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2016年9月24日(土曜日)

Russell と伝統論理学についてもう少し覚書

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時30分02秒

Russell, The principles of mathematicsにおける伝統論理学への言及で、講義で使えそうなところを幾つか記録:

Claas と class-concept (extension v.s. intension)
Chap. II
B. The Calculus of Classes
§21. The insistence on the distinction between and the relation of
whole and part between classes is due to Peano, and is of very great
importance to the whole technical development and the whole of the
applications to mathematics. In the scholastic doctrine of the syllogism,
and in all previous symbolic logic, the two relations are confounded,
except in the work of Frege*. The distinction is the same as that
between the relation of individual to species and that of species to
genus, between the relation of Socrates to the class of Greeks and the
relation of Greeks to men. On the philosophical nature of this distinc-
tion I shall enlarge when I come to deal critically with the nature of
classes; for the present it is enough to observe that the relation of
whole and part is transitive, while e is not so : we have Socrates is a
a man, and men are a class, but not Socrates is a class. It is to be
observed that the class must be distinguished from the class-concept
or predicate by which it is to be defined: thus men are a class, while
man is a class-concept. The relation e must be regarded as holding
between Socrates and men considered collectively, not between Socrates
and man. I shall return to this point in Chapter VI. Peano holds
that all prepositional functions containing only a single variable are
capable of expression in the form “x is an a,” where a is a constant
class; but this view we shall find reason to doubt.

Categorical proposition についての議論:
命題の基本を subject, copula, predicate で考えるのはおかしい。
動詞を無視している。という議論。
 "Socrates is a man" を、
 Socrates | is | a man ではなく、
 Socrates | is a man と divide する。
Chap. III: Implication and formal implication
§43. Assertions
It has always been customary to divide propositions into 
subject and predicate ; but this division has the defect of omitting the
verb. It is true that a graceful concession is sometimes made by loose
talk about the copula, but the verb deserves far more respect than is
thus paid to it. We may say, broadly, that every proposition may be
divided, some in only one way, some in several ways, into a term (the
subject) and something which is said about the subject, which something
I shall call the assertion. Thus “Socrates is a man” may be divided
into Socrates and is a man. The verb, which is the distinguishing mark
of propositions, remains with the assertion ; but the assertion itself,
being robbed of its subject, is neither true nor false. In logical dis
-cussions, the notion of assertion often occurs, but as the word proposition
is used for it, it does not obtain separate consideration. Consider, for
example, the best statement of the identity of indiscernibles: “If x and y
be any two diverse entities, some assertion holds of x which does not
hold of y.” But for the word assertion^ which would ordinarily be
replaced by proposition, this statement is one which would commonly
pass unchallenged. Again, it might be said: “Socrates was a philo=
sopher, and the same is true of Plato.” Such statements require the
analysis of a proposition into an assertion and a subject, in order that
there may be something identical which can be said to be affirmed of
two subjects.

Termについての議論:Chap. IV: Proper names, adjectives and verbs.
§46. Proper names, adjectives and verbs distinguished
§47. Terms
Whatever may be an object of thought, or may occur in any true
or false proposition, or can be counted as one, I call a term. This,
then, is the widest word in the philosophical vocabulary. I shall use
as synonymous with it the words unit, individual, and entity. The
first two emphasize the fact that every term is one, while the third is
derived from the fact that every term has being, i.e. is in some sense.
A man, a moment, a number, a class, a relation, a chimaera, or anything
else that can be mentioned, is sure to be a term ; and to deny that such
and such a thing is a term must always be false.
§48. Things and concepts
 Among terms, it is possible to distinguish two kinds, which
 I shall call respectively things and concepts. The former are the termsindicated
 by proper names, the latter those indicated by all other words.
§49. Concepts as such and as terms


A relation is not a class of couples

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時43分07秒

Tuple を使うと、アリストレス論理学の Categorical proposition だけで、RDBあるいは Datalog の方法を使うと、述語論理の論理式をシミュレートできるが、

But this derivation (上でシミュレーションと読んでいるもの)fails, as Russell points out, because the selected
couples tacitly exhibit, in the order of their presentation, the very relation they are called on to define.
The notion of relation cannot be reduced to that of class; it must be treated as primary.

という、Skidelsky “Ernst Cassirer” 2008, p.60 の記述は、Russell, The principles of mathematics, Chap. IX,
§98. A relation is not a class of couples を指している。


2015年6月9日(火曜日)

Collective noun, 集合名辞

月曜日の特殊講義で、オブジェクト指向におけるクラス概念の誕生を、Hoareさんの Record Handling の論文(レポート)に求めて、説明をしていたとき、科哲史の川西君が、僕の説明に「えっ?」というような顔をしていたので、何か変な事を言ってしまったかと思って調べてみて、この4年ほど「創造的間違い」「創造的勘違い」をしていたことに気が付き驚く。

木曜日後期の「論理学の歴史」で、少なくとも2011年から、尾崎咢堂の文章の非常に稚拙な読み違いをしていた。それは、アリストテレス論理学の term(名辞) が特称の場合(これの1の意味)に、オブジェクト指向や集合論でいう singleton と解釈する(前者では、singleton pattern で使うインスタンスが一つのクラス, 後者では要素が一つの集合として理解する(すればよい)という立場。つまり、ソクラテスとは、ソクラテスというオブジェクトのみをインスタンスとして持てるクラス、集合ならば、ソクラテスだけからなる集合。この見方は、実は、随分昔にATTTという形理論を作ったときに考えたものなのだが、憲政の神様尾崎咢堂行雄が若かりし頃書いた論理学書11ページの集合名辞の説明を間違えて読んでしまい、すでに明治時代位の伝統論理学の見方では常識だったのだと考えていた。

そして、さらにそれに、term の原語 horos, terminus の意味を利用し、また、西田が西洋的論理を分別(ふんべつ)に基づく論理と理解するところを利用して、伝統論理学を term により、個も、集団も、それ以外と分別して、区切り取ってしまい、塀や壁の中に閉じ込める論理、と理解することにより、ハイデガー流に、論理を拒否する、あるいは、避ける、西谷の回互連関が、実は、一般者、類、種が、上から押さえて来る、あるいは包んでくる「縦の論理」ではなくて、個も類も種も横倒しにして平等にしてしまった「論理構造」として理解して、西田、田辺、西谷に共通の柱を通す、という昨年度の後期の特殊講義から始めた作業(今年の後期も前年は全く時間不足だった西田の部分をやります。今年夏の西田哲学会でも発表予定。完成したら「日本哲学史研究」に投稿させてもらうよう上原さんにお願いしてある)に発展させた。

で、この term, term logic の見方、伝統的論理学をちゃんと知っている人には常識で、オリジナルとして主張しては駄目なんだろう、それを西谷の空・回互連関に結び付けたところだけがオリジナルだと思っていたのだが、ポール・ロワイヤル論理学や、19世紀を中心にして、様々な伝統論理学の教科書を見てみると、どうも、それほど明瞭には理解されていなかったように見えて来た。

おそらくボンヤリとは理解されていて、分かっていた人には、当たり前と思われていたのだろう。しかし、明瞭な言葉で図まで使ってハッキリ言いだしたのは、僕が始めたことと思っていいらしいことがわかり驚いた。

で、11ページの集合名辞の説明を、どんな風に読み違えていたかというと、「集合名辞(collective term)は、特称名辞でも、通称名辞でもありえる」、つまり、G7 は集合名辞で、その意味は、the group of G7 でも the nations of G7 でもあり得るというような話なのだが、これを「特称名辞と通称名辞を合わせて集合名辞という」と誤解して読んでいた。その誤解を元に書いた講義資料が、これ

実は、Hoare さんが、変な言葉の使い方をしていて、Record Handlingの 1.3 節で、The objects of the real world are often conveniently classified into a number of mutually exclusive classes, and each class is named by some collective noun, s.uch as “person”, “bankloan”, “expression”, etc. と書いている。"people” なら良いのだが、"person” は、集合名詞 collective noun ではない。集合名辞を集合名詞と結び付けて理解していなかった僕は、それに気が付かず、「僕の意味集合名辞」として理解して話してしまい、それで川西君は「えっ?」という顔をしたらしい。Hoareさんの間違い(ここでわざわざ collective nouns という必要ない。Plural nouns と書けば十分)と、僕の間違いが重層し、それに川西君が否定的に反応し、それに僕が気が付く、という契機が触媒して、見つかった事実。まあ、発見とは、こういうものですね。実に面白い! :-D

で、それが契機となって、全体が明瞭になった。とはいっても、伝統論理学やらヨーロッパ言語文法における名辞、名詞の分類は、非常に曖昧に見えるし、納得いかないというところがどこかにある。恐らく、多くの日本人には、そうなのでは?この辺りが、西田の出発点の一つではないのかとも思うのだが、そうなると、結構、良い議論ポイントを探し当てていたといえそう。

いずれにせよ、この誤解は、大々的に言い立てて、修正せねば!まず、来週の特殊講義、その後で、今も出している2014年の月曜日後期の資料を修正。また、今年の月曜日後期では、伝統論理学の教科書をもってお extensive に survey して、その上で、自分の見方として提示する必用あり。このテキストが役立ちそう。ようするに、僕のATTTのアイデアはラッセルの記述理論から来ているのだな… (昔、Logic of Partial Term というものを考えていたが、その型理論版だった。) :-D

#ところで、今年の前期は、この特殊講義もそうなのだが、間違いと発見とか、自由な視点をどうやったら持てるかとか、
#そういうことに関心をもって、僕の講義を聞いてくれている人たちが何人かいる。その関連でいうと、この事例は、新たな発見が間違いを伴う形で生まれ、
#しかし、間違いを伴いながら、それには重要な発見があり、しかも、数年も間違いの部分に気が付かれないままに、それは進化を続け、
#ある小さな契機により、間違いが見つかり、しかも、間違い部分だけを切り離すことができて、むしろ、残ったものは、
#当初思っていたものより大きなものだった、という事例。実は、学者をやっていると、すくなくとも、僕の場合は、
#何か、手応えあるものを見つける場合の大半は、このパターン。大半と書いたが50%よりは少ないかもしれないが
#それに近いくらい多くある。で、ポイントは、学生さんの「えっ?」というような表情のように、どんなに小さなことでも、
#見逃さず、「徹底的に違和感の払拭を試みる」こと。大抵の場合には、何もない。たとえば、学生さんの誤解だったりする。
#しかし、極たま(このケースでは4,5年たっている)、大きなことが見つかる。
#そして、こういうことが起こるために、大変に大事な条件がある。それは「自分の間違いを素直に認めてしまう」こと。
#この場合は、おそらく2011年から2014年まで(おそらくと書いているのは、2011年の講義資料に該当する部分がないため。
#同じ尾崎の資料を使っているのは確かなのだが、集合名辞の説明をしてない可能性がある。黒板に書いた記憶がぼんやりとは
#あるのだが…)4年も間違えたことを講義していたことを素直に認める必要がある。ただ、それは、僕の見方が、
#昔からあったというのが間違いとなるだけであることに注意。つまり、新しい重要な見方を獲得したと主張するには、
#2011年から4年も、本当につまらない誤読をして、それを講義していました、と素直に認める必要がある。
#大きな主張のために、恥をさらさねばならない。間違いを見つけたら、ドンドン認めるべきは、学者の倫理
#として当然なのだが、そうでなくとも、こういうこともあるから、間違いの恥をさらす、などという
#のは気にせずに、ドンドン認めた方がよい。これは、そういう間違いを認めても、そんな失敗を軽々と乗り越えて、
#自分は進めるんだという、自信、あるいは、矜恃でもあるのです。若いころは中々できませんが、その内、できるように
#なりますから、それを目指して努力しましょう。 :-)


2015年3月28日(土曜日)

また間違えて書いてしまった…

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時24分28秒

もうすぐに新学期が始まるので、準備のためにKULASISのシラバスを見ながら、講義の構想を練っていたら、また、人文社会科学を人文社会学と書いてしまっているのを発見(前期、月曜日5の特殊講義「ITと哲学の相即」)

僕は人文科学という言葉が嫌いで、必ず人文学というようにしているが、これが社会科学と合わさると、さすがに人文社会学ではおかしいので、仕方がないので人文社会科学と書くことにしているのだが、良く無意識に「科」を取ってしまう。これは今まで何度もやってしまった間違いだが、今回もやっていた…

シラバスを既に読んでいる学生さんたち、単なるケアレスミスですので、誤解の無い様に願います。


2015年2月14日(土曜日)

講義 論理学の歴史など

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時49分24秒

月5(後期)の2回生向けの講義「論理学の歴史」の採点登録が終わり、漸く、今年度の授業関係の仕事がすべて終了。

なぜか、今期(2014年度後期)は、授業準備が滅茶苦茶に忙しく、その理由が良く分からず不思議だった。例年と大きく違うのは、木2の文学部英語(全学科目扱い)がエキストラであったこと。昔から細部を読みたかった Everdell のモダニズム論のオムニバス The First Moderns を教科書にしたが、読んだところがカンディンスキーとシェーンベルクで分かりやすく(とはいえ、音楽のところは僕も分からないことが多かったけれど。それに比べて絵画はわかりやすい。とにかく目に見えるので)、学生たちもおもしろがって良く調べてくるし、僕もそれに応えるべく、この授業にかなり時間を裂いたことが主な理由。

ただ、それだけで、あれだけ忙しくなるわけはなく、もう一つの原因として、水5の「京都学派、ある思想の系譜:西田幾多郎、田辺元、西谷啓治」で、西谷や田辺、そして、西田の関連性と相違を「形而上学的・存在論的(つまりは、伝統論理学的)側面と、政治との関わり」という、今まではあまり議論されていない側面に光を当てて、史料で実証するという特殊講義をやったので、これも忙しさを増したのは当然。もしかしたら、文学部英語より、こちらの方に時間をかけていた可能性も高い。何せ、こちらは、オリジナルな研究そのものなのだから時間がかかる(これは肝心の西田の部分まで十分到達できず、来年度、後期、西田を中心にして再度講義して、それを論文にまとめる予定)。

で、この二つが忙しくて、月5の2回生用講義だけが、だいたい昨年までの講義と大差ない内容で済ましていて、全体として何とかやれていると、自分では思っていたのだが、この講義のレポートを採点してみて、実は、この「例年どおり」と思っていた講義も、実は、例年と大きく変わっていたことに漸く気が付いた。つまり、やっていた講義・特殊講義三つとも、「新しい試み」だったわけ。それは忙しくて当然だ。ただ、論理学の歴史の新しい部分は、水5の特殊講義と連動していたために、なんとなく、これを無視していたらしい。実際、講義をしていて、「あれ?!これどこかで、すでに話した記憶があるけど…」と戸惑うことが何度かあった。要するに、同じ内容を、少し視点を変えて、週に2回話していたわけだ。

水5の講義のレポートのテーマは、「アリストテレス論理学の特徴について思う所を自由に述べよ。特に、terminus の概念を使って、京都学派や記号論理学との関係を議論できたものに高い評価を与える」。このアリストテレス論理学というのは、いわゆる伝統論理学、つまり、ポール・ロワイヤル論理学を意味している。

で、これを今年は、伝統論理学の別名である Term logic の term が, ラテン語で terminus, 古代ギリシャ語の horos のことであり、どちらも柵とか壁の様なものを意味していて、要するに、西田などが使う「分別」という言葉が象徴するものがこれで、西田の用語である「対象論理」は、基本的には、対象 Gegenstand を terminus が分別する論理であるアリストテレスの構想に基づく論理学のことを意味していて、この「分別」つまりは、terminus による「分別性」をいかに取り除くかが京都学派、特に西田、田辺、西谷の「論理(学)」(注1)の目的だったというスタンスに明瞭にたったのが、今年が初めてだったことに漸く気が付いた。この議論は、今期の水5の講義で、西谷に「空」概念と、論理、論理学、ロゴス、理、理法などへの言及(これらは、ハイデガーの用語、Logik, Logistik, logos などとほぼ同じ使われ方がされている)を分析していて気が付いたものだったはずで、水5の講義準備で、それに気が付き、それを月5の講義のアリストテレス論理学の説明に応用し、哲学を知らない2回生にも、わかりやすくするために、こんな図ソクラテスという個
を作成するなどして、自分の考えが非常に明瞭になっている。これは、今から見れば、昨年度まで、というよりは、おそらくは、今年の前期ころまでは、まだ、自分自身でぼんやりとしか掴めていなかった様に思う。それが、今期の水5、月5の二つの講義を通して、はっきりとした形を持ったわけだ。

どうして、これに気が付けたかというと、主に2回生が書いたレポートの大半が、以上、説明したような形を、次の様に、実に明瞭に説明していたから:アリストテレス論理学の最大の特徴は、それが terminus の論理であること、そして、記号論理学は、この特性故に複雑になってしまう複数の対象の関係性の記述を改善するためのものであり、実は、それが成立する過程で、数学の概念が多用された。また、ラッセルなどは、意識的・無意識的に、生物の分類論をモデルにしたアリストテレス論理学が持っていた「動的側面」を排除し、数学のような静的世界に論理学のモデルを変更したが、それにより個は却って、その「内面」を失い、世界は無内容な個の関係性のみで記述されてしまうことになった。一方で、このことは、京都学派の哲学者たちが、アリストテレス論理学に見出していた「問題点」、それを克服しようとしていた「問題点」、そのものであり、彼らは、特に、西田、田辺は、terminus の論理学の構造は、そのままに保持して、しかし、terminus による「分別」を、「峻別」ではないもの、非連続の連続(西田)、切れていて繋がっているもの(田辺)、ある意味で東洋的な「より連続的な分別」に置き換えることにより(注2)西洋の論理(学)、論理的思考を克服しようとした。

この話は、構成要素の、それぞれの理解が大変難しくて、また、それらの組み合わさり方も大変複雑なのだが、僕が書いた授業史料が論文や書籍なみに詳しいということはあるものの、別に哲学志望でない、2回生のかなりの人が、ここまでハッキリ理解してくれていることに驚き、多様体みたいに局所、局所で繋げていっていた講義でありながら、ちゃんと背骨が大局的に通っていたことがわかり、見かけ上は、似ていても、今期の月5の講義は、昨年までのものとは異質であることを漸く理解した。

ということで、今期は、要するに三つも新しい講義をやっていたようなもの。それは忙してくて当たり前だ…、と納得。

これにより、2012年度から始めた「論理学の歴史」は、漸く完成の域に、ほぼ達した。後は、パースやカッシーラなど、横の広がりをつけたいところだが、最終回の質問票に、内容が濃すぎる、通年にしてゆっくりやってほしいという要望があったように、ちょっと、色々と盛り込みすぎた。たとえば、一階述語論理をアリストテレス論理学の基本命題に変換する方法まで書いてしまった。で、記号論理学のそういう話をする度に出席の学生の数が減った。  ;-)

このことからして、一方で、記号論理学のテクニカルな内容などは別として、それの思想史的意味などは、ちょっと驚くくらい2回生でも理解できることを考えると、来年度以後の構成は、こんなところか?:

    • 以下の三つは、講義の骨子として維持:

    • アリストテレス論理学(ポール・ロワイヤル論理学)・ドイツ観念論の論理学=terminus の論理
    • 数学をモデルにした静的論理学としての記号論理学とその特徴
    • terminus の壁を破ろう、消そうとした京都学派
  1. ただし、記号論理学の具体的説明は極力やめて、副読本的な資料(これに、アリストテレス論理学による述語論理学の記述の正確な証明も書いておく)として置いておくだけで、講義では使わない。
  2. 京都学派の論理学の説明で、田辺、西谷への言及を追加、また、関連したもの、あるいは、背景として、レヴィ・ブリュール、ハイデガーやエミール・ラスク、シェーラーの論理学や哲学などに言及。パースの連続の哲学、ベルグソンの持続なども調べて、追加を検討。ただし、これらは、すべて「リマーク」的にする。

注1.西谷の場合は、独自の論理(学)を打ち立てようとはせず、師であるハイデガーのように「論理学批判」になっていて、意識的に新論理学を打ち立てようとした形跡はなく、むしろ、意識的に、やはり師である西田・田辺が行った「新論理学の構築」という路線を避けているのが見える。アリストテレスに始まる伝統論理学的な西洋哲学の思考法・暗黙の前提の克服を目指す「存在と時間」期のハイデガーは 、Wahrheit の意味を「現象学的アプローチ」で entdecken に求めることにより、体系性を排除している。つまり、Dekonstruktion している。その後、Heidegger が、体系構築を行ったかどうか、ハイデガーをよく知らない僕ははっきり断言できないのだが、多分、やっていない。ところが、西谷の場合は、段々と、特に最晩年に至って、仏教的用語を頻繁に使うようになってからは、実質的に体系構築、ただし、緩やかな体系構築をやっている。たとえば、大谷大講義で、西田の信濃哲学会での「私と汝」の図とそっくりな回互的連関の図を基礎として、家族中のコミュニケーションを論ずるところ、また、それがさらに「空」の概念の導入で「世界理解」の半ば形而上学となっていっている。その意味では、西谷も、最終的には、ドイツの師ハイデガーとは袂を分かち、日本の師である西田・田辺の路線に近づいていったといえる。これは、戻ったのではないことに注意。西谷は、後期から晩年より前には、独自の「形而上学」を展開していない。

注2.ただし、田辺の場合の連続は、実は対立・否定という連続(ジンメルの相互行為でも対立が入る)。また、西田の場合は鈴木大拙へのはがきが示しているように、明らかに東洋が意識されているが、田辺の場合は微妙。彼は、懺悔道などの時代に、東洋、日本の優位性に言及しているが、実は、こういう考え方は、Bergson, Levy-Bruhl, Scheller, そして、数学の哲学では Brouwer たち、つまり、ヨーロッパの、もっと具体的にいうと仏・独の思想家たちにより、20世紀にもたらされたもの(アメリカの James, Pierce も重要だろうが、よく知らない…)。そして、西田は、明らかに Bergson を意識しているし、田辺は、Bergson, Levy-Bruhl, Scheller, Brouwerのすべてに言及しているし、影響を受けているし、Brouwer などは、種の論理の理論的展開の導き手であったとさえ、論文中で述べている。


2014年12月12日(金曜日)

Everdell, W.R.: The First Moderns

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時45分49秒

今年度後期に全学科目として担当している文学部英語Bの教科書,William R. Everdell の The First Moderns の Kandinsky の章がやっと終わった.20ページもないのだが,学生たちが詳しいレジュメだと高い点をつけるといったこともあるだろうが,どうやら,内容に興味があるらしく,詳しく調べて詳細なレジュメを作るので,英語の講義(演習?)なのだか,ゼミだかわからない様になって,なかなか進まない.まさか2回生がここまで調べて来れるとは思わなかったので,そういう方針にしたのだが,嬉しい様な,困ったような…

いずれにせよ,Everdell の英語は,かなり美文調というか,文学的なので,単純に辞書を引いただけでは読めない.そういう意味では,学生たちには,あまり進まなくても良い経験になるのだろう.ひとつ,驚いたのは,idiom が殆ど Google 検索で調べられる点.何年か前に,英書購読を担当したときには,こんなことはなかったような気がする.これは大変な進化だ.

ただ,学生たちが,そういうことが出来ることを知らず,辞書だけに頼ろうとする人がかなりいるようにみえる.これは驚きだし,高校以下の英語教育に疑問を感じる.辞書程度の文例では,一つの言語を理解するのは無理だ.だから,ほんの少し昔まで外国語のテキストを正しく読むことは本当に大変だったのだが,今はWEBを使えば,かなりのことができる.今日あった例では,”…, there wasn’t much in decorative art that could be called representational,…” の that が decorative art のことだと学生が誤解していたというのがあった.(ただし,この人は,その部分が自信がないと,良くわからないと,ハッキリ言っていた.これは半ば分かっているということだ.一番駄目なのは,自分がわかっていないことが,わかっていないということ.自分が,わかっていないということを知っているのは,場合によっては,単にわかっていることより素晴らしい.)

これは, There isn’t much that I can do,… の様に使われる慣用表現の much と that の間に, in the decorative art が入った文章.これもサーチすると,いくらでも例文が出て来る.ただ,授業中は,自分は正しく読めながら,その根拠を示すことができていなかった.言語はやはり「直観」なのだと納得.しかし,実は簡単でサーチすればよかったのである…ただ,単純なサーチだと駄目だが.

言語の教育は,大きな転換点を迎えているはずなのだが,この保守的な国では,それへの対応ができていないのかも知れない…


2014年11月18日(火曜日)

怒涛の一か月半

常滑市の谷川の会や図書館におじゃやましてから、もう1ヶ月以上がたつ。
その間、森下さんや森口さんから手紙など頂いたのに、お返事も書いていない。
もし見ておられたら、ここでお詫び。大変に申し訳ありません。

遅くなったのは、後期になってから、兎に角忙しくて、人間ドックの予約やら、
インフルエンザワクチンの接種とか、そういうことさえしている暇がなかったため。

忙しさの主な原因は、新学期の講義で、新しいことを三つもやっていることだが、
それ以外に、外部資金関係の仕事にも時間を取られた。三菱財団に頂いたSMART-GS
のTEI対応化の研究費の収支報告は、財団の柔軟な対応と文系共通事務の岩村さんのお蔭で、思ったより楽だっ
たのだが、科研費申請に凄く時間がかかった。

SMART-GSの科研費を狭い意味のテクノロジーの範囲で出していたのだが、
完成に近づきつつあり、もうその範囲では、やることが無くなったので、以前から考えていた、
ある意味一番大事な社会テクノロジーの方向に舵を切ることにした。
つまり、この記事で言っている、古文書のWEB、オムニプレズントWEB
(同時にどこでもがユービキタス、オムニプレズントは、同時にどこでも、かつ、いつでも。
つまり、未来は無理だが、過去の情報資源ならば、ほとんどすべてにアクセス可能という意味)の実現を目指そうということ。

そのための第一歩として、京大防災研・理学部の古地震研究会へ参加している
院生の橋本君や、同会を運営している、防災研究所の加納さんなどとの議論で、
ロンドン大学でやっているベンサムのクラウド翻刻 (crowd です。cloud では
ありません。cloud を使うけれど)で古地震史料翻刻などをやると面白いことに
なるのではないかと考えつつあったときに、常滑の谷川の会を実地で拝見し、
また、森下さんのお母様から参加しておられる翻刻の会のことを伺い、
30代、40代くらいまでの比較的若い人たちが中心のベンサムの crowd 翻刻の場合と
違い、我が国における古地震史料翻刻の場合は、古文書の勉強会、講習会に参加
するような高齢の方たちが実現の鍵であることに気が付き、その方向で計画を練り上げた。

これにかなり時間がかかってしまった。なんせ分野を工学から文化資源保全に変えた
のだから、大チェンジ!その方向転換は、またまた「他力」で、自分で考えたのではなくて、
関西大学の喜多さんに示唆してもらった。それまで、そういう分野での応募など考えてもみなかったので、
自分では考え付くことができなかった。日頃、テクノロジーの箍(たが)を外せ!、と言っているのに、
その自分の頭に箍がはまっていた(^^;)

箍の話は、色々な講演で話してきたが、文章としては、思修館の山口さんの編集で出版の準備が進んでいる本の
9章で始めて詳しく書いた。これが「プレプリント」
要するに原稿の古いバージョン。タイトルも「あるソフトウェア工学者の失敗」と最終版では副題に
なったもののままで、まだ、てにをは、も直してないもの。完成版を見たい人は本を買ってあげてください。
#他人事のように言っているのは、これは山口さんのグループの研究報告集で、僕と
#成城大学の中馬さんは「友情出演」しているようなものだから。

そして、この1ヶ月半の間に、丸山君の白眉採用、溝口君のプロジェクトのグッドデザイン賞金賞、
岩波の互さんから転職の知らせなど、随分色々な目出度いことも続いた。で、実にめまぐるしく、
ほんとに忙しかったなあ。最近にない忙しさ…

と、NF(11月祭)を目前に控え、ここで少し一息つけそうな状況。とはいいつ休めるということではなくて、
締切のある仕事が大体片付いたので、これでNFの期間に積み残しの仕事ができそうという意味。

積み残しの仕事は、山ほどあるが、当面の仕事としては、まず、京都派アーカイブの全面改装の開始。
常滑訪問で互さんから示唆のあった、全国の史料館、図書館などに保管している文書がないか問いあわせるという方向を、
文書での問い合わせと同時に、京都学派アーカイブを、現代の西田幾多郎、田辺元に限定したものから、
京都学派全体に広げ、それを通して史料についての情報の提供をお願いするという方向に再変更。

これは常滑での取材の情報を京都学派アーカイブで公開しようと思って、京都学派アーカイブをデザインしてくれているMMJの松本さん
と議論した結果、現在のデザインが、西田・田辺に最初からターゲットを絞ってもらったものであるために、
この目的にそぐわないと言う結論になり、最初からデザインしなおしてもらうことなったため。今度はスマホなどにも対応予定で、
橋本君が開発してきた JavaScript のツールなども、ふんだんに使うことになる。そういう動きの部分は、
全部橋本君に任せ、彼のサイトという性格が強くなる。ただ、コンテンツは僕が全部書くのだけれど。

と、いいつ、これの試験公開開始までにでも2ヶ月はかかるだろうから、とりあえず、常滑の取材情報を
現在のデザインの範囲でまとめて公開しないといけない。これが、まずやる仕事だな。


2014年10月7日(火曜日)

京都学派アーカイブ更新と講義「論理学の歴史」

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時55分23秒

約2年ぶりに京都学派アーカイブを更新。昭和9年講座の全画像ファイルをアップロード。また、田辺元史料研究会による翻刻の最新バージョンも公開。

2年近く、何も問題が起きなかったので、これからドンドン、各史料の全公開が行われる。取りあえずは、ハイデガーの Ontologie 講義ノートと、手帳(日記)。後者は、その位置が明らかだが、前者は一体何の史料なのか、未だに解らない。ハイデガー全集の Ontologie の巻を文学部図書館から借りて来たのだが、ざっと見ると対応しない。内容まで検討する必要あり。

月5の2回生向け講義「論理学の歴史」が始まり、これで後期のすべての授業がそろった。

今年は、最初目指した高みに少しは近づけた感じ。ラッセルのインタビューや、ハイデガーの論理学講義(Sein und Zeit を準備したと言われるもの)、日本人と論理の葛藤、などを通して、近代化における論理学の役割を分析する。そういう講義になるのだが、今日は、予想外に多くの学生が来ていた。来週は半分くらいに減るか?この講義の場合は、それの方が良い。前期の水5の情報歴史社会学のような広いオーディエンスは、本来的には期待できない内容だから。もし広いオーディンスを得たら、そこで何か道を外してないか考え直した方がよい。


2013年10月31日(木曜日)

来年度特殊講義予定2

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時10分57秒

西谷:回互、田辺:切断の思想の関係論に、西田の「非連続の連続」論も関係づける。
非連続の連続は、おそらく、昭和8年(1933)の「哲学の根本問題」と翌年の続編、で登場しているので、
田辺の種の論理をわずかに先行している。その議論は、田辺の種の論理の種と個の関係とよく似ているが、
よりオーダー(時間順序)に強く注目しているようにも思える。そこらあたりを分析。
彼等を明らかに先行しているのが、シェーラーであり、ハイデガー。また、ベルグソン、ブラウワー。

西田とも比較すべきこと、藤田先生の suggestion。どうもご自分でも考えて
おられたのかも。田辺と西谷の関係は、Rickert の自然科学の限界論への Cassirer の批判
と似ており、西南学派とマールブルグ学派の対比とも関連付けると面白そう。


2013年9月27日(金曜日)

来年度特殊講義予定

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時02分56秒

来年度の特集講義の計画 ver.2013.10.02

1.前期月曜日5の特殊講義
1.1.題名:再魔術化の概念
1.2.内容:1980年代以後に、歴史学、社会学で様々な形で登場した再魔術化の概念を概観し、その再検討と分析を行う。手法は、歴史社会学、および、社会哲学。
1.3.検討対象(増やす)
   Morris Berman history, sociology (social criticism?)
   Anne Harrington history of science
   George Ritzer sociology
   Alan Bryman Organisational and Social Research
など。
  直接、再魔術化と言っていないものも検討。Bryman は、それ。
  日本的経営。感情労働。WEB上の die Materie としての Scheler の
  Wissenssoziologie 的意味での集合知。
1.4.理論化:
ウェーバーのスケール的概念構成からすれば、2分的な、魔術 v.s. 脱魔術
  では世界は説明できないことは自明。しかし、ウェーバーは時間軸の未来を見ることが
  なく、しかも、脱魔術化が最高潮にかかる時代の人で、まずは、その分析が
  急務だったのだから、これが強調されないのは自然。
  しかし、それはウェーバー理論とは全く矛盾しない。
1.5.「再」の意味:
  これは広く言われていることだが、再は、もとに戻ることではない。
  田辺などの言い方での「否定」。肯定的変化。
1.6.ゲーデルの「左右と中央」論を、これに適用すると、現代的数学は、
  最初から再魔術化されていたことになるのか?この問題を解明。
  リーマンとワイルの Perle。クライン。
1.7.ハイデガーの位置: ハイデガー哲学は再魔術化か否か。
  京都学派の哲学者たちの位置は?西谷、田辺、西田、その他の人たち。
1.8.情報と再魔術化: なぜ情報技術は再魔術化を引き起こすのか。
   ハイデガー、ビノグラード。ハイデガーAIも調べる。

2.後期水曜日5の特殊講義
2.1.題名:田辺元と西谷啓治:ある思想の系譜
2.2.内容:
 西田と田辺、西田と西谷が比較議論されることは多い。しかし、田辺と西谷という
 テーマは、殆んど取り上げられることがなかったようの思われる。しかし、この
 二人は、ドイツに留学して同じハイデガーに師事し、その後、ハイデガー哲学との
 対峙が、その哲学の重要な柱となった人たちであるばかりか、西谷の回想からすると、
 西谷の子供たちが、子供がいなった田辺の家で遊ぶなど、個人的にも非常に近い
 関係にあったといえる。この近さは、その夫人同士の人間的近さの故らしいが、
 田辺のS19年の北軽井沢への疎開の際の京都から北軽井沢までの鉄道旅行の際、
 田辺と西谷が二人で間断なく哲学の議論を続けていたという逸話が記録されて
 いるように、その関係は個人的関係を超えたものがあったと考えられる。
  一方で、西谷の田辺への言及には、師に対する敬意とともに、明らかに「冷やか」な
 ものが感ぜられる。「田辺先生には、結局、これは解らぬ」というような西谷の
 田辺への視線が感ぜられるのである。それは田辺哲学の本質を見事の見切っていた、
 田辺に最も近かった、しかも、ハイデガーにも身近に接した宗教的哲学者の視線であり、
 その西谷の態度は、彼のニヒリズム論と密接に関連している。この両者の
 関係を、史料ベースの思想史の手法で解明する。
  西谷の「回互構造」は田辺の「切断構造」に形態的に非常に近い。
 また、西谷ニヒリズム論の「世界」概念も、田辺の図式「世界」論に近い。
 しかし、田辺と西谷の思想の根本的相違は、田辺の世界は、時間がハイデガーの
 時間であっても、西谷には、それはニヒリズムである点。西谷はハイデガーの
 存在と時間の思想さえ、ニヒリズムとする、というより、それこそがニヒリズムの
 頂点とするわけだから、ある意味では当然。
2.3.史料分析:田辺、西谷、書簡。西谷→田辺は下村文書。逆はないか?
 大谷大?特に西谷のドイツ時代と、戦後。
2.4.前置:この話の前置きとして、田辺の切断論の発生史を、新カント派と 
 その没落の思想史の中で説明。なぜ、田辺は、ハイデガーを微積分の哲学を使って
 批判したのか。その歴史的背景。そして、これが西谷の「世界」の概念の理解を
 通せば、田辺への冷やか視線に深く結びつく、ことの説明。


2012年2月19日(日曜日)

来年度の追加アイテム(2)

存在とは「もの」とは?

「ものづくり歴史観」「ものづくり論」の観念性・狭小性。

形而上学的なものが存在かどうか。
ゲームを行う時、このアバターは実はCGが生成した
画素のパターンで…と考えるかどうか。それでゲームが
できるかどうか。DeNAのモバゲーのCMを見せる。
http://www.youtube.com/watch?v=rf5MpFxZyKY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=yVHd0LT5zjU
http://www.youtube.com/watch?v=I6UXRZPBl8o&feature=related

ゲームができないならば、Wordはできるか?アイコンの認識は?
ものとは?世界観とは?

アイコンと数や円、点、を比べてみよ。


田辺とBeck: 西谷,Habermas

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時45分25秒

両者の思想の類似性を西谷、Habermasによる説明からし示す:
西谷:「西田幾多郎」p.222の三の直前:先に言ったような、相対有としての自己の実践において絶対無が
絶対否定として現成するという思想を突き詰めてゆけば、そのような絶対媒介の立場に当然帰着するのである」
として refer されている話全体。
Habermas:ベック「<私>だけの神」,pp.100-101の引用。元は政治エッセイ集,
pp.229-230


来年度の追加アイテム(1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時48分29秒

Surveillance

http://en.wikipedia.org/wiki/Mass_surveillance
日本語項目無し

drones:
NYTimes
http://topics.nytimes.com/top/reference/timestopics/subjects/u/unmanned_aerial_vehicles/index.html
とくに drones による surveillance
SFなどの映画のシーンに結びつける。部屋の中を飛び回るスパイ昆虫。シンドバッドの映画?たしか、他にもあった。
Wikiのhttp://en.wikipedia.org/wiki/Unmanned_aerial_vehicle
引用100超える。日本語は10にも満たない(殆どがリンク切れ)。

オウム平田信(まこと)容疑者の写真
http://aoiumihakodate.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e9f0.html

http://cacm.acm.org/blogs/blog-cacm/146122-most-smartphone-apps-are-spyware/fulltext

http://cacm.acm.org/magazines/2011/12/142547-visual-crowd-surveillance-through-a-hydrodynamics-lens/fulltext


2011年4月14日(木曜日)

今年の情報歴史社会学入門

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時51分39秒

今年の情報歴史社会学入門、昨日が初回。出席者はかなり多いが、例年通り(?)で、高学年や院生の顔も多く見える。なぜか僕の講義は高学年やら院生が多い。難しすぎる?今年は徹底して易しくする予定。理論基盤となる Weber, Giddens 社会学理論が少し難しいが、これも例を中心にして易しくする。他は日本語の文献が少ないのが困るところだが、和訳して配布も考える。

シラバスを書いて以後の展開としては、最近のSNS特に"Twitter革命"の話。つまり、今までの僕の理論は経済、技術、生産に目が集中していたが、政治・思想の問題への視線がかけている。ただい、これは研究自体がほとんどないだろうし、本当にリンクがあるかどうかさえ確かではない。現在の可能性としては、フランス革命期のイデオロギー概念くらいか?田辺の時代の Wissenssoziolgie や、経済学者マルクスの革命の線か?アダム・スミス、道徳感情論やWeberのHerrschaftの話などか?このあたりからならば、丁度、Smith -> Amazon へと似た系譜が、登場人物もあまり替わらずに辿れる。しかし、Babbageは?技術政策論はあるが、政治はあるか?あるとすれば、Ninth Bridgewater Treatise, Passages from the Life of a Philosopher あたりか?

来週はAmazonのFCの報道動画を使って、こういう流通のビジネス用の倉庫が一つマシンとなっている、そこで働くピッカーは「人間でできた部品」であることを説明。他にメガロポリス(1927独,ワイマール時代!)。特に「時計」をコントロールするシーン。現代ならばコンピュータが行なう仕事を行なう部品となっている。Google は文字列検索。では、画像検索は?人間を「画像の一致を判断する素子」として使えばWEBをつかうことにより可能。WEBがマシン。人間が部品。さらにはハトでは?(これの実験の画像さがず。鳥の図形認識能力は人間より高い。それを計測できるということは、それを部品として使えるということに注意。つまり、ハトの判断をセンスできる。ばらつきは入る。しかし、多数決で雑音を消せばよい。)

以上のような話で、人間がマシンを使うのか、マシンが人間を使うのか、という話へ。そして、Google で引き戻す。

講義の最初にマシンと人間の関係を学生に聞いて見る。最後でもう一度聞く?
それともミニッツペーバー?


2010年10月11日(月曜日)

来年度普通講義計画:論理学史&論理入門

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時20分45秒

来年度のというより来年度からの2回生向け普通講義の計画。
前期、後期にわけて、一つは、現在、講義している「アダム・スミス、バベッジを通して Google まで」の話を易しくした「情報歴史社会学入門」。もうひとつが、「論理学・論理学史入門」

項目案
1.アリストテレス論理学(より正確には「伝統論理学」)
2.カント・ヘーゲルの論理学(ドイツ観念論の論理学)
3.新カント派の論理学(Lotzeなど)
4.記号論理学の誕生から数学基礎論
5.明治日本論理学導入史(船山信一の70年代の研究に、小林君や僕の研究結果などを加味)
6.大正・昭和前期の論理学として、京都学派の論理(西田・田辺の論理(学)。
 僕の田辺哲学と『数理哲学』との関係についての論文を含む)
7.1920-30年代の哲学の分断と論理(M.Friedman, A parting of the ways、
 特にカルナップのハイデガー批判)
8.現代の論理学の状況。伝統論理学の衰亡、情報技術・人工知能への関係を重点に。
 ITの科学技術に継承された伝統論理学。

1、4、8 では、極く簡単にだが論理学の具体的内容も講義:
(1)伝統論理学(田辺元「哲学通論」でのアリストテレス論理学の
  説明、つまり存在論まで入れた「論理学」を参考にし、帰謬論にも言及)。
(4)記号論理学(述語論理学、ゲーデルの不完全性定理)、
  特にフレーゲ、ペアノ、ラッセルの体系と現代のものが如何に違うかなど。
(8)論理とプログラミングとの関係。(1)の伝統論理学と、
  オブジェクト指向・ソフトウェア工学・要求工学との関係。要求=目的因。
  主語の論理としての伝統論理学。述語の論理としての記号論理学。
  (4)とプログラミング理論の関係(検証論、カリー・ハワード対応)

時間は5時限目の予定。

この講義はよほど不評でない限り、当分は続ける。
不足しているものとしては、ライプニッツ、パースなど。
しかし、これだけの量を半期でやるのは可能なのだろうか???
5,6,7は、合わせて1.5回程度にまとめる、などの
やり方をしないと無理そう!まあ、入門講義だから、あまり
深く掘り下げられないので、何とかなるだろう。全体は、
すべて関連づけてあるのだから。


2009年12月23日(水曜日)

概説のやり方

来年度の概説で項目を全部羅列したが,後で追加したくなる.特に新しい話題でてきたときがそう.
IEEE Spectrum の Hands On に最近,DIY 関係の話が2つ続けてでた.電動アシスト自転車を
自分で作るという話と,Google Street View のカメラとソフトのシステムを自前で$300程度で
作るという話.より小さくして旅行の際に自分の帽子につけたいというようなことも書いてある.著者は
West Point の教官らしく,米軍でこのシステムを検討しているというようなことも書いてある.軍で
これを行えばすべての兵士が Gird あるいは Matrix に組み込まれることなる(2009.10.09 issue).

これが $300 でできるという点がポイント.カメラのマウントにはダンボールを使っている.ソフトは
open source のものなどをつかい少し scripting しただけ.GPSシステムと Google maps を利用
しているのがポイント.社会システムがあるからこれができる.また,飼い猫にGPSトランスミッターをつけて,
その行動をモニターしたなどいう話もあるが,これも Google Maps にその軌跡が表示される.

現代社会の(a) 一望性への志向(見える化志向)と(b)「万能Turing機械の万能性」と同じ意味での,万能
テクノロジー装置としての標準化されサイバー化された社会テクノロジーシステム(の万能性)の
話など,これらを例にして話すと面白いのではないか.

(a) は (b) を要求し,(b) は (a) を促進する.(b) は蒸気機関の時代に,機械工学装置の万能性
の認識(ケルビン卿,バベッジ etc.)として既に存在した.それが,その時代のSF文学などの発想に
結びついているのだろう.これは「蒸気コンピュータ」や「映画にみる仮想と現実の関係」などの
テーマに結びつけると面白い.

要するに「理屈・論理で組み合わせ的に考えたこと(日本で言うモジュラー思考)が,
実際に現実世界で動く,アナログ的な勘やスキルがなくても,SF的に考えるだけで殆どの
ものが本当に現実世界で機能してしまう(ベルヌの「先見性」.映画の先見性).そして,
また,その部品を素人がホームセンターやWEBサイトで廉価で買えるということ.
一人で作って配信できる音楽,映画,番組(YouTube).
テロリストの巡航ミサイルとしての旅客機(9.11).サリン製造に使われたドイツ製(?)の装置.
そして,設計図をダウンロードして家のガレージで製品を作るというベンチャーの計画(これは(a)の
「欲望」の例.実際に機能するかは「?」).etc.

Giddens の「専門家」の話との整合性は?→「インフラ装置」に専門家の知が埋め込まれている.
その存在さえ見えなくなる?しかし,素人と専門家の垣根も同時になくなりつつある.しかし,その素人は
「素人という候補者群 (farm)」の中の極く一部の才能のある人たちのみ.
本質的選別の問題&J. Horgan の The End of Science での「タヒチ(?)」の議論&
  被教育歴と専門性の分離(?):途中から専門家集団に取り込まれるのが普通

こういうのをシラバスを書いた後に気が付く,あるいは,講義が始まってから,そういう話題が見つかる
という場合を考えて,テーマは optional にしておいた方がよい.1テーマ程度ならば,例外で
良いが,数テーマ分,そうすると予告するのも面白いかも.また,学生からテーマを募集して,
それを少し後の回にやるというのも面白いかもしれない.ただし,これは最初にテーマを募集するの
でなく,少し進んでからやると良い.そうでないと学生が「何を期待できるか」が理解できないだろう.
やってみせて,それへの反応として要望をだしもらう.ただ,2回生向けなので,それはやはり無理か・・・

それから minute paper がよかったという話も学生からあった.


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