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2016年7月27日(水曜日)

Google 東京オフィスなど

産業総合研究所の人工知能の社会インパクトプロジェクトの一環で、TensorFlow など、Google の機械学習への対応の話を伺うために、Google 日本オフィスのGCP(Google Cloud Platform)部門を訪問。佐藤一憲さんから色々教えて頂く。パロアルト的立場からは、実に自然な流れであることがわかり納得。大変良い方向に進んでいるという気がする。ただ、これは「機械が職を奪う」という方向に繋がらないとも限らないと言う懸念も抱く。少数の機械学習の「職人」+マシン(AI)が、多くの「職人」を代替する可能性がある。

この時、MITのAutor教授が言うような、別のセクターの職がどれだけ生まれて来るのか、それが問題。Autor氏の主張では、アメリカの農業労働人口が劇的に減少したかわりに、工業の労働人口が爆発的に増加したわけだが、この工業セクターでの労働人口にあたるものが、まだ見えない。それが Autor 「理論」の弱いところ。果たして何か、生まれるか…

この訪問の前に、僕の研究室の出身で Google で働いている清水君と会う。Google Culture Heritage の相談で、京都に来てくれたのが、もう数年前で、それ以来。

彼との話で面白かったのが、サンフランシスコのイメージの、清水君と僕とのズレ。清水君によると、最近、サンフランシスコについての歌を聞いて、その歌詞にサンフランシスコが、ロマンチックな場所の様に歌われているのに違和感があったらしい。僕は長らくサンフランシスコを訪問してなかったので、分かってなかったが、どうもアジアの沸騰都市の様になったサンフランシスコは、2000年代に始まったらしい。だから、清水君は、それしか知らない。

そのために、10階建て以上の建築など、殆どなかったサンフランシスコの風情は、清水君には無縁のものらしく、それで僕などが抱く昔のサンフランシスコのイメージに「なぜ?」と思うらしい。世界はすっかり変わってしまったことに、今更ながら思いを馳せる。

Google 訪問の後、私用を済ませた後、岩波新書の編集長の永沼さんと会って、随分前に依頼された新書の書き方の変更を相談。思いがけず、面白いと言ってもらえたので、その方針で進む。僕も、定年まで後、2年と少ししかない。アカデミズム一辺倒の姿勢から方向転換をすべき時期だろう。


2016年7月19日(火曜日)

失敗しなきゃ、始まらない

雑誌としては、唯一、良く買うアエラの7月18日号の特集のタイトルが「失敗しなきゃ、始まらない」だった。

大体、僕がいつも言っている事に近い話ばかりなので、楽しく読む。

アエラは働く若い女性をターゲットにしている雑誌らしい。創刊当時から良く買っていたのだが、長らく女性がターゲットであることを知らずにいて、連れ合いに指摘されて驚いたのが、もう10年近く前か?分かってみると、確かに女性をターゲットにした記事が多いので、納得した。

この特集の「失敗こそ最大の財産」というメッセージは、実は「お父さん」たちに聞いて欲しいのだが、ダメなのかなー。

やはり、女性に期待をかけるしかなさそう。


2016年7月11日(月曜日)

差は広がっているのか…

経済産業研究所のAIの社会影響研究のプロジェクト(中馬プロジェクト)のMLで、こういうページのリンクが流れ、日本の企業が何処にも現れないという話になったが、AIを含むITの日米の差は、そういう風な議論が無意味なほどに開いている様に見える。航空機以上の差かも?

若い人たちの中に有望な人がかなり出てきているというのが、安浦さんのさきがけのお手伝いをしていて感じることなのだが、以前、この文章で書いたように、僕の理解では、この差は社会が作り出しているところが大きい。だから、若い良い人が出始めていると同時に、差はむしろドンドン開いているのではないかという懸念を持ち始めている。

そう感じ始めたのは、中馬プロジェクトで、カリフォルニアの bay area の調査旅行の際に使った Uber のシステムと、日本のタクシー配車のシステムのあまりの差に気づいてから。

Uber で感心したことは色々とあるが、狭い意味での技術の問題で感心したのは、そのリアルタイム性の良さ。今の、GPSの性能からしたら当たり前なのだが、近くのすべての車が配車前からリアルタイムに動くのが見える。これが小さな甲虫がノソノソ動いているようで大変に可愛い。車の位置は、配車を依頼する前も見えるが、乗車した後も見えるので、実際の位置と表示される位置をくらべてみたら、すこしズレはあるものの、せいぜいが100~200メートル程度でしかなかった。

それに比較すると、MKタクシーのスマホ配車は、配車が完了するまで、タクシーの位置はわからないので、どれ位かかりそうか、全く予想がつかない。また配車後にはタクシーの位置が見えるには見えるがリアルタイム性は非常に悪い。また、配車の効率の悪さは全く信じられないほどの低レベルで、目の前に何台も空車が通って行くのに、うんと遠くの車が配車されたりする。つまり、天国と地獄ほど違う。

他のものはどうかと思って使って見た全国タクシー配車は、到着までの希望時間を指定できるなど、MKのシステムよりはましだが、これも配車前のタクシーの位置は見えないし、配車後のタクシーの位置の表示も、500メートル程度でとびとびという感じで、リアルタイムとは言い難いもの。後者が5年前のシステムで、おそらく、それから、あまり進化してないのだろう。MKはもっと前か?

どちらもタクシー会社(やそのグループ会社)が作ったシステムで、運転手さんたちの話では、スマホによる配車の率は、非常に少ないらしいので、タクシー会社も改善しようという気はないのだろう。今の Google map のGPSの性能を考えると、技術的には、信じられないほどの低性能なのだが、真剣に使うつもりがなければ、古いままで低性能というのも納得ができる。つまり、デマンドの低さがシステムの低性能を生んでいるのだろう。つまり、この文章のシナリオどおり…

一方で、Uber は、サービスとシステムで生きているのだから、ドンドン改善されているはず。導入当初が、どれ位の性能だったのか、調べてみないとわからないが、もしかしたら、生まれた時から、すでに日本とは大きく差があった可能性も高い。

イギリスのEU離脱では、若者から年寄りにむけて「我々の未来を奪わないでくれ」というメッセージが投げられた。日本でも、同じことが起きているのに、なぜ、日本の若者は、同じようなメッセージを投げないのだろうか?メッセージを投げられるべき側の世代の人間ながら、それが不思議であり、また、歯がゆくも思う。


2016年1月28日(木曜日)

切ない???!!!

2016年6月24日追加:院生の橋本君によると、「切ない」というのは読者が自身の身を切ないと思っているのだとか。なるほど、そうなのか。

以前公開しておいた「あるソフトウェア工学者の失敗」が、結城さんがツィートしてくれたために、
11月ころに一時評判になっていたらしい。アクセスを調べてみたら、ほんの数日のことで、
評判といっても小さなもの。

反響を見てひとつ大変驚いたことがあった。それが、あの文章が「切ない」という反応が
かなりあったこと。あの文章は、日本のITは弱いという前提で、それの理由を書いてくれ
という依頼だったので、ダメな理由だけ書いているので、否定的トーンが多くなるのは
当然。そうでないとタイトルが偽りになる。

しかし、本当の結論は、一番最後の、たとえそうであっても、微風を送り続けるぞ!という所。
これは、パートナーが好きなあるアニメのセリフをもじって書いてあり、その意味で、
軽いジョークにさえなっているのだが…
#まあ、全国区のアニメではないので、気づいた人がいなくて当然だが。

絶望したのも国の政策研究所での活動が何か役に立つはずだと思っていたが、
それが無理だったということだけのことで、だから日本は永遠に駄目だ、
などとは、全く書いてない。だから、本人は全然切なくない。
それにより自分が何をすべきかがわかったのだから、むしろポジティブ
ともいえる話。やるべきことは、大変になったが、それはやることが
増えたということ。つまり、退屈している暇がますます無くなっただけのこと。

Wenn ich wüßte, daß morgen die Welt untergeht, würde ich heute noch ein Bäumchen pflanzen.
Martin Luther


2015年8月23日(日曜日)

RIETIプロジェクトと学習院西田史料調査

19日に、新井紀子さんのRIETI/BBLセミナーがあったので、これを機会にRIETIのAIプロジェクトのメンバーの一部が集まる。また、さらに、この機会を利用して、学習院史料館の西田史料を調査。

BBLセミナーは新井さんが東ロボプロジェクトでTVにも出る様になっているので大盛況。セミナーの前の昼食会に中馬さんや僕もよんでもらったが、そちらでの議論でも、セミナー・トークへの質問でも、やはり誤解が深い。セミナーで、新井さんが、実は、東大にAIは当分合格できない、それを予想してのプロジェクトだと説明したのにもかかわらず、それでも誤解している人が殆どのよう。昼食会の際か、セミナーの時か、実は、東大は関係なくて、中堅以下(?)の大学が生み出している人材の多くがAIで置き換え可能であることを示すプロジェクトであることをNIIの所長さんに説明したら、プロジェクトが採択されたと言っていたが、大変正直な説明で、また、重要な説明。ただ、これの意味が理解できた人が、殆どいなかった様な…。理解できていれば、そこで大きなため息がもれるはずなのだが…

RIETIプロジェクトの相談は、中馬さん、リクルートの戸田さん、久米さんの4名で行う。これはやってよかった。その後もメールで議論を継続したが、どうも、中馬さん、リクルートのお二人、そして、僕の間で、かなりイメージにすれ違いがあるような。これをうまく合わせていかねばいけない。これから大変だが、やらねばいけないプロジェクトなので頑張る!

翌20日は、一転して、学習院史料館で、京都学派の思想史の研究(だから、予算の出所が違う)。予め、お願いしていた、京都学派関係の史料を拝見し、撮影。これらを用いて、京都学派アーカイブの新バージョンを作る。掲載可能かどうかの判断は、WEBページができてから。

担当は、学芸員の長佐古さんで、詳しく説明していただき、また、写真撮影をさせていただけた。書簡は、ちゃんと、中性紙の箱や、古史料用の透明フィルムケース、その中に紙の酸性成分の中和させるシートなどに入っている。こういうフィルム状の保管用フォルダーは知らなかった。多分、清水光芸社の清水さんが言っていたが、予算が全然足りず、使わなかったものだろう。

学習院史料館は、旧図書館の古い平屋の洋館で、非常に感じがよい。僕は、どうもこういう建物が好きなようだ。長佐古さんは、旧華族家の史料の調査などもされていて、その膨大な史料の冊子も拝見する。これが、なんともすごい。ただ、僕の経験と同じで、そういう調査の意味が最初はなかなか理解してもらえなったとのこと。ただし、それらの努力の重要性を、学習院は理解してくれて、結局は、史料館に学芸員や助教が常駐する今の体制ができたとのこと。実に、素晴らしい。

学習院史料館の充実ぶりを褒めると謙遜されていたが、これはどうも江戸期以前の古文書の保全に比較してのことだろう。明治以後の近代文化遺産については、最近、工場跡などは世界文化遺産に登録さえされるようになったが、文書の場合は全く駄目とさえいえそう。実に困ったもので、長佐古さんが、これを理解できる人なので、二人で仕切りに嘆息…

資料も沢山いただけたので、「史料をたずねて」の良い記事がかけそう。


2015年7月30日(木曜日)

RIETIのAIプロジェクト

RIETIというのは、経済産業省の建物の上の方の階にある研究所。一応は、別の組織(独立法人)なのだが、部外者の印象としては、両者は大変近い。

で、以前、ブラウンバックランチというののスピーカーをやらせてもらったが、僕のRIETIへの関係は、その程度であった。

が、この研究所に以前から深く関わっている経済学者の中馬さん(なぜか、昔から意見があうので仲が良い)から、AIの社会インパクトを研究するプロジェクトをやるので、林さんも手伝ってほしいというメールが、急に来たのが6月の終わり位。

で、のんびりしていたのだが、一つ前に書いた投稿の様に、超スピードで進み、どうも今年度中に、久しぶりに海外に調査旅行をすることになりそう。また、今までやったことがないアンケート調査もしなくてはならない。後者は大変重要なポイントとなるはずなのだが、専門家の方が一緒にやってくださる予定なので、何とかやれるだろう。でも、ちょっと変わった conventional でないアンケートとなるかもしれないので、社会学の太郎丸さんや溝口君にも意見を聞く予定。

このAIの社会インパクトの話は、日本では、以前、NIIの新井紀子さんが本に書いていて、ご本人に指摘されたのだが、このブログにも、その本について書いていた(僕は、忘れてしまっていたが…)。で、それは2012年のことで、本がでたのは2010年。これは一般向けの書籍としては、世界的に見ても、最も早いものと言える。研究者たちは、Google などが凄まじい力を発揮し始めたころから、これでは人間がいらなくなってしまう、かなり高い能力を持つ人以外は必要なくなってしまう、と気づいていた人が多いと思うが、それをちゃんと書いた人は、日本語では新井さんが最初なのではないかと思う。

で、偶然にも、先の投稿で書いた安浦さきがけで、新井さんも僕同様にアドバイザーなので、RIETIプロジェクトのことを説明して、新井さんの本のことなど質問したところ、僕が思っていたより早い時期の本だと分かった次第。どうも、NII内部での若手研究者のインタビューから気が付いたらしい。

この本は、アマゾンの書評の数からしたら、かなり売れたはずだが、新井さんが期待したようではなかったらしい。それで、これは良くない、日本社会に、これを知らせなくてはいけないと思って始めたのが、東ロボ君のプロジェクトだったとか。

僕は、マスコミは、新井さんの意図とは別な取り上げ方をしているのではないかと思っているが、新井さんの話では、最近では、意図通りの取材が多くなっているという話。ただ、問題は、これからで、都合が悪くなると、つまり、実は、日本の大学の半数以上は、大学と呼べないものであり、その卒業生が担う仕事の多くは機械で代替できる日が近いと言う現実があらわになって行くに従い、新井さんの期待に反して取材が減っていく可能性が非常に高い(そうでないことを祈りたい!)。

日本のマスコミは、自分たちが見たくないもの、読者・視聴者がみたくないものは、見せない。これは、太平洋戦争の前からそうで、大本営発表の嘘も実は同じ構造。この国が強権的な全体主義国家だつたというのは、嘘で、これは戦前から、実に近代的な、近代の悪いところバリバリのポピュリズム国家だったのだ。でも、それでは歴史のしがらみのために、現実には社会を動かせないので、「天皇」と「その統帥権」という上からの装置を使って、下から動かしたのが太平洋戦争。僕は、そういう風に考えている(多分、素人考えだ、と永井和さんなどには叱られそうだが。 ;-))

このAIの社会インパクトについて、僕と同意見の人は、今まで話した日本人とか、その人が書いたものを読んだ日本人の中では、今の所、新井さんだけ。ということで、新井さんには、RIETIプロジェクトに取材などで協力を仰ぐ予定。

話していて気になったのが、東ロボプロジェクトに対応するものが中国で国家プロジェクトになり、それに呼ばれていって、非常にショックを受けたという話。このAIの社会インパクトの話、実は、ひとつの重要ファクターは、僕は中国ではないかと思っている。現代のAIは自立しているのではなく、人間のネットワークと連結している。映画 Matrixのマトリックスそのもの。ただ、流れているのは動物電気でなくて、情報。そうなると中国ほど多くの、また、質の良い「部品」を持つ国は他になく、その個数と標準化度は、他国とは比較できないはず。それが、僕は、北京オリンピックの開会式の「活字のパーフォーマンス」に現れていたと思っている。いわゆる、検閲の為の「現代の長城」も、ある意味で一種のサイボーグAI。これは、どうも欧州製だったらしいが、もう、新幹線と同じことになっているのではないか?そうなると中国に取材に行くことになるのかな… アレルギーがあるので、空気悪いところ駄目なんだけど…


2014年8月7日(木曜日)

Substance and Function

プログラミング言語の多くがオブジェクト指向化する中、MapReduceのような関数型言語もどきのものが、
復活していることに、昔、関数型言語陣営に属していたものとして、意味があってよかったという
気持ちと同時に、概念的に納得のいかなさを持っていたが、Skidelsky の Ernst Cassirer で引用されている
Substance and Function の一節

The content of the concept cannot be dissolved
into the elements of its extension, because the two do not lie on the
same plane but belong in principle to different dimensions. The
meaning of the law that connects the individual members is not to
be exhausted by the enumeration of any number of instances of the
law; for such enumeration lacks the generating principle that enables
us to connect the individual members into a functional whole.

を読んで納得。要するに、Term logic 的、あるいは、ライプニッツ的に、
そのなかに、そのすべての可能性を所有する個として、Termを見る場合と、
シェーラーや、上のカッシーラや、京都学派の場、場所、種のような、
見方で、Term を見る、二つの見方がある。ビッグデータのような場合は、
各データの「個性」などというものは無視して、それを「点」として
扱うので、後者の見方が有利となるケースが圧倒的で、だから、それを
扱うプログラミング言語が関数型的であることは自然。

しかし、一個一個のもの(オブジェクト)を、その内部に座って
(ユクスキュルの Innenwelt に座って)、その動きをアニメイト
しないといけないプログラミング、たとえば、ブラウザやエディタ
などでのフレームなどのGUIとイベントハンドラーのコーディング
を行うときは、全面的に前者の世界観に浸らないと、コードできない。

だから、二つのスタイルとも、ともに必要ということになる。

しかし、カッシーラの上の文章は面白い。into a functional whole の
原語は、zu einem funktionalen Inbegriff。これは Manfred Frings
がいう functional existence と同じ(Frings, The mind of Max Scheler, p.24)。
また、西田の「場所」と同様の発想。この当時の流行というべきだろう。

そういう哲学者が考えた、個と関係性、Substance and Function (この時代の
哲学者や Frings は、function を、つながるもの、つなげるもの、という
ような意味で使う。だから、実は、Relation だったり、operation だったり
する。ユクスキュルの Funktionskreis も同じような使い方)が、
IT、特に、ネットの時代に、alienated されて現われ、それが実際の
人たちの感情をリアルタイムで繋ぎ、むしろ、それが魂を外化の方向に
引きずっているということは、実に、驚くべきというか、恐ろしくさえある。
この先、どこまで引きずられるのだろう…


2014年3月6日(木曜日)

入学試験と人間とIT・AIの能力 その2

京大の入試では、室長がマニュアルに従い、「机の上に置いてよいのは、黒鉛筆、シャーブペン、…時計、ただし、計時機能のみのものに限ります、…」というような意味のことをアナウンスすることになっている。定規やコンパスの使用さえ認めない。(定規くらい良いだろうと思うのだが、これはかなり厳しく禁じられている)時計の条件も厳しくて、翻訳機能や辞書機能、計算機能があるものは絶対に駄目だということなっている。こういうのを使っているのを見つけたら、即時、受験不可となり失格、つまり、受験できなくなり、当然、合格はできない。(不合格の外に、失格というのがあるわけだ。true, false 以外の例外のようなものだなこれは…)

つまり、これには


入試においては、自分の能力を補助するものとして、時間を測るということ以外には、自動翻訳ソフトはもとより、記憶・計算などの知的活動をサポートするもの、IT機器はもとより定規・コンパスさえ用いてはいけない。

という意図が込められている。これは京大の例だが、東大、そして、おそらく他の大学も同じだろう。

ところがである。人工知能はもともとがIT機器なので、その存在自体が、この意図と矛盾してしまう。つまり、どの様な形態で受験しても、京大のルールに従うとAIが、その中に計時機能以外のIT機能を持つので、それだけで失格になってしまう。
#で、これは将来、チップを皮下に埋め込むようになるだろう、究極のウェアラブルができたときには、
#今の入試システムを維持するのがほとんど無理・無意味になるかもしれない、ということも意味している。
#つまり、人間がIT化してしまったら、サイボーグ化してしまったら個人の能力とは何なのか、
#という大きな問題が湧き上がってくる。これは、すでに、オスカー・ピストリウスの場合のように、
#身障者の人が能力を非常に高める補助具を使ってスポーツ競技を行うことをどう考えるかというのに
#共通する問題。一時問題となった高速の競泳スーツの問題もこれと類似。これは「衣服」なので、
#あまり問題とならなかったが、骨格・表皮・体毛に手を加えて抵抗を少なくしたのだとどうか。
#実はドーピングはなぜいけないのかという様な問題さえ出てくる。「新イデアリズムの時代」となるはずの、
#これからの時代、こういう問題はどんどん出てくる。話を戻して…

コンピュータ、人工知能には、当然ながらクロックがあるだけでなく、自動翻訳とか計算機能が備わっている。京大の入試では、そういう機能がある時計を使っていたら、それだけで不正行為になりますと、室長が注意する。ということは、そういう機能があるのが当たり前のコンピュータ、人工知能は、入試に挑戦した段階で、その存在自体が不正行為とみなされてしまうことになる!!つまり、合格云々という前の段階で弾かれてしまうのである。

しかし、そもそも人間でないので、受験資格の所で弾かれそう。高校どころか小学校も行ってないのだし。でも、文部科学大臣が認めると受験できるので、その手もある。などなどと考えが連鎖。

で、結局の所、一番可能性があるのは、東大に協力をお願いして、AIが作った解答を、誰かが手書きでそれらしく書きうつし(答を準備するためのメモもあり、これも採点対象となるらしいので、そちらもそれらしく偽造する!)、それがAIの解答であることを伏せて、採点の教員に解いてもらい、それをそのまま教授会にかけて、合否の判断をしてもらう。これならば「人工知能は東大に合格した」と言えるだろう。

もしやれたら凄く面白い。でも、東大は、これは嫌ってやらないだろうな、などと考えていたのだが、一日目の数学(文系)の問題を見ていて、東ロボ君プロジェクトの話を聞いて、僕が、そして、多くの人が考えたであろう、その社会的意味と、実際の社会的意味が大きくずれているらしいことに気が付く。

僕が、そして、多くの人が、直観的に思う、このプロジェクトの社会的意味は、「AIは平均的な人間並の知力をもつか、あるいは、平均的なそれより賢い、ということが示される」ということだろう。しかし、東大が協力して、上の様な意味でAIが合格しても、そういう結論にはならないのである。

で、このように思うようになったきっかけの問題は、僕が監督していた文系の数学の第4問の(2)。実は、これはAI/ITには、最も簡単な問題なのだが、人間には難しい問題であり、その故に数学の入試として良問なのである。まず、そのことを以下で説明する。

その問題は、これ http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/14/k01-23p.pdf

実は、このPDF文書の問4の(2)と問5は、単に定義に基づいて計算するだけで答えがでる。もちろん、出題者たちは、それを求めて出題しているのではない。ここがポイント。それは後で説明するとして、どれ位、これがAI/ITに易しい一方で、人間には難しく、その故に受験生の数学の能力を試す問題になっているかを説明しよう。

まず、これが受験生にとって難しいということは、予備校の解説からわかる。駿河台予備校の分析シートでも、代ゼミのこのページにある概評でも。今年の京大文系で、最も難しい問題という評価であることからわかる。(今は、両方ともリンク切れ)

しかし、実は、この問題は、数値を求める問題なので、コンピュータの数値計算能力を使うと、全問題中、おそらく最も易しい問題なのである。普通のPC上のExcel があれば、5分程度、おそらくは2,3分で答えがでてしまう問題なのである。

これが、そのExcelによる解答:xlsx, xls

もし、受験生が、この様な数値計算による正解を書いたら、京大の数学の採点者がとる自然な行動は、「この受験生はコンピュータを使う不正を働いた可能性が高い。この様な計算を人間ができるわけがない」という風に考えることだろう。つまり、先に説明した時計を巡るルールの背景意図にある不正が成されたとみなすに違いない。

たまに、フォン・ノイマンのように、そういう計算をする能力を持つ人がいるので、もし、そういうケースだと分かったとしても、多くの採点者は、駿河台などの回答例にみるような、計算をほとんどしない回答でないために、そういう計算の天才の回答に低い点をつけるだろう。センター試験とか私大の試験だと、答えだけを書かせるが、本来数学者ならば、答えが全然間違っていても、考え方が「賢ければ」良い点を与える。大体、ノイマンのような人を例外として、数学者は数値の計算が苦手な人が多い(式は別。)つまり、現代の数学者には、数値計算はアホらしいという価値観がある。これが、映画(小説も?)の「容疑者Xの献身」で、犯人になる大神が学生時代に湯川に言う「四色問題の(コンピュータによる)解決は美しくない」という価値観。実際の数学者の多くも、こういう価値観の人が多い。(大部、変わってきているらしいが。)

もし、ノイマン的な計算能力で4の(2)を解いた学生が数学科を受験した学生(これは文系の問題なのであり得ないのだが)だったとしたら、京大の数学の採点者は不合格点をつけたいだろう。計算能力だけ高い人は、現代の数学科には全く合わないからである。また、文学研究科・文学部の教員としても、そういう人は入学して欲しくない。もちろん、国語・英語の能力が高く、おまけとして、そういう計算能力があるのならば、是非、合格させたいところなのだが、数値計算の能力だけならば、文学部においては邪魔にはなっても、プラスにはならないからである。そういう能力は補助の能力に過ぎず、僕ら京大文の教員が期待している能力とは全然違うのである。

という風に、考えれば、人工知能を東大に合格させる、という命題は、例え、上に書いた一見よさそうな方法で実現しても、実は、「私の自動車は、ウサイン・ボルトより速く走れる」と言っているのと同じようなこととなる。もちろん、そういうことに意味を感じる人は少ないだろう。逆なら別だが(つまり、「ウサイン・ボルトは、自動車より速く走れる」ならば多くの人がへ〜!と感心するだろう。実際、ボルトは瞬間的には時速40km以上で走っているらしく、市街地の車よりは速いらしい。へ〜ッ!)。

これがどういうことか説明してみよう。

世の中は、多くの場合誤解しているが、入学試験というのは、ある人の実用的能力、また、大学に入ってからの学習、さらには研究大学ならば、将来、研究者になったときの能力を、絶対的に測るためのものではない。そういうのは、誰にも事前には測れない。AO入試とかでも、実は駄目。実際に長期間学習させてみないとわからない。だから、本当はアメリカの様に沢山いれて、入学後にドンドン落として大学をやめさせる、下位の大学に移ってもらうというのが一番良いと多くの教員は思っているはず。研究者養成が目的の場合は特にそう。

たとえば、以前勤めていた京大の理系の研究所で世話をしていた院生A君が、大変いい人なのだが、こと研究になると、やる気も能力も全然なくて修士論文も書くことができないので、指導しているものとしても大変に困っていた。そのとき別の院生B君(後に東工大の先生になった)が僕に話してくれたところでは、A君はB君も出た有名進学校で開学以来の神童と言われたそう。どうして、A先輩ができないのだろう、と後輩のB君は不思議そうな顔をしていた。しかし、実は、これは一流大学の大学教員は良く経験することで、僕は、今まで何度も経験した。京大文の同僚たちも、皆、同じように思っている。

ある人が、あることに、能力を持つかどうか、それを測るには、実際に、それをやらせるしかない。しかし、それが社会的条件で無理だから(たとえば、研究をしたいという人を全員院生にするのは無理。特に京大でそれをしたいという人を全員京大にいれるのは物理的に無理。キャンバスの面積、教室、教員、すべてが足りない。)、「その条件を満たせば、多くの場合、本当に欲しいと思う能力が、それを満たさない人より、圧倒的な場合に多い」という「条件」を見つけてきて、それを使って蓋然的に能力を測っているのである。まあ、天気予報、市況の予測、のようなものでしかありえないのである。

で、そういうコンテキストで考えると、京大文系数学第4問は、全5問の与えられた時間が計2時間であり、また、解答を書けるスペースが下書きを含めてもB5で10ページであり、また、受験生は人間であって、計算のための機械的補助を一切使用していない、という前提で、その条件下で、どれだけの知的能力を発揮できるのか、ということを見ているのである。つまり、スポーツで、ドーピングは禁止、特別な競泳スーツは禁止、などというのと同じわけである。しかも、スポーツの場合は、それ自体が目的化していて、それに優れたものは職業的スポーツ選手になり経済的にも成功することができるが、入試の場合は職業的受験生などというものはないので、事情が大きく違う。つまり、こういう「人間の学術的知的能力の可能性を蓋然的に測るために作られた知的ゲーム」に、IT,AIが「合格」するということには、それだけでは、社会的意味はなくて、AI研究者のために人工的に設定したゴールというだけに意味を持つ(ただし、それを応用して、工学の現場などで簡単な問題を解けるようになると社会的意味を持つ。実は、こういうことは、すでに色々なソフトにより、かなり実現されているので、これに役立つ可能性は高い。例えば、Mathematica や MatLab など)。

東ロボ君プロジェクトの意味は、Watson のケースの様な明確な実用的アプリの意味を持たない可能性が強く(これは最初から良く指摘されていたこと。ワトソンの方は、商業化が進行中らしい。しかし、実現できたら、かなり応用もあるのではと、僕は思う)、新しい技術が生まれるときの社会に向けてのアピール、あるいは、研究者が仕事を進める上での便宜的ゴールなのだろう。NIIでは技術の中心になられているらしい宮尾さんという方が、研究のために立てたゴールだと発言しているので、それで良いのだと思うし、人間とAIの能力の質的違いという、H. Dreyfus の古典的AI諭の問題に良い貢献をするのではないかと思う。

問題は、それをどう社会の意見、実際にはマスコミの評価、と調整するかだろう。妙に乗ってしまうと、FGCSでの渕さんの場合のような悲劇となるかもしれない。あるいは、日本の大学システムの問題が浮き彫りになるという、「予期せぬ」結果になるのかもしれない(新井さんは実はこれを狙っているのではと僕などは思ってしまうが…)。つまり、私立大学の高い偏差値のカラクリ(注1)が広く認識されるとか(すでに初年度の成果報告で、これが解るのだが、マスコミは気が付かないらしい…)、最初の意図と逆の方向の結論、つまり、AIが人間なみに賢いという結論ではなくて、「日本の中堅以下の大学はいまのままでは存在意義がない」というような結論になってしまうかもしれない。(注2)

しかし、分析が進み過ぎて、山口さんの本の内容とはあまり関係ないAI諭まで来てしまった。

山口さんの本の原稿に戻らねば…(^^;)

注1.これは龍谷大学の教員をやっているときに気が付き本当に驚いた。そのころはまだ平成の最初で、沢山の大学を受験する人が多く、合格しても辞退する人がすごく多かった。そのために、追加合格を出すための教授会が頻繁に開かれ、ある年などは、3,4回、もしかしたら、もっとやったような気がする。つまり、私学に実際に入学する人のかなりが追加合格の人たちなのだが、教授会が追加合格を出す前、最初に合格して、実際には、より上位の大学に入学する人たちの成績が、正式な偏差値として発表されているらしい。これが当時、産近甲龍の偏差値が東北大並だったことの仕掛けだった。慶応でさえ、あまり事情は違わないらしいし、今も、大きくは違わないらしい。当時、広島大学であった学会に行った際、乗ったタクシーの運転手さんが、僕が京都から来た大学教員だと知って、「先生、私の息子は京都産大に入ったのですが、偏差値が東北大より上ですよ。たいしたもんだ」と、凄く嬉しそうに話しておられたのに、僕は「(゜-゜)うーん」と黙るしかなかったことがあった。

注2.存在意義がないとは、僕は思わない。ただ、今のままでは駄目で、中堅以下の大学では、もっと実学に力を入れるべきだと思う。むしろ、大学レベルでの実学教育の社会的ニーズはどんどん増えている。大学生が専門学校に通うのがその証拠。これは、それより上の神戸大クラスでも考えないといけないこと。神戸大工にいたときは、僕は公にそう主張していたが、誰も賛成してくれなかった。これも神戸大工が嫌になった理由の一つ。背伸びをしなければ実績も多い良い学部なのに…


2014年3月5日(水曜日)

入学試験と人間とIT・AIの能力 その1

25,26日と京大の入試で監督。27日にIPAで社会とITの関係について講演。3日もハードな仕事が続き大変だったが、お蔭で2つ、思いがけない収穫を得た。それを忘れないように記録。長くなるので、幾つかの投稿に分割。ひとつは社会におけるITの複雑性、もう一つは、SMART-GSの様なデジタル・ヒューマニティ―の地震学・火山学への応用の可能性。

IPAの講演では、ITがなぜ「社会的に複雑」かを説明したくて、講演開催の担当者の方には悪いのだが、資料送付のデッドラインを無視して、色々考えていた。

で、いつものことながら、悟りは足下にあり! :hammer:

僕は年齢の関係で試験監督の室長の仕事が毎年のように来る。監督の要領は毎年微妙に変わるので、試験の前日に細部を舐めるように分析しておくのだが、いつもアナウンスする「時計」についてのアナウンスで面白いことに気が付いた。

室長マニュアルに従い、「机の上に置いてよいのは、黒鉛筆、シャーブペン、…時計、ただし、計時機能のみのものに限ります、…」というような意味のことをアナウンスすることになっている(要領はIDがついていて、試験後に回収されるので記憶によるもの)

これを見て、NIIで新井紀子さんをリーダーとしてやっている「東ロボ君」のことを思い出す。このプロジェクト、社会とITの関係を考えるときに大変に示唆的で面白いのだが、「東大に合格」ということの意味を定義せずに進んでいるようで、果たして、やっている人は、「入学試験」というものの社会的複雑性・社会関係性に気が付いているかどうか、もしかして、FGCSの時と同じように(注)、それを無視して単純に技術としてやっているのではないか、それが後で社会から叩かれる原因になるのではと気になっていたのだが、京大の入試におけるルールが、上手く、その疑念・心配を表す例になりそうだと気が付く。そうだと、IPAでの講演で使えるわけだ(実際に使った)。

東ロボ君プロジェクトのモデルになったのは、明らかにIBMのWatson projectだろうが、この際にも「コンピュータは回答するためのボタンを押すという行為を電子的にできる。人間は力学的にそれをしないといけない。これは人間に不利で不公平だ」という objection がでた。

つまり、「TVのクイズ番組、 Final Jeopardy でコンピュータが人間のチャンピオンに勝利する」という目的の意味が、どこにあるのか、例えば、本当に全く同じ条件、つまり、コンピュータにも「腕」があって、それで回答用のボタンを叩くという条件を課すべきか、というよう問題が生じたわけである。(こちら参照)

この例を元にすれば「東大の入試において人工知能が合格する」という東ロボ君プロジェクトのゴールの意味が、非常に不明瞭になることがわかる。プロジェクトメンバーの方たちは、ロボットが他の受験生と机を並べて、つまり、人間と同じ条件で、受験するのではありません、ということを繰り返し述べられている。IT関係者のひとりとしては、僕も、これはそれで良いと思うが、NHKで、このプロジェクトをモデルにした寸劇をやっているなかでは、実際にアンドロイドが合格して、学生と一緒に講義にでているということになっていた。いくら説明しても、社会は、そういう風に取る傾向が強いだろうから、十分な説明が必要だし、「人工知能が○○に合格する」という言葉の意味を詳しく定義しておかないと、注に書いたようなFGCSでの過ちを繰りかすことになりかねない。

で、最初は僕は「人工知能が○○に合格する」の意味のある定義はできるかもしれないと思っていたのだが、この時計についてのアナウンスを手がかりに分析を続けたら、入学試験というものは、Final Jeopardy の様な「人工的にシンプルに設定された」クイズ番組と異なり、実に社会的に複雑で、社会が納得する合理的な定義が不可能そうだと思うようなった。

この「人工知能が○○に合格する」というフレーズは、「ITがらみのことが、社会的になりがちで、しかも、そのために、それは非常に複雑で、社会的に統一した判断を下すことが難しい場合が多い、そのためにITの、特に SIer 系、エンタープライズ系のプロジェクトは困難に陥ることが多い」という、僕が日頃主張している意見を、非常にうまく説明していることに気が付いたわけである。

で、これを、4月から京大思修館(現同志社ビジネス・スクール)教授になる山口栄一さんに依頼されている、イノベーション関係の本の第2章(1章は一橋の中馬さん)に使うことにし、さらに分析を続けていったら、面白いことに、入試第一日目に、まさに、ドンピシャの問題が出題されていた。で、その内容を忘れないように、ここに書いている。

長くなったので、続きは、別の投稿…

注:通産省のFGCS(第5世代コンピュータ)プロジェクトが成功したか失敗したかは意見が分かれている。以前調べたら通産省を継いだ経産省関係では成功したとされているらしいが、総務省の研究会の資料などでは失敗と書かれていたりする。プロジェクトメンバーが困るほど持ち上げたマスコミは一斉に「失敗」と書き立てた。僕は最初からマスコミが書くような目的は達成できないと思っていたが、当時の若手人材が世界のトップレベルの研究者と日常的に交流できる場をつくり、それにより、日本のITの世界を世界レベルに持ち上げる効果は絶大だった。戦闘機を何台か買うと飛んでしまう位の金額を、10年間、そういう学術に投入するのは決して高くない、とプロジェクト当時から言っていたし、マスコミが失敗と言うようになっても、僕は成功と言い続けていた。多分、そのことがあって、プロジェクトのリーダー、渕一博さんが亡くなって1年後の追悼集会で基調講演を依頼されたのが、今度は歴史家として発言しないといけないので、色々史料を集めて、分析したところ、「これは失敗という他ない」という意外な結論に到達した。その理由は、WIKIPEDIA(2014/3/5)にファイゲンバウムの評価として書かれたこの文章と同じ趣旨:

第5世代は、一般市場向けの応用がなく、失敗に終わった。金をかけてパーティを開いたが、客が誰も来なかったようなもので、日本のメーカはこのプロジェクトを受け入れなかった。技術面では本当に成功したのに、画期的な応用を創造しなかったからだ。

これはプロジェクト後の評価だが、実は、ほぼ同じ結末が、プロジェクト前に、ヴィノグラードさんの1986. Understanding Computers and Cognition: A New Foundation for Design (with Fernando Flores) で予見されている。ただし、この二人の研究者の意見(それは僕の初期の意見でもある)と、一般社会の意見が分かれるのは、ハードウェアはできたので成功、という判断だろう。社会の場合は、ハードができても、それが使われなかったら失敗とみなされる。

そのハードの話は別として、なぜ、FGCSは失敗とみなされるべきだったのか。日本のIT研究力を底上げする効果は絶大だった。また、確かに並列の論理プログラミングベースのプラットフォームは、あまりに巨大ながら一応完成した。マスコミが書き立てないプロジェクトならば、これ位の費用(一年に約60億円)でも、それほど非難されなかったはずだが、問題は、FGCSが社会に強くアピールしていた点だ。FGCSのキックアップの集会では、社会的にこういう効果が生まれるという、生み出すべき成果が、数多くうたわれていたのである。また、当時のFGCSの社会的な扱いには、すごいものがあり、渕さんは世界的有名人になった感があった。つまり、FGCSは、社会的アプリケーションの可能性を見せることにより、明らかに、社会的な後押しを得ていた。それが望んでの事か、望まなくての事かは、別として、確かに存在したそれを利用していたことは、集めた資料から明らかだったのである。これに気が付いたところで、愕然としたが、歴史研究者としては意見を変えざるを得なかった。しかし、昔の知人たちには悪いので、失敗だったと明瞭に言うが、でも「さりげなく言う」ことにして、基調講演で「失敗」と言った。なるべくさりげなく言ったためか、古川さんたちの旧メンバーの大半からは反発はなかったが、ある中心メンバーからは、非常に強い反発が来た。彼の言い方では、渕さんが実現すると言っていたプラットフォームは確かにできたのだから、成功だというのである。もちろん、そのころ若くて、プロジェクトの立ち上げメンバーでさえなかった彼にFGCS/通産省の約束の責任を押し付けることはできないのだが、しかし、その約束による社会的恩恵を受け続けた組織の中心的位置にいた以上、その責任を引き受けたことになるので、社会的意味では失敗とされることを引き受けなくてはならないと僕はおもう。ここの意見は、分かれたままで、議論の結論はでなかった。


2014年1月26日(日曜日)

さきがけ領域会議 特別講演

25日に、アドバイザーをしているJSTさきがけ「知の創生と情報社会」の領域会議で特別講演。

http://www.shayashi.jp/ で公開:
「JST さきがけ、知の創生と情報社会、2014年1月領域会議特別講演版 社会とソフトウェア:あるソフトウェア工学者の経験」
のリンク。リンク先は、
http://www.shayashi.jp/Sakigake20140125.pptx

この領域はビッグデータなどに関連した人も多く、たとえば、中心的なアドバイザの一人に
統計数理研究所の樋口さんが入っている。僕は、そちらは疎いソフトウェア分野の人間だし、
なにより、そういう理工系の研究を完全に止めてからかなりたつ。

現役バリバリで、ソフトは利用するだけで、研究対象ではない研究員の
人たちに向けて、意味のある話をするには、どんなテーマが良いか
相当に悩んだ。研究者向けなので、僕が研究分野をコロコロ変えて来た話が
面白いかなとも思って書き始めてみたのだが、何か世間話のようなスカスカ
した議論になって面白くない。

で、この領域では、自分の研究を社会にどう生かすかということを
真剣に考えている研究員が多いことに思い至り、
そういう話をすれば、話題がソフトウェア工学でも参考になるだろう、
ということで、2年前のSPI2012の講演を研究者向けにエディットして
話した。

結果、大変反応が良く、非常に本質的な質問・議論の、質問攻め議論攻めにあう。
#講演して、こういうのが一番うれしい。(^^)

ソフトウェア業界だけでなく、この社会では、特に日本社会では、
みなさん、同じ悩み・問題・障害を抱えていることを実感。

みなさん、頑張りましょう。応援するよ。僕でできることがあれば
駆けつけます。まあ、大した力はないけど。(^^;)


2012年11月23日(金曜日)

ソフトウェアプロセス改善カンファレンス2012 基調講演

10月10日に大阪であった、日本SPIコンソーシアム (JASPIC)主催、SPI Japan 2012
ソフトウェアプロセス改善カンファレンス2012で話した基調講演「社会とソフトウェア:あるソフトウェア工学者の経験」のPDFスライドが公開されていた。こちら、
http://www.jaspic.org/event/2012/SPIJapan/keynote/keynote.pdf

この講演の内容とも関連するが、最近、研究室の学生さんとか若い人たちと話しているとセレンディピティ(いままで、セレンディビリティだとおもっていた… :-()の話になることが多い。どうも、これを「運が良いこと」と「運が良いという能力」と思っている人がいるように思うが、そうではなくて、それは結局、物事を見落とさないことだと思う、というようにしている。実は、我々の目の前には、驚くようなこと、新しいこと、素晴らしいこと、重要なことが、沢山、そして、いつも通り過ぎている。しかし、それを気づかずにやり過ごしている。だから、本当はあるのに、ありがたい=滅多にない、と思ってしまうのである。

僕はプログラム検証論を捨てることを決意した後、驚く程セレンディピティが高まった。そして、今でもドンドンより高まりつつある。で、どうしてだろうと思って自分を観察してみると、簡単なことで、それまで超こだわる人だったのが、一番こだわっていたことをパブリックの前で捨ててしまったので、もうこだわること、つまり、格好良く見せようという気持ちがなくなったのである。もちろん、全然ないわけないのだが、それが検証論を捨てて半分以下にドンッ!と減った。そして、それから減り続けている(減り続けているのは、年取ってなんでも忘れてしまうようなったこともある。こだわりや怒りさえも忘れてしまう。 :-))それに伴って(反相関して)、セレンディピティがドンドン高まっている。

過去を振り返ると、自分のこだわり、自分の現在をそのままで保存しよう、という気持ちが、良いものを排斥して捨てさせていたことがわかる。コンピュータサイエンス関係で、一番大きかったのは、多分、古典論理とCコンビネータの関係だろう。Cコンビネータの発明者のMatthias Felleisenに、お前がやっているPXの様なコンテキストで、自分のCコンピネータに対応するものは何なのかと聞かれたのに、そんなものはないはずだ、と言ってしまって考えようともしなかった。苦労して作ったPXシステムが可愛かったのである。つまり、自分が、自分の作ったものが、一番で、それより良いものがあるはずはない、という奢った気持ちである。しかも、その後に、それと本質的に同じことを中野君が言い出したのに、その関係にまったく気がつかず、小林君と二人でアラを探して潰してしまった! :-(

で、その1、2年後にでてきたのが、Griffin の Cコンビネータの型が、古典論理の Peirce のルールである、という衝撃的な結果だった。Griffin は、そのころGUIみたいなことをやっていて、関係なかったのだが。

Felleisen に直接質問され、さらに、中野君が、Cコンビネータのことも知らないで、同じことを発想したのも聞かされて、その両方を聞かされて、それでも気がつかないというのは、これはわざわざ自分で目隠しをしていたとしか言えない。論理学の知識やら、Curry-Howard関係の知識・経験、Felleisen、中野君から話を聞いていたことからしたら、これに一番近いところにいたのは、Griffinではなく、明らかに僕だったのだが、そういう風に、ありがたい諸条件が、実際に目の前にあるのに、自分で、押しのけていたわけだ。

振り返ると若い頃は、そういうことを一杯やっていたのがわかる。だから要するに反セレンディピティ能力を人一倍持っていたわけだ。どんなに、美味しそうな料理が目の前に出されても、絶対に食べないぞ!と決めて、そんなもの不味いと言い張っていたわけである。 :-)

で、それで評価を受けていた検証論を捨てた途端、その反セレンディピティ能力が指向していた中心的存在がなくなったものだから、その反セレンディピティ能力が、憑き物が落ちたように「発揮できなくなった」。つまり、「物事を発見できなくする能力」がなくなったので、普通に存在する「ありえない幸運」につながる道を自然に歩けるようになっただけだ。そうなると遠くにぼんやりと見える行くべき道も見えるようになるので(遮るものがなくなるからだ)、ありえないことが連続して、常に起きるようになる。要するに、ありえない事は、実は、ありふれたことなのである。それをありえないことにしているのは、憑き物のような、自分のこだわりである。先に「京都学派の思想家の霊に呼ばれているような気がする」と書いたが、それも同じ仕組み。要するに何も抵抗せずに風に流されているので、自然にある場所、吹き溜りに、吸い寄せられているわけ。(吹き溜りというとなんか悪印象ですね。吹き寄せというと、実に美しい!丁度、今の季節だ。今年の京都の紅葉は事のほか綺麗なようだ。)

今のこの国の状況も、ほとんどは、そういう憑き物のためだと思う。まあ、そういうようなことを伝えたくて、あの基調講演をしたのだけれど、最後は、やっぱり、綺麗にまとめすぎているな… うーん、まだまだ反セレンディピティ能力が残っているのかも。 ;-)

後記
風に吹かれて飛ぶと、どこに落ちるかわからない。それに風に吹かれているというと何も努力しないで楽チンみたいだが、
実は、風に吹かれて飛んでしまうと、とんでもなくシンドイ仕事をするハメにも陥ることがある。先に、目の前にやるべきことがきたら、
それがシンドイことでも「よしやってやろうじゃやないか!」と楽しく思えるかどうかで、
人生が楽しいかどうかが決まると書いたが、それと同じこと。
しかし、純粋の不運というものはある。「幸運」が実はありふれているのと同じで、「不運」もありふれている。
それを避ける努力(左右確認とか、鍵をかけるとか)を、我々はいつもしている。
だから、不運は滅多に起きないが、我々の努力を軽々と超える不運はいくらでも存在するから、それは起きる時には起きる。


2011年7月22日(金曜日)

谷島さんの記事

一橋大学の中馬さんを通して、久しぶりにソフトウェアの振興政策、
人材関係での仕事の依頼があったが、ちょっとブランクがありすぎる。。。
でも、本の企画の意図はよくわかるので、一応、依頼者の同志社
の方にあうことにした。まあ、地理的に近いので何となく親近感がある
ということも否定できない。

で、それが数日前のことで、思い出したように、それに関連することを
日経から配信された記事で読んでいたら、関連記事で、面白そうな
ものを発見。読んで、「その通り!良い記事を書く人がいるなー」と
思いつつ、著者を見たら、谷島さんだった!まあ、当然と言うか、
納得と言うか。とにかく、良い記事だった:
谷島宣之の「経営の情識」 「トレードオフの概念は日本に無いのか」三菱東京UFJ銀のシステム一本化報道に思う 

それを読んでいた、以前からぼんやり気になっていたことに
答が(答の候補)が出たので記録:
80年代、日本は安い価格で99.99%の最後の9%を達成する
品質の高い商品で世界を驚嘆させ賞賛された。ところが、谷島さん
が(上の記事より前の記事で)書き、それに読者が反応したように、
それに何百億もかけるのはソフトウェア開発では馬鹿げている。
この違いは何か?80年代ならば、それほどまでに拘ったことに
賞賛があつまるだろうし、それは確かにpayした。しかし、これは
オーバースペックの弊害論と矛盾する。なぜ現実は、そうか?

答はあまりに簡単:銀行等の勘定システムは、本質的にコピーが
一つ、あるいは、少数しかない。そこにおけるウン百億は、大変
なコスト。そういうソフトは、本質的にオーダーメイド。コストは、
それ一本にかかる(厳密には間違い。その経験は企業のものと
なり、次の受注において意味を持つようになる)。ところが、
拘ったものが、それゆえに多く売れ、それにより大量生産を
可能とし、大量生産するとコストが下がるならば、拘りにより大量生産の
可能性を広げたことになる、廉価ながら高い品質、という競争力を得た方が
長期的には有利となる。

そして、これらの中間は多くある。品質に拘るか、拘らないか、
どちらが妥当かは、それぞれの場合で異なる。答はない。
答はないというのが答かもしれない。


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