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2016年10月30日(日曜日)

京都から北軽井沢へ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時01分06秒

田辺の昭和20年7月の京都から北軽井沢への移転について、調べて分かったことを記録。

実は、かなり前に分かって一度ブログに「書いた」のだが、操作ミスか何かで書いたものが消えた。

その後、色々な締切やら2週間近く続いた咽喉風邪などで書けず今日まで来てしまった。

昨日で、漸く、哲学研究に寄稿を依頼された「西田幾多郎田中上柳町旧宅について」の校正が終わったので、これを書く余裕が生まれた…

と、書きつつ、もう夜も遅いので、概要だけ書き、それにもとづいて、明日にでも詳しいデータを記録。

9月24日のエントリ「西谷啓治と田辺元」で大島のエッセイを色々と引用したが、この大島の文章がかなり間違っていることが判明。

ひとつは京都から北軽井沢への移動について、田辺が珍しく哲学以外のことなのに日記に書いているのを見つけたこと。

もう一つは、昭和20年7月の国鉄の時刻表の復刻版を手に入れて、大島の証言の矛盾が明らかになったこと。

大島の京都から北軽井沢への田辺の転居についてのエッセイは、そのイベントより遥か後に書かれていて、時間についての confusion が相当にあるらしいことがわかった。

簡単に纏めれば、大島は、同年7月のある日の朝、京都を立ち、その日の内の午後に北軽井沢に到着したかの如く書いているが、これは間違い。

このころ、全国で国鉄の急行は東京門司間の一往復のみ。特急は皆無という状況。おそらくは燃料不足が主な理由だろうが、軍用列車の優先、米軍の攻撃など、色々な理由があったはず。

いずれにしても、昭和20年7月の時刻表によれば、こういう状況下で、最短ルートの中央線経由をとったとしても、その中央線が、一日に4往復しかないという状況。

田辺夫妻、大島、西谷の4名が京都から群馬県北軽井沢に向けてとったルートは、京都から名古屋まで東海道線、名古屋から塩尻まで中央線、塩尻から篠ノ井まで篠ノ井線、篠ノ井から軽井沢まで信越本線、そして、国鉄軽井沢の向いのある新軽井沢駅から北軽井沢まで、草軽電鉄、という経路であったことは、おそらく大島の記述どおりだろう。

田辺の日記には、大島が書いたような完全なルートの記述がないが、田辺の記述は、大島の記述と矛盾しないし、昭和20年の状況からして、他の可能性は考え難い。

ただ、田辺は、朝に京都を出立し、あくる日に北軽井沢に到着と書いている。

大島のエッセイが、「田辺元 思想と回想」の中の一編として出版されたのが、1991年。

大島が亡くなったのが、1989年で、大島の原稿を元に返事達が最終版を書いたらしい。

たとえば昭和が平成に変わる1989年に、その原稿を大島が書いたと想定すると、44年前の出来事を記憶をもとに再現して書いたことになる。

つまりは、還暦を過ぎた大島が、自分の20代の出来事を書いている。

還暦を過ぎた我が身として、考えてみると、そんなに正確に日時を思い出せるとは思えない。

まあ、そういう能力を持つ人もいるが、晩年はアルコールが過ぎたのではないかという人もいる、大島の場合は、おそらくは、質的出来事は記憶に強く残りながら、日時の様な量的な記憶が曖昧になっていたのだろうと思う。

あるいは、大島の死後に、大島の原稿を編集をした人たちが、昭和50年代の感覚で、大島のテキストを勝手に変更していしまったことも可能性としてはある。

しかし、ひとつの日の間に移動することと、一夜を経て移動することには、質的と言っても良い差があると言える。

その様な、質的差異を、何故、大島の記憶は混同してしまったのか?

もし、駅のベンチで一夜を過ごす、あるいは、途中下車して旅館かなにかで一夜を過ごすということがあれば、質的出来事として、記憶に残る可能性が高いが、それへの言及がないのである。

それが疑問だったのだが、昭和20年7月の中央線の時刻表をみて、その理由と思えるものが判明。

名古屋からの、一日4往復のみの中央線の最後の列車が夜汽車なのだ。

京都から名古屋への東海道線の列車の時刻を見ても、おそらくは名古屋駅に到着して、そこでかなり長時間を過ごし、その後で、中央線の最終列車に乗ったと思われる。そして、その最終列車が夜汽車なのである。

今は、贅沢な寝台列車は別として、夜汽車というのは無いのではないかと思うが、僕が20代だったころには普通にあった。それは、今で言えば深夜の長距離高速バスのようなもの。

昼の連続として、昼間に来ていたものと同じ衣服のまま、列車の椅子の上で一夜を過ごす。そして、早朝、目的地について、そのまま活動を始める。それが「夜汽車」である。

学生時代に、夜汽車を何度も使っていた経験からすると、その様な「夜」は、前の夕刻や、次の朝に連続している。

僕の場合だと、次の日の朝に連続的につながっている。

おそらく、これがほぼ半世紀の時間の後に、大島の記憶を錯誤させた原因だったのであろう。

ということで、大島の錯誤の原因と思われることのみ書いて、その詳しい所、史料ベースの詳細記録は、次回!


2016年9月24日(土曜日)

西谷啓治と田辺元

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時58分54秒

今、日本哲学史専修の紀要に投稿する「西谷啓治と田辺元」という論文を書いていて、そのために久しぶりに「田辺元 思想と回想」(筑摩書房、1991)を読む。これに昭和20年に定年退職した田辺が、その夏、京都から北軽井沢大学村の山荘に疎開というか、引っ越すときの情景が書かれていたと記憶していたので、それを論文で引用するために調べるため。

この論文は、実は田辺と西谷の間柄が、西田と西谷の間柄より、遥かに親密であり、実は哲学の理論上でも、西谷に「否定的」な意味で田辺の影響があることを示すというもの。西谷と田辺は、西谷が波多野の退職の後に講師となってから、非常に多く議論したらしい。しかし、その割には、西谷の哲学に、田辺の哲学の直接的影響の形跡を直接的に示す証拠は、ほとんど見られないのだが、面白いことに、最晩年の「空と即」には、田辺を意識したとしか思えない用語の使い方などが多くみられるのである。そういうことを書いている。

田辺と西谷の議論の逸話を最初に読んだときに印象的だったのが、田辺は、そのころ病気がちで、毎日、一日の半分位は寝込むほどの状態ながら、京都から北軽井沢まで、田辺と西田の二人が延々と哲学の議論をしていたということ。

数年ぶりに、その本を読み返してみて、この田辺とその夫人の京都から北軽井沢への移住の際の逸話の著者が、大島であったことが分かった。また、西谷による田辺についてのエッセイも、数年ぶりに再度読む。この数年で、京都学派への理解が各段に深まり、以前、読んだときの印象と大きく違い、沢山の情報が得られたという気がする。

まだ、当時の時刻表など調べてみないと良くわからないのが、北軽井沢に、まだ日があるころに到着している点。学生時代、普通を乗り継いで、東京から広島県の郷里まで帰るということを何度かやってみていたが、その経験からすると、もっとかかったのではという気がしていたのだが、日本の内陸部、つまり、中央線などを使い、京都から北軽井沢まで移動すると距離的には案外近く、東京と広島県との距離より随分近いのに気が付く。

その京都から北軽沢へのルートが気になっていたのが、田辺が東京の焼け野が原を見ていたかどうかという点。大島の記述から、やはり中央線を通るルートで、田辺は出身地の東京の米軍の爆撃による焼け野原を目撃していないことが分かった。これは、そうではないのかと思っていたが、一方で、東京より酷かったとも言える名古屋の焼け野原は見ていた可能性が高い。

正直に言って、日本の京都を除く、大都市の焼け野が原を見れば、太平洋戦争というものが、この日本の伝統に対して犯した限りない罪が見えるはずなのだが、そういう気持ちが戦後の田辺の著作に一切見えない。そのことが、僕には非常に違和感としてあって、きっと、昭和20年の日本の大都市の惨状を、田辺は見ていないのではないかという仮説を立てていたのだが、これはどうも間違い。

どうも、田辺や西谷は、そういう惨状を無視する人たちであった可能性が高い。それは大島が岐阜当たりの駅舎がB29の焼夷弾で燃えているのに驚いている様に、田辺、西谷が、しょうがない奴だという風な顔をして、大島の様を一瞥し、自分たちは哲学の議論を続けていたという大島の記述からわかる。明治人の特質か?

いずれにせよ、久しぶりに「田辺元 思想と回想」を読んだことにより、西谷と田辺の人間的な近さが、間違いなく確認できた。
それにより、京都学派の文化史的な理解は、まだ、殆どなされていないのだという感を強くする。


2016年6月18日(土曜日)

北軽井沢のひぐらし

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時33分00秒

今日は、本当に久しぶりで北軽井沢大学村を訪問。群馬大学田辺記念館の撮影をさせて頂く。

帰りに田辺記念館の管理人をされている茂木さんのご厚意で、僕の連れ合いの実家の八杉山荘を訪問。

多分、10数年振りだが、心配していたよりは、状況は良かった。

岳父が健在のころ、四人で八杉山荘の母屋から満月を仰ぎ見た時をおもいだす。

日暮らしが鳴いていた。山科のひぐらしとは歌い方が違うような…


2015年5月21日(木曜日)

藤田正勝さんの種の論理論文

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時01分24秒

水曜日5限の講義に向かう直前、教室がある建物の前で藤田正勝さんと久しぶりに会う。
講義直前だったのだが、岩波「思想」2015年第5号No.1093に掲載されたばかりの『「種の論理」はどのようにして成立したのか―田辺哲学の成立への道―』という論文の別刷りを頂いて、それを読んで、「田辺研究も、ここまで来たのだな」と感慨深かったばかりなので、講義の開始時間が迫っているにも関わらず、つい話し込んでしまった。お蔭で講義開始が3分ほど遅れたが、そんなことはどうでもよい。むしろ、僕が藤田さんと、そういうことを「話さずにはいられない」という、その気持ちの方が、本当の学問というものを育む。

と、思ったから、何故遅れたか、講義に出てきてくれている学生さんたちにも話した。あまり詳しく話さなかったので、伝わっているといいのだが…

という懸念があるので、このブログを書いている。学生さんたちの中に、このブログを読んでいてくれる人がいると良いのだが…


2013年11月18日(月曜日)

2013年11月田辺文庫(群大)調査&撮影

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時12分39秒

2013年11月田辺文庫(群大)調査&撮影メモ

1.手帳とノートが中性紙のボックスに入った。他の史料の置き場所が変わったらしいが
 週末でバイトの学生さんしかおらず、その場所を聞けず。後で、お礼&確認のメールを土師さんに送ること。→ 2013.11.26追記:燻蒸中と判明。
2.ScanSnap SV600での初めての史料撮影。その結果:
2.1.解像度が思ったより低く、自分の研究程度には十分かもしれないが、EOSやプロのカメラで
 撮影している京都学派アーカイブの既存の写真との落差が大きすぎて使えない。
2.2.実際にたくさんの画像を撮ってみると、試にスキャンしたときの印象と違い、スキャン速度が
 遅い。通常、1日には500枚くらいは撮影するだろうから、1枚が1秒以下か数秒かは大きな違いを
 作る。
3.昭和20年代の手帳の撮影のみを行ったが、この程度では60センチ台の撮影用支柱で十分。
 綺麗な画像がとれる。ただし、天井灯の光をふせぐために考えた白のボードは機能せず。結局、
 天井からの光の遮断は行わずに撮影。うまくいかなった理由:光が強すぎる。おそらく白いボードによる光の
 散乱と屋根を付けることによりランプが近づきすぎたのが良くなかった。また、ランプが近づきすぎるために、
 無反射ガラスにランプが映り込む(ただし端のみ)など。
4.この3に反して、SV600付属の撮影用の黒い「背景マット」FI-V60BP
 http://www.pfu.fujitsu.com/direct/scanner/detail_cable_v60.html#a
 はカメラの撮影においても大変有効。
4.1.今後、このマットを撮影に用いる。切り込みも支柱撮影の場合はちょうど良い。
4.2.携帯可能な撮影用の箱を、スチレンボードと、FI-V60BPと同じような材質の黒い布で作ることを考える。
参考 http://www.qidenus.com/product/smart/
5.手帳のページめくりによる置台の上下について:片方を下げ、もう一方を上げるというの諦めて、
 左のみ下げたらどうか?摩擦の少ないシートを両方に変動する量を左のみに2倍積み重ねておく。
 右には1倍の高さになんでもよいから置いておく。そして、左にページを繰って行くと左が上がり
 過ぎるので、左のシートを引き抜いていく。右が史料の厚み分だけ上がっているので、後は引き抜いて
 いくだけで最後まで高さをほぼ平坦に保てる。ただし、史料面の高さは変わるのでフォーカスを変えない
 といけないことには注意。
  摩擦の少ない比較的廉価なシート http://www.haikanbuhin.com/shopping/detail/60342/?gclid=CPu0i5Cc7boCFQPipAodxDQABA
6.昭和20年代の手帳を撮影。その内容について。
 番号は群馬大図書館田辺文庫手帳の通し番号
#49 S22.2-5月
 #50 S22.6-8月
#52 S23.1-6月
#51: 1948(S23) 1948.10.22-24という記述が本文最初の行にある。しかし、税の計算などなく、
  あきらかに日記ではない。後のものと思われるタグがはられてあり、「哲学入門草稿?」と書いてある。

  おそらく、#50と#52の間のS22.8.9−年末までの日記は失われている。
 他の手帳の間にも同様の切れ目はないか?
 #53 1948.7-9月
 #54 1948.10月-1949.2月
 #55 は夫人の住所録とみられる
#56 1950.1-3月

 ここでも1949.3-12月が失われているのか?それとも日付は田辺元本人のものではない?
 悉皆調査を行うこと!!
7.#56に集中して西田哲学への考察。Nov.22のページ(記載日とは関係なく手帳の項目の日付)には
 「西田哲学対論」というタイトルのようなものもある。田辺の発表論文・書籍との対応をとる。


2013年9月15日(日曜日)

田辺と西谷

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時05分20秒

後期特殊講義のシラバスが、どこか気に入らなかったのだが、
前期特殊講義の関連で始めた西谷啓治研究のお蔭で、その理由が判明。
事務の方には申し訳ないが、シラバスを更新予定。

後期講義は「危機の時代の思想家たち」がテーマなのだが、
問題は「何が危機だったのか」を簡単な言葉で説明することが
できていなかった点。これが西谷哲学を使うと、「ニヒリズムという
危機」として綺麗に説明できる。

西谷のニヒリズムの思想はニーチェ以来、繰り返されている思想の系譜
にのるものだが、それを説明する文章の明晰さが、僕の知る限りでは、
他に比べるものがない。そうそれが僕の言いたかったことなんですよ、
という感じで読んだ。やはり、この人は凄い。

これが解れば、「ハイデガー哲学が徹頭徹尾詩から生まれ、
田辺哲学が徹頭徹尾数理から生まれた」という彼の文章の
意味が実によくわかる。この立場から、すれば、ハイデガーも
田辺もニヒリズムなのである。

で、面白いことにゲーデルの歴史観の文章が、ほぼ、この西谷の
ニヒリズム論と同じ論調のこと。ただし、西谷の意味からすると、
ゲーデルの立場もある種のニヒリズムとなる。そこには
M.フリードマンの意味での parting ways がある。ゲーデルは、
西谷がいう「世界」*から一歩も出ない。そうなると、その世界には、
H.Weylがいう Perle が確かにある。しかし、宗教学者西谷の立場からすれば、
その様な淡水の海の Perle は真の Perle ではないのだろう。
数学者はある意味では、この世を生きていない。アルキメデスの死の
逸話がその象徴。クロネッカーの Ueber den Zahlbegriff のトーンが、
そして、ヒルベルトの1930年の講演が、それを良く物語る。

*この用語は、田辺の「図式世界」の「世界」
とほぼ同じ使い方。ただし、田辺が「存在と時間」以後、世界図式の
中の時は、外延的なものでなくハイデガー的になると言っている
ことに注意。彼は divide されてないから。これに反して、divide
されながらも、その division にこそ最大の問題を見る西谷がいう
世界は、田辺の言葉では外延的世界だろう。ただし、「存在と時間」
をニヒリズムの完成とみる西谷の立場からすると、田辺の「内包的世界」
も西谷の「世界」なのかもしれない。ここは調べる。

田辺が見たハイデガーの内包的時間も、西谷には、すでにニヒリズムの
産物。ハイデガーは、これを否定したようだが、どうも西谷の
方が正しい。死に至る時間という形式から倫理性を生み出そうとすると、
結局は 内包のWissenschaft になる。Wissenschaft は、どの様に
足掻いて、努力しても、本質的に外延的・形式的となる。
この構造は、ゲーデルが無限集合論を「右」と呼び、公理的集合論
まで「右」と考えていたように思われる点と重なる。

これは結局、ハイデガーが Sein und Zeit で、哲学が、心理学などの科学(諸学)
に解体されると書いたことに当たるか?しかし、淡水の Perle は、本当に
真の Perle ではないのか。もし、人間のすべてが Lotophagen ならば、
確かに社会は文明は滅びる。しかし、それ故に、数学者を lotus-eater を
呼ぶことも不自然だ。クロネッカーやヒルベルトの楽観には、確かに根拠が
ある。これは自分が数学者だった経験があるからか?一人の数学者がオルテガ・イ・
ガセットの意味で大衆となっている場合、末人と呼ばれるにふさわしいだろうが、
完全な Lotophage は大衆とは程遠い、たとえば、ゲーデル、小平。
この様な数学者を末人と言えるか。ニーチェの意味では?ウェーバーの(引用の
意図の)意味では?…


2013年3月31日(日曜日)

メシアンとドゥルーズの関係を間違えていた

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時44分01秒

澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について―田辺哲学テキスト生成研究の試み(二)―のメシアンとドゥルーズのセリーの関係の記述は間違いだろう。もとはヘーゲルあたりかと思っていたが、今朝、伊藤さんの最近の新書でベルグソンの項目を読んでいて直接にはベルグソンだと知る。これを知ったら、澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について―田辺哲学テキスト生成研究の試み(二)―を書いているときに、メシアンがドゥルーズの素だと信じてそう書いたものの、その歴史的根拠を検証しなかったことに気が付いた。メシアンもドゥルーズもベルグソンなどの「歴史主義」に影響されたと理解する方が遥かに自然。その作業仮説で調査中。

で、どうして、安易にああ書いてしまったか、今となっては、全く自分自身を理解不可能。あれを書いていたときは、そうとうに「追いつめられて」いたので、ブラウワー、ホワイトヘッド、メシアン、ドゥルーズの類似性に気が付いて、全体がパッとつながり視界が開けためだろう。多分、こういうのが哲学的直観で、哲学としては、もしかして、あの論文で一番評価されるべきポイントなのかもしれないが、思想史で、それをそのまま使っては駄目だ。反省。

もう少し調べてから修正予定。ただし、この同型性は、思想史論文としても、田辺のシェリング的な絶対弁証法と、ドゥルーズの違いを明瞭に描くためには重要なので欠かせない。歴史的には間違いか根拠薄弱なのだが、説明のためのレトリックとしては本質的。ここが僕の理解・解釈が入る処。メシアンのセリーがドゥルーズのセリーの由来だという記述を、メシアンのセリーでドゥルーズのセリーを説明する or 理解する、に変えればよいだろう。ベルグソンからの由来や、この二つの思想の何らかの歴史的関係性を言えれば、それで十分だろう。最大のポイントは、ドゥルーズの様な立場だとスピノザ的に神が世界を演奏してしまうと言う思想に自然に結びついてしまい、田辺とは違うという解釈にあるのだから。

これは「自由」の概念をどう理解するかと関係していて大変難しい問題。実際、実存主義的に言えば、神が演奏していようと実存には関係なく、それは自由とみなせるのだが、しかし、ブラウワーの自由選列にすでに決定論を見出す田辺にとっては(ブーレーズが音列を選べるのだから創造性があるのだと主張したらしいが、これの対極。田辺的な音楽だと、さっき演奏した音は良くなかったので変えます、というような音楽になる。 :-()自由ではない。ここが田辺哲学の複雑なところで、田辺は「図式世界の軽視」に、どうしても傾いてしまうハイデガー的実存主義を批判し、「絶対」を想定して、これは決して手放さないのだが、同時に個の「自由」も死守しようとする。この両者を融合させると、殆ど、論理的必然性として、個の自由な選択・行為において絶対が顕現する、という「絶対還相」、つまり、懺悔道以後の切断概念に行きつくことになる。戦前の種の論理だと、この切断が「種」のレベルで起きていて、それは別の言い方をすれば、絶対である類が、国家として、この世にすでに顕現している(権現、菩薩のようなもの。神の代理店。神そのものではない)という、戦後、田辺が間違えていたと「種の論理の弁証法」のイントロで書いた思想に「留まって」いる。しかし、懺悔道で、この種が方便という名で、類と個の媒介、メディア、通信媒体の地位に落とされ、個と類が直接に切断で関わることになる。で、絶対も個を契機としなければ行為を現出できないと考えることにより「個の自由」が確保される。しかし、これも外延的に考えれば、スピノザ系の世界観と何ら区別ができない。つまり、位相モデル的な思想が簡単に作れる。そういう意味で、田辺はハイデガーの「世界の軽視、無視」に哲学的には反論ができない。ただし、個人の生き方のレベルで、この両者は大きな差をもたらす。しかし、田辺の人生はむしろハイデガー的だった気がする。ここが、僕が、この人を理解できない点だ。なんだが、畳の上の水練をものすごく真面目に懸命に命をかけてやっているというイメージ。即物的な僕としては、そんなことやってないで、溺れるかもしれないけど、兎に角、水に飛び込めばいいじゃないの、と言いたくなる…


2013年2月2日(土曜日)

完全版「澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について―田辺哲学テキスト生成研究の試み(二)―」

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時01分16秒

京都大学大学院文学研究科日本哲学史専修紀要「日本哲学史研究」9号、2012年10月、pp.23-74
林晋「澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について―田辺哲学テキスト生成研究の試み(二)―」
検索可能PDF(透明テキスト付画像)、修正あり(修正1:三二頁での節の説明の間違い、修正2:同一性を中心にした論理、同一性論理を、一貫して「同一論理」と書いていた。これはシェリングなどの「同一哲学」という用語と混同していた。これをすべて「同一性論理」に修正。また、一か所、同一性論理に基づく哲学という意味で、同一哲学、という言葉を使っているところがある。これは削除。)

出版後、4か月が経過したので、完全版を公開します。公開を許可頂いた、京大文日本哲学史専修藤田教授に感謝します。


2012年12月13日(木曜日)

誤解

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時25分29秒

月曜日に白眉セミナー(水谷さんの応用倫理のセンターと共催)のデジタル人文学
(デジタルヒューマニティーズとか人文情報学と言われることが多いもの)の集会で久木田さんが
SMART-GSについて講演、僕は講義で出られず、懇親会だけ出席。

その懇親会で、僕のことを田辺研究者として知ったという人がいた。うれしい。 :-)

「田辺をやっている人がいるのかとびっくりしたが、調べてみると
デジタル人文学とか色々やっているのが分かって….」というようなことを
言っていたが、如何に田辺が忘れられているかの証拠。

その後、たまたま、今夜、著者の一人からいただいた、金森修編「昭和前期の
科学思想史」を見ていて、金森さんが(ちなみに面識はありません)、
「田辺元をつぐはずだった下村寅太郎」という表現をしているのをみる。

金森さんは新カント派に言及しているのだが、おそらく、新カント派も、
田辺も、ちゃんと読んだことはなく、「田辺は日本最初の科学哲学者」という
流布した理解をそのまま使ってしまったのだろう。田辺は確かに日本の
初期の「科学」哲学者なのだが、科学を括弧で囲ったように、
この科学哲学とは、新カント派マールブルグ学派の意味での
科学哲学なのである。

しかも、それに善の研究あたりの西田の思想に基づくことにより、
マールブルグの「論理主義」に依拠しながら同時に反発したの
が田辺の「科学哲学」なのである。

新カント派マールブルグ学派の「科学哲学」は、その祖 H. Cohen を、
B. Russell がボロボロにくさし、それにCohenの後継者Natorpが真面目に
答えようとしたように、現代の科学哲学とは、似て非なるものなのである。
それに近い現代でもよく知られたものをあげるとすれば、おそらく
極めて逆説的ながらハイデガー哲学しかない!(ウームなんたる皮肉!!!)

下村は、金森さんが書くように確かに晩年に科学哲学を逸脱していくし、
僕の論文で何度か書いたように、田辺を否定する。しかし、それは下村が、
本質的に合理的で、田辺の持つ「闇の部分」を、おそらくは感じながらも
理解できなかったからではないかと思う。この「闇」を的確に理解した人
が西谷啓治であり、下村は西谷に比べると「合理的」すぎる。つまり、
田辺の本質を、なんにも理解できてない。あるいは、見えていても理解
したくない人なのである。

そういう意味で、下村と田辺ほど異質なペアは京都学派の中には、
おそらく他にない。これに比べれば、田辺と戸坂、そして、田辺と
三木というペアが、どれだけ共鳴していることか。田辺が三木の
女性関係を嫌ったので三木を避けたなどという理解が広まっている
ようだが、確かに田辺ならば三木の女性にたいするルーズさ
は嫌ったであろうが、田辺が女性を嫌いだとか、理性ばかりで
熱情がないなどというのでは全くない。鎧を着ている人なので
(これは久野収の表現)それが見えないだけ。それは、晩年の
プラトニックラブの相手、野上弥生子の日記で読める田辺に対する
評価がなによりもよく表していると思う。

それらに比べても、さらに深い対が田辺と西谷。
西谷は田辺に、その性根にある自然科学性に辟易して
(うん?本当かな?西谷を調べる必要あり!)、
限界を見出しながらも、
田辺の最大の理解者だったと思う。

その一つの理由は、田辺、西谷の夫人たちが、
仲がよく、それによる家族ぐるみの
付き合いという、田辺としては稀有のことが
あったことが、あるのだろう。
#おそらく田辺にとって夫人の存在は何よりも
#大きかったはず。田辺は夫人が亡くなったとき
#「妻が私を救ったのです」
#と言って涙したという話さえ語り継がれている。

西谷が回想した、自分の子供たちが
田辺家で遊んでいるのを、田辺が、それを怒りも
せずに覗いたというエピソード(子供達は
田辺を大変恐れたらしい。その一人が西谷祐作)は、
田辺の性格からすると驚くべきことのように思える。

おそらくは、子供のない田辺にも「おじいさん遺伝子」が
出現したのだろう。これを初老になった僕は実感として
感じる。最近、特格、なんでも、子供がかわいい!
自分と何にも関係がなくても、子供、赤ちゃんというだけで、
可愛い!

僕は昔から、子供好きだったが、田辺と同じく、
こどもがいない僕の場合、甥や姪にその対象は限られていた。
しかし、今、状況は、自分でも驚く程で、兎に角、
子供だ、ということだけで、体の芯の部分から、
「カワイイー!!!」と反応してしまう。
#ほとんどお婆さんの状況。
#もともとがおばさんおじさんだったので。 :-)

前立腺がんでホルモン治療をしているので、
完璧色気抜きのお爺さんになっているということもあるだろうが、
(なんでも色事に根拠を求める人がいるが、それが
間違いだということを経験しているこのごろ。
実に得がたい経験だ。うれしい!!!)、それ以前からも、
そういう傾向があったので、要するに、これは、
お爺さんになった人に出現する性向なのだろうと
思う。実に、おもしろいし、ある意味楽だ。

人間の本質は、やはり、シェーラーが言うように、
欲望とかいうものとは違うのだろう。


2012年10月2日(火曜日)

今年の「日本哲学史研究」

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時56分23秒

僕の、中沢新一・澤口昭聿多様体哲学批判論文が掲載された、今年の「日本哲学史研究」を頂く。
ひとつ前の巻頭論文が、岡山の行安先生の論文であるのがうれしい。僕の西田・田辺記念講演の
際のもう一人の講演者だった方。なんでも定年後の方が、著作数が多いとか。西田や田辺のようだ。
僕も頑張ろう。岡山弁だったが、僕は尾道なので、その点でも感じがよかった。
その行安先生の研究テーマとして知られるT.グリーンの思想が、最近の僕の研究に
関連を持ちそうなのも面白いし、何か、うれしい。

僕の論文は書いているときから、やたら長いな、とは思っていたが、
印刷されてみると、本当に長い。よくこんな長いのを出版していただけ
たものだと思う。藤田さんに深く感謝。

しかし、人の思想の批判なので、変なことを書いてはいけない。
丁寧にやるしかないので、これ位の長さが必要ということだろう。
もう批判論文はできたら書きたくないな。あまりうれしくないし….
しかし、随分苦労しただけあって、結構な自信作。

このブログに貼れるのは、2月以降。4か月経過したら、ということらしい。

そうだ多様体哲学というものがあるので、「フィロソフィア・ヤポニカ」
という本を読んでみては、とすすめてくれた中戸川さんに論文を
送らねば。沢口さんは中戸川さんの
学位の主査だった。中戸川さんは、沢口の哲学には辟易していたらしいが、
その気持ちはよくわかる。しかし、中戸川さんは沢口が、最初の
多様体哲学の提案者だとは知らなかったらしい。実に因縁めいている。

田辺の「公理主義」や、北軽井沢の、野上と田辺の話といい、
どうも僕の京都学派研究は因縁が多い。
京都学派の哲学者たちの霊に呼ばれてたりして。 ;-)


2012年8月30日(木曜日)

情報の宝庫 二つの田辺文庫

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時46分19秒

2012年1月号「思想」の田辺史料紹介記事。公開を許可いただいた岩波書店に感謝します。


田辺元の「数理哲学」

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時42分29秒

2012年1月号「思想」の田辺哲学論文。公開を許可いただいた岩波書店に感謝します。


2012年6月12日(火曜日)

田中煕

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時22分55秒

書籍名  社会哲学から政治哲学へ
著者名  田中 煕
著者紹介 大正15年京都帝国大学文学部哲学科卒。昭和4年から西山専門学校教授。昭和4年同志社女子専門学校講師。12年高田専門学校教授。15年台北高等学校教授。17年台北帝国大学助教授。21年関西大学教授。22年立命館大学講師。23年京都大学講師。36年同志社大学講師。39年(京都大学)文学博士授与。46年関西大学名誉教授。西山短期大学教授。
発行社  田中煕博士古稀記念事業会
総頁数  244
定価・頒価  非売品
発行日  昭和46年12月10日 1971
判サイズ(mm×mm) 211 150
貸出料金 480円

http://library.main.jp/index/jst31276.htm

自伝的もの
http://ci.nii.ac.jp/els/110004640761.pdf?id=ART0007357162&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1339428112&cp=

広辞苑に「分有」あり。普通に使われる言葉(だった)か?


2012年6月10日(日曜日)

西哲叢書 弘文堂

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時50分23秒

金2演習で山田さんが調べてきた田中著「シェーラー」は田辺の監修の弘文堂西哲叢書の一冊で、佐藤省三の「コーヘン」もそうだった。そして、ライプニッツを下村が、下程がフッサールを書いている。

これについては、これの、3.2.1に引用されている言語学者泉井久之介の著書の序言に情報がある。

田中のシェーラーでは teilhaben が分有と訳されているらしい。


2012年6月3日(日曜日)

西田・田辺記念講演会 藤田正勝講演

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時24分47秒

2012の西田・田辺記念講演会の藤田さんの講演を聞いた。

昨年まで特殊広義に出席させてもらっていたが(今年は担当している講読とぶつかり出席できず残念)、
その内容とほぼ同じで新味は無いはずなのだが、数年の間に藤田さんがその研究を発展させながら話した内容を、
1時間余に纏めた形で聞くと多いに違う印象で、特に田辺のドイツ留学から以後のタイムスケールを僕は正確に
つかめていなかったことがわかった。

で、兎に角、大変に面白かった。講義で聞いているときから、「おおっ!極めて慎重な人が随分大胆なことを言うな」
と驚いていたが、纏めて聞いてみると、これは大変な研究で、田辺と西田の関係の通説を否定する、実に大胆かつ
真っ当な提言。確実で真っ当なものは大胆になれる。

宗教学の杉村さんの質問への回答にあった研究方法の示唆とともに、これは今後の日本哲学史研究の行方を
決定づける重要な提言だと思う。土日は大学には極力出ない方針にしているが、今日は出て本当によかった。
藤田さんの後任がどうなるのか心配だが、藤田さんのような学者としての実力のある人が来て、この路線を
継いでくれることを願う。

善の研究出版後の百年が過ぎ、西田に加えて田辺の著作権がもう直ぐなくなる。また、戦後、田辺や京都学派に
貼られたレッテルから自由な世代の研究者が主流となってきた。京都学派研究は、こういう時間の問題で言えば、
これからが始めて中立的研究が可能な時代に入る。つまり、正当な学問としての京都学派研究は、これから
始めて可能なのである。西田、田辺、九鬼、和辻、朝永、三木、戸坂、西谷、高山、….,この多彩な
人脈を考えれば、これからの思想史、文化史、哲学史、哲学を担う若手にとっては、京都学派研究は、
大きな可能性を秘めた領域だろう。

そのためにも旧時代となりつつある第2次世界大戦後、特に戦後民主主義の時代以後の京都学派観を
根底から見直す必要がある。


2012年5月11日(金曜日)

思想論文の公開可能日

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時37分45秒

「思想」1月号の二つの文章をWEB上に公開してよいと岩波に言われた期限は、半年以後=7月6日以後。
日本哲学史研究の掲載は11月ころか。


2012年4月10日(火曜日)

テンソルの哲学者田辺元:「澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について」脱稿

カテゴリー: - susumuhayashi @ 17時30分27秒

2013.02.02更新。完全版の公開を始めたので、こちらのPDF論文も完全版に差し替えました。
(完全でない場合はキャッシュの影響である可能性が大。その場合は、こちらを見てください。)

「日本哲学史研究」に投稿の「澤口昭聿・中沢新一の多様体哲学について田辺哲学テキスト生成研究の試み(二)」を漸く日曜日に脱稿。疲れた…..

直ぐに書き終る予定が何ヶ月もかかってしまった。この間、微分幾何学、力学系、
ドゥルーズ、現代音楽、と色々勉強できました。(^^;)

一番意外だったのが、ドゥルーズの哲学がブラウワーのspread理論(集合論)と
殆ど同じものだった点。翻訳でセリーとかフランス語で格好をつけるから、
分からなくなるので(僕はフランス語できません!)、田辺のように「系列」とか、
あるいは、もっと即物的に「列」でよいのに….

で、これを切っ掛けに種の自己否定の発想の裏に佐藤省三のテンソルの論理
があり、佐藤の「コーエン哲学を微分でなくテンソルで理解する」という
提案から切断が生まれた可能性が高いことに気が付く。見つかっている史料の関連付けと
新たな関連史料の発見の作業が必要。多分、いけそうだ。

その結果、思いがけず、中沢新一さんの「フィロソフィア・ヤポニカ」を部分的に
だが褒めることとなった。大変、予想外。 :-?
やっていると最初の「おもい」とは別の結果になる。これが論理的・合理的方法
の特性。どういう人でも良い所は良いと言わねばいけない。しかし、何度読んでも、
その弛緩した怠惰というべき執筆態度だけは、どうしても馴染めないので、それは
書いておいた。

で、それに比べて田辺の何と緊張感に満ちていたことか。というより緊張感あり過ぎ。
だから「鎧を着た人」と言われたのだろう。その人物がテンソル(伸張子:林の私訳)
をアナロジーとして使って自身の哲学を開拓したという事実は実に面白い。
ある意味で田辺自身が「テンソル」だったといえる。あまりの緊張力に、今にも
張り裂けそうなのだが、鋼鉄の意志力で、剛体のように統一されたままで耐えている。
田辺は「テンソルの哲学者」だったのだろう。隠遁した賢者然としたところがある
西田の人となりにも、そういうところで反発を感じたのだろう(野上に話した、
西田への印象の変化は多分それを意味しているのではと邪推!)。

最初のページだけ貼り付け。Preview! :-D  :hammer: おおげさ!!
2013.02.10更新。完全版の公開を開始しています。そちらをご覧ください。


2012年3月29日(木曜日)

旋回

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時37分18秒

田口茂『「転換」の論理」p.159(岩波「思想」):「旋回」が、ヘーゲル弁証法の時代にすでにある。
全集3、p.199。この時点では、これが悪の自由に結び付けられている。ここで旋回があると、
Voigt への書き込みも、戦前でありえる?

「旋回」にもっと「元」はないのか?


2012年3月12日(月曜日)

『具体的』=直観的=実質的

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時10分33秒

二つ前の田辺の引用での「具体的」の使い方をみると、それが直観的というか、
演繹を経ずに直接にわかるものと読める。

演繹は否定的媒介とはことなる。否定的媒介は、たとえば、失敗により、
ある肯定的事実が「腑に落ちる」こと。これが直観。ブラウワーの
直観ではない。これは実は形式であり演繹。西田の純粋経験などと
同じで、形式が支配する現代へのアンチテーゼであるが、体系性を
得るために、それ自体が形式となっている。うーんと、西田は
体系的でないかも。個人の資質ですね。田辺は過剰に体系的であって、
また、歴史に翻弄されたために(歴史に「否定」(的に媒介)されたということ)、
体系的でなくなって「しまって」いるところがある。
#ハイデガーとかドゥルーズなどは、それを断ち切りたくて、
#ああいう文体になるのかも?しかし、それも結局形式になる。
#形式に抱きついて、しっかり抱え込み、ロデオをするしか、
#形式を超える道はないはず。うん?これギデンズだな。 :-D


翻訳すると!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時59分26秒

p.82 基軸ヴェクトルは分極変位ヴェクトルと同列に置かれるべきものではない。前者は後者の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って前者の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

基軸ベクトルは、おそらく axial vector = pseudo vector = covariant vector。つまり、1−形式。
分極変位ベクトルが、おそらくpolar vector = vector = contravariant vector。つまり、ベクトルというか速度。

訳:1次の微分形式(1−形式)は共変ベクトルではあるが、それは真のベクトルとしての反変ベクトルと同列に置かれるべきものではない。
前者(微分形式)は、後者(速度としてのベクトル)の超越だからである。
すなわち一度テンソルによって場の力学に転換せられた力の力学は、却って微分形式の理論の完成により再びその主体的な
る特色を回復せられ、旋回ヴェクトルの絶対否定たる超越性を発揮するといわれる。

……

何か変…

これおかしい。どうしてだろう。??? :roll:


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