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2016年9月24日(土曜日)

Russell と伝統論理学についてもう少し覚書

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時30分02秒

Russell, The principles of mathematicsにおける伝統論理学への言及で、講義で使えそうなところを幾つか記録:

Claas と class-concept (extension v.s. intension)
Chap. II
B. The Calculus of Classes
§21. The insistence on the distinction between and the relation of
whole and part between classes is due to Peano, and is of very great
importance to the whole technical development and the whole of the
applications to mathematics. In the scholastic doctrine of the syllogism,
and in all previous symbolic logic, the two relations are confounded,
except in the work of Frege*. The distinction is the same as that
between the relation of individual to species and that of species to
genus, between the relation of Socrates to the class of Greeks and the
relation of Greeks to men. On the philosophical nature of this distinc-
tion I shall enlarge when I come to deal critically with the nature of
classes; for the present it is enough to observe that the relation of
whole and part is transitive, while e is not so : we have Socrates is a
a man, and men are a class, but not Socrates is a class. It is to be
observed that the class must be distinguished from the class-concept
or predicate by which it is to be defined: thus men are a class, while
man is a class-concept. The relation e must be regarded as holding
between Socrates and men considered collectively, not between Socrates
and man. I shall return to this point in Chapter VI. Peano holds
that all prepositional functions containing only a single variable are
capable of expression in the form “x is an a,” where a is a constant
class; but this view we shall find reason to doubt.

Categorical proposition についての議論:
命題の基本を subject, copula, predicate で考えるのはおかしい。
動詞を無視している。という議論。
 "Socrates is a man" を、
 Socrates | is | a man ではなく、
 Socrates | is a man と divide する。
Chap. III: Implication and formal implication
§43. Assertions
It has always been customary to divide propositions into 
subject and predicate ; but this division has the defect of omitting the
verb. It is true that a graceful concession is sometimes made by loose
talk about the copula, but the verb deserves far more respect than is
thus paid to it. We may say, broadly, that every proposition may be
divided, some in only one way, some in several ways, into a term (the
subject) and something which is said about the subject, which something
I shall call the assertion. Thus “Socrates is a man” may be divided
into Socrates and is a man. The verb, which is the distinguishing mark
of propositions, remains with the assertion ; but the assertion itself,
being robbed of its subject, is neither true nor false. In logical dis
-cussions, the notion of assertion often occurs, but as the word proposition
is used for it, it does not obtain separate consideration. Consider, for
example, the best statement of the identity of indiscernibles: “If x and y
be any two diverse entities, some assertion holds of x which does not
hold of y.” But for the word assertion^ which would ordinarily be
replaced by proposition, this statement is one which would commonly
pass unchallenged. Again, it might be said: “Socrates was a philo=
sopher, and the same is true of Plato.” Such statements require the
analysis of a proposition into an assertion and a subject, in order that
there may be something identical which can be said to be affirmed of
two subjects.

Termについての議論:Chap. IV: Proper names, adjectives and verbs.
§46. Proper names, adjectives and verbs distinguished
§47. Terms
Whatever may be an object of thought, or may occur in any true
or false proposition, or can be counted as one, I call a term. This,
then, is the widest word in the philosophical vocabulary. I shall use
as synonymous with it the words unit, individual, and entity. The
first two emphasize the fact that every term is one, while the third is
derived from the fact that every term has being, i.e. is in some sense.
A man, a moment, a number, a class, a relation, a chimaera, or anything
else that can be mentioned, is sure to be a term ; and to deny that such
and such a thing is a term must always be false.
§48. Things and concepts
 Among terms, it is possible to distinguish two kinds, which
 I shall call respectively things and concepts. The former are the termsindicated
 by proper names, the latter those indicated by all other words.
§49. Concepts as such and as terms


A relation is not a class of couples

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時43分07秒

Tuple を使うと、アリストレス論理学の Categorical proposition だけで、RDBあるいは Datalog の方法を使うと、述語論理の論理式をシミュレートできるが、

But this derivation (上でシミュレーションと読んでいるもの)fails, as Russell points out, because the selected
couples tacitly exhibit, in the order of their presentation, the very relation they are called on to define.
The notion of relation cannot be reduced to that of class; it must be treated as primary.

という、Skidelsky “Ernst Cassirer” 2008, p.60 の記述は、Russell, The principles of mathematics, Chap. IX,
§98. A relation is not a class of couples を指している。


2015年6月9日(火曜日)

Collective noun, 集合名辞

月曜日の特殊講義で、オブジェクト指向におけるクラス概念の誕生を、Hoareさんの Record Handling の論文(レポート)に求めて、説明をしていたとき、科哲史の川西君が、僕の説明に「えっ?」というような顔をしていたので、何か変な事を言ってしまったかと思って調べてみて、この4年ほど「創造的間違い」「創造的勘違い」をしていたことに気が付き驚く。

木曜日後期の「論理学の歴史」で、少なくとも2011年から、尾崎咢堂の文章の非常に稚拙な読み違いをしていた。それは、アリストテレス論理学の term(名辞) が特称の場合(これの1の意味)に、オブジェクト指向や集合論でいう singleton と解釈する(前者では、singleton pattern で使うインスタンスが一つのクラス, 後者では要素が一つの集合として理解する(すればよい)という立場。つまり、ソクラテスとは、ソクラテスというオブジェクトのみをインスタンスとして持てるクラス、集合ならば、ソクラテスだけからなる集合。この見方は、実は、随分昔にATTTという形理論を作ったときに考えたものなのだが、憲政の神様尾崎咢堂行雄が若かりし頃書いた論理学書11ページの集合名辞の説明を間違えて読んでしまい、すでに明治時代位の伝統論理学の見方では常識だったのだと考えていた。

そして、さらにそれに、term の原語 horos, terminus の意味を利用し、また、西田が西洋的論理を分別(ふんべつ)に基づく論理と理解するところを利用して、伝統論理学を term により、個も、集団も、それ以外と分別して、区切り取ってしまい、塀や壁の中に閉じ込める論理、と理解することにより、ハイデガー流に、論理を拒否する、あるいは、避ける、西谷の回互連関が、実は、一般者、類、種が、上から押さえて来る、あるいは包んでくる「縦の論理」ではなくて、個も類も種も横倒しにして平等にしてしまった「論理構造」として理解して、西田、田辺、西谷に共通の柱を通す、という昨年度の後期の特殊講義から始めた作業(今年の後期も前年は全く時間不足だった西田の部分をやります。今年夏の西田哲学会でも発表予定。完成したら「日本哲学史研究」に投稿させてもらうよう上原さんにお願いしてある)に発展させた。

で、この term, term logic の見方、伝統的論理学をちゃんと知っている人には常識で、オリジナルとして主張しては駄目なんだろう、それを西谷の空・回互連関に結び付けたところだけがオリジナルだと思っていたのだが、ポール・ロワイヤル論理学や、19世紀を中心にして、様々な伝統論理学の教科書を見てみると、どうも、それほど明瞭には理解されていなかったように見えて来た。

おそらくボンヤリとは理解されていて、分かっていた人には、当たり前と思われていたのだろう。しかし、明瞭な言葉で図まで使ってハッキリ言いだしたのは、僕が始めたことと思っていいらしいことがわかり驚いた。

で、11ページの集合名辞の説明を、どんな風に読み違えていたかというと、「集合名辞(collective term)は、特称名辞でも、通称名辞でもありえる」、つまり、G7 は集合名辞で、その意味は、the group of G7 でも the nations of G7 でもあり得るというような話なのだが、これを「特称名辞と通称名辞を合わせて集合名辞という」と誤解して読んでいた。その誤解を元に書いた講義資料が、これ

実は、Hoare さんが、変な言葉の使い方をしていて、Record Handlingの 1.3 節で、The objects of the real world are often conveniently classified into a number of mutually exclusive classes, and each class is named by some collective noun, s.uch as “person”, “bankloan”, “expression”, etc. と書いている。"people” なら良いのだが、"person” は、集合名詞 collective noun ではない。集合名辞を集合名詞と結び付けて理解していなかった僕は、それに気が付かず、「僕の意味集合名辞」として理解して話してしまい、それで川西君は「えっ?」という顔をしたらしい。Hoareさんの間違い(ここでわざわざ collective nouns という必要ない。Plural nouns と書けば十分)と、僕の間違いが重層し、それに川西君が否定的に反応し、それに僕が気が付く、という契機が触媒して、見つかった事実。まあ、発見とは、こういうものですね。実に面白い! :-D

で、それが契機となって、全体が明瞭になった。とはいっても、伝統論理学やらヨーロッパ言語文法における名辞、名詞の分類は、非常に曖昧に見えるし、納得いかないというところがどこかにある。恐らく、多くの日本人には、そうなのでは?この辺りが、西田の出発点の一つではないのかとも思うのだが、そうなると、結構、良い議論ポイントを探し当てていたといえそう。

いずれにせよ、この誤解は、大々的に言い立てて、修正せねば!まず、来週の特殊講義、その後で、今も出している2014年の月曜日後期の資料を修正。また、今年の月曜日後期では、伝統論理学の教科書をもってお extensive に survey して、その上で、自分の見方として提示する必用あり。このテキストが役立ちそう。ようするに、僕のATTTのアイデアはラッセルの記述理論から来ているのだな… (昔、Logic of Partial Term というものを考えていたが、その型理論版だった。) :-D

#ところで、今年の前期は、この特殊講義もそうなのだが、間違いと発見とか、自由な視点をどうやったら持てるかとか、
#そういうことに関心をもって、僕の講義を聞いてくれている人たちが何人かいる。その関連でいうと、この事例は、新たな発見が間違いを伴う形で生まれ、
#しかし、間違いを伴いながら、それには重要な発見があり、しかも、数年も間違いの部分に気が付かれないままに、それは進化を続け、
#ある小さな契機により、間違いが見つかり、しかも、間違い部分だけを切り離すことができて、むしろ、残ったものは、
#当初思っていたものより大きなものだった、という事例。実は、学者をやっていると、すくなくとも、僕の場合は、
#何か、手応えあるものを見つける場合の大半は、このパターン。大半と書いたが50%よりは少ないかもしれないが
#それに近いくらい多くある。で、ポイントは、学生さんの「えっ?」というような表情のように、どんなに小さなことでも、
#見逃さず、「徹底的に違和感の払拭を試みる」こと。大抵の場合には、何もない。たとえば、学生さんの誤解だったりする。
#しかし、極たま(このケースでは4,5年たっている)、大きなことが見つかる。
#そして、こういうことが起こるために、大変に大事な条件がある。それは「自分の間違いを素直に認めてしまう」こと。
#この場合は、おそらく2011年から2014年まで(おそらくと書いているのは、2011年の講義資料に該当する部分がないため。
#同じ尾崎の資料を使っているのは確かなのだが、集合名辞の説明をしてない可能性がある。黒板に書いた記憶がぼんやりとは
#あるのだが…)4年も間違えたことを講義していたことを素直に認める必要がある。ただ、それは、僕の見方が、
#昔からあったというのが間違いとなるだけであることに注意。つまり、新しい重要な見方を獲得したと主張するには、
#2011年から4年も、本当につまらない誤読をして、それを講義していました、と素直に認める必要がある。
#大きな主張のために、恥をさらさねばならない。間違いを見つけたら、ドンドン認めるべきは、学者の倫理
#として当然なのだが、そうでなくとも、こういうこともあるから、間違いの恥をさらす、などという
#のは気にせずに、ドンドン認めた方がよい。これは、そういう間違いを認めても、そんな失敗を軽々と乗り越えて、
#自分は進めるんだという、自信、あるいは、矜恃でもあるのです。若いころは中々できませんが、その内、できるように
#なりますから、それを目指して努力しましょう。 :-)


2015年2月14日(土曜日)

講義 論理学の歴史など

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時49分24秒

月5(後期)の2回生向けの講義「論理学の歴史」の採点登録が終わり、漸く、今年度の授業関係の仕事がすべて終了。

なぜか、今期(2014年度後期)は、授業準備が滅茶苦茶に忙しく、その理由が良く分からず不思議だった。例年と大きく違うのは、木2の文学部英語(全学科目扱い)がエキストラであったこと。昔から細部を読みたかった Everdell のモダニズム論のオムニバス The First Moderns を教科書にしたが、読んだところがカンディンスキーとシェーンベルクで分かりやすく(とはいえ、音楽のところは僕も分からないことが多かったけれど。それに比べて絵画はわかりやすい。とにかく目に見えるので)、学生たちもおもしろがって良く調べてくるし、僕もそれに応えるべく、この授業にかなり時間を裂いたことが主な理由。

ただ、それだけで、あれだけ忙しくなるわけはなく、もう一つの原因として、水5の「京都学派、ある思想の系譜:西田幾多郎、田辺元、西谷啓治」で、西谷や田辺、そして、西田の関連性と相違を「形而上学的・存在論的(つまりは、伝統論理学的)側面と、政治との関わり」という、今まではあまり議論されていない側面に光を当てて、史料で実証するという特殊講義をやったので、これも忙しさを増したのは当然。もしかしたら、文学部英語より、こちらの方に時間をかけていた可能性も高い。何せ、こちらは、オリジナルな研究そのものなのだから時間がかかる(これは肝心の西田の部分まで十分到達できず、来年度、後期、西田を中心にして再度講義して、それを論文にまとめる予定)。

で、この二つが忙しくて、月5の2回生用講義だけが、だいたい昨年までの講義と大差ない内容で済ましていて、全体として何とかやれていると、自分では思っていたのだが、この講義のレポートを採点してみて、実は、この「例年どおり」と思っていた講義も、実は、例年と大きく変わっていたことに漸く気が付いた。つまり、やっていた講義・特殊講義三つとも、「新しい試み」だったわけ。それは忙しくて当然だ。ただ、論理学の歴史の新しい部分は、水5の特殊講義と連動していたために、なんとなく、これを無視していたらしい。実際、講義をしていて、「あれ?!これどこかで、すでに話した記憶があるけど…」と戸惑うことが何度かあった。要するに、同じ内容を、少し視点を変えて、週に2回話していたわけだ。

水5の講義のレポートのテーマは、「アリストテレス論理学の特徴について思う所を自由に述べよ。特に、terminus の概念を使って、京都学派や記号論理学との関係を議論できたものに高い評価を与える」。このアリストテレス論理学というのは、いわゆる伝統論理学、つまり、ポール・ロワイヤル論理学を意味している。

で、これを今年は、伝統論理学の別名である Term logic の term が, ラテン語で terminus, 古代ギリシャ語の horos のことであり、どちらも柵とか壁の様なものを意味していて、要するに、西田などが使う「分別」という言葉が象徴するものがこれで、西田の用語である「対象論理」は、基本的には、対象 Gegenstand を terminus が分別する論理であるアリストテレスの構想に基づく論理学のことを意味していて、この「分別」つまりは、terminus による「分別性」をいかに取り除くかが京都学派、特に西田、田辺、西谷の「論理(学)」(注1)の目的だったというスタンスに明瞭にたったのが、今年が初めてだったことに漸く気が付いた。この議論は、今期の水5の講義で、西谷に「空」概念と、論理、論理学、ロゴス、理、理法などへの言及(これらは、ハイデガーの用語、Logik, Logistik, logos などとほぼ同じ使われ方がされている)を分析していて気が付いたものだったはずで、水5の講義準備で、それに気が付き、それを月5の講義のアリストテレス論理学の説明に応用し、哲学を知らない2回生にも、わかりやすくするために、こんな図ソクラテスという個
を作成するなどして、自分の考えが非常に明瞭になっている。これは、今から見れば、昨年度まで、というよりは、おそらくは、今年の前期ころまでは、まだ、自分自身でぼんやりとしか掴めていなかった様に思う。それが、今期の水5、月5の二つの講義を通して、はっきりとした形を持ったわけだ。

どうして、これに気が付けたかというと、主に2回生が書いたレポートの大半が、以上、説明したような形を、次の様に、実に明瞭に説明していたから:アリストテレス論理学の最大の特徴は、それが terminus の論理であること、そして、記号論理学は、この特性故に複雑になってしまう複数の対象の関係性の記述を改善するためのものであり、実は、それが成立する過程で、数学の概念が多用された。また、ラッセルなどは、意識的・無意識的に、生物の分類論をモデルにしたアリストテレス論理学が持っていた「動的側面」を排除し、数学のような静的世界に論理学のモデルを変更したが、それにより個は却って、その「内面」を失い、世界は無内容な個の関係性のみで記述されてしまうことになった。一方で、このことは、京都学派の哲学者たちが、アリストテレス論理学に見出していた「問題点」、それを克服しようとしていた「問題点」、そのものであり、彼らは、特に、西田、田辺は、terminus の論理学の構造は、そのままに保持して、しかし、terminus による「分別」を、「峻別」ではないもの、非連続の連続(西田)、切れていて繋がっているもの(田辺)、ある意味で東洋的な「より連続的な分別」に置き換えることにより(注2)西洋の論理(学)、論理的思考を克服しようとした。

この話は、構成要素の、それぞれの理解が大変難しくて、また、それらの組み合わさり方も大変複雑なのだが、僕が書いた授業史料が論文や書籍なみに詳しいということはあるものの、別に哲学志望でない、2回生のかなりの人が、ここまでハッキリ理解してくれていることに驚き、多様体みたいに局所、局所で繋げていっていた講義でありながら、ちゃんと背骨が大局的に通っていたことがわかり、見かけ上は、似ていても、今期の月5の講義は、昨年までのものとは異質であることを漸く理解した。

ということで、今期は、要するに三つも新しい講義をやっていたようなもの。それは忙してくて当たり前だ…、と納得。

これにより、2012年度から始めた「論理学の歴史」は、漸く完成の域に、ほぼ達した。後は、パースやカッシーラなど、横の広がりをつけたいところだが、最終回の質問票に、内容が濃すぎる、通年にしてゆっくりやってほしいという要望があったように、ちょっと、色々と盛り込みすぎた。たとえば、一階述語論理をアリストテレス論理学の基本命題に変換する方法まで書いてしまった。で、記号論理学のそういう話をする度に出席の学生の数が減った。  ;-)

このことからして、一方で、記号論理学のテクニカルな内容などは別として、それの思想史的意味などは、ちょっと驚くくらい2回生でも理解できることを考えると、来年度以後の構成は、こんなところか?:

    • 以下の三つは、講義の骨子として維持:

    • アリストテレス論理学(ポール・ロワイヤル論理学)・ドイツ観念論の論理学=terminus の論理
    • 数学をモデルにした静的論理学としての記号論理学とその特徴
    • terminus の壁を破ろう、消そうとした京都学派
  1. ただし、記号論理学の具体的説明は極力やめて、副読本的な資料(これに、アリストテレス論理学による述語論理学の記述の正確な証明も書いておく)として置いておくだけで、講義では使わない。
  2. 京都学派の論理学の説明で、田辺、西谷への言及を追加、また、関連したもの、あるいは、背景として、レヴィ・ブリュール、ハイデガーやエミール・ラスク、シェーラーの論理学や哲学などに言及。パースの連続の哲学、ベルグソンの持続なども調べて、追加を検討。ただし、これらは、すべて「リマーク」的にする。

注1.西谷の場合は、独自の論理(学)を打ち立てようとはせず、師であるハイデガーのように「論理学批判」になっていて、意識的に新論理学を打ち立てようとした形跡はなく、むしろ、意識的に、やはり師である西田・田辺が行った「新論理学の構築」という路線を避けているのが見える。アリストテレスに始まる伝統論理学的な西洋哲学の思考法・暗黙の前提の克服を目指す「存在と時間」期のハイデガーは 、Wahrheit の意味を「現象学的アプローチ」で entdecken に求めることにより、体系性を排除している。つまり、Dekonstruktion している。その後、Heidegger が、体系構築を行ったかどうか、ハイデガーをよく知らない僕ははっきり断言できないのだが、多分、やっていない。ところが、西谷の場合は、段々と、特に最晩年に至って、仏教的用語を頻繁に使うようになってからは、実質的に体系構築、ただし、緩やかな体系構築をやっている。たとえば、大谷大講義で、西田の信濃哲学会での「私と汝」の図とそっくりな回互的連関の図を基礎として、家族中のコミュニケーションを論ずるところ、また、それがさらに「空」の概念の導入で「世界理解」の半ば形而上学となっていっている。その意味では、西谷も、最終的には、ドイツの師ハイデガーとは袂を分かち、日本の師である西田・田辺の路線に近づいていったといえる。これは、戻ったのではないことに注意。西谷は、後期から晩年より前には、独自の「形而上学」を展開していない。

注2.ただし、田辺の場合の連続は、実は対立・否定という連続(ジンメルの相互行為でも対立が入る)。また、西田の場合は鈴木大拙へのはがきが示しているように、明らかに東洋が意識されているが、田辺の場合は微妙。彼は、懺悔道などの時代に、東洋、日本の優位性に言及しているが、実は、こういう考え方は、Bergson, Levy-Bruhl, Scheller, そして、数学の哲学では Brouwer たち、つまり、ヨーロッパの、もっと具体的にいうと仏・独の思想家たちにより、20世紀にもたらされたもの(アメリカの James, Pierce も重要だろうが、よく知らない…)。そして、西田は、明らかに Bergson を意識しているし、田辺は、Bergson, Levy-Bruhl, Scheller, Brouwerのすべてに言及しているし、影響を受けているし、Brouwer などは、種の論理の理論的展開の導き手であったとさえ、論文中で述べている。


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