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2012年3月12日(月曜日)

翻訳すると!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時59分26秒

p.82 基軸ヴェクトルは分極変位ヴェクトルと同列に置かれるべきものではない。前者は後者の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って前者の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

基軸ベクトルは、おそらく axial vector = pseudo vector = covariant vector。つまり、1−形式。
分極変位ベクトルが、おそらくpolar vector = vector = contravariant vector。つまり、ベクトルというか速度。

訳:1次の微分形式(1−形式)は共変ベクトルではあるが、それは真のベクトルとしての反変ベクトルと同列に置かれるべきものではない。
前者(微分形式)は、後者(速度としてのベクトル)の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って微分形式の理論の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

……

何か変…

これおかしい。どうしてだろう。??? :roll:


回転、スピノール、類(=超越性)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時53分57秒

2012.02.11に書いた、田辺の回転が A の意味大体わかる。やはり、量子論のスピン、スピノール。
このことから、Voigtの書き込みは、戦後でほぼまちがいなし。古典力学の弁証法(昭和24年)、
#夫人の死去の2年前。
pp.78-79: ディラックの理論というものは、歴史的に力学の発展の現在に於て達した頂点に相当するものであって、
もはや力の概念を超え、その具体的根底としての愛の極限にまで迫るものではないか。<中略>
又彼の力学の特色をなすスピン、スピノールとかいう概念は、愛に於ける反対方向の両旋回の統一を象徴するものと解して、
始めてその具体的意味が明らかになるのではあるまいか。スピノールが半ベクトルと規定せられて、それの二成分の合成がヴェクトルに相当すると解せられるのは、ヴィクトルが力学的存在の存在性を表す概念として、
存在の自然存在性を位置と速度とにより規定するであるのに対し、それが不確定性原理により崩壊せしめられることを通じて
絶対無に転換せられ、自己否定的愛の復活存在としてのみ媒介的に実存する、その交互的否定の両契機を意味するものと考へられる。
すなわちベクトルの平常的自然的存在を表号するに対し、スピノールはその否定即肯定なる分裂崩壊を通じて始めて達せられるる
宗教的実存の反対契機、
すなわちその自己否定的両面の転換を象徴すると解される。それはまさに愛の自覚すなわち無の自覚に相当するのである。
自己否定的旋回としてのスピンの在り方に対応すると考えられるのも、この理由によるであろう。

スピノール。知らなかったが、之面白い!バリ島のカップトリック!田辺に見せたらどんな顔をしただろうか。 :-D
Balinese cup trick / candle trick / spinor demonstration
Your palm is a spinor
Dirac belt trick
以上、つぎからのリンクhttp://en.wikipedia.org/wiki/Plate_trick :evil:

p.82 基軸ヴェクトルは分極変位ヴェクトルと同列に置かれるべきものではない。前者は後者の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って前者の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。
<続く>
この後、旋回してぐるりまわった連続がでてきて、それが切断となる!だから、切断は力学的で、解析が力学の
数学だった根拠をこれに求める!!!

この旋回が懺悔!

ウーム!なんという人だ…


2012年3月3日(土曜日)

フラクタルでなく連続体

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時28分41秒

フィロソフィア・ヤポニカ p.112

「論理の社会存在論的構造」からの引用。この論文での、唯一のテンソルへの言及。ただし、回顧的・説明的
とでもいう言及:

<1行略>
その際特に重要なことは、質料が分裂性多様性というごとき抽象的規定を意味するのではなく、
その自己否定は種が種を否定することであり、しかもそれらの種が互いに対立する別個のもの
として単に並存するのではなくかえって相互に含み含まれ連続的に相違なるものの内部において
一部が他部を否定することを意味するにある。いかに分割するももはや分割するあたわざるい
わゆる不可分者(原子)に到達することなく、かかる単純要素を有するのでなくして、いかに
分割を進むるも分割しない前と相似の、反体力の張り合う構造を示すのが種の特色であって、
私がこれを前にテンソル力場に比したのもそのためであった。<以下略>(「論理の社会存在論的構造」)

<ここから中沢の文章>
「種」はどのように分割を進めていっても、分割しない前と相似の構造を示す、力学的な構造を
している、と田邊元は考える。彼の思考は、ここであきらかに今日「フラクタル」と呼ばれてい
る構造を、はつきりととらえている。
<中略>「種的基体」は反対力の張り合う力学的な多様体(シン
プレクティック多様体)として最初描き出されたが、ここまでくると、田邊元の直観のとらえて
いる空間は、今日私たちが手にしているような多様体論(その数学は基本的には微分可能な、
「滑らかな多様体」を扱っている)ではとても手におえない複雑さ、深遠さをおびてくるように
なるのだ。そして、それが自然のなかに存在している、もっとも具体的な空間の構造をしめして
いる。それは無限小の超薄領域に、非有(無)を折り畳みこんだ「バシュラール・パイ」のよう
な出来上がりをし、いたるところに対立する力の緊張が張り渡された空間なのである。田邊元の
思考は、じつにとてつもない構造を直観していたものである。

<ここから分析>

中沢がフラクタル的な自己相似集合の構造を読み取った「いかに
分割を進むるも分割しない前と相似の、反体力の張り合う構造を示すのが種の特色であって」は、
そういう無限に降下するフラクタルのツリー構造を言っているのではなくて、その後に
「私がこれを前にテンソル力場に比したのもそのためであった。」という文があるように、
これは応力テンソルのような剛体内部の力のようなイメージ。田邊が言いたいには、
部品のようなものから種が成り立っているのではなく、それが連続体であること。
連続体の局所的な切片は、幾ら分割しても、同じ相似な切片となる。
現代数学的に言えば稠密姓にあたる性質だが、これが一九世紀終わりに、
デーデキント、カントールなどにより、連続性が一種の完備性として
明瞭に定義される以前の連続性のイメージのかなりの部分をしめており、
たとえばパースなども、一次は稠密性が連続性を導くと考えていたらしい。
田邊の初期科学哲学の時代の1922年の「実在の無限連続性」では、
この稠密性の議論をもちいてデーデキント切断のカントール基本列に対する
哲学的優位性が主張されており、このころ、まだ、これが我が国においては、
消化されるべき問題であったことがわかる。1874年に連続性の最終的定義
が登場してから、48年後のことであり、現在で言えば2012−48=
1964年、つまり、東京オリンピックのころの数学的発見の哲学的意味について
議論している感じになる。代数幾何のSGAが、このころ。

とにかく、この場合のテンソルとは佐藤省三のケースと同じく、テンソル概念の
創始者Voigtから来ているので、応力テンソルをイメージしていると考えるのが、
妥当だろう。外から力がかかっている剛体中の一点にかかる力、たとえば、その剛体が
木の円柱で、その両端から大きなプレス機で力をかけたばあい、その円柱の中の
あらゆる点で、両側からの力がかかる。そのときある点pにかかる点を決定するには、
pを通るベクトルmを考えて、その方向の応力を考えればよさそうに思うのだが、
そうではなくて、pを通る面Sを考え、その面を通して働く応力のベクトルm方向成分
を考える必要がある。これが応力テンソルであり、n,m二つのベクトルにより、
決まる量であるために2階のテンソルとなる。(たとえば、山本義隆、中村孔一
「解析力学I」、例1.5.1.応力テンソル、pp.76-78のp.78の記述を参照。)
そのテンソルの計算では、面Sを有限の大きさにとり、その面を通しての応力を
計算し、その後にSを無限小にまで小さくして、点pにおける面Sを通しての応力を
考える。これを説明するのにVoigtは、pを含む小さい立方体を考えて、それの
三次元の三つの方向の面での応力を考え、これを Tensortripel (tensor triple)
と呼んだ。立体は小さくしても、より点pに近づくものの、また、同じ情況(相似)
の応力を考えることができて、応力という力のTensortripelが円柱という「種」
のなかに張り巡らされていることになる。そこには原子のようなものはなく、例え
点という極微の極限があっても、それは佐藤がいうように局所近接作用の場、
つまり、「環境」の中で考えるしかないものである。

中沢が、ここでフラクタルを持ち出していることから、中沢が、イメージテいるものが、
ドゥルーズ、ガタリの「千のプラトー」などに現れた思想であることがわかる。
「千のプラトー」ではマンデルブローが引用されフラクタルの図も掲載されている。

中沢がいうように田辺の種のイメージ、より精確には、絶対弁証法のイメージは、
多様体のようにノッペリしたもので理解することはできない。それはどのような一点も、
世界の全体を反映するようなホリーズムを前提にしており、それがたとえば晩年の
絶対還相の議論、絶対無が、この世に顕現できるは、各個の行為を通してのみ
だという議論につながっており、実は、この思想は彼の戦前の切断論にすでに現れている。
WHHERE?どこだった?「論理構造」か?


2012年2月28日(火曜日)

佐藤のテンソルの論理と田辺の種の論理

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時19分58秒

風邪で潰れて1日休んだら久しぶりの休養になり、資料が届いたこともあり、
絶好調となり田辺の力学関係の思考法がかなり解明できた。で、がんばり
すぎてダウン。今度は1週間近く寝込むハメに。漸く今日から何とか再開。
明日は会議…

種の論理の成立、発展における「力学」の役割りの理解のために佐藤省三
の「テンソルの論理」論が鍵。

佐藤は種の論理の前駆をなす「図式時間から図式世界へ」を意識しつつ、
種の論理より10ヶ月ほど先行しながら、新自然学である量子力学、一般
相対性理論の論理をもとめて、テンソルの論理の必要性を提唱する。
それは集合論に比すべき、孤立した質点のあつまりと「無媒介的に直達する
所謂遠隔作用」(p.28)に基づくニュートン的古典物理学から、「空間をば
連続的に充たせる力の場が作用伝播の媒介となる(p.28)」電磁論(電磁気学)
への物理学のシフトを意識したものである。そして、ニュートン的力学は、
幾何学的な運動学 Kinematik から、ガリレオにより『「幾何学的なるもの」
に還元することができない物体の質量とか、非外延的な「力」の概念』(pp.5-6)
が導入され、それにより Dynamik が誕生したのであるが(pp.5-6)、それに
対応する論理は一次の方向量の論理、つまり、ヴェクトルの論理である、
コーエンの論理学であった。(この幾何的運動学のレベルが0次の方向量の
であるスカラーの論理。)しかし、新物理学は、場の上の近接作用の学であり、
それをコーエンの微分の論理学で理解することはできず、その故に、近接作用
(古典物理学の範囲では、典型は剛体内の応力) を表す2次の方向量を
表すテンソルの論理が、これらの新自然学の論理となる。これが佐藤の論文
の主旨。その哲学的内容は、ほとんど最初の昭和9年1月の「近代に於ける
自然の論理」に現れており、その10ヶ月後の11月号の「哲学研究」に、
「社会存在の論理」の最初の部分が、12月の号に2番目の部分が発表される。
そして、翌昭和10年の1月号では「社会存在の論理」の最後の部分が
発表され、同じ10年の9月号と12月号に佐藤の論文の続編というべき
「高次の方向量の論理」が現れ、10、11、12月号に田辺の
「種の論理と世界図式」が現れる。そして、昭和11年の「論理の社会存在
論的構造」では「高次の方向量の論理」が引用される:「其限りコーヘンの連続
の論理は微分に止まるべきでなくテンソルにまで発展すべきものであったということも
出来る(佐藤省三氏『高次の方向量の論理』の着眼は此点から推奨に値する。)
併しそれが為には、コーヘンの如くカントの分析論に留まるのでなく彼の弁証論の
立場に進み、一度思惟を自己否定せしめなければならぬ。斯して連続の根源は、単に微分の如く
欠如の極限を課題の存在に繋ぐ肯定的原理にあるのではなくして、自己否定の極、
無からの行為に於て絶対否定の肯定に転換せしめられる否定即肯定の弁証法的原理となる。

以下、重要部分:

p.28:今や相互作用は空虚な空間を距て(へだて)て互いに独立的に存在する
質点の間にではなく、場によつて互いに近接し一体を成す力心(りきしん?)の間
に成立することとなる。

p.30:かくて近接作用の物理学を俟って(まって)初めて孤立され固定せしめられた
関係点 Relata に重きを置くのではなくして、これらの個物並びにその個々の作用
を寧ろ自己の抽象体とする、相互作用の共通の地盤、媒質たる全体者、普遍者が
顕揚され合理化され得るに到ったのである。
 上来の所論によって近接作用の物理学に於ける場の概念の意味は最早(もはや)
機械観からは理解し得られないことが明らかになったであろう。< 以下略>

p.33:古典的物理学に於ける因果律の範疇の位置に代る可き(べき)新しい範疇は、
機械観的物理学よりしては独立した新しい学的方法としての意義が承認されなかった
所の「相互作用の範疇」である。然し相互作用という語が関係点に優先が置かれる
遠隔作用の物理学に於いて生じたものなることを表示し、相互作用の地盤たる全体者、
普遍者を顕現していぬ点で不適当であるならば、新しい全体的な範疇の有する論理的
構造を先述のテンソル概念を用いて特色づけることが出来るであろう。

pp.33-34: 然らば「テンソル」とは如何なるものかと言うに、一方「ヴェクトル」が「スカラー」
の方向を有しない量であるのと異なり方向量として区別せられ而も一方向きの方向を有するに
止まるに反して、ヴェクトルよりも更に高次な、正反対の方向が互いに等しい資格を持った
方向量の謂である。故にヴェクトルは通常一本の矢←を以って表されるに反し、テンソルは
←→或いは→←の如き記号によって表される。

pp.34: テンソルの語は元来W.Voigtによって初めて名付けられしものである。然し彼の
考えたのは六つの。。。

pp.38-39:テンソル←→に於いて→と←とは常に相伴い一の存する所必ず他が存し、一が
増大すれば他も増大し、一が減少すれば他も減少し一が消失すれば他も消失し、全体は
それに従って増大し、減少し或いは消失するのを意味し... 浸透し、張り合ひ、緊張しつつ
一つの内面的統一、平衡的全体を形作る点に於いてテンソルの含む二動向は寧ろ一つの
全体者が二つの反対の方向に分化したものと考えられる可きである。

pp.76-77:相対性原理に於ける非ユークリッド的、双曲線的空間に属する時空の四次元融合体
としての世界テンソルを、ユークリッド空間に於けるフォァグトの所謂Tensortripelとしての
Ellisoidと同一視する事は勿論許されないにしても、今簡単の為にその相違を無視して時空融合
体をかかる Tensorellopsoidと考うるならば、時間軸そのものが一つのテンソルとして考えられない
であろうか。
#ここの種の論理における「切断」の芽がある。
#S9年の講義録 S09_004.jpg 右ページ最後から、左ページトップにかけてのテンソル的な図
#との関係!

右最下部

左最上部

丸で囲むのは、そこで絶対弁証法の渦流が起きているということと理解できる。「哲学通論」の絶対弁証法の
図を参照。


2012年2月21日(火曜日)

二つの多様体論の意義

カテゴリー: - susumuhayashi @ 09時51分17秒

二つの多様体論は、田辺哲学の「核心の理解」には貢献しない。

一方で、思想論文で指摘したような、田辺哲学を世界思想史の文脈におくという点では、
英米分析哲学(澤口)、フランス現代思想(中沢)の出発点としての意味を持つ。
特に後者は、フランス現代思想における擬似数学の利用という田辺哲学にも見られる
方法での両者の比較という大きなテーマにつながる。しかし、中沢は、これを田辺理解
としてしまった。そこに批判が起きる(田中裕や京大宗教学専修雑誌の論文)原因がある。
しかし、これを単にマスコミ学者の論とするのは間違い。
#ただし書きとして、中沢のアプローチ、特に調査、議論の問題点
#の批判。澤口論文の引用、アブラハム、野上、シンプレクティク幾何学、微分形式などもろもろ。

Plotnisky論文使う。quasi-math. という概念。

また、これを通して、math の概念の使い方の違いから、
逆に思想の違いを見る。たとえば、ドルーズ・ガタリの
リーマン多様体はどのような意味でもhomogeneousではない、
という文。田辺ならばハイデガー哲学など Hier-Jetzt の
思想から、これを批判するだろう。

非モダンという中沢の用語をモダンでない
もの一般に意味を変えて使う。たとえば、前モダン、
反モダン、脱モダン、超モダン、超(克)モダン。

田辺、京都学派は最後のもの。新カント派もそうだろう。
モダンは一応承認している。

これをギデンズなどのXXモダンと比較。


Voigtでなく佐藤?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時03分50秒

Voigtの教科書の田辺の書き込みには「テンソルは2次元」と読めるようなものは見つからず。
しかし、佐藤に次のような部分がある。おそらくこれか?

佐藤省三「高次の方向量の論理」、哲学研究、第234号、1022ff.

元来方向の一面性を持って特徴付けられるヴェクトルにあっては、
それが方向の規定を自分の外に有し、方向との間に偶然的、
外面的な関係を残す所の量と考えられるが故に、
その根底には上述のテンソルの如き方向の規定を自分の中に
含み之を必然化する所の一つの閉じられたる自己完結的なるものが
存しなくてはならぬ。方向の必然化とは勿論之を不動の一方向にのみ
固定化することではなくして、方向並びに大きさの可変性を容れ之を
自分の中に成立せしめることに他ならない。
<この後に、テンソルがベクトルの Operator であるという議論など
が続く>

かかるヴックトルとテンソルの関係が又成文の上から前者に対応せしめ
らるる系列と後者に帰せしめられる「系列の系列」としてのマトリックス
との関係を示唆し、ここに「テンソルの論理」と「マトリックスの論理」
とが必然的に連関し相通ずる所がある。我々が高次の方向量の論理
として特色付けた近代の自然の論理は又他方に於いて一次元的な
「系列の論理」ではなくして二次元的な、かかる系列としての
「マトリックスの論理」であるとも言うことが出来るであろう。
然しマトリックスの論理的意義については後章に於いて論ぜんとする。

<以上>

ここでは佐藤も「次」でなく「次元」としている。


微分->極微

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時17分20秒

初期科学哲学の時代には、一貫して微分と言っているようにみえる。極微はまだ、
見つけていない。極微の最初のものは、細谷が指摘した「カントの目的論」の
ものが最初か?

私は一般に当為というもおはかならず極微 infinitesimal を現実を含まずしては成立しないものであると思う。


2012年2月20日(月曜日)

田辺の「局所的科学」、ドルーズ・ガタリ、多様体の論理

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時31分34秒

多様体は局所的にはニュートン的な絶対空間と同形。ドルーズたちが言うように、
それのバッチワーク。ドルーズたちは、それを The Mathematical Model として使った。
田村が葉層構造について説明したことを強調してアナロジカルにいえば、多様体的な社会(種)
は、互いに同形の小さなコミュニティーのパッチワークとなる。

この社会の多様性や、ツリー構造の不在ということがドルーズたちの
論点だったのだろう。それに対するものとしてマルクス主義唯物弁証法が
あげられている。(TODO: ここ正しいか?杉村さんに教えてもらう!!)
たとえば、The Mathematical Model の冒頭に(英訳、p.482)、次のような
フレーズがある:
It was a decisive event when the mathematician Riemann uprooted
the manifold from its predicate and made it a noun, “manifold”.
It marked the end of dialectics and the beginning of typology
and topology of multiplicities.
#脚注で、RiemannのMannigfaltigkeitがHerbartの教育心理哲学から来ていることを
#注意。これがわかったのが、Scholzの1980年代最初の研究だから、ドルーズ・ガタリの本(1980)が出版された頃に
#研究されていることになる。ちなみに、ドルーズ・ガタリの索引で、Riemann が Georg Reimann になっているの
#愛嬌。(^^;)確かに、Georg Friedrich Bernhard なのだが、普通 Bernhard という。

田辺の用語でいえば、多様体の哲学は一般相対性理論と同じレベルになるので、局所性の哲学ということになるだろう。
これは、その基礎が局所的なものからできているという意味。その局所的なものの多様性に眼を向けて、それを研究すれば
多様体のローカルな研究となるが、葉層構造は田村が書いたように、特にその大域的な性格に注目する理論。
中沢が葉層を持ち出したのは、単に模様を入れたい、田村の2つの図を使い、それを田辺の文章に重ねたかった
だけなのだろう。また、フラクタルもイメージしたのかもしれない。
中沢の多様体の哲学は、それを意図的に同一論理化した澤口の…

ToEdit

決定性のフラクタル コーエン・ナトルプの微分>非決定性のフラクタル〔海岸線など) ブラウワーの自由選出列>田辺の切断

フラクタルは、そのものが複雑だから面白いのではなく、単純な決定形のはずなのに、
繰り返しや再帰を入れると複雑だったり、非決定的システムのように振舞うというのがポイント。
しかし、それには随分ルールが入っている。たとえば、ハウスドルフ次元。これはせいぜい、
量子力学の確率的予測のレベル。あるいは、どんどんせばまるブラウワーの自由選出列。
田辺の切断には、そういう制約がまったくなく、自分の環境さえ変える。

だから、フランス現代思想だと、全然、田辺の絶対弁証法に到達できない。

近傍はコミュニティのアナロジになる。バザー vs カセドラル。
しかし、田辺はコミュニティなどどうでもよい。彼にとっての問題は国家・社会と個の対峙の問題。
種の論理とは、実は、「種に対峙する個」のための論理。
田辺は自立した個として国家を愛する明治人であった。

しかし、そこに猛烈な複雑性の絶対弁証法が極微のレベルで入っている。

中沢の多様体哲学は、確信犯澤口が、田辺哲学の心臓を切り落としてくれていた
ために、フランス現代思想的な枠に埋め込むことに成功したもの。しかし、それは
田辺哲学の死骸のようなもの。

田辺哲学の哲学の理解を助けるために、丁度、田辺がテンソルを持ち出しかけたように、
そういうものを考えることができるかもしれない。しかし、其の場合、多様体では足りない。
せめて、ブラウワー的な層モデルくらいを持ち出す必要がある。しかし、それは無限に
精度を高めることができるだろうが、それは決して田辺哲学ではない。


ToEdit:数学的にテンソルが行列式の発展(3)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時09分53秒

佐藤省三には「2次」(スカラー量のindexが二つ必要という意味)はあるが、
「2次元」を連想させるものはないし、行列式云々も該当しそうなものはない。
Voigtは、田辺が書き込みをしているあたりにはない。

佐藤、Voigtともに3個の異なるベクトル対で直行したもの Tensortripel (Voigt)
で、その点における全ての方向の応力(など?)を表すという方法。

これでは、(1),(2)のような説明での「2次元」にならない。これで2次元といっている
のではなさそう。佐藤に該当するものが見つからず、どういう意味で言ったのか不明。
佐藤の論文は「高次の方向量の論理」。田辺もおなじく「高次の方向量」と書いている。
これはこのころの一般的書き方か?Voigtにないか?

しかし、このテンソルの「2次元的」とういう言い方は、中沢が引用した部分くらいに
しかでない。まず、テンソルが盛んに議論されるのは、論理の社会存在的構造のみで、
ここでは20以上の出現がある。しかし、それ以後の論文では、ほぼなくなり、
「種の論理の意味を明らかにす」全集6巻,p.499、では、おそらく1つ。しかも、
次のように「社会存在的構造」でなぜテンソルを議論したかを説明しているだけ。
これが、前に私が連続を、統一と封立との封立として力の張合に比し、テンソルに依ってその構造を考へようとした理由である。

種の論理と世界図式では、p.237(全集6)にあるが、これは相対性理論のテンソル。

6巻のほかの論文にはテンソルがないらしい。また、戦後も議論はない。関係ないと見たほうがよい。

また、田辺のテンソルが応力テンソルをイメージしていることは、上の「明らかにす」の記述や、
次の記述からわかる:

論理の社会存在的構造
全集6、p.316
実に力の場は錯動原因の互に活動し抑圧し合ふ場所なのである。物理学者
が数学的にテンソル量として力の場を’相反封し合ふ量の交互性の統一として考へようとしたのもこれが為めであらう。


極微=コーエンの無限小の証拠

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時09分31秒

種の論理に対する批評に答う
全集6.p.408
併しそれだからといって’逆に微分法が弁証法の代用となるものでな
いこと’後者の本質の否定媒介にあることを理解するものにとって’明白でなければならぬ。弁証法の質的否定たる
無を無限判断の述語たる非有で置換へ’之を欠如として極微有と解したコーへンの微分論理は、たしかに私の探く尊
敬する偉業である.併しそれはその標榜にも拘らずプラトンの論理を徹底するものでなく、却てそれが不当に貶斥す
るアリストテレス論理への接近に外ならないのである.

追加21日:
これより
http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/modules/wordpress/index.php?p=199
の例の方が良い。そちらを使う。


2012年2月19日(日曜日)

局所性、微視性、極微性

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時38分41秒

田辺の微分、西谷:積分 vs 微分、細谷:局所的微視的

局所的=一般相対性理論=葉層構造的見方 これは多様体でもよい。絶対空間の拒否。ノッペリした、どこまで均質で見渡せるものへの否定。
微視的=量子力学。これに対応する哲学的観点はないか?

全集12, 「局所的微視的」p.47:
新物理学の局所的微視的自覚内容は、古典物理学の普遍的巨視的概括に於ける二律背反的矛盾の
分裂危機を救活し(cf.古典力学の弁証法)或はそれから脱出するために、革命的に物理学の理論に
導入せられたものである。

全集12, 「局所的微視的」p.39:
ハイデッガーの実存主義が、私のいわゆる即今 Hier-Jetztの自覚の立場に立つことは、
彼の『形而上学とは何か』の劈頭に明示する所であって、彼はそこで形而上学的の問が、常に
全体の立場から発せられるものとして、必然に形而上学そのものを同時に問題とするものであると共に、
また問者自身のここに今現存する境位から問を発するという、即今の自覚に立脚しなければならぬことを
宣べて居る(のべている)。これは全く私のいわゆる局所的微視的自覚の立場を表明したものであって、
まさに、この特徴を有する現代的思惟が、その性格上実存主義的という傾向を有することを疑念の余地
なきまでに明示するといってよい。

全集12, 「局所的微視的」p.55:
哲学は宗教と科学との行為的媒介であるという一般的関係を、即今の立場に於いては、実存主義と
マルクシズムとの歴史的対立の尖端に於て具体的に媒介するのが、今日の弁証法的哲学の課題で
あると考えられるゆえんである。

西谷、細谷による、積分が西田哲学(西谷の別の言い方「上からの哲学」。「西田哲学」p.285)
微分が田辺哲学という観点とこれの関係:
微視的=微分=極微ではない
「局所的微視的」での議論では常に大きさを意識している。特にイントロで、局所的微視的に
local, microscopicと原語をつけている。


ToEdit:田村の説明:葉層構造=大域構造

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時41分21秒

田村一郎「葉層のトポロジー」岩波文庫数学選書、序:
トーラス上の特異点のないベクトル場において、軌道はトーラスにストライプ模様を与え、
トーラスを軌道(複数)の和に分解する(図1.10)。葉層構造(Foliation)
とはこのように多様体を葉とよばれる弧状連結な部分集合の和に分解することに
よって得られる’模様’で、葉(複数)が局所的にはEuclid空間を幾重にも層を
なして積み重ねた形になっているものである(図4.2,図4.4)。上述のトーラスの
例では一つの軌道が一つの葉である。葉はそれ自身多様体であって、もとの
多様体の次元と葉の次元との差をその葉層構造の余次元という。

一つの多様体の(与えられた余次元の)葉層構造はしたがって局所的にはすべて
同じ構造
であるが、大域的にはその’模様’はさまざまに変化している。’コンパクトな
葉が存在するか’、’稠密な葉が存在するか’或いはまた’すべての葉が同相であるか’
といった葉層構造の大域的な性質を位相的視点から論ずるのが’葉層のトポロジー
(Topology of Foliation)’である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
この序に引かれている図4.2,図4.4が「フィロソフィア・ヤポニカ」pp.104-5で
多様体のイメージを示すために使われた図。中沢は、p.103で、田辺全集6,pp.

To edit!

http://www.shayashi.jp/xoopsMain/html/modules/wordpress/index.php?p=185


数学的にテンソルが行列式の発展(1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時44分46秒

全集6のp.321。「数学的にテンソルが行列式の発展としてかんがえられる意味をもつのも
この構造に由ってその根拠をある程度まで理解し得られはしないか。
「ある程度まで」に注意!テンソルになると外延。
「とにかくテンソルの2次元的伸展凝収の力的緊張は、変化運動の一次元的ヴェクトル構造に対し
明瞭に区別せられなければならぬ。是に由りそれが運動の無限なる重畳を却って静止の緊張に
湛え(たたえ)、極微的に運動の沸き立ち張り合う根源たるのである」という文章がくる。

ここが佐藤の論文,Voigtの本ではどう説明されているかチェック。
行列式のシグマ使い方から、テンソルのそれができたのか?
形式的には確かに行列式は、特殊例(0,N)−型テンソルでそれでよい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tensor
しかし、発展といっているので、これは田辺の数学史の認識の問題になる。調べる!!

これ以外の部分の意味:「それが運動の無限なる重畳を却って静止の緊張に
湛え(たたえ)」というところから応力テンソルをイメージしていることがわかる。
物理学の本来(古い)意味のテンソルは、外から力がかかっている
剛体の内部の微細な平面を通る任意のベクトルmに沿う伸展あるいは凝収の力(テンション)がテンソル。
この平面をその法線 n で表すので、それを記述するときに二つのベルトルn,mが必要となる。
C.f. 山本、中村、解析力学I、pp.76-78。二つのvectorに対して力が決まるので、
応力テンソルは(0,2)-tensor、2階共変テンソル。
要するに2つの covariant vectors のテンソル積。それでくテンソルの2次元的伸展凝収の力的緊張
と書いたのだろう。
C.f. 山本、中村、解析力学I、pp.70-71および
http://en.wikipedia.org/wiki/Stress_(mechanics)#Equilibrium_equations_and_symmetry_of_the_stress_tensor

nの方向のテンソルの力が対立の大きさを表すから、それが横の「次元」、そして、
mが対立が起きる場所(面)を表すから、これが縦の「次元」。そういう (横、縦)-型
テンソル場を考えるということ。テンソル・バンドル?
http://en.wikipedia.org/wiki/Tensor_bundle


2012年2月17日(金曜日)

内部対立では種としては不十分

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時27分56秒

全集6、論理の社会存在論的構造、p.320: ところで種が自己否定を本質とし、
無限なる反対とその抑圧との二重の否定的対立性の重積であるとしたならば、
一見種の内部に於いて相異なる種と種とが否定し合う如く見えるでもあろう。
併し仔場合に重要なのは、若し互に否定し合うものが相異なる種であってそれが一の
種の内部に対立的に並存するならば、両種を其内部に含む一の種は類的性格を現し、
恰も赤と青とに対する色とふ如きものとなり、同一の種が自己否定をなすとは
いい難いことである。赤と青との何れとも限定されずして而も何れでもあり得る如き
種的類としての色は、例えば音の如き異なる種的類に対して相異の関係を有するものとして
種の性格をもつとしても、自己の内部に赤と青との異種を共存せしめる限り類的であって、
種が種として自己否定をなすということにはならぬ。寧ろ赤自身が自己の両立
し難き青を自己の内部から発展せしめ、又青が自己の否定者としての赤を自己の
内部から産出するという如き事態にして、始めて自己否定的とふことが出来るであろう。
併し其様に一を否定する他が一の内部から発生してそれが一に更わるならば、
其事態は変化であって、一の種が他の種に代わるに止まり、種がテンソル的構造を有する
といふことにはならぬ。それは単にヴェクトル的運動的というに止まる。
———————————-
種がテンソル的力学的構造を有する為には、その自己否定をなす媒介となるものが、
飽くまで依然当該種そのものとしてそれの外に離れ出でることなく
それと統一せられるのでなければならぬ。即ち否定的なるものも其自身として
それの対立が種の統一に禁圧せらるという二重の対立性に於いて有るので
なければならない。従って種の統一は種の自己否定に由り自己の内部に無限の
層をなして自己とその否定者との交互的緊張を引渡し、
横に自己とその否定との対立する均衡を、縦に自己自身の内部に無限の層を
成して重ね合はせる如きの構造をもつと云ってよい。
数学的にテンソルが行列式からの発展として考えられる意味をもつのも此構造に
由って苑根拠を或程度まで理解し得られはしないか。
とにかくテンソルの二次元的伸展凝収の力的緊張は、変化運動の一次元的ヴェクトル的構造に
対し明瞭に区別せられなければならぬ。
是れに由りそれが運動の無限なる重畳を却って静止の緊張に堪え、プラトンのティマイオス篇の
質料を狂乱怒涛の大海に比した其比喩
の正確なる意味は、此の如きものでなければならぬ。
———————————-
斯かる種の激動的自己否定態に於いても、勿論分析的外延的に考えれば一の種を否定するものはその種に
対する他でなければならぬ。自己否定に於ける否定者といえども、単なる否定者という一般的概念ではなくして
特定の積極的内容をもつ種そのものでなければならぬ。ただ、その他たる種がその否定すべき一の種の外に
外延的に並存するのでなくして一の種の内部から内包的に湧出し、而も(しかも)それの否定的対立性が依然として
一の種の統一に圧えられ(おさえられ)、それの内部に保たれるのに由って、他の種が他にしても而も一に
帰し一の種と内面的に繋がるのである。相違する二つの種が連続する場合に、一つの種の外に
他の種が並存するのでなく一の種が他の種に入込み他の種が一の種から滲出すること、ベルグソンの純粋持続
の構造に比すべきものがあるとすれば、その所謂相互貫入の統一は即ち種の自己否定の構造に他ならぬ。


2012年2月16日(木曜日)

切断は本来力学的

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時05分29秒

全集12、古典力学の弁証法、pp.82-83:旋回回転についての議論で:
回転運動は並進運動と独立なる第二種の運動として、第ー種の運動たる後者と相俟ち、主体基体相即の力学世界を構成するのである。
之を集合論的に観れば、テンソルが伸長を意味する空間―時間の総合として、その伸長の方向が一点から無限に多くの方向(それの濃度c)
に向うと考えられた極限の場合に於いて、その濃度cなる無限多の縦線ヴェクトルの
総体が、すなわちその超越的自覚として旋回に相当するものと認められる。集合論上濃度cなる連続は、可算的有理系列の絶対的否定的
根源として思惟さられ、その要素としての無理数或は切断は、系列の否定即肯定なる転換の象徴として無を原理とするものであり、超過即不足
なる反対統一を表号するものとして、それ自身旋回回転の運動を行なう主体に相当するものと解せられるならば、無理数或は切断はもはや単に
数論的乃至幾何学的概念と規定さられるべきではなく、むしろ本来は力学的ともいうべきものであろう。解析が力学の数学として発達した歴史的
理由はここにあると解釈せられる。


2012年1月7日(土曜日)

「多様体の哲学」について(2)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 04時31分14秒

澤口論文 (二) p.51

引用:「田辺博士の晩年の数理哲学は結局のところ「種の論理」の数学化に帰着する。」
分析:「晩年の数理哲学」は第2次世界大戦敗戦終結以後の哲学のこと。この文で一番問題なのは「数学化」
の意味が不明であること。これより後の文章を吟味しても、あまり明瞭な答は得られない。解釈は、おそらく、
二つあって、(1)種の論理を数理論理学的にする、(2)種の論理で、数学(の特定の理論)を理解する、
つまり、種の論理を数理哲学に応用する、のふたつだろう。つまりは、目的が、(1)種の論理の理論体系、
(2)数学、ただし、数理哲学の対象としての数学、のどちらか、ということ。

おそらくは、後者(2)が正しい。

引用:そこで数学化に必要なかぎりで種の論理の要点を摘出しておかねばならない。
分析:先ほどの(2)が正しいとして、数学に適用する限りで「必要な種の論理の特徴」を考えよう、ということであろう。
「必要な限りで」という言い回しに、すでに澤口の思想の問題点を感じざるを得ないが、それは置いて、
澤口の思想を即物的・客観的に、しかしながら、解釈学的に解明すべきだろう。

引用:この論理の特質はいうまでなく、<略>、これとともに種の論理はもう一つ特異な側面を持っている。
それは矛盾の相のもとでものを見るといういわば裏返しの論理であることである。
分析:是に続けて澤口はヘーゲルの弁証法では、時間がたてば矛盾は統一・解消されるが、
田辺の絶対弁証法では、収束することがない、「次のより深き矛盾へと下る」とする。
かなり正確な理解と言える。

引用:それではこの裏返しの論理にては何ゆえに中間段階たる種が決定的役割を演ずるのであろうか。
これは個と類は同一性的性格が強いからであろう。
分析:この様に主張し、それの裏づけの議論が続く。それは論拠が明瞭でない断定的な推論であるが、
この「種に矛盾が集約される」という澤口の理解が、後の「種=シンプレクティック多様体」という
断定に繋がっていると思われる。つまり、シンプレクティック多様体は、座標系の様なもので、
非常に抽象的である。澤口は「抽象」を、群・環・体のような抽象数学と関連づける。
抽象性=捨象性=不定性、という特質により、各個における矛盾が解消されると考えていると思われる。

引用:博士は種として何を考えているであろうか。まず国家、人倫が典型的な種としてあげられている。
これは政治的種といわれるべきであろう。<中略>そして国家は方便性を持つという。
分析:「方便的性格」という言及から澤口が、その脚注(3)で述べているように、
戦後の「種の論理の弁証法」で、種の論理を理解しているということが明瞭である。
澤口の種の論理論の議論では、その思想の変遷が考慮してあるとは思えず、
「種の論理の弁証法」でフィックスすれば、種の論理が理解できるという
前提で議論が進めらていると思われる。また、その思考法には狭義の歴史主義、
思想はその最終系に向かい進歩するものだ、従って、その最終段階を理解すれば、
その思想を理解できる、という悪しき「歴史主義」が見て取れる。田辺哲学を歴史的存在として、
理解する場合、これが大きな間違いを招くことを指摘したい。田辺哲学は昭和一桁から
十年代への国家主義への流れと、その後の敗戦という、歴史的現実と無縁であることは
できない。これは田辺が背負った歴史的な条件であり、それが田辺の哲学を思想史的に
みれば、最大の難局の時代にすでに世事から引退していた幸運な西田の哲学より
遥かに深みのあるものとする。西田の選科時代の不遇などは些細な不幸に過ぎない。
家族との死別は確かに西田に大きな陰を落としたであろうが、子供や家族の死亡は、
この時代では『当たり前』のことでさえある。むしろ、子供ができないことを知りながら、
貞節を保持した田辺の方が、明治人としては異例なのではないか。再婚のことなど考えると、
西田の後半生は、信じられない程の幸運に満ちている。それに反して、知的エリートなどと「揶揄」される
田辺の方が、実は、その人生の最盛期に、第二次世界大戦と日本のファシズムという
「世界史的」条件に対峙・関係せねばならなかったという「歴史的不遇」を抱えている。
2011年3月11日を、1945年8月6日を、「腑に落とす」ことができるための
哲学は西田哲学なのか田辺哲学なのか、と問われれば、後者の方が、「より良い」と
言える。「竹林の賢者の思想」は、個を容易に捻り潰す圧倒的な「世界史的条件」には応えられない。
それが北森の西田・田辺への評価に顕れていると思う。
かなり『脱線』してしまったが、澤口の議論には、こういう視点は全くなく、
田辺哲学の分析哲学化、あるいは、戦後日本でも共用される哲学に変えること
しか念頭にないように思える。それは田辺哲学の正反対を目指す途だろう。


2012年1月2日(月曜日)

「多様体の哲学」について(1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時39分47秒

澤口昭聿「田辺元における数学の形而上学」分析1
 澤口昭聿「田辺元における数学の形而上学」、pp.48-76、武内他編「田辺元 思想と回想」、筑摩書房、1991の分析1

引用1p.48:博士晩年の著作『数理の歴史主義展開』は特異な数理哲学書というほかない。<略>
数学者が本書を読むならばほとんど真意を把握できないであろう。そきにはあまりにも強く形而上学が出ており、
直接には数学的に理解不可能である。
分析:評価が師である下村のそれと非常に近い。下村が澤口の師であることは、澤口の「連続体の数理哲学」東海大学出版会、
1977の序からわかる。

引用2p.48:したがって問題は第一に数理哲学においてはたして形而上学的な方法が必要であるか、ということである。そして、
その場合に田辺博士の歴史主義が適切であるかが第二の問題となる。
分析:文章に癖があり意味がわかりにくいが、本文の展開からすると、要するに「したがって第一に数理哲学においてはたして形而上学的
な方法が必要であるかが問題となる。そして、もし必要であるというのならば、田辺博士の歴史主義が数学の形而上学として適切であるかど
うかが問題となる。」という意味。

引用3p.48:結論をいえば、博士の方法は外見はともかく真相においては意外に現代数学に適合性をもっている。
分析:前の文章からの繋がりが悪いので、これも意味不明だが、pp.60-61の切断では「"抽象"が行なわれない」という記述、
および、p.63の「種の論理の真の活動の場は、”多様体"の哲学においでてあると考えられる。博士はリーマン面に触れているから、
特殊な多様体は考えているわけであるが、もっと全面的に拡大すべきである。」という記述、および、その後の、シンプレクティック幾何学、
シンプレクティック多様体の幾何学としての「多様体の哲学」の導入と、そこにおける類種個の解釈、および、「種の論理は「矛盾部分」
と「無矛盾部分」を持つ」という澤口の考え方からすると、種の論理が、シンプレクティック幾何学と似た構造を持つということを、
「意外に現代数学に適合性をもっている」と述べているらしい。しかし、澤口の最初の問い「数理哲学に形而上学は必要か」また、
「田辺の歴史主義が、数理哲学における形而上学の中で適切であるか」という問いと、この結論は、かなりずれている。
澤口という人の議論は、こういうものが多く合理的な分析は難しい。
このような情況なので、澤口の議論を分析にするには、文章をそのまま
理解しようとしては無理で、全体の流れを掴んで、言いたいことを類推するしかない。以下、それを行なう。

引用4p.48:現今の数理哲学は論理学的方法に集中された観がある。これはラッセル以来生じた顕著な傾向である。
初期の田辺哲学に見られるごとき数学の認識論はとうに学界の関心の外に忘れられている。
分析:現代の数理哲学は英米系の分析哲学に集約され、それ以前の数理哲学、たとえば田辺の新カント派的な
初期数理哲学は、現代(1991)では数理哲学として受け入れられなくなっている。と、いう議論。
つまり、フリードマンの2つの道の一方から歴史を見ている。

要約1p.49:ラッセルのプリンキピア・マテマティカで論理学が現代化され、それを利用して集合論が再建された。
思惟法則まで含めた数学が建設されたのである。このプリンテキアも「還元可能性の公理」という問題を含んでいた。
これは数学を実行可能にするための純然たる仮説である。しかし、この問題はゲーデルの構成可能性の公理に
よりほぼ解決されたとみなせる。ゲーデルのこの公理は還元可能性の公理を含み、さらには、「完全な形で
古典的集合論の論理学的再現を果たしたものと考えられる。さて、この集合論の論理学的再現は同時に他の
可能性に道を開くことになる。」と主張して、公理的集合論における独立性・無矛盾性のなどの研究への言及がされる。
分析:主張は三つだろう。プリンキピアで公理的集合論への道が開かれたこと。構成可能性の公理で還元性公理の
妥当性が保証されたこと。そして、さらに非標準的集合論の研究に構成可能性の公理が道を開いた、ということ。
澤口はコーエンの「連続体仮説」の訳者の一人だが、公理的集合論が分かっていたのかに疑問がもたれるような
議論である。構成可能性の公理は還元性公理、つまり、非可述的なcomprehension axiomより遥かに強い公理
である。これは非可述的なcomprehension axiomと本質的には同じ前提に立つような超限順序数の体系を前提
にすれば、その順序数で番号付けた変数、個体定数、述語記号などを持つ、超限的な論理学により構成される
集合論モデルLと「標準的集合の全体」Vが一致するという公理なのだが、一見、順序数の体系の中に、
非可述的性が入っているのが見えない。ヒルベルトはこれを非可述性なしでやれると思ったらしいが(それが、
かれの「無間に就いて」)、それで失敗して、それを見たゲーデルが、相対的無矛盾性という手法で、
それを前提にしてヒルベルトの議論を再構成して、構成可能性公理V=Lの無矛盾性を示し、それにより、
選出公理と連続体仮説の相対的無矛盾性を証明した。というわけで、このp.49の第2パラグラフの議論の
一番多い部分は澤口の数学的誤解と思われる。この部分は、その後の議論展開には影響はもたない。
しかし、澤口の記号論理学への理解に疑問が持たれる理由となる。他にも、そのような議論が、
この論考にはある。生前の澤口を知る数理論理学を正確に理解する哲学者の話では、
澤口の数理論理学理解には疑問がもたれるとのことである。おそらく、数学としては理解できて
いない。

引用5p.50:現代の集合論はさらに再拡大された同一性論理であると考えられる。
分析:p.49終わりの議論から、同一性論理=伝統論理学<記号論理学<集合論、と捉えていることがわかる。

引用6p.50:記号論理学を本質的に使用する数学を「形式的」formalと呼ぶならば、形式的数学が
現代数学の本姓をなすかどうか。これに対して多くの数理哲学者は肯定の答えを与えるであろう。
<略>しかるに数学プロパーの現状に目をやるならば、依然として別種の数学論理が働いている
と考えざるを得ない。<略>形式的数学に対して抽象的 abstract数学がそれであろうと思われる。
<略>ところで、田辺博士晩年の思索はこれに対してある種の示唆を与えるものと考えられるのである。
分析:澤口が言う抽象数学というのは、ブルバキ構造主義の数学、つまり、ヒルベルトの初期形式主義が
発展したモルフィズムが保存する性質により、数学の本質を語る数学のことである。特に、抽象という
ところが重要で、ヒルベルトと異なり、一意性を無視する、という所に、澤口は、弁証法的な
矛盾を回避する術があると考えている(これは後ででてくる議論)。


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