性がある科学側からの哲学的反省」として捉えている事例がある.岩波哲学講座、菅井準一「哲学と自然科学の交渉」,昭和8年, pp.20-21, 「。。。かかる状勢はドイツを中心とする新カント派の台頭を裏付け、他方自然科学学徒の自家専攻の学に対する哲学的反省を自然奈良しめた、例えば生理学者デュ・ボア・レイモンの不可知論-自然認識の限界-では物質、力の本質、運動の起源、世界の合目的性、感覚の成因、言語の起源、および自由意志の不可知を声明して、世界の七不思議が唱道競られ、。。。


社会(主義),新カント派,左右田喜一郎

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時49分30秒

「種の論理」の成立の社会的状況として,マルクス主義に抗するものとしての「社会主義」があったらしい.これはおそらく共産主義への忌避というより,scientism 的な学としてのマルクス主義,つまり,唯物論批判であると理解すべきだろう.問題は,「種=社会=共同体」という図式.これが唯物論,個人主義に抗するための仕掛け.その結果,近衛の新体制などの新潮流としてのファシズムへの接近が発生しておかしくない.

このラインを読み解くための鍵がおそらく左右田喜一郎().

  • 田辺全集14巻「左右田さんの思出」(「思想」昭和2年10月,左右田博士追悼号.チェック!):おそらく左右田銀行倒産の際のものと思われる,左右田の京大非常勤講師(と当時も言ったのか?)辞退の際に示された責任感に対する強い共感の表明.単に学問の問題でなく,人間的に左右田を高く評価していたらしい.また,この p.366 に経済学への哲学の援用について議論 “Rickert らより左右田が徹底している.左右田の極限概念は B. Kerry (Benno Kerry?, ブレンターノの学生?)から来たものだろう,左右田は一歩 Cohen の論理に近づいている,左右田の方向に進むならば,Cohen 流の極限概念の方向に行くのではないか「本来二元的なる批判主義は,自己の前に論理以前の直観的統一を認めるか,或いは自己の後に弁証法の統合論理を許すか,何れかの途に由ることなしに一元的体系を成すことは出来ぬものであろう".田辺が弁証法(の論理)を Cohen の極限概念で理解しようとしていたころ.「弁証法の論理」の1−3が「哲学研究」に発表されたのが昭和2年.
  • 左右田監修,横浜社会問題研究書編,新カント派の社会主義観(岩波書店),大正14年,杉村広蔵の「序言」のマルキシズム,社会(主義),Toennies, Natorp, Cohen などへの言及.付録の左右田「文化哲学より観たる社会主義の共同体倫理」の内容は,「社会=共同体」を取り戻すものが社会主義であり,離散的個人から社会が構成される個人主義と,社会に全面的に個が没入する「全体主義(?)」の中間項として,社会主義が語られる.「種=社会」とおけば,ほぼ,初期,中期の種の論理における田辺の論点そのものとなる.そればかりか,ナトルプの議論として,戦後のデーデキント切断の議論を彷彿とさせるものさえある(ただし,これは弁証法になっていない.それを弁証法にすると,戦後の田辺のようになる?)
  • 左右田「文化哲学より観たる社会主義の共同体倫理」:p.208「今や「社会」を Gesellschaft (association)と解せずして Gemeinschaft(community)と解せんとすることは思想上一個の転換を意味するともいへよう.社会の発見を叫ぶ時代は個人主義の確立と其の徹底とに急なる為に社会なる型式の提唱さへ危ぶまれたる時代であった.其の極端は必要上走って社会有機体説の荒唐無稽にすら達せしめた.今や個人集団の威力は何人も否むを得ざる境地に達したる時代に至ては其の内容問題に達して之を如何に解すべきかの域に到達しつヽある.社会を Gesellschaft と解するに甘んぜずして Gemeinschaft を以って規定せんとすることは曰うまでもなく実際問題としての重要に顧みて既に社会主義(Sozialismus)の論理に於いて亦之を考へざるを得ざるの域に達しつつある.」,p.200「個人と社会(Gemeinschaft)との問題も同じように考えられる.一方は曰ふ.個人あるのみである....他方は曰ふ,唯だ社会が存するのみである.…. この両極端の説を皮相的に調和せんとするものは曰ふ.両者は共に相互に自立せる(教育の)要件(Factoren)であり又目的点として注意すべきものである,他方に還元する必要はないと.ナトルプは之に対して主張せんと欲する.迎々両者は共に独立に存在するものではない.両者は其の全部を挙げて相互に倚属しつヽある。社会 は個人の内に、個人は社会の内に非ずんば成立しない。類推を以って曰へば数学的連続(Kontinuum)は「分割せられたるものヽ連続せられたるもの」(Die Kontinuitaet des Diskreten)っとして,反対に分割者(Das Diskrete)は「連続せるものヽ分割」(Die Diskretion des Kontinuerlichen)としてのみ成立するようなものである.共に同一のことを両方面から観察するに過ぎないものであると.<この後,左右田のナトルプへの異論が続く,左右田はより個人重視>」
  • 京大文庫:K. Soda, Die logische Natur der Wirtschaftsgesetz, 1911. 和本はなし.上記,社会問題研究所の書籍は,木村孝一記念図書所蔵.(木村孝一.文学部社会学専攻昭和5年卒)
  • 群馬大文庫:T.121.9「文化価値と極限概念」(岩波),「経済哲学の諸問題」(増補3版,佐藤出版部, 1919), 「経済哲学の諸問題」(佐藤出版部, 1917).

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