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2016年1月28日(木曜日)

切ない???!!!

2016年6月24日追加:院生の橋本君によると、「切ない」というのは読者が自身の身を切ないと思っているのだとか。なるほど、そうなのか。

以前公開しておいた「あるソフトウェア工学者の失敗」が、結城さんがツィートしてくれたために、
11月ころに一時評判になっていたらしい。アクセスを調べてみたら、ほんの数日のことで、
評判といっても小さなもの。

反響を見てひとつ大変驚いたことがあった。それが、あの文章が「切ない」という反応が
かなりあったこと。あの文章は、日本のITは弱いという前提で、それの理由を書いてくれ
という依頼だったので、ダメな理由だけ書いているので、否定的トーンが多くなるのは
当然。そうでないとタイトルが偽りになる。

しかし、本当の結論は、一番最後の、たとえそうであっても、微風を送り続けるぞ!という所。
これは、パートナーが好きなあるアニメのセリフをもじって書いてあり、その意味で、
軽いジョークにさえなっているのだが…
#まあ、全国区のアニメではないので、気づいた人がいなくて当然だが。

絶望したのも国の政策研究所での活動が何か役に立つはずだと思っていたが、
それが無理だったということだけのことで、だから日本は永遠に駄目だ、
などとは、全く書いてない。だから、本人は全然切なくない。
それにより自分が何をすべきかがわかったのだから、むしろポジティブ
ともいえる話。やるべきことは、大変になったが、それはやることが
増えたということ。つまり、退屈している暇がますます無くなっただけのこと。

Wenn ich wüßte, daß morgen die Welt untergeht, würde ich heute noch ein Bäumchen pflanzen.
Martin Luther


2014年10月9日(木曜日)

溝口君たちのプロジェクトがグッドデザインに!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時21分44秒

僕の専修の重要メンバーである学振研究員の溝口君が主催する「思い出サルベージ」が、
グッドデザイン賞を受賞。おめでとう!!

思い出サルベージこそは「デザイン・シンキング」の典型的な成功例だと思っているが、
それを自分で作り出してしまう溝口君には驚嘆する他ない。

で、そういうことを京大デザイン・スクールの中小路さんに話したら興味を示していた。
彼女の講義か何かで講演して欲しいとのこと。溝口君、一考お願いします。

こういう若い人たちが、さらなる高みを自然に目指す、そういう日本になって欲しい。


2014年8月6日(水曜日)

この数日で考えたこと

Labyrinth of Thought 2章の翻訳作業を開始。著者はスペインの
科学史家フェレイロス。

この人の手法は僕の手法によく似ている。

それで思ったのだが、フェレイロスや僕がやっているようなことは、
数学史ではあるが、より適切には数学思想史と呼ぶべきだろう。

つまり、数学に興味があるのではなくて、むしろ、それをやっている数学者の
ものの考え方に興味がある。だから人間関係とか、手紙とか、日記とか、
未発表原稿とか、講義資料とか、そういうものに大きな興味を持つ。

僕の場合は、特にそうで、数学の歴史を理解したいのではなくて、それを通して「近代」を
見たいのであって、専門の一つだと言っている数学の歴史は手段に過ぎないとさえいえる。

元が、一応は数学者だったので、ある程度まで数学をちゃんと理解する能力があり、
それが人文学者としての強みになっているから、情報技術史とともに、
それを多用しているが、もし、元が生物学者だったら生物学史を使っていただろうし、
物理学者だったら物理学史を使っていただろう。
#同じことが生物学でできるというのは、Reenchanted Science を講義してみて実感した。
#ユクスキュルの存在は大きい。しかし、ヘルムホルツの存在を考えると、おそらく物理でも
#同じことができるはずだ。エホバがいれば必ずルシファーはいる、ルシファーがいれば
#必ずエホバがいる。ただ、ユクスキュルにあたる人がいるのか、だれになるのか、
#物理を知らない、僕は解らない。丸山君が解明してくれるかな?

昨日(5日)は以前調べておいたワイルの哲学関係の講演などをまとめた本を読む。
キンドル版なので、たちどころに手に入るがのがうれしい。これが大変に
面白い。ニーチェ、キルケゴール、ディルタイ、ハイデガー、ヤスパースなどに
まじり、シェーラーも出てくる。この人がブラウワーを、この系譜でとらえていた
ことは明らか。1949年の Man and the Foundations of Sciences という
未発表のマニュスクリプト。この中で、ハイデガーの Sein und Zeit の思想を、
英語圏の人々に何とか解説しようと延々と語っている。

「ゲーデルと数学の近代」に関連して、Mind&Nature, Kindle版、コロンビア大200年祭のパラグラフ17が面白い。

Last but not least, I have seen our ideas about the foundations of mathematics undergo a profound change in my lifetime. Russell, Brouwer, Hilbert, Gödel. I grew up a stern Cantorian dogmatist. Of Russell I had hardly heard when I broke away from Cantor’s paradise; trained in a classical gymnasium, I could read Greek but not English.9 During a short vacation spent with Brouwer, I fell under the spell of his personality and ideas and became an apostle of his intuitionism. Then followed Hilbert’s heroic attempt, through a consistent formalization “die Grundlagenfragen einfürallemal aus der Welt zu schaffen” [to answer the fundamental questions of the world once and for all], and then Gödel’s great discoveries. Move and countermove. No final solution is in sight.

フォン・ノイマンの「変心の系譜」と並行して、これも使うこと。

他の面白い点を記録:

  1. I have wasted much time and effort on physical and philosophical speculations, but I do not regret it. I guess I needed them as a kind of intellectual mediation between the luminous ether of mathematics and the dark depths of human existence. While, according to Kierkegaard, religion speaks of “what concerns me unconditionally,” pure mathematics may be said to speak of what is of no concern whatever to man. It is a tragic and strange fact, a superb malice of the Creator, that man’s mind is so immensely better suited for handling what is irrelevant than what is relevant to him. I do not share the scorn of many creative scientists and artists toward the reflecting philosopher. Good craftsmanship and efficiency are great virtues, but they are not everything. In all intellectualIendeavors both things are essential: the deed, the actual construction, on the one side; the reflection on what it means, on the other.Creative construction is always in danger of losing its way, reflection in danger of losing its substance.

今朝(8月6日…)は後期の特殊講義準備のために西谷のニヒリズムのシュタイナー
のところを読もうと思って全集を読み始めて、むしろ、リアリズムとの
関係に目が行く。以前、読んだときには理解できていなかったが、
シェリング、キルケゴールなどの西谷の意味でのリアリストの位置づけと、
上のワイルの construction を重視する人たち、というのは同じ。

西谷のは、明らかに、西田の純粋経験とダブっている。で、西谷の意味のリアリスト
たちはヘーゲルのイデアリズムを通ってリアルに接続する運命にあった
という点を読んでいて、自分の立ち位置をようやく理解。
#また、これは上に書いたワイルの哲学の議論と完全に連動している。
#ただし、飽くまで西谷は哲学者の、ワイルは数学者の立場にたって
#語るため、見かけ上は、かなり異なるのだが…

要するに僕が哲学に最終的には違和感を持つのは、この点。つまり、僕の
ようなプラクティスもやっている人間には、これは哲学の範囲の中で
哲学でできないことをやろうとしている無謀な、まるで、気持ちの問題により、
*安易に*太平洋戦争に突入した大日本帝国の行為のようにみえる。
#太平洋戦争突入が、犹澆爐忙澆泙譴名況”に置かれたからだ、
#などという*言い訳*は、僕は絶対に受け入れない。人間は這いつくばって
#でも生きるべきだ!!

だったら、歩き回れ、蹴っ飛ばせ!、と言いたくなる。

で、実際、僕は、そういうときは歩き回るし蹴っ飛ばす。

ただし、それだけでは危うい。僕は、ワイルの

Creative construction is always in danger of losing its way,
reflection in danger of losing its substance.

に共感する。そして、これはウェーバーの理想型の思想でもある。
だから、ウェーバーが好きなのだな。


2013年9月10日(火曜日)

共立数学文献を読む会 講演資料

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時49分29秒

先週末、東京の共立出版で、数学文献を読む会で講演。前回が2007年。
講演資料:http://www.shayashi.jp/kyoritu2013.pdf


2012年11月7日(水曜日)

K.T.君の research proposal

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時25分46秒

科研費やら、京都学派アーカイブ新聞発表の資料やら、複数の書類の締切と、
Googleジャヤパンの清水君たちの訪問など、なぜか、この数日に5、6個の
用事が全部重なってしまい、呆然とする程の多忙。書類は、一つを残し、
先ほど、ようやく全部片付く。残りのひとつは同僚が書いたものに手をいれる
だけだし、大変しっかりした人の文章なので、金曜日までには楽勝で間に合う
だろう。

で、今日の昼間は、書類書きの合間を縫って、来春、ドクター
を受験予定の留学生のK.T.君と、research proposal の検討。

これが滅法面白い!TPS, Steve Kline, T. Winograd, Agile, Lean,
OSF, Giddens (たち)の Japanese model などにマルキスト、社会主義者の
カウンターパートがある。K.T.君は、そちらの系統の教育を受けているので、
すべてそちらから攻めているが、このリストの中で、唯一、Left系の
Winograd さんで接点発見。F.Flores は、F.T.君が注目している
チリ革命の立役者のひとり。しかも、この革命では、サイバネティクス
が重要な役割を果たしているとのこと。となると、当然、リックライダー
人脈につながる!

僕の背景は、どうしても資本側になってしまうが、ネグリと
Grundrisseを読んで以来、気になっていたマルキストのルートが
K.T.君のお陰で勉強できそう。是非、合格して欲しいものだ。
で、まあ、彼の実力からすると、当然合格なのだが、それでも
語学の試験があるので、合格するまでは、一応、フルネームは
避けて、イニシャルで refer。
#まあ、英語のresearch proposal の検討が全部日本語でOK
#の人だから、語学でダメといのも考え難いが、しかし、
#世の中何が起きるかわからないので、一応、慎重に…

で、Giddens やら、それからマルキストルートということで、
渕一博さんのことを話す。おもしろがるので、僕の渕さんについての
論文が掲載された本を貸した。黒川さんはどういうかな。そういえば、
メールにまだ返事していない。すぐに返事します、黒川さん!

思えば、これから調べる予定のSPDルートは社会民主主義、これと、
このルートの市場社会主義は関係あるのだろうか。実に興味深い。

思い出サルベージの発案者溝口くんの学振PDの申請(社会学)が
受理されて、来春から、彼が研究室に合流する。溝口くんと
K.T.君のシナジー効果が期待される。おもしろくなりそう。
卒業生のY.H.君もドクターで帰ってくることを希望しているので、
3名そろうと、相当におもしろそうだ。内、2名は吉田純さんの
紹介。吉田さんには感謝感謝!

と、希望は膨らむが、兎に角、明日は清水君たちグーグル社の
人たちの来訪と、Participationの思想の特殊講義。おっと、
まだ、講義準備ができてない!明日、午前かな?動員と
participationの関係など。

おっ!そうだ。コペンハーゲン交響楽団などの Smart mobs
の画像を見せなくては。おっと。先週、教室のネットが不調だった
のだった。午前中に必ずcheck!!!!

はー、忙しい。コピーロボットが欲しいな…


2012年8月26日(日曜日)

京都現代哲学コロキアム

カテゴリー: - susumuhayashi @ 09時31分42秒

25日午後、京都現代哲学コロキアムで講演させてもらった。
https://sites.google.com/site/kyotocolloquium/home/meetings

お願いして聞いていただいた社会学の吉田さん以外は、大変若い人たちばかりの
小さな集会。やっている研究が溝口さんとの議論で何かようやく方向が完全に
わかったと思えたので(感情というそれまで考えていなかったファクターが、
彼との議論が切っ掛けでシェーラーを通して、ワッと全体とつながった)、
久木田さんの誘いにのり話させてもらったものだが、若い人たちの小さな集会。
僕の研究の全体像を初めて出すことにした講演だが、それに適した場だったようで、
大変良いコメントと反応をもらいうれしい。

溝口さんには無理難題であることは承知で、講演をしてもらったが、
やはりちょっとつらかったみたい。すみません。m(_ _)m
でも、興味を持つ人が多くて人的関係もできたみたいで、
とにかく、よかった。僕も彼と話せたし。

Moore はマッキンタイヤなどの倫理学史を調べ始めたところだったので、
少し気になり始めたところだったが、オーストリアは考えてなかった。たしかに、
ブレンターノとか無視してウィーン学派の時代を語ってはおかしいだろう。
モダニズムを通しては着目してはいたのだが、こちらに考えがまわっていなかった。
ハプスブルグを無視するのは完全におかしいのは当たり前だが、見えないときは
見えないものだ。こういうのを教えてもらえるのが知らないところで講演などをする
ことのよい点。京都学派を通して中国、韓半島などの極東の問題もあるし、
まだまだ、いろいろありそうだ。

そのときの講演スライド(8.30に修正)。今後、これを柱として進むことになる。

Oxford の丸山君が夏休みで帰国していて参加してくれていたが、ひとつ前のブログをみて、
間違いを教えてくれた。僕が見たのは、このブログの古い Google search cash らしい。
今は、ああいう間違いはないので訂正。カナダの大学の学生さんの林さんと僕を混同して
起きたまちがいとのこと。この25日の投稿、講演スライド準備中(できたのが、講演30分前。
いつものことだが、そういう時の方が良いものができるのがおもしろい)に逃避行動で書いたもの。
で、ろくにしらべずに書いた。反省。まあ、軽い話題なので… ;-)


2012年8月17日(金曜日)

漸く通常モード?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時51分18秒

約25日ぶりにSMART-GSのコミット。2回の引っ越しやら病院がよいで時間を取られて思うように進まなかったが、この数日でかなり前進!

原稿と内海日記の件、京都学派アーカブなど予定山積!!!!!

今日考えたこと:人間より遥かに高速の思考しコミュニケイトする生物がいたとする。もし、マイクロ秒が人間の1年に対応するが、
思考レベルは人間と同じとしたら、その生物の社会の思想は人間にはランダムに見えるのではないか?少なくとも人間はコミュニケーション
を観察できないので。

価値と実質の相違も、そういう時間の差異ではないか?

田辺のヒルベルト公理論への歴史主義的評価。歴史主義とは知識社会学的ということ。社会こそが歴史のメディア。

これはライプニッツ新理論の神の必要真理が人間には偶然とうつるというのと同じ思想。

これらの思想は完全に外延的。

これはドゥルーズ・スピノザに自由を見る観点、カオスの観点と同傾向の思想。

それに抗したのが、前期、ハイデガー。(後期は?)


2012年5月20日(日曜日)

Babbage, Jevons, … computing と economics

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時13分25秒

金曜日に2011年度西田田辺記念講演会での僕の講演がきっかけで知己となった経済学史家の中井先生(近畿大学)が突然研究室にお見えになった。京大で学会か研究会があったらしく、龍谷大学の経済学史家小峯先生と一緒にお見えなり、関西学院大学が最近購入した Foxwell 文書とか、中井先生の秋からのケンブリッジ留学、近藤先生の内海日記研究、ロンドン大学のベンサム・プロジェクトなどについて話す。

経済学史研究におけるSMART-GSの利用の関連で挨拶に見えたわけだが、これがきっかけで、情報思想史、社会思想史上の重要な連関を見つける!

関西学院大学が巨額の費用を使い、そのアーカイブを手に入れたHerbert Foxwell は英国経済学で重要な役割りを果たした人物で、JevonsとBabbageとの関連で現れる。Campbell-Kelly と Asprey の教科書でロンドンの為替交換所として紹介されているLondon のClearing Houseの話をBabbageが著書で書いている。(不明な点:独立した本で著書ではあるのだが、Babbage の生前の代表作 On the Economy of Machinery and Manufactures との関連は?)、その clearing house についての著書を、Jevons が論文で書いており、死後にそれは著作集の一つに収録される。この著作集を編集したのがFoxwell。Jevons を彼のlogic pianoによりビクトリア時代の人工知能の祖とみなせば、その人と、ビクトリア時代のコンピュータの祖とみなせるBabbage が経済学を巡って交差しており、それに Foxwell が絡んでいて、それを契機に、僕は、それを経済学史のルートで知ることなったわけだ。しかも、Jevonsは限界革命という古典主義経済学を超える新経済学の三人の祖の一人なのだそうだが、もう一人が C. Menger (ウィーン学派の K. Menger の父)なのだから、やはりこの時代の人的つながりというのは、物凄く dense。

友達の友達の友達…とやると7段くらいで世界中の人が繋がるという話があるが、それを知っていても、こういう連関が、この時代にドンドンみつかるというのは、単なるグラフ論の問題ではなかろう。要するに、人が少ない?、ともいえるが、その思想のもつ傾向の近似性から、やはり近代性のような特定の「モチーフとしての思想」が流れていると考えるべき。

これは月曜日の特殊講義、水曜日の講義の両方に深く関連。

大変、興味深いのは、この歴史的関連性の発見の経緯。
1.林が田辺元についての講演を西田・田辺記念講演(2011)として行なう。
2.この講演会は2名が講師だが、もう一名が 、その思想と西田の思想の関連性などを指摘されているT.H. Green の研究で知られる行安茂先生だったわけで、中井さんは僕のことは知らず、行安先生の講演が聴きたくて聞きにこられた。ところが、そこで、もう一人の講演であった僕の講演で、歴史研究用ツールSMART-GSについて、偶々知る。
3.そして、SMART-GSに絡む交流という偶然の媒介上で、僕の経済学史への興味を通して、 Jevons, Foxwell, Babbage の関連が見つかる。

これは一見不思議なのだが、ここで米国プラグマティズムの思想と German social democracy の伝統を関連づける、James T. Kloppenberg 視点を考慮すると、京都学派、プラグマティズム、T.H.Greenが結びついてしまうために、むしろ、この経緯は自然にさえ見えてくる。行安先生が、僕の講演で紹介したブラウワー、田辺の思想とグリーン、西田の思想の同形性に大変関心しておられたが、むしろ、それは当たり前なのだろう。しかし、それは、祖の時代にはある程度見えていたのではないか?そのことを「思い出す」のは、WEB時代の現代では寧ろ簡単だろう。それよりは、どうして、我々はそれを「忘れてしまったのか?」。その問いの方が重要なのかもしれない。

これでKloppenbergの仕事の重要性がますます大きくなった。


2012年5月10日(木曜日)

喜多さんから教えてもらったこと

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時54分48秒

非常勤をお願いしている関西大の喜多さんと廊下でばったりあう。彼女がスタンフォードに在外で行く前にあったきりだから、もう2年近くあっていない?

でスタンフォードで仕入れてきた話などで大変に面白いことをいろいろ伺う。今のマン・マシン系の講義も同じ方向とか。

すぐ忘れるので覚書。

1. Wiener の人間機械論の初版では、人間が機械に使われるというくらいイメージだったが、2版か何かで、そこが書き変わっていて明るいイメージになっている。それはオートメーションの現場を見て、むしろ「余暇、余裕が生まれる」という(これはアダムスミス以来の議論)面を見たから。
2. Sage system のデザインの中に、高度のユーザとしての人間以外に、部品としての人間(認識とか、操作とか)が入っている。それは computer museum の Sage の動画を見ればわかる。また、何とかという???文書でもわかる?
3. Amazon mechanical turk 。こういうやり方は知っていたが、このサービスは知らず…。これがもうずいぶん使われているとのこと。
4. まだ何かあったような… 情報処理学会の記事のこととか。初音ミクがなんとか… もう忘れている。老人になって記憶力が落ちるのはは悲しい… :cry:
#まあ、いやなことを忘れてしまうというメリットもあるけど。 ;-)

その他、Winograd さんの1986年の例の本が生まれた時の経緯がわかる資料をもらってきたとか、もらう約束をとりつけたとか。これはすごい!ぜひ見せてもらいたいものだ。Steve Kline の資料もでてきたら、この当時のスタンフォードの雰囲気がわかり、両者の関係もわかるかも… 関係といっても、人間関係はないことは WInograd さんに直接聞いて確認済み。しかし、Kline の思想が書いてあるWEBページを見せたら、自分と同じ考えだといってえらく喜んでいた。オフィスは数百メートルしか離れていなかったはずだが。Kline はスタンフォードの機械(熱力学関連の工学)

Wiener と SAGE は是非調べる!!

Amazon も、ピッカーと合わせて一緒にやろう。

喜多さんと話すと、いつも本当にためになる。 :-)


2012年5月6日(日曜日)

思い出サルベージプロジェクト

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時49分30秒

6月6日水5の情報歴史社会学で、日本社会情報学会の東北震災支援
思い出サルベージプロジェクト
の活動を紹介をしていただけることになりました。プリゼンターは人間・環境学研究科吉田研究室の溝口佑爾さんです。

溝口君は、この活動を大黒さんという社会学者の視点を利用して、後期ルーマンのメディア論で理解しようとしているが、ルーマン・大黒・溝口の視点は、シェーラー、田辺、ハイデガーの社会哲学、技術論や、J. Dewey のmedia論などと、非常に深い関係がありそうだ。特に、ルーマンの形式とメディアの関係などが、月5の特殊講義「形式と実質の思想史」の内容に見事に連動する。実に、おもしろい!

溝口君と思い出サルベージについて色々と議論したときの覚書:

  1. 写真を残すというアイデアは、どこかのフィルム会社の人のアイデアらしい。
  2. しかし、各地にある同様のプロジェクトの発足は、それぞれの地域で異なりに別々に始まっている。主体もバラバラ。被災者がリードした所も、支援者がリードしたところもある。
  3. 写真も一種のメディア。家族の集合写真が親密圏のメディアとなる?
  4. 日本社会情報学会のチームは、こういう支援をすることは全く想定せずに被災地(山元町)に入った。そこで被災者の人たちの声によりプロジェクトが始まった。
  5. 写真をそうまでして残すというエートスか、海外の人には理解されないことがある。
  6. アメリカの人には、ハリケーンカトリーナの時には、こういうことがなかったといわれた。

2012年4月24日(火曜日)

Gamification

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時10分18秒

今週のアエラにゲーミフィケーションという記事がトップで掲載されているのを発見。

これはディズニー化やトヨタ生産方式、再魔術化と同じトレンド。

ウェーバー「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」を斜にかまえて
読めば、実はこれも同根だとわかる。

ゲーミフィケーション:時代のビジネスは「仕事」をゲームだと思って行なう
 無数の大衆(消費者)が担う。

ウェーバーの「プロ倫」:現在の(二〇世紀初頭の)ビジネス世界、あるいは、
 さらに広い「世界」は「仕事」を信仰における実践と看做す人たちにより
 構築された。これを近代資本主義という。

ゲームと宗教を、共にビジネスの形式から逸脱するものとして理解すれば、
これら二つが似ていることがわかる。

そして「消費者とは進化しようとしない人、変わろうとしない人である」という
僕の定義よれば、「人間の部品化」と、これは連動する。部品が変わろうという
自由意志をもってしまうと、ネジや錠前は使い難い。これらが有用なのは、
いわば人間がJISなどの標準に従って採用され、行動するので、
予測可能性・計算可能性が促進されるからだ。

しかし、いまや、その計算可能、予測可能を超えた何かこそが
ビジネスやアカデミズムで「勝ち抜く」ための条件だという
認識が世界に広がっている。


2012年3月12日(月曜日)

『具体的』=直観的=実質的

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時10分33秒

二つ前の田辺の引用での「具体的」の使い方をみると、それが直観的というか、
演繹を経ずに直接にわかるものと読める。

演繹は否定的媒介とはことなる。否定的媒介は、たとえば、失敗により、
ある肯定的事実が「腑に落ちる」こと。これが直観。ブラウワーの
直観ではない。これは実は形式であり演繹。西田の純粋経験などと
同じで、形式が支配する現代へのアンチテーゼであるが、体系性を
得るために、それ自体が形式となっている。うーんと、西田は
体系的でないかも。個人の資質ですね。田辺は過剰に体系的であって、
また、歴史に翻弄されたために(歴史に「否定」(的に媒介)されたということ)、
体系的でなくなって「しまって」いるところがある。
#ハイデガーとかドゥルーズなどは、それを断ち切りたくて、
#ああいう文体になるのかも?しかし、それも結局形式になる。
#形式に抱きついて、しっかり抱え込み、ロデオをするしか、
#形式を超える道はないはず。うん?これギデンズだな。 :-D


2012年2月2日(木曜日)

Structure and agency

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時34分36秒

Wikipedia の Structure and Agency
The question over the primacy of either structure or agency in human behavior is a central debate in the social sciences. In this context, agency refers to the capacity of individuals to act independently and to make their own free choices.[1] Structure, in contrast, refers to the recurrent patterned arrangements which influence or limit the choices and opportunities available.[1] The structure versus agency debate may also be understood as an issue of socialisation against autonomy, and can be contrasted with the “nature versus nurture” debate.

もとは、Barker, Chris. 2005. Cultural Studies: Theory and Practice. London: Sage. ISBN 0-7619-4156-8 p448
人文研
書庫2F 洋書人文部
361.5||B/21
2000690885
00069088

ほぼ、Mengeと Wahlfolge の定義と同じ。比較のために良い
定義の候補:
http://www.psiquadrat.de/downloads/heyting1931.pdf

そこから種と個へ。ただし、最も初期の種。
まだ、自己媒介しない段階のもの。
Giddensだとagencyがstructure に reflectする。
ただし、直接。これは田辺が陽に排したアプローチ。
種の論理とGiddens理論の比較。
agency には intensional な実存がない。
というより、sociology は外延的なので、
それを無視する。シェーラーの社会哲学では?


2012年1月26日(木曜日)

次は美学だ!..???

廊下で、たままた、美学の吉岡さんに出会ったので、迷惑かとはおもったが、講義でやっていた、
美術・建築におけるモダニズムと数学のモダニズムの関係について、僕の意見をどう思うかを聞いた。
で、興味をもってもらえたようで、素人美学ながら、案外、いい線いっていたらしい。
僕が、学生さんたちに話していた内容は、メインストリームのモダニズム(?)解釈らしく、
グリーンバーグのものだそうだ。驚いたのはハウスドルフが文学者(?)であることを
吉岡さんが知っていた点。美学などでは有名なのかも知れない。それともポストモダン
の方かな?

原稿を書いたら、読んでもらえることになり、大変に嬉しい!! :lol:
で、調子に乗って「次は美学をやる!」と言って八杉に笑われた。(^^;) :hammer:


2011年10月9日(日曜日)

ゲーデルは有名になったんだなー!!

金曜日に5年ぶり位の(4年か?)全学共通の講義初日。
岩波新書「ゲーデルと数学の近代」をこれで使う予定だったのだが、まだ、4分の1くらいしか書けてないので講義をしながら書くという感じ。系代表も忙しいが、SMART-GSにえらく時間がかかる。しかし、使いたいという人が増えているので頑張らねば…

学生から理学部で評判になっている(?)という噂を聞き、急遽大きな部屋に変えてもらい、履修者数も無作為抽出で100名にしてもらったが、立ち見が30−40名か?その後の演習で、僕の研究室の学生が「入ろうとしたが多すぎたので諦めた」と言っていた。125名入る部屋だが、3列がけの真ん中を座らないので、こういうことになる。しかし、真ん中に座っても少しはあふれたろう。

前回は、理系文系両方に分類したし、文学部東館の階段教室だったからか、文系の学生も、それなりに多かったが、今回は吉田南キャンパスの教室で、文系分類のみの講義にしたので、想像通り殆どが理系の学生。手を挙げさせたかんじでは、多分90%くらい。

同じく手を挙げさせて驚いたのは『ゲーデルという人を知っている人』という質問で80%位は知っていたこと。僕が学生のころゲーデルなど知っている人は極少数だった。ここまで有名になっているとは思わなかった。ゲーデル自身の話はあまり必要ないのかも。

日本でゲーデルを有名にした人として柄谷行人さんを紹介したので、『柄谷行人という人を知っている人』も聞いてみたら、せいぜい5%位。パラパラという感じだったから、もっとすくなかったかも。殆どが理系学生ということもあろうが、時代の流れを感じる。実際最近の学生はポストモダン・ニューアカというのがあったということを、文学部の学生でも殆ど知らない。まあ、学問ではないから、当たり前と言えば当たり前。

ブランクーシはさらに誰も知らなかったような…聞いてみたわけではないが、鳥の飛翔を見せたときの反応から、そう思う。まあ、僕も最近まで知らなかったし…(^^;)


2011年9月17日(土曜日)

Geschichte der Autobiographie

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時00分36秒

片付けをしていてでてきた 05/2010 Vol.53 Comm. of ACM の特集記事 Beyond
Total Capture。Lifelogging は僕が omnipresent log と呼んでいるものの
個人、人間版。Memex を lifelogging の祖先としているが正しいか?
で、いろいろ考える。

情報歴史社会学の基本手法を使って、それを生み出したエートスを
考えてみると、すぐに思いついたのが、ドイツ語圏の Nachlass
のエートス。なぜ、ゲーデルは伝票まで残したか。なぜ、カルナップ
はライフログのような速記を残したか。なぜ、田辺(心は半ばドイツ人!)の史料は圧倒的
に残っているのか。我々歴史家は、なぜ、このころの歴史を史料で
手に取るように知ることができるのか。それの記録が残される対象が
記録を自発的に残さない限り、この当時は lifelogging はでき
ない。それを装置を腰にさげる、首にかけるだけでできるようにしよう
というのが、現代の IT Lifelogging。そう考えれば、すでに
lifelogging はあり、それは自伝とも関連するだろう。

宇佐美さんが言っていた、中華文明は手書き文字の美しさに
価値を見出すので、下書きなどが残らないという現象が本当ならば、
これは丁度反対のエートスが働いていたともいえる。では、日本では?

少し調べたら、自伝という分類の書籍は日本では明治以後。
自伝という言葉はいつから使われた始めたか?これも西周あたりの
可能性が大きいだろう。おそらく日本には自伝の概念がない。
日記はむしろ有名なものが多い。これも lifelogging だろう。

回顧録はどうか?回顧録は自伝とは
区別されるようだが。回顧録、自伝とも lifelogging (記憶を含む)
の解釈 and/or データマイニングの結果であることに注意。

既存研究がないかと思い Google ったら、なんと、先日、
田辺関係で調べていたとき(ブルトマン関連か?)に出てきた
マールブルグの Misch の Geschichte der Autobiographie にあたる。

以前から気になっていたカルナップ・アーカイブなどの lifelogging 的性格と
あわせて、調べる必要あり。20世紀中ごろまでは、
ドイツ語圏の方がエートスが強かったという
気がするが、今は圧倒的に英語圏だろう。この変化は何か?


2011年5月29日(日曜日)

メモ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時24分27秒

http://www.imaginativeuniversal.com/blog/category/Heidegger.aspx


Heidegger哲学てそんなに狭いのかーっ?!!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時21分32秒

西田田辺記念講演で、種の論理における人間学的要素について論じるために、田辺の人間学の時期(種の論理の直前)におけるハイデガーの「存在と時間」の哲学への言及(ただし、成立前!)を理解するため、いろいろとハイデガーを調べる。
 で、Design や渕さんについて調べていた頃、Winograd さんの本を読んでから、どうももやもやして変だったものが氷解したような気がするのでメモる(あるは、さらに誤解しただけ?これから検証、とりあえず検証のために纏める)。それにより、M.Friedman の構図、分析哲学、大陸哲学、田辺哲学の位置、Winograd さんやドレイファスの哲学、ハイデガーとITのことなど、何か全部がまとまった。
 疑問はいくつかあった:

  1. なぜ「存在と時間」の哲学が現実のITのプラクティスの場で役立つのか(Winograd)
  2. なぜ「存在と時間」のような語り方で存在論が議論できるのか?(できるはずがないと感じていた)
  3. なぜハイデガーが偉大な哲学者として持て囃されたのか

 これは僕がハイデガー哲学がライプニッツとか、カントとか、ヘーゲルとか、そういうものと同列のものだと誤解していたから。この2グループはドレイファスがいう『前者は「哲学者」、そして、ハイデガーやらヴィトゲンシュタインはnon-philosopher』という分類に似ていて、(ドレイファスではむしろ方法論の相違が強調されるが)見ている対象が異なる。実は、ハイデガーなどの「非哲学者」は、パラドキシカルなことに「哲学者」より、「科学的」になってしまっている。つまり、世界を一括して理解したいという本来の西洋哲学に充満していたはずの欲と言うか目的が失われていて、「この分野に限定」という後退がある。これが田辺には我慢がならない。それが、ハイデガー批判であり、西田批判になる(ただし、西田批判の方は少し違って実践の問題が大きいのだろう。逆にハイデガーにはナチスに拘わったという「実践」がある)。
 破壊と構築―ハイデガー哲学の二つの位相,門脇 俊介やら、この阪大の高田さんという人のパンフレット、そして、田辺の日本最初のハイデガー哲学紹介(一つ前の投稿タイムライン参照「…転向」)からすると、ハイデガーは要するに存在論をOeffentlichkeit(公共圏:田辺訳)に限定してしまい、そこだけで存在論をDasein の「直観」のみから構築しなおすという戦略で哲学を進めたということになる。これは田辺の説明の受け売りで、正しいかどうかしらない。しかし、これは「存在と時間」出版の数年前の説明であることに注意!つまり、個人教授の先生だったハイデガーから田辺は、これから書かれる「存在と時間」でとられることになる方法論について「親しく聞いた」わけだ。本を書くときには、最初の意図どおりにはまず書けない。ということは、この田辺の記述は逆にハイデガーに極めて近い哲学者からのハイデガーの研究戦略の「証言」なのである。(で、気になるのが群馬大田辺文庫のハイデガーの講義のノート。もし、あれが個人教授のときのものならば田辺研究ではなくハイデガー研究のための第一級史料となるはず。講義のものでも重要だろう。ちゃんと読んでみなくては!)
 要するに、田辺が後に批判するように、ハイデガーは世界を相手にしていない。ハイデガーの世界は狭い意味の社会学が扱うような、人間の社会、公共圏についてしか語っていない。もしそれこそがそれのみが Dasein に語りえることだというのならば、我々のような理系の人間からしたら「まったくの現実無視!」といいたくなる。それは哲学者が文系の都市住人であり、そこに生きる世界が限定されているからだろう(当然、ここで京都学派左派の問題が生じる。しかし、今、京都学派として知られものには、多かれ少なかれ「文人・墨客」のイメージがつきまとう)。哲学者ならば相手にしているのはみんな人だろう。しかし、工学者や理学者、そして、数学者が相手にしているのは人間ではない。都市以外の住人ならば、たとえば農業のように否応なく自然に対峙する人もそうだろう。僕には、これについては庭仕事くらいの経験しかないので大きいことは言えないが、僕が実際に直接、かつ、長年経験している、ソフトウェアの世界、数学の世界、そして、IT教育の(インフラ整備の)世界では、この世界観は全くなりたたない。
 たとえば、百数十台のワークステーション(平成元年の話)の世話をして、それで学生たちを教えるといときに日常性として起こるハードウェアの障害(Winograd ソフトウェア論では、そういうものは異常事態として説明される)は、同僚やら学生やらとの関係と同じように重要だし、さらには、個人でできる研究に没頭し始めると最も身近なものは人ではなく物(ソフトウェア含む)となる。要するにハイデガー哲学には、ヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては語ってはならない」としたような狭さというか、学問がなりたたないからそこは無視しましょう、という卑怯さのようなものがみえる。田辺にはそこが許せなかったはずだ。たとえば、こういう哲学では1945年8月6日に広島に(偶々)いたということと、その帰結について何らの「納得」もできなくなる。おそらく、そういうものはハイデガーには「語りえぬもの」なのだろう。要するに基礎付け主義というか、厳密主義にすぎないので、裏返しの分析哲学のようなものだろう。ぼくには、田辺の態度の方が共感できる。(態度の問題で哲学のシステムとしてどうかというのはでないことに注意!)
 では、そのように狭いにも拘わらず、なぜ、ハイデガーがもてはやされたか?それはもてはやした人たちが、「同じタイプの公共圏」に住む人たちだったからだろう。そして、そういう問題、田辺の言い方を真似れば、「体系的学問的明証的であることを保ちつつ、Leben について自分という Dasein に直接与えられていると信じることができるものだけを使って哲学したい」ということを可能にし、しかも、それまでの哲学をちゃんと総括できるという、職業的哲学者として実に際立った能力で処理された哲学体系であり、しかも、それに乗れば自分たちも何某かのことができると見えたからだろう。実に近代的であって、分析哲学と対抗する位置に立つに相応しい思考のスタイルであったわけだ。
 ハイデガーの議論のスタイルを使えば、職業としての哲学が継続しえる。しかも、自然科学などという、その時点ではドイツ社会に投げ入れられている Dasein 自身としてはあまり語りたくもないものと決別して哲学という「仕事」を継続しえる(ある伝記によるとハイデガーも最初、数学の方向にいこうとしていたそうだ。本当ならば大変納得)。そうなると「とにかく哲学をやりたい」という人たちには、物凄く魅力的に見えるだろう。プロイセンの科学・工業の時代ころから、哲学は成立しないという強迫観念にドイツの哲学者は長く直面しているのである。そして、哲学者のなかでも、そうでない人たち、特に自然科学とか、ハイデガーが「語りえぬもの」にしてしまったことを語ろうとする人たちは、ほぼ同時期に記号論理学という別のスタイルを得て分析哲学への道を歩み始めていたわけだ。つまり、フリードマンが言う分裂である。
 では、そのような自然科学とかに全く関係のないはずのハイデガー哲学が、どうして、ITの世界で重宝されるのか?これは簡単で、要するにWinogradさんとか、僕とか、Google などのWeb2.0企業とか、そういう人たちが対面しているITの世界というのが、圧倒的にハイデガーが住んでいた哲学の世界に近いから。つまり、そこには津波も原爆も加速器もない。インターネットというやつは、おそろしく安定的で、物理的・自然的干渉から独立だ。だから、ほぼ、物理的・自然的制約を無視できる。もちろん、ケーブルにケッつまずいて電源落ちて何年分かのコードが消えた原稿が消えたということはありえるわけだが、それは僕らの若い頃までの話で、今はOSやマシンが凄くロバストだし、ネットがあれば分散してのストレージというのもありえるし、また、アマゾンで本を注文してもアメリカから1日で洋書が来たり、Math. Ann. の古い巻のページをドイツのサーバで楽々と検索し閲覧できる時代。つまり、工学者や実験系の科学者が日々対面しているような問題からほぼ自由で居られる(ディズニーランド化の技術的原因)。
 Winograd さんはワープロの電子機器としての存在はユーザーにはそれが故障するまで立ちあらわれないというところから、ハイデガー存在的発想のソフトウェア開発での重要性を説明したが、要するに実質的にその「故障」がほぼなくなってきている。つまり、ほぼハイデガー的世界だけで、サイバー世界だけで閉じて生きられるような世界になっている。もちろん、アマゾンの最終部分が(本当の最終は宅急便なのだが)FCであるように、また、 Googleの大きな技術的競争力がデータセンターの運営能力であるように、物理的なものはかならずある(それが田辺では第3次元)。しかし、それがあまりに安価かつ容易に提供されるものだから、それはないに等しいわけだ(しかし、提供側にはその分、凄まじいほどの能力が求められる)。そういう世界でプラクティカルにはほぼ不必要な物理的存在までケアしようとする哲学(形而上学)より、ハイデガー存在論が便利なのは当たり前だ。ソフトウェアはハイデガー的 Dasein とのその公共圏の中だけで構築されるのだし、そうしないと、複雑すぎて、とても構築できない。
 しかし、そうはいっても津波は来る。災害は起きる。事故も起きる。ハイデガー哲学のターミノロジーでは、その「稀」なことにはなんら対処できない。実は社会自体が、こういう世界では自然としてたちあらわれる。ハイデガーにとってのナチスと連合軍、田辺にとっての日本ファシズムと連合軍が、そういう意味での自然となる。そういうものをハイデガーは自分の圏内から実質的に排除しているのではないかと、全然ハイデガーを読んでないのに(^^;)思う。これに反して、Ulrich Beck のリスクの概念などは、ちゃんと危険からリスクに問題の多くの比重が移動したという形で両者について語れる。このことが、現代ではハイデガー的なものは、むしろITの技術の背景として立ち現れ、Dasein のために世界観としては成り立たなくなっている理由の一つだろう。この方向に行くならば北森や晩年の田辺のような方向に行くしかない。
 もうひとつ考えたことを書いておかねば。ハイデガーの立場は、あるいみでヒルベルトの有限の立場とかブラウワーの直観主義の立場と同じ。要するに、どれも基礎付け主義、近代的なのだが、この方向に多くの人が進んでしまう理由、誤解の理由が有限と無限の問題にあるように思う。これは数学の有限・無限ではなく、Dasein としての自分と超越の関係のこと。しかし、長らく集合論のような無限で超越的な対象を考え続けた人にとっては、パイの1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000^1000桁目の数字という有限的存在より、巨大基数の方が余程慣れ親しんだ具体的存在になる。実験物理学にちゃんと通じるような形の物理学、たとえばCERNで実験をするような人などにとっては、我々には意味も理解できないような素粒子(?)の方が具体的であるはずだ。このようにヒルベルト的に考えれば、19世紀終わりから20世紀初頭の数学や哲学の基礎付け主義の誤りがわかる。ゲーデルなどは、それから自由なのだが、それが彼が古臭く見える理由なのだからおもしろい。田辺はもしかしたら超古いので新しいのだろうか?
 この問題は、さらに京都学派左派の三木、戸坂などの「実践」の問題に繋がるが、長くなりすぎたので、ここで打ち切り!
プログラミングとか、講演のレジュメ書きとか、頽落せねば! :-D
#新書原稿も忘れてはいません。>千葉さん


2011年5月8日(日曜日)

身体論・人間学から種の論理へ、そして数学史

種の論理が、その直前への身体論、心身論から生まれたという竹花さんの講演を「善の研究」出版100年記念の会議で聞いたときは、
大変おもしろい指摘で、田辺が、これに関連して後に自分の病気が種の論理の契機なったと書いたことの理解として(これが僕には
何か全然わからなくて、咽喉のかかった小骨状態だった)大変良いと思っていたのだが、どうも、そんな軽いものではない。
7,8日の引用から明らかなように、処女論文からあった志向性が、この段階で、ほぼ明らかになり、まだ、理論(論理)構造を
つかめていないが、その条件は、ほぼ、すべてそろっている。欠けているのは「社会」というタームぐらいだろう。
しかし、すでに「共同体」まではでている。そう考えるとシェーラーの Wissenssoziologie は大きな契機だったのでは?
面白いのは、すでに弁証法が完全に前提となっている点。これはやはりマルクスなのか、それとも純粋哲学的動機のほうが、
大きいか。全集4ではマルクス主義の姿が見えない。マルクス主義・弁証法との対峙と、全集4で示された性の哲学の
理論化=論理化=被媒介化の方向と、田辺が弁証法研究に傾倒したという、この二つのほぼ同時に起きている(前者が
一応は後だが)歴史的プロセスの関係がわからない。これ大きな興味深い問題。

風邪で寝込み中に、竹花さんにもらった論文別刷りを読んで気になり、竹花さんが参照していた全集4の諸論文を調べた。
その結果わかったことをメモッたのが、5月7−8日の投稿。その纏めが上のメモ。

要するにWeylの1921年の危機論文、Ueber die neue Grundlagenkrise der Mathamatik
http://www.scribd.com/doc/49885193/Hermann-Weyl-Ueber-Die-Neue-Grundlagenkrise-Der-Mathematik
がひとつの例である、第一次世界大戦前後のドイツ思想界の激動と変化を田辺の人間学はみごとに反映している。
単にマルクス弁証法への対峙で種の論理の発生を説明するのは間違い。

今まで調べてきた様々な分野の歴史・思想史研究間の関係が、すべて関係。要するに現代の西洋哲学の2分の弊害により
見えなくなっているウィルヘルム2世朝からワーマール共和国にかけての激流のようなドイツ思想史の問題。数学基礎論史は、
そのひとつのエピソードとなる。(ただし、重要なエピソード。)

関連するもの:
1.数学(基礎論)史
1.1.Gray, 林の近代性の視点からの数学史
1.2.
2.思想史。主に科学・数学に関連する思想史
2.1.Michale Friedman, Alfred Nordmann 系統の研究
2.2.これらは、いわゆる科学史や科学哲学どいう「専門分野」とはずれているが、
 Friedman, Nordmann eds. の proceedings(?) に GrayとLuetzenの
 論文があるのが、これに道をつけている。
3. 思想史
3.1.Herbert Schnädelbach, Bambach など。
4.そして日本では京都学派。
4.1.今は田辺のみだが、九鬼、三木、戸坂、高坂など、特に第2,3代世代への関連は?
 時期的に岩波の哲学講座昭和6年が手懸かりとならないか?これらの著者が多く書いている。


2011年4月24日(日曜日)

Omnipresent Web

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時14分54秒

SMART-GS0.8のコーディングの最も面倒なところが終わり一息と思ったら、
岩波から原稿の状況の問い合わせが来た。(このブログ見てるんですね。
千葉さん。(^^;))

社会学の学会が組織したボランティア運動で宮城県と福島県の県境あたり
に行っているらしい溝口君が水曜のPlato’s Ghostの講読にでてきたので、
みんなで色々と話をきく。Google Earth だか、 Map だか、Street View だか、
どれか忘れたが(アラカンで記憶力減退)、Google の地理画像情報が
随分役に立っているらしい。家が流されて、それを探すとか、被災証明か
なにかのための証明用にとか、必要な Google の画像を印刷して渡すと、
泣いて喜ばれるという。パーソン・ファインダーといい、今回の
大震災は Google がどういう存在なのかを如実に示している。

溝口君に必要な画像が更新されて消えてしまうことはないだろうかと
聞かれて、Googleはミッションで動いているから、
メールで必要性を知らせれば対応してもらえるのでは、とsuggest。
彼は昨夏の村上さん(当時まだGoogleジャパン名誉会長)の集中講義
を聞いていたので、直ぐに納得していた。

村上さん経由のおねがいというのもあるだろうが、Google
は通常の意味の「会社」というよりはイエズス会に近いの
だから(だから日本に上陸すると「弾圧」される)、現場で被災者支援
をしている人が同志として頼むのが一番自然だし、わかってもらえる
だろう。

とはいうものの、木曜日夜にプログラミングの峠を越えてホッとしたので、
さっき自分でも調べ、いろいろとわかったので、溝口君にメールで
知らせる。しかし、今頃は被災地で僕の長ーいメールを読む暇はないかも。

で、一般的にも意味があるとも思うし、水5の講義の内容とも関連するので、
ちょっとそれを採録:
++++++++++++++++++++++++++
林@京大文です。すでにGoogleから返事をもらっているかもしれませんが、
ちょっと調べてみたので連絡しておきます。

溝口さんが言っていたGoogleの古い写真というのが、Google Earth の航空写真
ならば、震災と関係なく Google Earth 6 以後の time slider 機能として古い
写真が表示されるようです。
http://earth.google.com/support/bin/answer.py?hl=ja&answer=148094
http://www.google.co.jp/intl/ja/earth/explore/showcase/historical.html

1946年のサンフランシスコの画像まであるのですから、多分、基本的には永久に
保存されるのでしょう。

しかし、street view の画像については、この機能はないようです。現在は震
災前の「古い」写真を見ることができます。たとえば、
http://maps.google.com/maps?f=q&source=s_q&hl=en&geocode=&q=%E5%8D%97%E7%9B%B8%E9%A6%AC&aq=&sll=39.639538,-98.173828&sspn=53.508562,91.230469&ie=UTF8&hq=&hnear=Minamisoma,+Fukushima+Prefecture,+Japan&ll=38.124588,140.936004&spn=0.003507,0.005568&z=18&layer=c&cbll=38.124588,140.936004&panoid=_q9s9gOFOjxY-rHW6FpYCA&cbp=12,292.83,,0,11.01

こういう画像は非常に貴重なものではないかと思います。ユービキタスという言
葉がありますが、これは神はあらゆる場所に存在するという意味ですが、さらに
オムニプレズントという言葉があり、これは神があらゆる場所とあらゆる時間に
いることをいいます。ストリートビューにもタイムスライダーがつくとオムニプ
レズント・ウェブへ一歩近づくことになりますから、おそらくGoogleはやりたいで
しょうね。

広島では原爆以前の町並みを記憶などに頼って復元するという活動が
あります(わりと最近始まったものです。被爆者は過去は思い出したくないので.
..)。そういうものに使えるようになるわけで、実際、2009年のオーストラリア
の山火事によるMarysvilleの焼失
http://www.smh.com.au/news/national/marysville-almost-destroyed-in-victorian-bushfires/2009/02/08/1234027832317.html
に関連して、こういうものがありました:
http://www.facebook.com/group.php?gid=69249521398

Googleに働きかけて、Street Viewを過去の光景のアーカイブにするというのは
ありえますね。ただ、Grid上でやるという方法もあります。いまでも、腕に自身
がある人ならば、Street View の画像を落としまくる、Street View をクロール
するクローラを、すぐに作れるはずです。

被災した人たちがとりあえず今必要なのは、Google Earth のほうですか、
Street View の方ですか?
++++++++++++++++++++++++

村上さんの話では、Google BooksがGoogleの収支をかなり圧迫し
ているらしく(だから、かわいそうに清水君の給料は低いらしい(^^;)。
まあ、それを知っていて入ったのだからしょうがないよね。
元気でやってますか?(^^))、それからすると、Street View
の古い画像を保持することはどうか?

これは新日鉄ソリューションズの大力さんの
言い方を借りれば「装置産業」なのでGoogle Booksより簡単なはず。
つまり、人件費を比較的喰わない。Google Books は最大の人件費喰い
のはずであり、それに比べれば過去画像など大きな問題ではないはず
(古い画像は解像度が低く容量が小さいし)。

もし、omnipresent web が実現されたら、未来の歴史家は、僕のように
群馬大や京大文学部の田辺文庫の古紙の虫になるのではなくて、
メールやブログの記録、street view, tweets, life log の
記録を探し回るのだろう。それは今僕がやってる作業より、
はるかに膨大な作業であると同時に、まるでタイムマシンに乗って
過去に遡るようなワクワクする体験に違いない。
#うらやましーーー!!!

その探検旅行にSMART-GSの子孫が使われていたらホントうれしい
のだが。(^^)


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