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2009年10月28日(水曜日)

宗教 in S9

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時42分22秒

昭和9年の手帳No19@群馬大田辺文庫の夏ごろと思われるものにかなり宗教関係の記述がある.宗教を類の位置に置いたために必然的に宗教について考察が始まったのだろうか?しかし,それが何故,真宗に結びついたのか?Cohen のユダヤ教の哲学との関係はないか?田辺文庫のCohen の宗教哲学関係の書籍の書き込みの調査が必要.


種(連続),連続(実数)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時12分28秒

群馬大田辺文庫手帳 No.19(昭和9年)の12月ころからの時期とおまわれる箇所に,種(連続),連続(実数)などの記述がある.「社会存在の論理」上・中・下は,それぞれ9年11月号,12月号,10年1月号.ただし,「上」に全目次が入っている.また,「五」では直観主義の連続体と「種の論理」との関係が論じられている.したがって,直観主義と種の論理が関係付けられたのは,11月以前(おそらく夏)と推測できるので,この位置でのこういう記述は自然.周辺に面白い図あり.このあたりは分析が必要.面白い部分.


2009年10月20日(火曜日)

Neo-Kantian in Gray’s book

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時35分09秒

15日に Gray の Plato’s Ghost には neo-Kantian への言及が少ないと書いたが,ちゃんと読むと,Natorp, Cassirer など(特に前者)への言及はかなりあり,Natorp についての節もあった.おそらく,「手なずけられた neo-Kantian」に Gray は興味を持ったのだろう.しかし,田邊研究の観点からは,Cohen のような一見、非合理にみえる neo-Kantian がポイントだろう.


2009年10月19日(月曜日)

忙しい・・・

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時58分05秒

昨夜は,八杉ともども,グーグル・ジャパンの村上さんご夫妻と会食して久しぶりに放言.楽しかったー.(^^)
今日は日曜日だというのに朝から特別研究員やら研究費の申請やら,書類書きばかり.研究費の方は,まあ,サボっていたのだから自業自得.
研究員の方は,世のため他人のため.初老の僕には応える.若い頃は24時間闘えましたけどね...(リゲイン,リゲイン♪) ←ギャクさえ古い.:hammer:

疲れきると,本性が出てきて,いい年をして,つまらんことを書いてしまう.これが僕の本性だぞー,学生諸君!!!
アホなこと書いてないでもう少し研究費の書類を書いて寝よう...でも,この分だと,明日も藤田先生の種の論理の演習には出られそうに無いな.
これでは折角,文学部に移ってきた意味がない!悲しい...:cry:


2009年10月16日(金曜日)

Babbage, J.S. Mill, K. Marx

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時53分14秒

経済学史,経営学史では,C. Babbageを技術論に立脚した経済学の先駆者として位置づけ(Taylorismの先駆といってもよい),彼の解析機関を J.S. Mill, K. Marx へ到る分業論の系譜と関係付けるという考えかたは,Stanford の Nathan Rosenberg の研究(1990年代?)などにより,少なくとも海外ではかなり定着している.また,イタリアの思想家たちは,これをさらに Marx の Grundrisse の Fragments on Machines と呼ばれるテキスト群の技術論と結びつける.情報史のほうでは,逆にさかのぼり Adam Smith から de Prony,そして,Babbage にいたる系譜を重要視する.さらに Babbage へは Etienne Bonnot de Condillac の科学言語論からの影響があるという実証研究が最近の数学史で始まっている.つまり,一度,忘れられた「コンピュータの父」(この評価は実は虚像だが,そういう虚像ができたいうことに実に重要な意味がある)としての Babbage が,19世紀のさまざまな近代化現象の流れの中に結節点のように存在している.この話は,日本では,あまり知られてないと思っていたが,先日,SONY 岩間レポートについての集中講義で来ていただいた吉備国際大学の大谷さんは,これらのことの相当部分をご存知だった.そこで情報史の人たちの間では,日本であっても有名なのですかと質問をしたら,大変に丁寧に状況を調べていただき,その報告のメールが今日来た.なかなか面白そうで,知らない話が相当書いてあるので,来週でも調べてみようと思う.大谷先生の岩間レポートの画像を投射しながらの講義も学生たちに大変評判が良かった.こういうことがあるので,色々な方に非常勤で着ていただけるのは大変にありがたい.非常勤を少なくするという傾向があるが,少なくとも京大文学部のように次代の研究者養成が大きな任務の場所では,非常勤の優秀で多様な先生方に学生が接することができるということには大きな意味がある.


2009年10月15日(木曜日)

Neo-Kantian in Plato’s Ghost

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時55分30秒

新カント派への言及が数学基礎付け運動(数学基礎論運動)を数学におけるモダニズムと捉える J. Gray の Plato’s Ghost でどう扱われているか気になっていたら,丁度,今日のゼミがその部分だった.思ったより扱いが軽い.というより,Michael Freidman の Davos disputation (Heidegger, Cassier)についての説に従えば,Gray が “そして logicism へ"として扱っているプロセスのその前が僕が見たい部分.Gray はあくまで数学史の範囲でやっているので「その後」が見たいわけだろうから,Marburg 学派への言及は marginal なものであって自然.Gray の説は現代数学をモダニズムと捉えるのが主眼.僕の視点はといえば,現代数学の成立過程を通してウェーバーの意味での近代化も含む広い意味でのモダニズムを理解したいのだから,Friedman が言う「分岐」の時点から見れば,Gray の視点とは反対の位置にあることになるので,これは当然だろう.Hilbert の思考形式は19世紀末にはすでに固まっており,後は,その漸進的な改善といえるから,こういう構図でなんらおかしくない.

この関係の本を文学部図書室に調べにいったら,Wund の生理学的心理学 Physiologische Psychologie など,この話題がらみの古い本が哲学専修の書棚に膨大にあるのを発見.19世紀終わりから20世紀の20年代ころまでの本だから,西田や田辺たちが集めたのだろう.このコレクションを見ていくだけで,何かが分かるのかもしれない.


2009年10月14日(水曜日)

ヒルベルトとウェーバー

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時08分42秒

「ヒルベルトの形式主義とM.ウェーバーの合理性理論との関係を解明したい,すくなくとも,その二つが共有する背景を見たい」ということは,以前から何度か控えめに書いていたことだ.「控えめ」にしたのは,もちろん,数学思想と社会学のための社会的行動の分類理論の関係を言うことの危うさくらいは分かっていたからだが,最近やっている田辺元研究の中で「田辺→H.Cohen→新カント派の19-20世紀ドイツでの存在」と調べてきたら,これが当たり前に見えてきた.ウェーバーと西南学派の関係は言う必要もないだろうから,ヒルベルトや同時代の数学者たちが新カント派の思想とどのような関係にあったかを実証できれば,やりたかったことはほぼ見えてしまう.ヒルベルトたちは,直接にはこういう当時の哲学にかかわろうとしてないが,Helmholtz などには直接の言及もあるわけで,当時の数学者と哲学との関係を文化史的・教育史的に明らかにすれば良いわけだ.(橋本君がやっているドイツ教育史のコンテキストでの数学基礎論論争の思想理解の研究とはどうつながるだろう?)そういえば Peckhaus の Hilbertprogramm und Kritische Philosophie. Das Göttinger Modell interdisziplinärer Zusammenarbeit zwischen Mathematik und Philosophie というのもあった.ドイツ思想史,教育史などの厚みを考えれば相当に確りした論を立てることができるのだろう.しかし,田辺研究がこういうことのヒントになるとは思わなかった. :-)


2009年10月13日(火曜日)

本当の学者

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時21分20秒

京大文学部に転職して文系の研究や教育というものがどんなものか初めて知って,カルチャーショックの連続だった.その内の一つに,歴史のプロは自分の意見や価値観を容易に明かさないものだということを知ったことがある.広く浅くの知識しかないマスコミ学者やライターは,少しの『種』をもとに多くの結論を引き出そうとする.その方が読者に受けるし,努力と印税の比としての経済性も高いから当然だろう.

そういう学者は地平線の彼方まで「軽々と飛翔」して・・・,そして,そのままにしてしまう.一方で玄人は飛んだ経路をもう一度徒歩で確認しようとする.徒歩の旅は,大洋にぶつかって中断せざるを得ない場合もある.しかし,その場合はなんとしてでも大洋を渡るために船を作る.それでも無理ならば潔く諦める.そして,徒歩で歩きとおすまでは,自分が地平線の彼方まで飛翔したことは容易に明かさない.本当の文系の学者とはそういうもののようだ.

少し学問をやっていると「飛翔」することは割と簡単にできるようになる.実は文系の教育というのは,そういう飛翔の危険性を教えることに相当の比重がある.座禅をしていると空中を浮遊したりするような感覚になることがあり,それを悟りだと誤解する人があるが,禅宗ではそれを野狐禅と呼んで強く戒めているという話を聞いたことがあるが、これと良く似た話であるようだ.素人や能力の低い編集者は自分では飛翔ができないので,飛翔する人を『天才』などと持ち上げたりするが,実は天才などではなくて,単に歯止めが利いていないだけの野狐禅である場合が殆どだ.

文系の正統的な教育を受けていない私は「軽々と飛翔」するのは大得意で,セミナーなどで好き勝手なアイデアを思いつくと,そのまま話してしまう.自分でも良くこれだけ奇抜な発想がでてくるなと思うが,殆どは野狐禅である.だから,学生が引いているのが見えることも少なくない.しかし,私は,その後,必ず徒歩での再検証を行うか,意見を撤回することにしている.「飛翔した」ことを隠さないのが,本当のプロと違うところだが,そこは「理系出身」ということを悪用して大目に見てもらうというストラテジーをとっている. ;-)

こういうずるいストラテジーも使って飛翔するのは,そうすると気分が良いからだが,後始末はちゃんとやっているつもりだ.しかし,飛翔しっぱなしの人たちは・・・、怠惰とし
か言いようがないな。:-(


2009年10月12日(月曜日)

田辺元研究

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時19分56秒

長年続けていたヒルベルト研究が一段落して以来,「京都学派の論理」を調べていたが,今年度になって哲学者田辺元の思想史的研究を本格的に始めた.出版された著作の分析,群馬大・京都大両田辺元文庫の手稿や蔵書への書き込みの調査より,色々と面白いことが分かってきつつある.その中で,私のすべての研究の背景にあるともいえる「数学基礎論史」と田辺哲学の深い関係を発見したことが,最も予想外のことだった.時代的に言えば,また日本の学術がドイツから大きな影響をうけていたことを考えれば,密接な関係があることは当然ともいえる.しかし,まさか田辺哲学の「種の論理」がブラウワーの自由選列による実数論をモデルにしているとは思わなかった.

田辺自身が「種の論理の意味を明にす」でそう強調しているにもかかわらず,見過ごされていたことに違和感を感じるが,当時も現在も「数理哲学」的なアプローチが日本では困難であり,殆ど田辺の独擅場であることが影響しているのだろう.高橋里美が種の論理を批判する際にも「私には直観主義数学云々という部分は理解不能だが」という風に,田辺にとっては核心でさえあったと思われる部分を棚上げにして議論をしている.西田・田辺の数学への「嗜好」は良く語られるところだが,これは単なる「嗜好」ではなく,西洋哲学,特に19世紀後半からのドイツの思想史的状況からすると,むしろ当然の興味だったといえそうだ.

私の研究は極く最近になってまた少し進み,新カント派 Marburg 学派をキーとして,Marburg 学派と田辺哲学の関係,Marburg 学派とドイツ社会特に19世紀科学万能論,そして,それにつらなる数学基礎論における議論の関係、というパースペクティブがかなり見え始めてきている.しかし,Marburg 学派という当時の時代的状況を理解するための鍵になる集団がカッシーラーなどを除き,殆ど見向きもされない状況になっていることに驚く.G.B.Moynahan は科学哲学にみえるMarburg 学派のそれが実は当時の Wilhelmine Germany の政治社会状況に分かちがたく結びついており,政治社会状況の変化により意味を失ったという説を立てているが,Klein, Hilberlt, Brouwer, Weyl などの政治性を知っている人間としては,納得できる見解だ.

しかしながら,その衰退からおよそ1世紀を経て新カント派の持つ意味と意義がようやく学術研究の俎上に載り始めた兆候も見える.これは数学基礎論を数学の近代化の過程の一つとして捉える傾向が(欧米の)数学史家の間に広がりつつあることとも無縁ではなかろう.日本では,数学と思想の関係がゲーデルや数学基礎論への言及が多かった日本的ポストモダン思潮,所謂ニューアカのために「素人のための嗜好品」に堕してしまった.しかし,これからようやく彼らが何かと発言しながら,解明しえなかった近代の「歴史の流れ」の本当の姿が地道な学術的研究により解明されるのだろう.


テスト

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時55分02秒

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