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2017年1月27日(金曜日)

哲学の道と西田幾久彦さん ( 1月29日に大幅編集)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時28分31秒

今週、木曜日は、西田記念館より館長の浅見先生たちが来訪。予定していた仕事の相談は順調に進んだのだが、その際に、西田幾久彦さんが急逝されたと聞きショックを受ける。WEBで検索してみたら武蔵高校の卒業生物故者リストを見つける。昨年の11月に亡くなっていた。

西田幾久彦さんは、西田幾多郎のお孫さんで、直接お会いしたことはなかったが、9月ころだったか、哲学の道と西田幾多郎の事で電話でお話し、機会をみて林が訪ねていく約束をしていた。その時、お見せしようと、あるものの写真を探していたのだが、それでボヤボヤしている間にお会いできないことになってしまった。

左京区田中上柳町の西田幾多郎旧宅の一部保存の活動をやっていたとき、西田が哲学の道を散歩しながら哲学したという証拠がない、という話を新聞記者さんたちにすると、一様に驚かれた。

僕は、哲学の道歩勝会の方に、「実は少し場所が違うらしい」と聞いていたこともあって、記者さんが皆の様に驚くということに驚き、少し調べて、高山のエッセイを見つけて、6月24日の投稿、哲学の道と西田を書いた。

それを見た、読売新聞日曜版名言巡礼の担当者が興味を持ち、こういう記事になったのだが、それを見た幾久彦さんから、西田記念館を通してコンタクトがあり、電話でお話をした。

何でもおともだちが読売日曜版の記事を読み幾久彦さんに電話をしてきてくれたと言うことで、結論から言うと小さいころに御爺様の兵児帯にぶら下がるようにして、哲学の道あたりを歩いた記憶があるということであった。

検証は必用だが、西田幾多郎が哲学の道を散歩したという、唯一といっても良いほどの確実な証拠だろう。

その検証のための写真探しの間に残念なことになったわけだが、初めての電話ながら波長が合ったというか、話が弾み、その他にも色々と教えていただけたので、調べつつあったことも含めて、記憶が薄れる前に記録しておく。

幾久彦さんのお父様の外彦さんは2回召集を受けた。幾久彦さんの手になるエッセイ「祖父の思い出」(西田全集月報昭和41年7月、下村「西田幾多郎 -同時代の記録-」、pp.294-297)によると、一回目が幾久彦さんが小学校4年のときで、二回目が中学校の時とのこと。一回目がおそらく1938年前後だろう(小学校の就学年齢資料)。

上記のエッセイや電話でのお話によると、週末になると、幾久彦さんは、芦屋の自宅から京都まででかけ、御爺様や御婆様から、漢文などの古典や英語の教育をうけ、また、京都の名所旧跡を訪ねた。西田の交友関係などから、通常は拝観できなかったお寺なども見学できたらしい。これは幾久彦さんが書かれたエッセイにも書かれている事実。

その訪問先に、どうも哲学の道あたりの寺院か神社などが含まれていたらしい。また、これとは別と思われるが、西田家は、家族で連れだって弁当も持ち、遠足かピクニックのようなものをしていたそうで、その際にも、哲学の道の辺りを歩いたらしい。

その頃の疏水(分線)沿いの道は、今のような散歩道ではなく、草が繁った田舎道であった。また、歩いていると、向こうから人が来て、「やあ」という風に手をあげて挨拶する。誰かと聞くと、大学の関係者とのことだったという。疏水沿いは、やはり昔から散歩道で、京大関係者は多く歩いていたことが推測される。

これらの際に、祖父の兵児帯に手をかけながら歩いた記憶がある、と仰っていたが、小学校4年の時の話にしては、兵児帯に手をかけて歩くというのは、些か幼い。おそらくは、もっと前に、つまりお父上の召集の時ではなくて、西田家のピクニックの際の話なのかもしれない。

人の記憶というものは曖昧なもので、時期場所など、改めて調べてみると自分の記憶と異なって驚くというのは、齢を重ねている人ならば共感してもらえるだろう。(^^;)

それで、こういう記憶から歴史的な情報を引き出すには、必ず史料による裏付けが必要となる。

幾久彦さんからは、この話を、どこかに書きますか、このままにしますか、と聞かれたのだが、もちろん放置というのは歴史の虫が許さない(^^;)。お話をしながら、幾つかの点を確認する必要があると考え、凡その調査計画を組み立てられたので、どこかにちゃんとした文章として出したいので、書いたら、西田哲学館の山名田さんを通してお送りしますので、ご覧いただけますか、また、機会があったらお会いしたいのですが、というと、東京に用事があったときにでも訪ねてきてくれれば、という話だった。

それで、色々調べ始めたが、手がかかりがなかなかなく、多忙に追われて先に進めることができずにいた間に幾久彦さんにお会いできないことになってしまった。

では、何を調べていたかというと、それは昭和のころの蹴上周辺の風景。より正確に言えば、山科を通って京都に入った琵琶湖疏水の蹴上・岡崎あたりの様子の変遷。

哲学の道は、琵琶湖疏水分線の一部分だけを言い、疏水の周辺を歩いたからと言って、現在の、哲学の道の辺りを歩いていたとは言えない。僕は西田は京大農学部あたりの疏水沿線などを歩きながら哲学した可能性は高いと思っている。それならば、6月24日の投稿、哲学の道と西田に引用した高山の証言と非常に整合する。

実は、お名前などの記憶があいまいで思い出せないのだが(ハッキリおぼているのは、現役時代は瓜生山学園で教務の仕事をしていましたと仰った点。確か教務課の課長さん?)、かなり以前、哲学の道歩哨会の幹部らしい方から、突然研究室にお電話があり、哲学の道沿いのマンション建設を防ぐ方策など相談を受けた。その時、その方が「実際は若王子のあたりを歩かれたらしいですが」という意味のことを言っておられたので、哲学の道を西田が歩いたという証拠は本当は無いのだろうと思うと同時に、哲学の道というのは、実は琵琶湖疏水分線の、かなり限定された領域であることを、その時始めた気が付いたのだった。

だから、この哲学の道の関係者の方のように、厳密に言うならば、本当に西田幾多郎が哲学の道を歩いた証拠を見つけるのは、実は、それほど簡単ではないのである。

一般には、僕もそうだが、疏水分線全部を哲学の道、あるいは、それの「延長」位に思っているのが普通だと思う。それで幾久彦さんにも、それを少し言ったのだが、意図が伝わったかどうか怪しかった。観光地図でもお見せして、説明しないと、この話は、そう簡単には理解できない。一般的認識と公式の定義がずれているのだから仕方がないのである(京都では、他にも同じようなのが色々とある。大学近くの吉田本通は、どうも国土地理院の名称では吉田東通というらしい。そして、ビリケン理髪店があった狭い道が吉田本通らしい。しかし、タクシーの運転手さんなど、皆、吉田東通を吉田本通と呼ぶ。こういうの他にも沢山ある)。

そこで、幾久彦さんに、「御爺様と、どの辺りまで、歩かれたのですか」とボンヤリした質問をしたら、「疏水が山から下りて来るところまで歩いた」という、非常に面白いお返事だった。

こういう印象的な言葉で語られる記憶は、それから何かの情報を引き出せる場合が多い。しかし、「疏水が山から下りて来るところ」という言葉で表されている記憶の意味を明らかにしなくてはいけない。こういう時には、何かの構造的誤解が入っていることが往々にしてあるのからだ。重要な記憶が、字義どおりに解釈しては誤解のもとになるような言葉で語られていることが多いのである。その「誤解の構造」を史料を使って解きほぐしていく、それが史料ベースの歴史学なのである。

これはTVのサスペンスものなどの推理のシーンが好きな人にはお分かりいただけると思う(^^;)。実は、史料ベースの歴史学研究は、そういうドラマの探偵の調査・推理にすごく似ている。しかも、歴史はフィクションではなく現実なのだから、解きほぐせたときには、凄く嬉しい。 :-D

話を戻しまして…

そこで、地図で調べると、琵琶湖から山科盆地を通って京都市街に入った疏水・疏水分線は一箇所を例外としてフラットであり「山から下りて」こないことが分かった。

そして、その唯一の例外が、僕が通勤の時に、何時もの様に通る蹴上の発電所の辺りなのである。ここは、疏水を挟んで動物園の「向い」でもある。

実は、西田幾多郎は、動物好きで、動物園も好きで、良くお嬢さんたちを岡崎の動物園に連れて行き、お嬢さんたちが大きくなってからは、それが途絶えていたが、幾久彦さんが少し大きくなって、動物園行きが再開されたことが、お嬢さんたちのエッセイでわかる。この辺りのお嬢様たちの描くエピソードがなんとも微笑ましく、読んでいてついニコニコしてしまうのだが、どうやって左京区田中から、岡崎の動物園まで行ったのだろうかというのが、前から気になっていたのである。電車が、それとも近衛あたりをテクテク歩いたか…

しかし、この蹴上の辺りまで、兵児帯にぶら下がって歩くような、小さなお孫さんと散歩をしていたのならば、この動物園へのルートの問題も解決する。

夜間動物園にも行ったとあるので、この様なときは電車やら街中を歩いたりであったろうが、幾久彦さんが言う、田舎道を通ってのピクニックのようなものならば、銀閣寺道あたりから、疏水を辿って動物園に向かえば、遠回りにはなるが、いかにもピクニック的な経路となる。これはきっと楽しい道だったろう。今でも歩いていると疏水を琵琶湖の魚が泳いでいるのが見えたりして、凄く楽しいのだから。

哲学の道は、正確に言えば、銀閣寺道あたりで始まり、若王子橋で終わる。若王子橋より南は疏水が「地下に入る」ので、ここから西に進めば、平安神宮、美術館、などがある岡崎地域の北東に出る。そして、今度は、白川沿いに南西に下れば蹴上の発電所と動物園に辿り着くことになる。

当時は、かなり長閑な道であったろうが、今でも車は多いものの十分観光ルートになりえる道のりである。

この様な、東山沿いの長閑な道を歩いて動物園の辺りまで歩く場合、おそらく哲学の道あたりを通るのが最も自然であったろう。つまり、西田が、幾久彦さんの勉強を兼ねての散歩、家族とのピクニックの際に、狭い意味での哲学の道を歩いたことは、まず間違いない。

ただ、僕が書いていたのは「哲学の道で哲学したことはまず無かったはずだ」ということで、ここを散歩することが一度もなかったということではないので、そこの所が、幾久彦さんも、少し誤解されていたように思う。当時、すでに知られた散歩道になりつつあったらしい、哲学の道あたりを、西田が一度も歩いたことがないとえば、それはむしろ不自然なのだから。

しかし、子煩悩で家族思いの西田が、家族と連れ立って歩くときに、哲学に没頭したとしたら、それも不自然なのである。幾久彦さんも「(祖父が)denken(思索)しつつ哲学の道を歩いたかどうかはわかりません」と仰っていた。

哲学の道と呼ぶには、西田が、歩きながら、そこで思索した、それがちゃんと目撃されて記録に残っているのが理想である。しかし、あまり学問上のことに拘って無粋なのも、観光地として主に知られている「哲学の道」のような場合には困りものだ。別に西田が歩いたというだけが、名前の由来ではないらしいのだから。

そこで、西田が哲学の道を歩いたかどうかをすごく気にしていた読売の記者さんには、西田の石碑があるのだから、それで哲学の道でよいのでは、と言ったら、記事にそう書かれていた。幾久彦さんの証言で、これにさらに「哲学の道」の名前に「由来」が加わったと言えるのではないか。家族や孫と歩きなれた道を、哲学をするための散歩のときにも歩いたというの自然だろう。

跡取り息子、外彦さんの証言によると、激しい気性だった西田も、晩年には、その晩年の書が示すように、丸い人格になっていったらしい。残念ながら証拠となる史料は見つけられていないが、闘う様に歩きながら思索した「場所の論理にいたる時代」ではなく、晩年の西田が悠然と「哲学の道」を歩きながら思索をしたというのは、鎌倉時代の散歩の様子を語る女婿金子武蔵(東大倫理学教授)のエッセイの西田晩年の描写からすれば十分考えられることなのである。

エッセイ「秋風の高原に立つ 岳父さながらに」(西田全集月報昭和40年4月、下村「西田幾多郎 -同時代の記録-」、pp.276-282)で、金子は、鎌倉の家で、哲学の議論が終わって、女婿としての自分と連れ立って散歩するとき、京大名誉教授としての西田の「ワク」が外れ、高坂、下村、高山などの京大のお弟子さんたちに対する態度と違う態度となったと書いている(下村 pp.278-279)。

その様な時にも、時として西田の壮年のころまでの激しい気性が蘇り、岩波「思想」の「西田哲学特集号」(昭和11年1月号)の諸論文を評して、「文句のいえるのはやはり田辺だけで、あとは皆物マネにすぎぬ」と批判したり、おそらくは自分が京都への招請に関わったはずのB.ラッセルの品行を批判したり、杖で小石をはねとばしながら、激しく語った、という。

しかし、それは例外的であり「このような放談には少々面食らったのは事実であるが、多くの場合、物静かな回顧談であった」と金子は書いているのである。この記録は、あまり語られることが無かったように思うが、金子武蔵という人は、非常に実直な人だったというから、また、唯一と言って良い「身内の哲学者」の記録としても、この金子のエッセイは大変貴重であり、また、それからすれば、「物静かに哲学の道を歩く晩年の西田」という姿を、証拠がないと言って否定するのは間違いだろう。(もちろん、だからと言って、「そうだ!}というのは、さらに不味い。それが歴史学というものである。)

兎に角、「疏水が山から下りてきている」そういう情景を写した蹴上発電所あたりの昭和初期の写真を見つけて、それを幾久英彦さんに見て頂き、確認が取れたら、こういう話をどこかに書こうと思っていたのだが、そういう風景写真の調査などしたことがなくて、なかなか写真の目途がつかなかったのである。

しかし、正月ころに、地下鉄の駅を歩いていたら、疏水の観光ポスターが目に入った。その時、蹴上の疏水博物館ならば、たしかジオラマがあったから、それの元になった写真を持っているのではないかと思いついたのである。そう思ってAmazonで調べてみると、疏水関係の図版などがかなりあることがわかった。図書館や博物館に行くともっと見つかるはずである。授業期間が終わり、時間がとれるようになったら、博物館を訪問し、資料も調べ、その上で幾久彦さんに確認して頂こうと思っていたのだが、幾久彦さんが亡くなってしまった以上、もう確認する方法はないのだろう…


2016年6月24日(金曜日)

哲学の道と西田

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時51分29秒

西田が哲学の道を歩いたかどうか、何か客観的証拠はないかと探していたら、高山岩男の文章を発見。

これは燈影舎燈選書13「西田哲学とは何か」に収録された雑誌「心」掲載の「西田哲学と私」(昭和54年, cf. p.260)という文章の「田辺先生のこと」pp.204-213のp.207-8の次の部分:

これより余程前からですが(注1)、先生(注2)は午後に吉田山界隈を散歩されます。戦後、私は京都を去りましたが、疎水支線の桜の並木道を「哲学者の道」と名づけていることを数年前に知りました。西田寸心先生も波多野精一先生も散歩をするが、疎水べりでお見かけすることはなく、もっと北の田圃道が多かったように思います。「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが、数年前或る人が"先生の頃から疎水支線の道を「哲学者の道」と名づけられていたそうですね"と申されたのには驚きました。私の頃にはまだそんな名称はなく、橋本関雪という日本画家が妻君の死を悲しんで桜の苗木を疎水支線に沿う何丁か植えた河べりがいい繁道となっていたのは事実です。まだ人家はまばらの時代で、私はこの近くに止宿していましたので、毎日散歩は致しましたが、「哲学の道」などという洒落た名前などはありませんでした。田辺先生もここまで足を延ばされていたかどうかは、詳しいことは知りませぬ。

注1. 「これ」とは、高山が田辺と吉田山を散策中に、種の話を聞いたという田辺研究者ならば皆良く知っているはずの逸話の時。
注2.田辺元のこと。

この文章で良くわからないのが、「「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」の、「大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」という所。おそらくは、ハイデルベルグの「哲学者の道」がネッカー川を挟んで大学と反対側にあるという意味だろうが、もしかして、この「大学側の反対」の大学が、京大だとすると、高山が「哲学者の道」を今出川通り北の疏水の部分を意識して書いたことになる。しかし、この部分は正式には「哲学の道」ではない。http://souda-kyoto.jp/map/area_04.html

公式には、東山に沿って南北に走る部分のみが哲学の道。気になるのが、高山が、西田、波多野が散歩した辺りとして「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている点。疏水は「哲学の道」の北の終点から、ほぼ東西の流れに変わり、農学部裏を通って北白川の現在は住宅地となっている地区へと続く。高山のころには、この辺りは田園であったはずで、こちらの方が「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている「北の田圃道」として自然。西田が良く散歩をするようになったのは、飛鳥井町の家に移ってからだが、現在、スーパーマーケット Grace たなかの西の裏手辺りにあったはずの、この家から現在の「哲学の道」の北の出発点までの道のりと、その出発点から「哲学の道」の南の終点までの道のりが、ほぼ同じ。ということは、現在の「哲学の道」にあたる地域を歩くために、その北端まで歩くというのは不自然なことになる。西田の散歩の目的は考えることにあったはずであり、風光明媚な風景を愛でることではなかったはずである。西田の散歩は、云わば、真剣勝負だったはずなのである。

そして、飛鳥井町から東に散歩するならば、東大路を超えて、百万遍知恩寺の裏手の辺りを通り、京大農学部の裏手辺りを歩くのが自然だろう。その時、気が向けば、さらに南に南下して、現在の「哲学の道」を歩くこともあったかもしれない。しかし、北行した可能性も高い。そう仮定すると高山の記憶に一致しているように見える。もし、高山が、当時、どこに住んでいたのか、書簡、葉書の住所などで特定できると、もしかしたら、ハッキリするのだが。


2016年6月23日(木曜日)

西田の三高寄贈書と旧宅部材の燻蒸

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時00分36秒

今日(23日)も西田幾多郎関係の仕事が二つ。

吉田南図書館の依頼で西田幾多郎寄贈の三高図書館蔵書の書き込みを調べる。
西田の筆跡とは異なるものや、西田ならば書き込まないだろう初歩的な
ドイツ語の読解に関する書き込みなど、やはり、どれも西田のものではない。
おそらく新品を買って寄贈したはずだから、西田の書き込みはないと見るのが自然
だろう。しかし、西田の墨書の筆跡が、良く知られている西田の手書き文字と比べて
非常に綺麗。本当に西田のものか、少し疑ったが、署名の特長的な「郎」の字など、
確かに西田のものらしい。他に、あの様に綺麗な楷書で書いた西田の手書き文字は
あるのだろうか?また、寄贈の時の台帳を見せてもらったが、
この台帳自体が、すでに貴重な史料と言える。

その後、博物館に行って、横山研究員に「哲学の廊下」などの部材の燻蒸を見せて
いただき、京都学派アーカイブ用に撮影もさせてもらう。燻蒸は、僕が想像していた
ものと異なり、大きなビニールのテントに部材を入れ、二酸化炭素を充満させて、
後は中で扇風機で送風するだけらしい。殺虫剤をドンドン入れるのかと思っていた。
しかし、ちゃんと殺虫が出来ているか、生きている虫を入れて確かめるというのは、
ちょっとかわいそう…… まあ、僕もムカデやゴキブリがでたらすぐに殺すから、
勝手なものだ。

キャンパス内の道路で土蜘蛛が歩いているのを見る。潰されないといいけど。
土蜘蛛というのだと思っていたが、地蜘蛛(ジグモ)の方が正式名らしい。


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