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2014年8月6日(水曜日)

この数日で考えたこと

Labyrinth of Thought 2章の翻訳作業を開始。著者はスペインの
科学史家フェレイロス。

この人の手法は僕の手法によく似ている。

それで思ったのだが、フェレイロスや僕がやっているようなことは、
数学史ではあるが、より適切には数学思想史と呼ぶべきだろう。

つまり、数学に興味があるのではなくて、むしろ、それをやっている数学者の
ものの考え方に興味がある。だから人間関係とか、手紙とか、日記とか、
未発表原稿とか、講義資料とか、そういうものに大きな興味を持つ。

僕の場合は、特にそうで、数学の歴史を理解したいのではなくて、それを通して「近代」を
見たいのであって、専門の一つだと言っている数学の歴史は手段に過ぎないとさえいえる。

元が、一応は数学者だったので、ある程度まで数学をちゃんと理解する能力があり、
それが人文学者としての強みになっているから、情報技術史とともに、
それを多用しているが、もし、元が生物学者だったら生物学史を使っていただろうし、
物理学者だったら物理学史を使っていただろう。
#同じことが生物学でできるというのは、Reenchanted Science を講義してみて実感した。
#ユクスキュルの存在は大きい。しかし、ヘルムホルツの存在を考えると、おそらく物理でも
#同じことができるはずだ。エホバがいれば必ずルシファーはいる、ルシファーがいれば
#必ずエホバがいる。ただ、ユクスキュルにあたる人がいるのか、だれになるのか、
#物理を知らない、僕は解らない。丸山君が解明してくれるかな?

昨日(5日)は以前調べておいたワイルの哲学関係の講演などをまとめた本を読む。
キンドル版なので、たちどころに手に入るがのがうれしい。これが大変に
面白い。ニーチェ、キルケゴール、ディルタイ、ハイデガー、ヤスパースなどに
まじり、シェーラーも出てくる。この人がブラウワーを、この系譜でとらえていた
ことは明らか。1949年の Man and the Foundations of Sciences という
未発表のマニュスクリプト。この中で、ハイデガーの Sein und Zeit の思想を、
英語圏の人々に何とか解説しようと延々と語っている。

「ゲーデルと数学の近代」に関連して、Mind&Nature, Kindle版、コロンビア大200年祭のパラグラフ17が面白い。

Last but not least, I have seen our ideas about the foundations of mathematics undergo a profound change in my lifetime. Russell, Brouwer, Hilbert, Gödel. I grew up a stern Cantorian dogmatist. Of Russell I had hardly heard when I broke away from Cantor’s paradise; trained in a classical gymnasium, I could read Greek but not English.9 During a short vacation spent with Brouwer, I fell under the spell of his personality and ideas and became an apostle of his intuitionism. Then followed Hilbert’s heroic attempt, through a consistent formalization “die Grundlagenfragen einfürallemal aus der Welt zu schaffen” [to answer the fundamental questions of the world once and for all], and then Gödel’s great discoveries. Move and countermove. No final solution is in sight.

フォン・ノイマンの「変心の系譜」と並行して、これも使うこと。

他の面白い点を記録:

  1. I have wasted much time and effort on physical and philosophical speculations, but I do not regret it. I guess I needed them as a kind of intellectual mediation between the luminous ether of mathematics and the dark depths of human existence. While, according to Kierkegaard, religion speaks of “what concerns me unconditionally,” pure mathematics may be said to speak of what is of no concern whatever to man. It is a tragic and strange fact, a superb malice of the Creator, that man’s mind is so immensely better suited for handling what is irrelevant than what is relevant to him. I do not share the scorn of many creative scientists and artists toward the reflecting philosopher. Good craftsmanship and efficiency are great virtues, but they are not everything. In all intellectualIendeavors both things are essential: the deed, the actual construction, on the one side; the reflection on what it means, on the other.Creative construction is always in danger of losing its way, reflection in danger of losing its substance.

今朝(8月6日…)は後期の特殊講義準備のために西谷のニヒリズムのシュタイナー
のところを読もうと思って全集を読み始めて、むしろ、リアリズムとの
関係に目が行く。以前、読んだときには理解できていなかったが、
シェリング、キルケゴールなどの西谷の意味でのリアリストの位置づけと、
上のワイルの construction を重視する人たち、というのは同じ。

西谷のは、明らかに、西田の純粋経験とダブっている。で、西谷の意味のリアリスト
たちはヘーゲルのイデアリズムを通ってリアルに接続する運命にあった
という点を読んでいて、自分の立ち位置をようやく理解。
#また、これは上に書いたワイルの哲学の議論と完全に連動している。
#ただし、飽くまで西谷は哲学者の、ワイルは数学者の立場にたって
#語るため、見かけ上は、かなり異なるのだが…

要するに僕が哲学に最終的には違和感を持つのは、この点。つまり、僕の
ようなプラクティスもやっている人間には、これは哲学の範囲の中で
哲学でできないことをやろうとしている無謀な、まるで、気持ちの問題により、
*安易に*太平洋戦争に突入した大日本帝国の行為のようにみえる。
#太平洋戦争突入が、犹澆爐忙澆泙譴名況”に置かれたからだ、
#などという*言い訳*は、僕は絶対に受け入れない。人間は這いつくばって
#でも生きるべきだ!!

だったら、歩き回れ、蹴っ飛ばせ!、と言いたくなる。

で、実際、僕は、そういうときは歩き回るし蹴っ飛ばす。

ただし、それだけでは危うい。僕は、ワイルの

Creative construction is always in danger of losing its way,
reflection in danger of losing its substance.

に共感する。そして、これはウェーバーの理想型の思想でもある。
だから、ウェーバーが好きなのだな。


2012年1月26日(木曜日)

次は美学だ!..???

廊下で、たままた、美学の吉岡さんに出会ったので、迷惑かとはおもったが、講義でやっていた、
美術・建築におけるモダニズムと数学のモダニズムの関係について、僕の意見をどう思うかを聞いた。
で、興味をもってもらえたようで、素人美学ながら、案外、いい線いっていたらしい。
僕が、学生さんたちに話していた内容は、メインストリームのモダニズム(?)解釈らしく、
グリーンバーグのものだそうだ。驚いたのはハウスドルフが文学者(?)であることを
吉岡さんが知っていた点。美学などでは有名なのかも知れない。それともポストモダン
の方かな?

原稿を書いたら、読んでもらえることになり、大変に嬉しい!! :lol:
で、調子に乗って「次は美学をやる!」と言って八杉に笑われた。(^^;) :hammer:


2011年10月9日(日曜日)

ゲーデルは有名になったんだなー!!

金曜日に5年ぶり位の(4年か?)全学共通の講義初日。
岩波新書「ゲーデルと数学の近代」をこれで使う予定だったのだが、まだ、4分の1くらいしか書けてないので講義をしながら書くという感じ。系代表も忙しいが、SMART-GSにえらく時間がかかる。しかし、使いたいという人が増えているので頑張らねば…

学生から理学部で評判になっている(?)という噂を聞き、急遽大きな部屋に変えてもらい、履修者数も無作為抽出で100名にしてもらったが、立ち見が30−40名か?その後の演習で、僕の研究室の学生が「入ろうとしたが多すぎたので諦めた」と言っていた。125名入る部屋だが、3列がけの真ん中を座らないので、こういうことになる。しかし、真ん中に座っても少しはあふれたろう。

前回は、理系文系両方に分類したし、文学部東館の階段教室だったからか、文系の学生も、それなりに多かったが、今回は吉田南キャンパスの教室で、文系分類のみの講義にしたので、想像通り殆どが理系の学生。手を挙げさせたかんじでは、多分90%くらい。

同じく手を挙げさせて驚いたのは『ゲーデルという人を知っている人』という質問で80%位は知っていたこと。僕が学生のころゲーデルなど知っている人は極少数だった。ここまで有名になっているとは思わなかった。ゲーデル自身の話はあまり必要ないのかも。

日本でゲーデルを有名にした人として柄谷行人さんを紹介したので、『柄谷行人という人を知っている人』も聞いてみたら、せいぜい5%位。パラパラという感じだったから、もっとすくなかったかも。殆どが理系学生ということもあろうが、時代の流れを感じる。実際最近の学生はポストモダン・ニューアカというのがあったということを、文学部の学生でも殆ど知らない。まあ、学問ではないから、当たり前と言えば当たり前。

ブランクーシはさらに誰も知らなかったような…聞いてみたわけではないが、鳥の飛翔を見せたときの反応から、そう思う。まあ、僕も最近まで知らなかったし…(^^;)


2011年5月8日(日曜日)

身体論・人間学から種の論理へ、そして数学史

種の論理が、その直前への身体論、心身論から生まれたという竹花さんの講演を「善の研究」出版100年記念の会議で聞いたときは、
大変おもしろい指摘で、田辺が、これに関連して後に自分の病気が種の論理の契機なったと書いたことの理解として(これが僕には
何か全然わからなくて、咽喉のかかった小骨状態だった)大変良いと思っていたのだが、どうも、そんな軽いものではない。
7,8日の引用から明らかなように、処女論文からあった志向性が、この段階で、ほぼ明らかになり、まだ、理論(論理)構造を
つかめていないが、その条件は、ほぼ、すべてそろっている。欠けているのは「社会」というタームぐらいだろう。
しかし、すでに「共同体」まではでている。そう考えるとシェーラーの Wissenssoziologie は大きな契機だったのでは?
面白いのは、すでに弁証法が完全に前提となっている点。これはやはりマルクスなのか、それとも純粋哲学的動機のほうが、
大きいか。全集4ではマルクス主義の姿が見えない。マルクス主義・弁証法との対峙と、全集4で示された性の哲学の
理論化=論理化=被媒介化の方向と、田辺が弁証法研究に傾倒したという、この二つのほぼ同時に起きている(前者が
一応は後だが)歴史的プロセスの関係がわからない。これ大きな興味深い問題。

風邪で寝込み中に、竹花さんにもらった論文別刷りを読んで気になり、竹花さんが参照していた全集4の諸論文を調べた。
その結果わかったことをメモッたのが、5月7−8日の投稿。その纏めが上のメモ。

要するにWeylの1921年の危機論文、Ueber die neue Grundlagenkrise der Mathamatik
http://www.scribd.com/doc/49885193/Hermann-Weyl-Ueber-Die-Neue-Grundlagenkrise-Der-Mathematik
がひとつの例である、第一次世界大戦前後のドイツ思想界の激動と変化を田辺の人間学はみごとに反映している。
単にマルクス弁証法への対峙で種の論理の発生を説明するのは間違い。

今まで調べてきた様々な分野の歴史・思想史研究間の関係が、すべて関係。要するに現代の西洋哲学の2分の弊害により
見えなくなっているウィルヘルム2世朝からワーマール共和国にかけての激流のようなドイツ思想史の問題。数学基礎論史は、
そのひとつのエピソードとなる。(ただし、重要なエピソード。)

関連するもの:
1.数学(基礎論)史
1.1.Gray, 林の近代性の視点からの数学史
1.2.
2.思想史。主に科学・数学に関連する思想史
2.1.Michale Friedman, Alfred Nordmann 系統の研究
2.2.これらは、いわゆる科学史や科学哲学どいう「専門分野」とはずれているが、
 Friedman, Nordmann eds. の proceedings(?) に GrayとLuetzenの
 論文があるのが、これに道をつけている。
3. 思想史
3.1.Herbert Schnädelbach, Bambach など。
4.そして日本では京都学派。
4.1.今は田辺のみだが、九鬼、三木、戸坂、高坂など、特に第2,3代世代への関連は?
 時期的に岩波の哲学講座昭和6年が手懸かりとならないか?これらの著者が多く書いている。


2010年12月11日(土曜日)

Corry の Modernism in Math 批判

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時56分05秒

Corry がGray,Mehrtensを批判している:"How Useful is the Term ‘Modernism’ for Understanding the History of Early Twentieth-Century Mathematics?”, Unpublished Manuscript - Forthcoming http://www.tau.ac.il/~corry/publications/articles/Math-Modernism.html

これで、 「現代数学をモダニティの観点からみる新しい数学史の流れがうまれつつある」という主張をしやすくなった。 :-)

Corry の論点のいくつか:

1.modern math の時代を数学の modernazaiton と考える widespread agreement がある。p.1
2. most historians は Modernism を意識しつつ研究をすすめる。しかし、final accounts を書くときには、まだ深く考える
べきだ、改善が必要だ、と思って、それを表に出さない。しかし、2つの例外 two glaring exceptions がある。
それが Mehrtens, Grayだ。p.4
#まさに、その通り。例外が、二人だけだと Corry が思っているということは、大変ありがたい情報!
#書いていたとおり!! :-D

3. こういう historiographical あるいは conceptual な考察をするとき、歴史家は、(1)パースペクティブにより、
歴史をよりよく理解しようと狙っている、(2)それを例にする事により、概念の方を逆に洗練しようとしている。
p.4
#賛成。要するに理念型を用いた研究ということ。

4. Gray, Mehrtens のような研究が、数学史に何か新しいインサイトをもたらすか、それが問題だ。p.6.

ここで、Gray は数学史研究者に自身を限定している。そのため3の(2)が議論から落ちてしまっている。
一方で、僕の研究は意識的に(2)をターゲットにしている。(1)をやるときも、(2)のため、と自己規定している。
だから、ヒルベルト研究のような純粋数学史の場合も、ロングレンジでは(2)の研究、つまり、近代性理解のため
と割り切っている。これは僕の研究のモチベーションとして、数学以上に情報技術の歴史社会学が重要であるため。
ただ、まだ考えが足りないと思い隠している(3のCorryの説明どおりに行動しているわけだ ;-))ので、
ぼくの学生を含めて、それが他の人には見えない(ただし、見る人が見ればミエミエのはず)。

5. 数学と、Gray, Mehrtens が modernism を考察した、literature, art, music は、本質的に異なる
所がある。それを無視して議論はできない。むしろ、自然科学、特に相対性理論のような modernism を孕み、
それが専門分野をこえた影響を持った物理学が、考察のスコープに入るべきだ。p.7を中心に、p.11くらいまで。
 
6. Modernity を論じる場合、数学、芸術だけでなく、数学、自然科学、社会科学、芸術、哲学、のように
スコープを広げて考えるべきだろう。p.11

正しい! ただし、科学技術、特に情報技術が、リストから抜け落ちている。僕の視点は、
近代性を、数学(ヒルベルト研究)、技術(情報技術、標準化、生産工学とその歴史)、
経済(Nathan Rosenberg の経済・経営学史をWeb2.0,i.e. Google, Amazonまで拡張),
哲学・思想史(田辺研究、更に広くは、日本論理学導入史、新カント派などのドイツ思想史)から
構築されているので、構成要素の選択が少し違うだけで、ほぼ同じ考えといえる。

Corry のものは問題提起だが、僕のは、すでにかなり研究が実質的に進んでいて、
Corry の問題提起に、一部、答えを与えている。特に、
ウェーバー,ギデンズ社会学の近代化論で理論化されている点、がそれにあたる。

ただし、それが数学史理解に何か新しい視点をもたらすかどうかは、
議論の余地があるだろう。そういうつもりでやってないので、
そのなっているかどうかわからない。
ヒルベルト研究は、そういう概念枠が必要ないほど具体的かつ文献学的。
そういう歴史観が僕に常に問題意識をなげかけ、それが新しい史料的
エビデンスの発見や既存資料の新解釈に繋がっているのは確かだが、
結論は、 Modernity の概念枠無しでも歴史学の意味ある研究成果
になるように構成してあるので、Modernity というカンバンを必要としない。

研究の方向としては、相互関係を社会学理論だけでなく、
歴史学、特に文化史、教育史、思想史により、
歴史学的相互関係、つまり、どのように、同じ Zeitgeist を、
それぞれが反映しているかを示すという
大仕事が残っている。これは、本当に巨大な仕事になるだろう。
また、確かに Corry が言うように、自然科学史の視点が必要だ!
とても、生きている間には完成できない。小出しにしなくては! :-)

その第一歩が「ゲーデルと数学の近代」になるわけだ。
しかし、やはり英語で世界に出すべきだな。


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