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2015年6月9日(火曜日)

Collective noun, 集合名辞

月曜日の特殊講義で、オブジェクト指向におけるクラス概念の誕生を、Hoareさんの Record Handling の論文(レポート)に求めて、説明をしていたとき、科哲史の川西君が、僕の説明に「えっ?」というような顔をしていたので、何か変な事を言ってしまったかと思って調べてみて、この4年ほど「創造的間違い」「創造的勘違い」をしていたことに気が付き驚く。

木曜日後期の「論理学の歴史」で、少なくとも2011年から、尾崎咢堂の文章の非常に稚拙な読み違いをしていた。それは、アリストテレス論理学の term(名辞) が特称の場合(これの1の意味)に、オブジェクト指向や集合論でいう singleton と解釈する(前者では、singleton pattern で使うインスタンスが一つのクラス, 後者では要素が一つの集合として理解する(すればよい)という立場。つまり、ソクラテスとは、ソクラテスというオブジェクトのみをインスタンスとして持てるクラス、集合ならば、ソクラテスだけからなる集合。この見方は、実は、随分昔にATTTという形理論を作ったときに考えたものなのだが、憲政の神様尾崎咢堂行雄が若かりし頃書いた論理学書11ページの集合名辞の説明を間違えて読んでしまい、すでに明治時代位の伝統論理学の見方では常識だったのだと考えていた。

そして、さらにそれに、term の原語 horos, terminus の意味を利用し、また、西田が西洋的論理を分別(ふんべつ)に基づく論理と理解するところを利用して、伝統論理学を term により、個も、集団も、それ以外と分別して、区切り取ってしまい、塀や壁の中に閉じ込める論理、と理解することにより、ハイデガー流に、論理を拒否する、あるいは、避ける、西谷の回互連関が、実は、一般者、類、種が、上から押さえて来る、あるいは包んでくる「縦の論理」ではなくて、個も類も種も横倒しにして平等にしてしまった「論理構造」として理解して、西田、田辺、西谷に共通の柱を通す、という昨年度の後期の特殊講義から始めた作業(今年の後期も前年は全く時間不足だった西田の部分をやります。今年夏の西田哲学会でも発表予定。完成したら「日本哲学史研究」に投稿させてもらうよう上原さんにお願いしてある)に発展させた。

で、この term, term logic の見方、伝統的論理学をちゃんと知っている人には常識で、オリジナルとして主張しては駄目なんだろう、それを西谷の空・回互連関に結び付けたところだけがオリジナルだと思っていたのだが、ポール・ロワイヤル論理学や、19世紀を中心にして、様々な伝統論理学の教科書を見てみると、どうも、それほど明瞭には理解されていなかったように見えて来た。

おそらくボンヤリとは理解されていて、分かっていた人には、当たり前と思われていたのだろう。しかし、明瞭な言葉で図まで使ってハッキリ言いだしたのは、僕が始めたことと思っていいらしいことがわかり驚いた。

で、11ページの集合名辞の説明を、どんな風に読み違えていたかというと、「集合名辞(collective term)は、特称名辞でも、通称名辞でもありえる」、つまり、G7 は集合名辞で、その意味は、the group of G7 でも the nations of G7 でもあり得るというような話なのだが、これを「特称名辞と通称名辞を合わせて集合名辞という」と誤解して読んでいた。その誤解を元に書いた講義資料が、これ

実は、Hoare さんが、変な言葉の使い方をしていて、Record Handlingの 1.3 節で、The objects of the real world are often conveniently classified into a number of mutually exclusive classes, and each class is named by some collective noun, s.uch as “person”, “bankloan”, “expression”, etc. と書いている。"people” なら良いのだが、"person” は、集合名詞 collective noun ではない。集合名辞を集合名詞と結び付けて理解していなかった僕は、それに気が付かず、「僕の意味集合名辞」として理解して話してしまい、それで川西君は「えっ?」という顔をしたらしい。Hoareさんの間違い(ここでわざわざ collective nouns という必要ない。Plural nouns と書けば十分)と、僕の間違いが重層し、それに川西君が否定的に反応し、それに僕が気が付く、という契機が触媒して、見つかった事実。まあ、発見とは、こういうものですね。実に面白い! :-D

で、それが契機となって、全体が明瞭になった。とはいっても、伝統論理学やらヨーロッパ言語文法における名辞、名詞の分類は、非常に曖昧に見えるし、納得いかないというところがどこかにある。恐らく、多くの日本人には、そうなのでは?この辺りが、西田の出発点の一つではないのかとも思うのだが、そうなると、結構、良い議論ポイントを探し当てていたといえそう。

いずれにせよ、この誤解は、大々的に言い立てて、修正せねば!まず、来週の特殊講義、その後で、今も出している2014年の月曜日後期の資料を修正。また、今年の月曜日後期では、伝統論理学の教科書をもってお extensive に survey して、その上で、自分の見方として提示する必用あり。このテキストが役立ちそう。ようするに、僕のATTTのアイデアはラッセルの記述理論から来ているのだな… (昔、Logic of Partial Term というものを考えていたが、その型理論版だった。) :-D

#ところで、今年の前期は、この特殊講義もそうなのだが、間違いと発見とか、自由な視点をどうやったら持てるかとか、
#そういうことに関心をもって、僕の講義を聞いてくれている人たちが何人かいる。その関連でいうと、この事例は、新たな発見が間違いを伴う形で生まれ、
#しかし、間違いを伴いながら、それには重要な発見があり、しかも、数年も間違いの部分に気が付かれないままに、それは進化を続け、
#ある小さな契機により、間違いが見つかり、しかも、間違い部分だけを切り離すことができて、むしろ、残ったものは、
#当初思っていたものより大きなものだった、という事例。実は、学者をやっていると、すくなくとも、僕の場合は、
#何か、手応えあるものを見つける場合の大半は、このパターン。大半と書いたが50%よりは少ないかもしれないが
#それに近いくらい多くある。で、ポイントは、学生さんの「えっ?」というような表情のように、どんなに小さなことでも、
#見逃さず、「徹底的に違和感の払拭を試みる」こと。大抵の場合には、何もない。たとえば、学生さんの誤解だったりする。
#しかし、極たま(このケースでは4,5年たっている)、大きなことが見つかる。
#そして、こういうことが起こるために、大変に大事な条件がある。それは「自分の間違いを素直に認めてしまう」こと。
#この場合は、おそらく2011年から2014年まで(おそらくと書いているのは、2011年の講義資料に該当する部分がないため。
#同じ尾崎の資料を使っているのは確かなのだが、集合名辞の説明をしてない可能性がある。黒板に書いた記憶がぼんやりとは
#あるのだが…)4年も間違えたことを講義していたことを素直に認める必要がある。ただ、それは、僕の見方が、
#昔からあったというのが間違いとなるだけであることに注意。つまり、新しい重要な見方を獲得したと主張するには、
#2011年から4年も、本当につまらない誤読をして、それを講義していました、と素直に認める必要がある。
#大きな主張のために、恥をさらさねばならない。間違いを見つけたら、ドンドン認めるべきは、学者の倫理
#として当然なのだが、そうでなくとも、こういうこともあるから、間違いの恥をさらす、などという
#のは気にせずに、ドンドン認めた方がよい。これは、そういう間違いを認めても、そんな失敗を軽々と乗り越えて、
#自分は進めるんだという、自信、あるいは、矜恃でもあるのです。若いころは中々できませんが、その内、できるように
#なりますから、それを目指して努力しましょう。 :-)


2015年3月28日(土曜日)

また間違えて書いてしまった…

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時24分28秒

もうすぐに新学期が始まるので、準備のためにKULASISのシラバスを見ながら、講義の構想を練っていたら、また、人文社会科学を人文社会学と書いてしまっているのを発見(前期、月曜日5の特殊講義「ITと哲学の相即」)

僕は人文科学という言葉が嫌いで、必ず人文学というようにしているが、これが社会科学と合わさると、さすがに人文社会学ではおかしいので、仕方がないので人文社会科学と書くことにしているのだが、良く無意識に「科」を取ってしまう。これは今まで何度もやってしまった間違いだが、今回もやっていた…

シラバスを既に読んでいる学生さんたち、単なるケアレスミスですので、誤解の無い様に願います。


2012年2月19日(日曜日)

来年度の追加アイテム(2)

存在とは「もの」とは?

「ものづくり歴史観」「ものづくり論」の観念性・狭小性。

形而上学的なものが存在かどうか。
ゲームを行う時、このアバターは実はCGが生成した
画素のパターンで…と考えるかどうか。それでゲームが
できるかどうか。DeNAのモバゲーのCMを見せる。
http://www.youtube.com/watch?v=rf5MpFxZyKY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=yVHd0LT5zjU
http://www.youtube.com/watch?v=I6UXRZPBl8o&feature=related

ゲームができないならば、Wordはできるか?アイコンの認識は?
ものとは?世界観とは?

アイコンと数や円、点、を比べてみよ。


田辺とBeck: 西谷,Habermas

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時45分25秒

両者の思想の類似性を西谷、Habermasによる説明からし示す:
西谷:「西田幾多郎」p.222の三の直前:先に言ったような、相対有としての自己の実践において絶対無が
絶対否定として現成するという思想を突き詰めてゆけば、そのような絶対媒介の立場に当然帰着するのである」
として refer されている話全体。
Habermas:ベック「<私>だけの神」,pp.100-101の引用。元は政治エッセイ集,
pp.229-230


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