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2009年12月24日(木曜日)

田辺の影響力(2)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時55分34秒

田辺の影響力について語ったのは「碧海 純一・石本 新・大森 荘蔵・沢田 允茂・吉田 夏彦 編
『科学時代の哲学3――自然と認識』,培風館」
の座談会の田辺についての言及は, pp.244-245.

吉田夏彦:そうしますと,たとえば田辺哲学なんかは戦後ずいぶん変わったわけですけれども,
いつも我々の行為について具体的な基準を与えようとしていたわけです.たとえば,学徒出陣
というものに対してかなりポジティブな発言を出したわけでしょう.そいうふうな哲学がなくなった
ことはけっして惜しむべきことじゃなくて,むしろいいことであるといえましょう.

沢田充茂:田辺哲学といえば,いま吉田さんがいわれたそういう面もあったかもしれない.ぼく
は田辺さんの本や西田さんの本を戦争に持って行きましたけれども,要するにそこからぼくは
なんらの具体的なものも学ばなかった.なんとなくそういう哲学のことばや大言壮語を聞いて
いると,戦争のなかにフラストレーションを忘れられるというような意味で利用していたにすぎ
ないし,‘聞け,わだつみの声’なんかをみても,また,そういうふうにしか受け取られないですね.
田辺さんの戦後書いた‘日本仏教とマルキシズムとキリスト教’ですか,あんなのをみると,
それこそそれらを融合して,なんとか行為の新しい生き方を青年たちに進めようという意図で
書かれたんでしょうけれども,あれを読んでそこからなんの新しい生き方も発見できなかった.
そういうのに比べてみれば,いまのほうが大きなことを望まないだけに今度は着実に,目の前
の道というものについて,もうすこし有効な答えができるような気がするのです.

吉田:田辺さんの哲学,たまたま戦前のを出したわけですが,興奮剤として哲学を使うと言う傾向
はいまでもありますね.マルクス主義というのはかなり多くの人にとってそういう役割を演じている
わけですね,現在でも.それはいかにトレラントな沢田さんでもあまり評価なさらないわけですか,
それともいくらかでも評価なさいますか.

吉田夏彦:1928生
沢田充茂:1940年慶応大学卒


2009年12月23日(水曜日)

概説のやり方

来年度の概説で項目を全部羅列したが,後で追加したくなる.特に新しい話題でてきたときがそう.
IEEE Spectrum の Hands On に最近,DIY 関係の話が2つ続けてでた.電動アシスト自転車を
自分で作るという話と,Google Street View のカメラとソフトのシステムを自前で$300程度で
作るという話.より小さくして旅行の際に自分の帽子につけたいというようなことも書いてある.著者は
West Point の教官らしく,米軍でこのシステムを検討しているというようなことも書いてある.軍で
これを行えばすべての兵士が Gird あるいは Matrix に組み込まれることなる(2009.10.09 issue).

これが $300 でできるという点がポイント.カメラのマウントにはダンボールを使っている.ソフトは
open source のものなどをつかい少し scripting しただけ.GPSシステムと Google maps を利用
しているのがポイント.社会システムがあるからこれができる.また,飼い猫にGPSトランスミッターをつけて,
その行動をモニターしたなどいう話もあるが,これも Google Maps にその軌跡が表示される.

現代社会の(a) 一望性への志向(見える化志向)と(b)「万能Turing機械の万能性」と同じ意味での,万能
テクノロジー装置としての標準化されサイバー化された社会テクノロジーシステム(の万能性)の
話など,これらを例にして話すと面白いのではないか.

(a) は (b) を要求し,(b) は (a) を促進する.(b) は蒸気機関の時代に,機械工学装置の万能性
の認識(ケルビン卿,バベッジ etc.)として既に存在した.それが,その時代のSF文学などの発想に
結びついているのだろう.これは「蒸気コンピュータ」や「映画にみる仮想と現実の関係」などの
テーマに結びつけると面白い.

要するに「理屈・論理で組み合わせ的に考えたこと(日本で言うモジュラー思考)が,
実際に現実世界で動く,アナログ的な勘やスキルがなくても,SF的に考えるだけで殆どの
ものが本当に現実世界で機能してしまう(ベルヌの「先見性」.映画の先見性).そして,
また,その部品を素人がホームセンターやWEBサイトで廉価で買えるということ.
一人で作って配信できる音楽,映画,番組(YouTube).
テロリストの巡航ミサイルとしての旅客機(9.11).サリン製造に使われたドイツ製(?)の装置.
そして,設計図をダウンロードして家のガレージで製品を作るというベンチャーの計画(これは(a)の
「欲望」の例.実際に機能するかは「?」).etc.

Giddens の「専門家」の話との整合性は?→「インフラ装置」に専門家の知が埋め込まれている.
その存在さえ見えなくなる?しかし,素人と専門家の垣根も同時になくなりつつある.しかし,その素人は
「素人という候補者群 (farm)」の中の極く一部の才能のある人たちのみ.
本質的選別の問題&J. Horgan の The End of Science での「タヒチ(?)」の議論&
  被教育歴と専門性の分離(?):途中から専門家集団に取り込まれるのが普通

こういうのをシラバスを書いた後に気が付く,あるいは,講義が始まってから,そういう話題が見つかる
という場合を考えて,テーマは optional にしておいた方がよい.1テーマ程度ならば,例外で
良いが,数テーマ分,そうすると予告するのも面白いかも.また,学生からテーマを募集して,
それを少し後の回にやるというのも面白いかもしれない.ただし,これは最初にテーマを募集するの
でなく,少し進んでからやると良い.そうでないと学生が「何を期待できるか」が理解できないだろう.
やってみせて,それへの反応として要望をだしもらう.ただ,2回生向けなので,それはやはり無理か・・・

それから minute paper がよかったという話も学生からあった.


2009年12月21日(月曜日)

田辺研究の意味

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時05分47秒

ひとつ前の投稿に関係するが,学生から「田辺を研究していることの意味を説明できるか」と聞かれた.
その時は「日本論理学史の一環」という程度にしか答えられなかった.しかし,数日前に届いた
Michael Friedman の A Parting of the Ways のイントロを読んでいて,その真の意味が
わかった.現代の英米哲学のかなりの部分は,「哲学の科学化」にしか見えず,意味があるように
思えなかったが,Friedman も同じ趣旨のことを書いていた.つまり,新カント派から,
論理実証主義への流れは,哲学の modenization の問題そのものであるといえる.
この問題を日本で最も強く体現し,ある意味で,それに強く抵抗しようとしていたのが田辺だっ
たといえる.それが私の田辺研究の最大の意味だろう.


2009年12月20日(日曜日)

分かりにくいシラバス

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時46分36秒

金曜日に学生たちと雑談をした際に来年度の2回生用講義のシラバスへの意見を聞いたら,
まだ分かりにくいという意見がかなりあった.専修の学生たちは,私の遣りたいことは理解して
いてくれるようだが,外から見ると何をやっているかわからないので敬遠されるというのが
学生たちの以前からの意見で,今回は,それを相当意識して書いたのだが,まだ分かりにくい
らしい.

まあ,私が何を理解しようとしているかが本当の意味で私自身に分かるときは,私が知りたいと思っている
ことはほぼ解明できたということだろうから,それが2回生に容易に分かるわけはない.同じようなことを
やっている人が「共感」あるいは「反感」として理解してくれる以外に,これを「理解」できるとは思えない.

今回は漸く16,7世紀頃から見えてきた流れの重要なエポックの話,あるいは海流的な流れを
8テーマ選んで並べたのだが,それぞれのテーマは学生は「聞きたい」と言ってくれるが,
全体がどう関連するかが分からないという.学生たちにシラバス案を見せた後で,そこを考慮して,
その部分は講義で聞いて理解して欲しいと書き添えた.

このグローバルな連関は文章ではなかなな書けない.講義するのもむずかしい.明治のお抱え医学者ベルツ
言い方(岩波文庫「ベルツの日記(上)」明治34年11月22日)に,講堂では学びえず,学者との
交際によってのみ学びえる精神,たいていの場合に,それを得るために一生を費やす精神,
というのがあるが,それに近い.ベルツが言ったのは,私が伝えたいものよりさらに根底にあるも
のなので違うのだが,しかし,それに近い.(これが文章で有る程度伝わるようになったら,私の
学問も一応完成に近づいたということになるのだろう.完成できるわけはないが)

こういう分かりにくさがあるので,8テーマの内,2つ理解できれば十分とした.単なる講義として受
けるには,それで十分だろう.そうでないと2回生にはテーマが重過ぎる.8テーマもあれば,どこ
かに爪が引っかかる可能性が高い.それを期待している.爪を引っ掛け,よじ登ってもらうしかない.

この辺りが体系的に綺麗なコースを作れた(それが分かり易いかどうかは別として)理工系を教
えていたときの講義と随分勝手が違う.標準化は無理だ.だから,来年は良いが,その後はどうす
るか.これが問題だろう.

学内でシラバスの平準化など進んでいるが,その関係の話を見聞きすると,理工系や社会科学
系(経済学・法学など)の人には,このような問題が分からないはずだろうなと思う.私自身,歴史
の研究はしていながら,人文系教員になるまで,この問題は想像もしてなかった.理工系の時は,
技術者養成が適当なミッションである大学にいたこともあり,「標準化推進派」だった
が,京大文学部に転職して,ようやくそれが社会的役割に適合しない教育機関が存在することが
わかって大いに驚いたものだ.それまでは,そんなのは単なる我侭,怠け癖だと思っていたわけだが,
今は,それこそが必要かつ合理的なものであり,また,「なまける・なまけない」という,つまらない
問題に限定しても,実は,こちらの方が,余程難しいと思っている.自分が学生より学者として高みに
いる以外に講義の場で教師としての立場(いわゆる面子)を維持できない.つまり,教師として認めて
もらえないのだから,こんなシンドイことはないからだ.

自分の長年の専門分野を教えるなら,そういう位置を保つのは簡単だが(というより何もしなくても
良い),分野を動かす場合は,本当に冷や汗もの,それどころか,胃潰瘍になりそうな感じだ.
今年の種の論理の講義の最初のころは,そんな状態だった.こちらは素人なのに日本哲学史の
ドクターの学生さんたちが聞いているのだから.

これがC言語,オートマトンやら数学の講義になると準備さえしておけば,軽い軽い.何を教えればよいか,
ほぼ決まっているので,良い講義はできないが,間違えはしないで済むので,努力さえすれば,
講義準備ができる.ところが,哲学素人の私が田辺についての講義するとなると,まともな講義の
準備をするのが研究成果を出すのと同じ様な困難を孕んでいたわけで,実は,始めるまで,それ
に気が付かなかった.(何と迂闊!

幸いそのレベルのことができて,何とか最後の段階では纏めることができた,というか,新たな研究
の道に繋がったので,大変よかったのだが,種の論理の展開時に田辺が Brouwer の spread から
着想を得てなかったら,果たしてどうなっていたか・・・

つまり講義をするのが綱渡りのようなものであるわけが,一方,研究というのは,いつもこんなものだ.
要するに京大文学部では教育と研究が同じレベルの困難を含んでいる.研究の場合,今まで何とか,それで乗り切って
来ているので,結構,平然と清水の舞台から飛び降りるのだが,毎回,何故か枝に引っかかって一命
を取り留める,どころか引っかかったら,前に有難いお札がぶら下がっているのが普通なので,観音様
を信じて飛び降りるということを何時もやっていたわけだが,教育でこれをやるのは初めてで,相当にしんど
かった.2度目は止めておいたほうがよいさえと思うが,昔の学者は,これを毎年やっていたわけだから,
凄いものだと思う.
#だから,こそ「無条件の権威」という「理不尽」が必要だったのだろう.今,それは使えない.
#自分への外的期待値を下げるか,それは崩さず,どんなに困難な状況でも乗り切るかなのだろう.


2009年12月10日(木曜日)

田辺の影響力

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時52分23秒

田辺の影響力について語ったのは「碧海 純一・石本 新・大森 荘蔵・沢田 允茂・吉田 夏彦 編
『科学時代の哲学3――自然と認識』,培風館」
の座談会の参加者のだれか?明日,附属図書館で確認.

田辺関係でもう一つ見つけられないのが,リーマン面を切ってつなぐものとして,弁証法的と議論して
いる箇所.田辺の Dedekind 切断の「切って繋ぐ」は,本当は「切れていて,かつ,繋がっている」
という意味.この場合,切った場所で,そのまま繋がっていなければ,弁証法的な状況は生じない.

しかし,リーマン面の切って繋ぐはメービウスバンドのように,切った後で繋ぎ方を変えて繋いで
しまう.田辺は,これをクラインの「19世紀の数学...」で読んで,単に言葉上の類似性で誤解し
自分の考えていたものに無理やり重ね合わせていると理解できる.

実際,そういう大域的な繋ぎ換えをしてしまうと,「切れていて,かつ,繋がっている」というつながり
部分が普通のつながりになってしまう.つまり,新規なのはトポロジーのように大域的な話であり,
種のみの話となり,個が忘れ去られる.田辺の種の論理の意図は初期においては「個の論理」
の要素が強いので,自由主義的要素がなくなる,そういう読み方は適切でなく,田辺の真意と
大きく異なる解釈となる.同様の理由で「多様体の哲学」の議論も種の論理のもともとの発想
と大きくことなる.田辺の切れていて繋がっている連続体としての種は,多様体の一例ではあるが,
わざわざ多様体として理解する必要がない実数直線なのである.

 

 


2009年12月4日(金曜日)

田辺と学徒兵

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時50分47秒
注文していた,学徒兵の精神誌 ― 「与えられた死」と「生」の探求, 大貫恵美子著が届く.田辺の影響力は僕が想像していたより
大きかった可能性が高い.わざわざ田辺の講演を聴きに京都まで旅するということもあったらしい.その影響力がどれほどの数の
学生たちを戦場に送ったのか?これはおかしな問いで,田辺に影響されて志願して戦場に赴いた人たちはそう多くは無いだろう.
種の論理が,そこまで力がある思想とは思えない.国家・社会はいずれにせよ学徒たちが戦場に赴くしかない状況を作り出した
わけだから,それは田辺の力ではない.しかし,田辺の思想を「理由」として使い国家・社会の圧力を自らに納得させた学生がいた
ようだ.それは少なくなかったはずである.種の論理自体が,田辺自身が,国家主義を「論理的に納得する」ために作られている
のだから当然といえる.先日,群馬大の資料を撮影していたら,「雑稿」中の講義下書きらしいものに明らかに国家主義を鼓舞す
る語句があった.戦争中のものだろう.昼食時に,このことをTAの橋本君と話した.二人で田辺は変わり身がはやいということで
意見が一致した.田辺は時勢に敏感に反応し過ぎる.これは僕らが持つ哲学者の(勝手な)イメージと違う.しかし,彼の哲学が,
数理も自然科学も,社会存在もすべてを貫く「論理」があり,歴史もその論理で動くという信念に基づいていると思われるから,
これはその帰結であるともいえる.つまり,田辺は「予定調和」を信じているのである.だから,時勢は彼の論理が「予測」する
ように進む.しかし,現実に起きていることは彼の論理が現実に沿って変容しているのである.絶対弁証法を標榜する田辺哲学
では,これは日和見でなく,根源的形而上学的法則に従う現実なのである.これを「田辺の時事過敏性」と僕は名づけたのだが,
その度合いはかなり凄い.しかし,気になることがあって,田辺の思想が常に少し前に「用意」されており,それを「時事」が活性化
しているように見られるところである.もし本当なら,必ずしも時事に反応しているだけではないということになる.
 
これに関連して,出口さんに教えてもらった1960年代か70年代の分析系の哲学入門書に収録された座談会で,「田辺の
影響力で学生が戦地にいったわけではない」というような発言をしている,自身がどうも学徒兵だったらしい哲学者がいた.
これがどの本で,どういう人か,まだわからない.書類の山から見つけなくては.(^^)

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