「哲学研究」第603号に掲載された論文「西谷啓治と田辺元」を公開します。
校正中の田辺演習で、種の論理への数理哲学の影響などが、今までの、僕の説に
反して、種の論理の成立の最初からあったことが判明したのだが、それを研究として
纏めることは短時間では不可能だったので、その部分は触れず、夏休み前の田辺演習での
発見に言及するだけに留めましたが、講演「種の論理と数理哲学 田辺元昭和9年講義メモからの新発見」の様なことが分かっています。
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2019年2月28日(木曜日)2019年1月23日(水曜日)論文「西谷啓治と田辺元」「哲学研究」第603号に掲載された論文「西谷啓治と田辺元」を公開します。
2019年1月22日(火曜日)西田幾多郎田中上柳町のサイトを更新1月30日の講演と、新版京都学派アーカイブの公開に向けて、更新してなかった、田中上柳町の西田旧宅のサイトを更新。 2018年12月7日(金曜日)琵琶湖疏水記念館訪問12月6日木曜日は、西田幾久彦さんの、「疏水が山から下りてくる所」まで、祖父の西田幾多郎とピクニック、あるいは、 学芸員の方が、水木金と勤務とのことで、この時に訪問しようと思いながら、 急な訪問にも関わらず、学芸員の白川さんに、丁寧に、また、適格に対応して 白川さんと疏水記念館に感謝。 この様に上手くいったのは、白川さんが歴史学で学位もお持ちの方だからだろう。 疑問に思っていた、水路閣の水の行き先、東山高校の横の滝のような 記録のために: 東山高校横の水路が、「疏水が山から下りてくる所」であっても、 大正期ころのインクラインの写真の著作権の問題も、白川さんの 感謝!!! 2018年11月8日(木曜日)数学基礎論が種の論理の誕生を先導した(4)満原さんからの、ドイツ語の間違いの指摘で、先週金2で修正したのを これもやはり間違いが多いのだが、一応、最新版を再掲示: 画像翻刻テキスト$46$ ハ否定ノApscheidung ,Trennung , Entgegen@@zig. 2018年10月18日(木曜日)西田幾多郎についての展示会9月4日から、時計台一階の歴史展示室で、次の展示を開催中。 これはかほく市の西田哲学館の主催で京大文書館が共催、文学研究科が協力、で開催されている。 人づてに聞いた話では、展示室のレセプションに、この展示についての問い合わせの電話が良くかかってきているとのこと。新聞(朝日、毎日)やNHKテレビで報道されたので、その影響もあるのだろう。 展示の様子は、こんな感じ: 入口の表示板 北 東 南 西 東の展示ケースの中に本がみえるが、これが西田が三高を卒業したばかりで、京都帝国大学への入学を待っていた長男の謙さんが病気で急逝した際に、三高図書館に寄贈した本の一つ。 謙さんの写真と西田が悲嘆にくれて詠んだ短歌が幾つか、西田の肉筆で書かれている。 これらの歌は、よく知られているが、それを西田の直筆で謙さんの写真とともに見ると、西田の深い悲嘆が伝わってくる。 これは三高図書館の歴史を引き継ぐ吉田南図書館に貴重書として保管されているもので、今回、これを史料館の依頼で特別に出していただいた。 画像は京大のルールで、画像を、京都学派アーカイブとか、このブログに置くことはできないのだが、吉田南図書館の、このお知らせにでているので、その画像をembed で表示。 最初の写真には、三高の帽子を被った謙さんの写真の左右に五首の和歌がある。その三番目のものと五番目が次のもの: 垢つきて 仮名付多き 教科書も 貴きものと 筐におさめぬ 徒らに むくろ残りて 人並に のみて食いて 笑いてぞ居る 筐は、箱のこと。この二首の和歌の意味としては、上のものが、「垢がついて汚くなった、漢字に仮名でルビを多く書き込んだ教科書も、謙が死んでしまった今では、貴いものと思われて遺品の箱に納めた」、下の方のものは、「謙は亡くなったが、私の肉体だけは、いたずらに残ってしまい、人並みに食って飲んで笑っている。しかし、私はもう抜け殻なのだ」となる。 実物を見ると、西田の深い悲しみが、心にひしひしと迫ってくる。西田は本当に深い感性を持った人物だったようだ。それが、三木の様な若者たちを引き付けて京都学派が形成されたのだろう。 展示は11月4日までです。入場無料。京都に近い方、京都にお出でる予定がある方、是非、お立ち寄りください。 2017年11月28日(火曜日)西谷裕作などメモ一つ前の投稿に関連してサーチをしているとき、以前から気になっていたことについての情報を少しみつけたのでメモ。 西谷啓治の長男でライプニッツなどを研究して京大文の助教授だった西谷裕作のこと: 1.何時だったか立教大学数学科にいたころ、良く数学史の講義を拝聴していた村田全先生が、 http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/koshikata-utf.pdf 2017年3月29日(水曜日)西田幾多郎田中上柳町旧宅について京都哲学会機関紙「哲学研究」600号記念号に依頼されて登校した論説「西田幾多郎田中上柳町旧宅について」林、市川共著。公開の許可いただいた京都哲学会に感謝します。(編集の中畑さんの話では、許可もなんもなく、自由にやってください、とのこと。 2016年9月24日(土曜日)西谷啓治と田辺元今、日本哲学史専修の紀要に投稿する「西谷啓治と田辺元」という論文を書いていて、そのために久しぶりに「田辺元 思想と回想」(筑摩書房、1991)を読む。これに昭和20年に定年退職した田辺が、その夏、京都から北軽井沢大学村の山荘に疎開というか、引っ越すときの情景が書かれていたと記憶していたので、それを論文で引用するために調べるため。 この論文は、実は田辺と西谷の間柄が、西田と西谷の間柄より、遥かに親密であり、実は哲学の理論上でも、西谷に「否定的」な意味で田辺の影響があることを示すというもの。西谷と田辺は、西谷が波多野の退職の後に講師となってから、非常に多く議論したらしい。しかし、その割には、西谷の哲学に、田辺の哲学の直接的影響の形跡を直接的に示す証拠は、ほとんど見られないのだが、面白いことに、最晩年の「空と即」には、田辺を意識したとしか思えない用語の使い方などが多くみられるのである。そういうことを書いている。 田辺と西谷の議論の逸話を最初に読んだときに印象的だったのが、田辺は、そのころ病気がちで、毎日、一日の半分位は寝込むほどの状態ながら、京都から北軽井沢まで、田辺と西田の二人が延々と哲学の議論をしていたということ。 数年ぶりに、その本を読み返してみて、この田辺とその夫人の京都から北軽井沢への移住の際の逸話の著者が、大島であったことが分かった。また、西谷による田辺についてのエッセイも、数年ぶりに再度読む。この数年で、京都学派への理解が各段に深まり、以前、読んだときの印象と大きく違い、沢山の情報が得られたという気がする。 まだ、当時の時刻表など調べてみないと良くわからないのが、北軽井沢に、まだ日があるころに到着している点。学生時代、普通を乗り継いで、東京から広島県の郷里まで帰るということを何度かやってみていたが、その経験からすると、もっとかかったのではという気がしていたのだが、日本の内陸部、つまり、中央線などを使い、京都から北軽井沢まで移動すると距離的には案外近く、東京と広島県との距離より随分近いのに気が付く。 その京都から北軽沢へのルートが気になっていたのが、田辺が東京の焼け野が原を見ていたかどうかという点。大島の記述から、やはり中央線を通るルートで、田辺は出身地の東京の米軍の爆撃による焼け野原を目撃していないことが分かった。これは、そうではないのかと思っていたが、一方で、東京より酷かったとも言える名古屋の焼け野原は見ていた可能性が高い。 正直に言って、日本の京都を除く、大都市の焼け野が原を見れば、太平洋戦争というものが、この日本の伝統に対して犯した限りない罪が見えるはずなのだが、そういう気持ちが戦後の田辺の著作に一切見えない。そのことが、僕には非常に違和感としてあって、きっと、昭和20年の日本の大都市の惨状を、田辺は見ていないのではないかという仮説を立てていたのだが、これはどうも間違い。 どうも、田辺や西谷は、そういう惨状を無視する人たちであった可能性が高い。それは大島が岐阜当たりの駅舎がB29の焼夷弾で燃えているのに驚いている様に、田辺、西谷が、しょうがない奴だという風な顔をして、大島の様を一瞥し、自分たちは哲学の議論を続けていたという大島の記述からわかる。明治人の特質か? いずれにせよ、久しぶりに「田辺元 思想と回想」を読んだことにより、西谷と田辺の人間的な近さが、間違いなく確認できた。 2016年7月8日(金曜日)さすが Google!!西田幾多郎旧宅の内部を Google インドアビューとして撮影して保存する件、 理由の一つは、僕がマイビジネスの登録方法を良く理解できず、 もう一つが、Google 社内の手続きの問題。 ところが、いざ、登録手続きを始めてみると、インドアビューには、 ソフト/サービスというものは、まあ、こういうものなのです。 この後者がパロアルト流。その方が実は効率が良いし気楽。 で、昨日、JTBプラネット社の大西さんから これは、多分何かシステムを一部書き直してくれたのではないかと思う。 世界有数の大企業 Google が、1週間程度(もっと短い?)で、 以前、僕があまりに Google を褒めるものだから、Google Japan の まあ、それ位に、僕は、Google が好きだ。 正確にいえば、Tim Winograd さんがいう「パロアルトの 2016年7月5日(火曜日)闘う西田幾多郎 –ある同僚の証言–田中上柳町の西田幾多郎旧宅の一部保存に関わったことで、色々と調べが進んで面白いということを一つ前の投稿で書いたが、実は、その投稿の前に書きかけて、途中で入力が飛んでしまった話を再録。 西田幾多郎「悲哀の哲学」の現場 西田幾多郎田中上柳町旧宅についてで、静かな泰斗というイメージが強い西田幾多郎が、実は壮年時代、特に京大時代、少なくとも場所の論理の前までは闘う人であり、その背景に「悲哀の哲学」があるという「新しいイメージ」を出して記述した。 で、「新しいイメージ」に括弧がついているのは、そのページでも引用した藤田正勝さんの岩波新書「西田幾多郎」などで詳しく論ぜられているように、西田の「悲哀の哲学」というイメージは、多くの専門家に共有されているイメージだと思うからである。確か、関西学院大学の嶺さんも悲哀の哲学のことを書いていたし、哲学館にいくと、吹き抜けの空間に、こういう巨大なタペストリーがかかっている。 しかし、「闘う西田幾多郎」というイメージは、藤田さんの本でも、それほど強調されているようには思えない。嶺さんの著作でも、あまりこれは強調されていないように思える。 で、「闘う西田」には、証拠が必要だが、その一つとして、西田のある同僚の話を記録。 それは下村の「西田幾多郎 同時代の記録」の pp.73-6の朝永三十郎の「古人刻苦光明必盛大ー西田博士の書」というエッセイ。オリジナルは西田全集、昭和26年10月月報。 朝永三十郎は、西田と一歳違いで、西田が京大哲学の教授であった時代に、哲学史の教授であった人。京大文への赴任は西田の1910年より三年早い1907年(明治40年)。 この人が、次のような面白い話を残している。実は、大半は「闘う西田」とは直接の関係はないのだが、こういう人物の証言ならば信用できるだろうという意味で、これをここに採録。 ———– この後、朝永は、「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたのである。 朝永三十郎という人は、軽妙洒脱な人であったのではないかと思う。今、京都学派アーカイブの新版の用意をしているが、そのトップページには、西田、田辺を始め、朝永を含む20数名の思想家たちの肖像写真が並ぶ。その写真群の中で、ある意味で最も異彩を放っているのが、朝永三十郎の写真である。 朝永の写真で解像度が良いもので著作権処理ができそうなものがなかなか見つからなかった。解像度が比較的良い写真の朝永は、何故か奇妙な服装をしていたが、それを使うことにした。しかし、変な服装だなと思って、よくよく見てみると、朝永が着ていたのは割烹着らしいのである。キャプションによると、どうも鰻の蒲焼を作っている際の姿らしい。僕等のような「旧帝大の小遣い同然の、現代の旧帝大の教授」と違って、朝永の当時の教授職の地位は高かった。そういう人が割烹着を着て料理を作り、その写真を撮らせるというのは、拘りが少ない、自然な人だったはずである。 三木が西田を「激しい魂」と呼んでいるが、三木自身が激しいので、少し割り引いてしまいたいところがある。しかし、朝永が「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたものは額面通りに受け取れると思うのである。 ところで、西田が書いた古人刻苦光明必盛大とは、猛烈に精進せよ、という意味である。その西田の書に「叱られているようで苦しい」といった、朝永の長男というのは、後のノーベル賞物理学者朝永振一郎である。東京での修行生活というのは、1931年に理科学研究所の研究員になったことをいうのだろう。そうすると、このとき朝永三十郎は60歳、西田は61歳である。 朝永振一郎が1965年に日本人として二番目のノーベル賞を受賞したき、新聞で朝永の写真を見た。それはまな板の上で大根か何かを切っている図で、料理は遅いが上手なのだ、という説明がついていた。まだ子供で、家庭科以外では料理をしたことがなかったが、それを何か妙に好ましく思ったのを思い出す。 2016年7月4日(月曜日)村山知義と戸坂潤このところ京都学派の人脈を調べ続けている。 京都学派の研究を続けているが、僕が見たいのは、本当は、近代というものの正体。つまり、モダニズム研究、近代化研究が、僕がやりたかったことで、それで理系・工学系の学問を止めて、人文学に移った。 京都学派の時代と、その周辺を知ることは、哲学における近代を見ることに通じ、それで数年で止める筈の田辺元研究が、西谷、西田の京都学派研究にまで発展してしまったのだが、「自分の研究は、哲学史ではなくて、哲学の思想史だ」、とは言ってみても、哲学の理解に時間と労力がかかるものだから、哲学者の哲学史とあまり変わりがなくなって来ていて、自分では、不満というか、面白くなくなってきていた。 しかし、田中上柳町の西田旧宅の保存に関わったお蔭で、なぜ、西田の現在の様なイメージができたのか、それは京都学派の世代の移り変わりから来てはいないかという仮説がでてきて、そういうことを調べる内に、大正の中ごろに、いささか上滑な哲学ブームが起こり、それもあって京都学派の隆盛があったらしいことなどが分かってきて、京都学派の研究に文化史的側面が出てきて、面白くなりつつある。 そのころの証言を讀むと、そういうことが起きたことが、当たり前であるかの様に語る語り口に出会う。これは日本文化史の、こういうことの専門家には当たり前の話に違いないのだが、果たして、現在、そういうことの専門家がいるのかどうか、実は、それが怪しい。しかし、昔存在した専門家が書籍や論文にまとめていた可能性はある。が、しかし、兎に角、見つからない。 ということで、自分で調べるしかなく、また、調べると芋づる式にドンドン史料が地中から出て来るので、面白くなってきて、今、熱中しているところ。こういう時が研究のフェーズとして一番面白い。 で、そういう話が今日(4日)、一つあったので、記録。 3日に、高坂節三さんの著書に引用されていた梯明秀のエッセイの『唐木順三が、「あそこに四天王子がいる」とささやいた』という一節のオリジナルを見るために、注文していた「回想の戸坂潤」(1976)の古書が届いたので、その目次を開いて、著者の欄に村山知義の名を見つけて驚いた。本文を読んでみると、戸坂と村山は開成中学で同級生であった。(ちなみに、この四天王子というのは、木村素衛、高坂正顕、西谷啓治、そして、戸坂のこと。場所は、p.50) 村山については、2011年に京都国立近代美術館であった、ハンガリー出身のアバンギャルド、モホイ=ナジの展覧会で、村山の著書を売っていたのを買ったのが契機で興味を持った。 この頃は、僕は、まだ自転車通勤をしていて、2,3ある通勤経路の一つが、近代美術館の前の神宮道の歩道を南行しフランス惣菜のお店「オ・タン・ペルデュ」で晩御飯を買って帰るという道だった。それで、近代美術館で面白そうな展示があると、寄り道したり、土日に出かけることがときどきあった。 モホイ=ナジは、勿論、モダニズムからの興味で、特に Ein Lichtspiel が気に入って、DVDを買ったり、同時代の日本のアバンギャルドとして、村山の「構成派研究」の復古版も売っておりこれを買って読んだのだが、数学のモダニズムと芸術のモダニズムの類似性を考える様になったのは、これが切っ掛け。それで村山には大変興味を持ち続けていた。 その村山が京都学派の文脈で出てきたので驚いたのだが、梯のエッセイなどを読むと、これらの人物の関係は、当然という感じもしてくる。要するに土俵が小さいので、大抵の人が結びついてしまうという、当時の日本の状況の、これも一例だろう。 その梯のエッセイの中に、子供の頃に親に連れられて行った昔の洋食店の雰囲気が残っているので、時々、利用する南座前のレストラン菊水の話がでてくる。今は宴会場、ダンス場になっている、僕もCMUのSiegさんが来た時にパーティを開いた3階は、昔は、バーであり、そこで三木や梯、戸田などが、一高会を開いたのだそうだ。僕が昔住んでいたアパートのすぐ近くが西田の旧宅であったように、また、田中上柳町の西田旧宅に昭和30年代に住んでいた画家・音楽家の家族が山科に建てた家が、僕が買って、今住んでいる古家だったなど、京都に住んでいると、京都学派の痕跡に度々出会う。定年退職したら離れることも考えていた、この街に住み続けることになりそうだが、その理由は、こういう所にあるような気がする。 2016年7月3日(日曜日)植田と天野 京都学派の黎明一つ前の投稿で、三木清こそが京都学派形成のキーマンだと書いたが、これは三木が一高から京大に来たころから京都学派というものが形成されたと言う意味ではない。これ以前に、例えば務台や三宅などがいる。 しかし、西田と京大哲学が有名になり、多くの人材が、それに引かれて集まってくる「華やかな」時代と、務台たちの時代は明らかに違う。「三木清こそが京都学派形成のキーマン」と書いた意味は、その華やかな時代の幕が三木により開けられたということである。堀維考宛に書いた手紙の一節は、西田が、その時代の「華やかさ」に違和感を持っていたことを示唆するが、この華やかさに軽薄な部分が全くなかったとは言えないものの、確かに充実した時代であったのであり、また、西田は、自分を慕って、わざわざ一高から京大文に来てくれた三木のような若者、特に三木が可愛くて仕方がなかった様に見える。 とはいうものの、こういう時代以前の、西田が京大に来る前から京大にいた人物たちのことも無視することはできない。桑木、朝永などの同僚は、それに入るが(ただ、桑木はさすがに京都学派に入れるには躊躇する。やはり、東大の哲学者というイメージが強すぎる…それで桑木は僕の意味での京都学派には入れていない)、西田、田辺を中心とする京都学派という時、やはり、同僚よりは、西田、田辺に影響を受けた人たちのことを考えないといけない。 それで、そういう人たちを、西田との関係で分類すると、次のような類があり得る。 類1.西田を慕って、京大文学部を目指した人たち。 類1は、もちろん、三木、西谷、さらには学生ではないが田辺が入る。 一方で、類2の代表格としては、植田寿蔵と天野貞裕をあげることができる。この二人と西田の関係を非常に良く物語るものとして、また、何故、西田が、あれほどまでに人を引き付けたのかということを理解するために、非常に良いのが、下村の「西田幾多郎 同時代の記録」、p.103 からの植田の「西田先生」という文章、オリジナルは西田全集、昭和28年4月月報。その時、文学部の3回生であったはずの植田は、天野とともに参加した西田の京大での始めて哲学の講義(明治43年9月22日)の印象を、次のように綴っている: これが2時間つづくうちに、その地味な講義の、今まで聴いたどの講義とも違った思いのする、人間味と言おうか、温かさと、段の違ったような深さがありありと感ぜられた。講義が済んで、インキの栓をして立ち上がると、傍らの席にいた天野君と目が合った。どちらからともなくその2時間の印象を話し合った。言葉はすっかり忘れてしまった、その時の感じを、窓の高い広い教室の初秋の明るさとともに、今もはっきり覚えている。40年間の深い尊敬と帰依がこの日からはじまった。 戸坂潤は、西田を称揚する人たちは、結局、西田ファンなのだ、と書いたが、どうも西田哲学の内容より、西田という人の魅力が、人を引き付けたという面が、相当にあるようだ。これは三木についても見られることに注意。植田の記述も、三木の記述も、内容は忘れてしまったとか、良く理解できなかった、という風に書かれている。つまり、植田や三木の様な人たちでさえ、最初は「西田ファン」であったわけで、これは実に興味深いことといえる。 そういう人物は内容を伴わない場合が多いが、西田の場合は、そういう「人気」が先行しながら、場所の論理以後の内実が伴うところが実にユニークで面白い。要するに西田は周囲の受けなどは一切無視して、懸命に戦っていたのであり、その姿に人びとが魅かれて「ファン」になったということだろう。だから、西田自身にとっては、ファンなどいようがいまいが関係なかったのであろう。そういうところが、また、西田が人を引き付ける原因であったろう。 2016年7月2日(土曜日)三木清と西田幾多郎 京都学派について論じる時、常に伴う問題として「京都学派とは何か?」という事がある。 西田幾多郎先生のこと 西田先生のことども 2016年6月8日(水曜日)西田幾多郎「哲学の廊下」解体保存この5か月ほど、一番力と時間をつぎ込んでいた西田幾多郎とその家族が大正元年から11年まで住んだ家の一部解体保存の仕事が、今日で一応の目途がたった。 最初は、1,2社にでも書いていただけたら、それが将来の展示につながれば、と思って計画したプレスリリースなのだが、驚くほどの反響で、新聞や通信社だけでなく、TVも毎日放送、京都放送、NHK京都と取材があった。 どうもみなさん西田や京都学派に興味があるらしい。若い女性の記者さんが西田旧宅の内部をみて、こんなところに住みたい、もったいない、と言っていたのが印象的だった。こういう人がもっと増えてくれればよいのだが。でも寒いですよーー。 それから、どうも二階外廊下を、僕が勝手に「哲学の廊下」と名付けたのが、面白がられたみたい。 この名前は、初めて内部に入り、廊下を行き来してみたときに突然浮かんだもの。 僕も考えに詰まると部屋の中をうろうろしながら考えるのだが、僕の家は、それほど大きくないので、歩きにくい。しかし、この廊下、歩いてみると、長さと幅が、考えながら歩くのに、実に具合がよかった。 で、「わー、こんな廊下があると考えるときに歩きやすいな。哲学の廊下だ!」と思った次第。 興味がある方は、http://www.shayashi.jp/nishidakitaroukyutaku/を見てください。 しかし、今日は、早朝から、講義が終わる6時まで、本当に忙しく、この5か月を象徴するような日だった。そのため4時半からの講義に少し遅れてしまった。今日は、僕が弁士になって しかし、福井工大の市川さんにも言ったのだが、実は、まだ、中間点。保存したものを展示できるようにして初めて仕事が完成する。 これは資金の問題もあり簡単にはできない… がんばります! おお、今日から、また、ブログが書けるぞ! 2016年5月23日(月曜日)京都学派形成の研究最近、ブログを書いていないが、これは活動をしていないのではなくて、ブログに書けない活動が忙しすぎるから。 で、それに関連して、またまた新しい研究計画を思いつく。 以前から、西田や田辺の現在からは信じがたいポピュラリティーが何であったのか、知りたかったのだが、それの手がかりになるかもしれない文章を、下村の「西田幾多郎―同時代の記録―」で見つける。 それは同書の、p.125の菅円吉の「西田先生のことなど」と、相原信作の「師弟」。 前者では、一高の首席だった三木清が、西田のもとで学ぶために、わざわざ京都に来ると言うことがあるまで、京都帝国大学哲学の地位が低かったこと。たとえば、菅の同級生たちは、皆、京都帝国大学哲学でなく、東京帝国大学哲学に進学してしまったという逸話が語られている。しかし、三木の頃以後、京都学派の哲学の隆盛は目を見張るものがある。 これに関連して気になるのが、下村の同書の相原信作著「師弟」の内容。p.144で、父親に、喰えない哲学に進むことを反対されたが、実際には、岩波書店を巡る空前の哲学ブームで、ドイツへの留学さえ、哲学書一冊を翻訳すれば、ドイツ留学の費用など簡単にでると岩波茂雄に示唆されたという話など、非常に興味を引く。 こういうデータ、京大の資料や、岩波の資料で、実証できないか? できたら、凄く面白いと思う!!! 2015年8月23日(日曜日)RIETIプロジェクトと学習院西田史料調査19日に、新井紀子さんのRIETI/BBLセミナーがあったので、これを機会にRIETIのAIプロジェクトのメンバーの一部が集まる。また、さらに、この機会を利用して、学習院史料館の西田史料を調査。 BBLセミナーは新井さんが東ロボプロジェクトでTVにも出る様になっているので大盛況。セミナーの前の昼食会に中馬さんや僕もよんでもらったが、そちらでの議論でも、セミナー・トークへの質問でも、やはり誤解が深い。セミナーで、新井さんが、実は、東大にAIは当分合格できない、それを予想してのプロジェクトだと説明したのにもかかわらず、それでも誤解している人が殆どのよう。昼食会の際か、セミナーの時か、実は、東大は関係なくて、中堅以下(?)の大学が生み出している人材の多くがAIで置き換え可能であることを示すプロジェクトであることをNIIの所長さんに説明したら、プロジェクトが採択されたと言っていたが、大変正直な説明で、また、重要な説明。ただ、これの意味が理解できた人が、殆どいなかった様な…。理解できていれば、そこで大きなため息がもれるはずなのだが… RIETIプロジェクトの相談は、中馬さん、リクルートの戸田さん、久米さんの4名で行う。これはやってよかった。その後もメールで議論を継続したが、どうも、中馬さん、リクルートのお二人、そして、僕の間で、かなりイメージにすれ違いがあるような。これをうまく合わせていかねばいけない。これから大変だが、やらねばいけないプロジェクトなので頑張る! 翌20日は、一転して、学習院史料館で、京都学派の思想史の研究(だから、予算の出所が違う)。予め、お願いしていた、京都学派関係の史料を拝見し、撮影。これらを用いて、京都学派アーカイブの新バージョンを作る。掲載可能かどうかの判断は、WEBページができてから。 担当は、学芸員の長佐古さんで、詳しく説明していただき、また、写真撮影をさせていただけた。書簡は、ちゃんと、中性紙の箱や、古史料用の透明フィルムケース、その中に紙の酸性成分の中和させるシートなどに入っている。こういうフィルム状の保管用フォルダーは知らなかった。多分、清水光芸社の清水さんが言っていたが、予算が全然足りず、使わなかったものだろう。 学習院史料館は、旧図書館の古い平屋の洋館で、非常に感じがよい。僕は、どうもこういう建物が好きなようだ。長佐古さんは、旧華族家の史料の調査などもされていて、その膨大な史料の冊子も拝見する。これが、なんともすごい。ただ、僕の経験と同じで、そういう調査の意味が最初はなかなか理解してもらえなったとのこと。ただし、それらの努力の重要性を、学習院は理解してくれて、結局は、史料館に学芸員や助教が常駐する今の体制ができたとのこと。実に、素晴らしい。 学習院史料館の充実ぶりを褒めると謙遜されていたが、これはどうも江戸期以前の古文書の保全に比較してのことだろう。明治以後の近代文化遺産については、最近、工場跡などは世界文化遺産に登録さえされるようになったが、文書の場合は全く駄目とさえいえそう。実に困ったもので、長佐古さんが、これを理解できる人なので、二人で仕切りに嘆息… 資料も沢山いただけたので、「史料をたずねて」の良い記事がかけそう。 2015年6月9日(火曜日)Collective noun, 集合名辞月曜日の特殊講義で、オブジェクト指向におけるクラス概念の誕生を、Hoareさんの Record Handling の論文(レポート)に求めて、説明をしていたとき、科哲史の川西君が、僕の説明に「えっ?」というような顔をしていたので、何か変な事を言ってしまったかと思って調べてみて、この4年ほど「創造的間違い」「創造的勘違い」をしていたことに気が付き驚く。 木曜日後期の「論理学の歴史」で、少なくとも2011年から、尾崎咢堂の文章の非常に稚拙な読み違いをしていた。それは、アリストテレス論理学の term(名辞) が特称の場合(これの1の意味)に、オブジェクト指向や集合論でいう singleton と解釈する(前者では、singleton pattern で使うインスタンスが一つのクラス, 後者では要素が一つの集合として理解する(すればよい)という立場。つまり、ソクラテスとは、ソクラテスというオブジェクトのみをインスタンスとして持てるクラス、集合ならば、ソクラテスだけからなる集合。この見方は、実は、随分昔にATTTという形理論を作ったときに考えたものなのだが、憲政の神様尾崎咢堂行雄が若かりし頃書いた論理学書の11ページの集合名辞の説明を間違えて読んでしまい、すでに明治時代位の伝統論理学の見方では常識だったのだと考えていた。 そして、さらにそれに、term の原語 horos, terminus の意味を利用し、また、西田が西洋的論理を分別(ふんべつ)に基づく論理と理解するところを利用して、伝統論理学を term により、個も、集団も、それ以外と分別して、区切り取ってしまい、塀や壁の中に閉じ込める論理、と理解することにより、ハイデガー流に、論理を拒否する、あるいは、避ける、西谷の回互連関が、実は、一般者、類、種が、上から押さえて来る、あるいは包んでくる「縦の論理」ではなくて、個も類も種も横倒しにして平等にしてしまった「論理構造」として理解して、西田、田辺、西谷に共通の柱を通す、という昨年度の後期の特殊講義から始めた作業(今年の後期も前年は全く時間不足だった西田の部分をやります。今年夏の西田哲学会でも発表予定。完成したら「日本哲学史研究」に投稿させてもらうよう上原さんにお願いしてある)に発展させた。 で、この term, term logic の見方、伝統的論理学をちゃんと知っている人には常識で、オリジナルとして主張しては駄目なんだろう、それを西谷の空・回互連関に結び付けたところだけがオリジナルだと思っていたのだが、ポール・ロワイヤル論理学や、19世紀を中心にして、様々な伝統論理学の教科書を見てみると、どうも、それほど明瞭には理解されていなかったように見えて来た。 おそらくボンヤリとは理解されていて、分かっていた人には、当たり前と思われていたのだろう。しかし、明瞭な言葉で図まで使ってハッキリ言いだしたのは、僕が始めたことと思っていいらしいことがわかり驚いた。 で、11ページの集合名辞の説明を、どんな風に読み違えていたかというと、「集合名辞(collective term)は、特称名辞でも、通称名辞でもありえる」、つまり、G7 は集合名辞で、その意味は、the group of G7 でも the nations of G7 でもあり得るというような話なのだが、これを「特称名辞と通称名辞を合わせて集合名辞という」と誤解して読んでいた。その誤解を元に書いた講義資料が、これ。 実は、Hoare さんが、変な言葉の使い方をしていて、Record Handlingの 1.3 節で、The objects of the real world are often conveniently classified into a number of mutually exclusive classes, and each class is named by some collective noun, s.uch as “person”, “bankloan”, “expression”, etc. と書いている。"people” なら良いのだが、"person” は、集合名詞 collective noun ではない。集合名辞を集合名詞と結び付けて理解していなかった僕は、それに気が付かず、「僕の意味集合名辞」として理解して話してしまい、それで川西君は「えっ?」という顔をしたらしい。Hoareさんの間違い(ここでわざわざ collective nouns という必要ない。Plural nouns と書けば十分)と、僕の間違いが重層し、それに川西君が否定的に反応し、それに僕が気が付く、という契機が触媒して、見つかった事実。まあ、発見とは、こういうものですね。実に面白い! で、それが契機となって、全体が明瞭になった。とはいっても、伝統論理学やらヨーロッパ言語文法における名辞、名詞の分類は、非常に曖昧に見えるし、納得いかないというところがどこかにある。恐らく、多くの日本人には、そうなのでは?この辺りが、西田の出発点の一つではないのかとも思うのだが、そうなると、結構、良い議論ポイントを探し当てていたといえそう。 いずれにせよ、この誤解は、大々的に言い立てて、修正せねば!まず、来週の特殊講義、その後で、今も出している2014年の月曜日後期の資料を修正。また、今年の月曜日後期では、伝統論理学の教科書をもってお extensive に survey して、その上で、自分の見方として提示する必用あり。このテキストが役立ちそう。ようするに、僕のATTTのアイデアはラッセルの記述理論から来ているのだな… (昔、Logic of Partial Term というものを考えていたが、その型理論版だった。) #ところで、今年の前期は、この特殊講義もそうなのだが、間違いと発見とか、自由な視点をどうやったら持てるかとか、 2015年2月15日(日曜日)京都学派アーカイブ、remodel 開始MMJの松本さんにやってもらっている京都学派アーカイブの新デザインの一部が送られて来たので、テスト用に谷川史料についてのページを作る。 そのために、まず、新デザインの一部をUPした。ただし、デザインは進行中で、最終版は少し変わる。 担当授業の採点登録が終わり、今年度の教育の仕事が終わったので、これからアーカイブと、SMART-GSと、岩波新書の原稿と、Labyrinth of Thought の和訳に戻る。おっと、その前に、岩波文庫の解説の「数学か、哲学か」の部分を新知見で書き換える作業も早くやらなくては!それと、来年度の前期の特殊講義と「哲学研究」に論文を投稿するための、「ITと哲学の相即」の detail も固めていかねばならないし、後期特殊講義のために西田も読まなくては。あっと、トンプソン君への返事がまだだ。パスポートの書き換えやら私学共済の手続きもまだだ… こうやって書いておくと、忘れても思い出すかな… 2014年12月5日(金曜日)京都学派アーカイブ大改造を開始常滑市の「谷川徹三を勉強する会」と市立図書館を取材させて頂いて以来、 なかなか大変な作業だが、やりがいがある作業になるだろう。 でも、またまた、忙しくなるな〜〜〜。ハハ…(^^;) 58 queries. 0.122 sec. |