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2010年2月16日(火曜日)

京都学派の末裔

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時45分04秒

昨日届いていた梅原猛「隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫) (文庫)」をぱらぱらと読む.

なるほど...確かに面白い.現代のアカデミックな歴史家ならばやらないような議論が各所にあるが兎に角力強い.amazon の読者が4をつけた意味がわかる.議論の妥当性は別として背景から赤外線のように照射してくる力のようなものがある.その原因は?京都学派を調べているものとしては,特に「はじめに」の書き出しが面白い.「この本を読むにさいして,読者はたった一つのことを要求されるのである.それは,ものごとを常識でなく,理性でもって判断することである」.梅原さんの「学問」は,これに尽きるのだろう.この「理性」は明らかにKant哲学などの意味での Vernunftだ.ようするに,田辺が社会・政治に対して哲学をもって行おうとしたことを,梅原さんは日本古代史に対して行おうとしたわけだ.違いは田辺が過剰と思われるほどに高踏的であり意図的に難解に書いたのではないかと思われるような文章を紡いだのに対して(この場合,「書いた」といわず,「紡いだ」といいたくなる.一つ一つの表現の繊維が複雑に入り組み,どれがどれにどのように絡み合っているか容易には解くことができないような文章*1),梅原が最初から大衆読者を向いていること.梅原は和辻を連想させる.戦後京大文学部のアカデミズムから忌避された梅原は「ポピュラー的」だ.その議論のスタイル,目的は明らかに京都学派のものだが,むしろ,それが忌避を招いたのかと思ってしまう.

いずれにせよ,読む前は,大先達に失礼ながら「あやしげな奴」などと思っていたが,思っていたものと違い,すがすがしさのある文章に,田辺へのものと同じ程度,あるいはそれ以上に共感を覚える.特に自分の論考が歴史学的精密さに欠けることを認めた後,それに続く一節「そういう個々のミスを指摘していただくのも大いに結構であるが,願わくば,それと共に,この本の根底にある理論そのものを問題としてほしいのである.一旦,こういう仮説が提出されたからには,もはや,古い常識と通説へ帰ることは出来ないと思う.この仮説の否定は,この仮説以上の理論的整合性をもった他の仮説の創造によってのみ可能なのである...<中略>日本の古代学の発展の刺激にならんことを」には,大変共感する.

ただし,実はこの見解は間違いで,史学においては理論なくして「否定」は可能である.「否定」をなんと取るかによるが,理論を立てた本人の足をすくい,立っていられないような痛手を与え,本人自らが退場したくなる,そういう,実も蓋もない史料・事実というのは実際にはいくらでもある.こういうものを「否定」といえば,史学にはそういう否定は日常的にある.僕はこの「否定」を引き起こす史料・史実を地雷と呼んでいる.本当に地雷は怖い.何の前触れも無く,突然爆発するのだから歴史家の心は休まらない.まあ自分がゾンビならば別なのだが(^^;),大方の学者はそうではないものだ.

田辺は,すべてのものに意味を見出そうとして躓く.(一番ぶっ飛んだのは,「社会における土地占有が相対性理論における光にあたるという議論.兎に角,自分のいる時代の歴史的事柄にも意味を見出さないといられない人が田辺だったが,そういう人,今も多いですね.)すべてのものに意味を見出そうとすること,それは地雷原と知りつつ,そこに分け入り走り回るような行為だ.だから僕らのような慎重な(*2)学者はそういうことはしない.命(学者生命)は惜しい.田辺は最初極めて慎重だったが,立場上か,西田の後を襲ったころから,これが酷くなる.

梅原さんは最初から地雷原を闊歩という感じ.この点は,やはり梅原さんは歴史学者としての思考の経験がなく,あくまで戦前の京都学派的に「理性のみに頼る」という方法にこだわりすぎていると僕には思える.先日とどいた昭和6年からの岩波講座哲学の第1回配本,西田幾多郎「歴史」に眼を通したときも同じ違和感を覚えた.ランケについても議論しているが,その全体はアウグスティヌス的時間論のような抽象論に基づいていて,歴史学というものが持つ(西田は明らかに歴史「学」も問題にしている)政治性,社会性などに一切議論が及ばない.そういう所が,田辺は嫌で種の論理など考えたのだろうが,その田辺の議論の仕方が,再び「理性のみの」「論理的」な議論になっていて,20−21世紀人として,当然のように下世話な僕などは,最初に読んだときに大いに驚き,かなり研究をすすめて,田辺の文章に慣れ親しんだ,今でも違和感バリバリなのだが,梅原さんの文章はそれと同じものを僕に感じさせる.

戦後,おそらく京大文学部は戦前の京都学派を忌避する動きをしたはずだ.これは同僚に聞いてみたが,言葉を濁された.(^^;) それも梅原忌避の一原因か?

まあ,危ないから,これはこの程度にしておこう.田辺研究だけでも十分「危ない」のだから...

で,一つだけ面白い話.(面白い世間話大好きです.これを禁じられたら生きていけない..)京大文学部100年史に出身者の一人として梅原さんの文章が載っていて,それによると京都学派以後,自分で考えるという京都大哲学の伝統はなくなった,哲学史に堕しているというような意味のことが書いてあった.これを読んだとき,なんと今の哲学の同僚達は寛容なのだろうと思ったのですが,面白い話が好きな林は,そこで「一説」をひねり出しました.「これはきっと梅原猛博士の生霊を封じ込めるため,あるいは,ガス抜きするための梅原法隆寺に違いない!」.もちろん,この説を考え付いた時の僕の顔は,こんな風 :-D:-D:-D:-D にニヤニヤだったわけですが, 後で真相を聞いて:-o:-oという感じ...なんでも,哲学から推薦した方(これも著名な方)が何かの理由で原稿執筆を辞退され,編集をまかされていたT先生(どちらかというと社会科学系の人で哲学は専門外) が,困ってしまって,有名な梅原さんに頼んでしまったというだけのことだったらしい.普通の大学や大学部局だと,勝手なことをやったとか言って大喧嘩になりそうだが(以前,そういう所にいました.(^^;)),京大文学部は互いになるべく干渉しないし,物事を根に持つ人が僕が知っているほかの場所にくらべて驚くほど少ない.で,事なきを得ているらしい.というか,僕みたいのが目ざとく見つけて一人で喜んだり,残念がったりしているだけらしい.

歴史をやっていると,こういう風に,大きな意味を持ちそうなことが,実も蓋もない偶然のために起きているということに多く出くわす.ある人が,昭和20年8月6日に広島にいたことに,普遍的・論理的「意味」を見出すことは不可能だ.しかし,そのことは,その人にとって,とてつもなく大きな意味をもつ.歴史的事実・歴史性というのは,そういうもので,逆説的ながら,それこそが一種の超越性であり.... なんだか京都学派みたいになってきましたところで,終わりにしよう.最後のデモ・ビデオ作らねば!  そうです.これも現実逃避でした.:-D:hammer:

*1:ただし,田辺の初期の科学哲学関係の論文や本は読みやすい.論旨や議論が単純なのである.ただし,初期と中期以後で殆ど同じことを言いながら,後者の文章は奇妙に難解だったりするので,単に文体の問題もあるのだろう.

*2:慎重:つつしみ深く考え深いこと.凡庸ともいう.


searchable 崩し字辞典?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時02分30秒

手書きの読みを登録・検索できる機能につける名前.searchable 崩し字辞典ではおかしい?辞典というのは汎用性を前提としているので,色々な崩し字のパターンを網羅しているという前提があるだろう.それが searchable だと,崩し字が読めないときに「絵柄」のほうから苦労なくサーチができるのだが,というのは誰でも思うので,searchable 崩し字辞典という名称をつけたくなる.しかし,私が作っているのは,特定の筆跡の個人,あるいは特定の史料内での手書き文字の読み方のDB・辞書で,画像で searchable なもの.さらに,手書き,崩し字であることも本質的ではない.では,何と呼ぶ?困った....


低体温

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時05分33秒

昨日漸く展示ビデオの内,ひとつを除いて,テロップ作成をしてくれる学生さんたちに渡す.3時間位しか睡眠時間をとれず体力を消耗したため,お定まりの低体温で体が冷たい...こうなるとシンドイ.

テロップ作成をしてくれる学生の内,1名は僕の授業にでていた人だが漫画家志望とのこと.彼はあまり勉強ができないと自分では思っているらしい.まあ,正しいかもしれないが,そう悪くはない.わざとそう言ってる面もありそう...もう一人漫画家志望の学生を個人的に知っているが,こちらは見るからに勉強ができそう(院生だから研究というべきか).昨日ある会議で彼が確かに学業成績も学部でトップクラスだと分かった.これだけ漫画というものの力が若い人たちの間で強いことに今更ながら驚く.神戸大では漫画好きのMITの学生が留学してきていた.なんで神戸大などにと思って,WEBで名前を検索したら,MIT漫画愛好会のメンバーだった.(^^;)ためしに漫画の話を振ってみると「手塚センセイは...」などという(もちろん,流暢な日本語).これがもう10年近く前になるか...成田空港で韓国の人に話しかけられ,自分はアニメの製作会社の者だ,知らないだろうが日本のテレビアニメのかなりの部分は韓国で作られている,そういう商談で日本に来た,という話を聞かされたのが1980年代の前半ころか.世界も日本も随分変わった.

昨日の会議では新研究科長予定者が「シンドイ」という意味のことを,脈絡も無く独り言のようにもらしていたが,それを聞いた隣の同僚が「ツイッただけ」とか言っていた.最初何か分からず,何度か聞きなおして,twitter のことと判明.(^^;) twitter をやるのか,と聞いたら,twitter や blog のように怖いものはしないとのこと.blog はコメントとか禁止すれば別に怖くないと思うが,確かに,最近の投稿のようについ正直に書いてしまうことは否めない.

むかし,ゲーデルについてのBBSを主催していたころに,変な人たちが集まってきて,優秀な投稿者を蹴散らしてしまい,結局面倒になって閉鎖したことがあったが,それ以来,そういう種類のものは避けてきた.一番困るのは,時間を取られること.変な投稿者は,それ自体が生きがいになっているらしいので,勤務時間だろうがなんだろうが書き込んでくるが,こちらは活動の一部でしかないので,そういうものに大きな時間を取られるのは困る.自分が論駁されたことさえ分からないくらいの程度なので「ゾンビ」みたいに死なないので,本当に手間がかかる.で,論争というものは,互いが同じ場に立っているときに初めて成り立つものだと理解して,以来,そういう人たちとは付き合わないことにしている.最初は,そういう人たちに論拠を示して,「あなたは死んだ!」と言っていたのだが,ゾンビなので絶対死なないので:-(,諦めるようになった.で,ゾンビ(似非科学もそのひとつ)を殺そうとしても仕方がない.ゾンビにはそのままそこにいてもらい.しかし,「健全な人」,つまり,僕と同じ側に立つ味方の数を増やすしかない,と考えたが,これはどうも伊勢田さんたちがやっている運動(?)の戦略に似ているらしい.

で,そういう僕がなぜブログを開設したか.理由は簡単で,これは僕の学生達に向けて書いている.専修の学生でも,僕が何を遣っているか,何を考えているかが分かっていない.あまりに,色々やっているから仕方がない.僕には個人の歴史という,それらに線を通すものがあるが,学生は,それらの断片と交差する,特定の学問の断片をやっているから,交差する場所が大変小さくなる.僕の「学問」は偶々出来上がった僕だけのものだから,真似はするな,まずはちゃんとした学問をやれと学生には言っているから(まあ,それに若いときはそうでしかできない),学生が僕が何を遣っているか,いつどう変化したかを知るのは通常チャンネルでは殆ど無理.昔のように世間話をする機会や時間をとればよいのだろうが,兼業主夫の僕には時間がない.あったら,読みたい本が山のようにあるし...

サイトだと「完成」を意識してしまうし,そう出来ているから「時間性」(即時性?ちょっと違う,時間の流れそのままに即応すること)が弱い.となるとログであるということになり,これを書き始めた.で,使い方がそうだからコメント・トラックバックは禁止ということになる.僕の活動のある部分に学生が興味を持てば,学生は僕とそれについて直接話せるわけだから.

で,twitter はどうだろうと,考えて見たこともあるが,これは僕のような学問のやり方をする人間には不必要だし,時間の無駄だ.学生に見せたいのは僕自身の「日々の生活」ではなく,僕の学問上の「日々のアイデア」なので,ブログ程度の「まとまり性」と文章の規模が必要.学問上のアイデアは一瞬では成り立たない.着想は一瞬だが,その後,数時間,数日,は最低でも頭の中でこね回す.twitter のように,それをそのまま文章にすると例え短い文章でも,自分のアイデアが固定化される(逆に言うと学者のような主に個人的思考でなくチームでやる思考・集合知のようなものには,これは適している).特に他者を意識して書くとあぶない(アイデアの自由性が減る).だから,応答できないブログ程度の「まとまり」と属人性が適当で,twitter のように,個人の「生活」をログする必要まではない. 

ということで,ブログを書いている.:-D


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