Welcome Guest 
メインメニュー
林晋ブログ 最近のエントリ
Blogカレンダー
2018年 1月
« 12月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  
Blog 月別過去ログ
Blog 検索
カテゴリ一
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

リンク
検索

2018年1月14日(日曜日)

食糧は十分!!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時39分52秒

RIETI(経済産業研究所)のAIの社会影響プロジェクトの研究を行っていた際に、
大きな違和感を感じたのが、AIの社会影響を論じる人が、僕を含めて先進国の
状況しか考えていないこと。

世界には、まだ、電気も水も食料も十分でない生活をしている人が沢山いる。

そういう人たちのことを無視して、AIがどうのこうのと言っても無意味ではないのか?

もし、世界の食料生産を世界人口で割った時に、それが飢餓のラインを下回っていたとしたら、
AI議論など問題外だろうと思っていたのだが、今日、それを始めてサーチしてみて驚く!!!

http://www.hungerfree.net/hunger/food_world/
によると、食料の生産高は、現在の総ての地球人口を潤すに十分らしい!!!

なんと、素晴らしいことか!!

しかし、そういう時代に、どうして、飢餓が存在するのか???

そう考えると、IT/AIに可能性が見いだせる。

そうあって欲しい…


2018年1月12日(金曜日)

三年ぶりの返信

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時37分05秒

2014年、Gabriel Finkelstein というアメリカの歴史家による Emil du Bois-Reymond についての著作を見つけ、
購入し、それを、このブログに書いた。

それを、著者の Finkelstein さんが、何かでみつけてメールをくれたので、
幾つか疑問に思っていたことなどを問う返信を送った。

しかし、なしのつぶてだったのだが、この1月3日に返事が来た!!

どうもスパムキラーにやられていたのを、何かの偶然で見つけたらしい。

丁寧な、また、有用な返事で、Finkelstein氏の人柄に好感を持ち、また、学者としての力量が相当ある人らしいと感じる。

面白かったのは、du Bois-Reymond への興味は、M. Friedman の影響かと聞いたことへの返答が否だったこと。

この人の説によれば、du Bois-Reymond への影響が多かったのは、むしろ、フランスの哲学者たちだったらしい。

これはヘルムホルツと大きな対照を成す。

そして、そのことは、今、構築中の新史観と、おそらくピッタリ合いそう。

と書きながら、まだ、Finkelsteinさんに御礼の返事を書いてない。

あまりに、興味深いメールだったので、そう簡単に返事ができないでいる。

これって、旧世代の人間の感覚かなあ?


2017年12月30日(土曜日)

”ものづくり”という呪縛

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時08分56秒

今朝(29日朝)、昨日注文した照明スタンドがもう入荷したとビデオ近畿から電話。迅速!!
しかしながら、大学で閉まっているので、来年取りに行く。1月5日からの営業。この照明で上手くいってくれ!!

昨日、夕飯を作りながらNHKラジオを聞いていたら、池上彰さんの番組で、東大名誉教授の政治学者御厨貴さんなどの数名が座談会風に議論していた。

その中で、「今、儲けているのは、ものづくりの企業ではない」という発言がありながら、「基本はものづくりだから」という発言に、
座談会のメンバーの誰からも反論がない。一人のメンバー(NHKの解説員?)から、ニューヨーク中心地(多分、タイムズスクエア)の
広告が、以前は日本企業のそれに占められていたのが、韓国や中国の企業にとって代わられ、僅かに東芝を残すのみだったが、それも
消えることになっているという発言あり。この人たち、わかっていて、大衆に合わせるために、こういう生ぬるい議論をしているのか、
それとも、本当に、そういう生ぬるい立場を信じ切っているのか……

思うに、「日本の失われた○○年」の原因のかなり大きなものの一つに、「ものづくり神話」がある。
この言葉のために、「ものづくり日本」という言葉のために、日本は変わることができなかった。

太平洋戦争末期でも、かなりの人たち、特に少年期の若者たちが、本当に神風が吹くと思っていたらしい。
それと同じ構造が、今の時代にもある。もう、この大好きな国を見限るしかないのだろうか……


2017年12月28日(木曜日)

これが解決策となるか?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時49分17秒

群馬大での田辺元史料などの撮影の時、一番、困るのが照明。

史料を無反射ガラスやアクリル板などで押さえるのだが、
これに照明が写り込む。特に天井灯の映り込みは最悪なので、部屋の照明は
すべて消して、両側45度の角度に照明を置いて撮影する。

ただ、この際に光ムラが生じて、そのために原稿用紙の罫線消去などの
フィルター操作が不可能ですと業者の技術者に言われることがある。

そのため、群馬大図書館での田辺史料を想定して、
(1)軽い。一人で持ち運べる。
(2)色ムラが生じない
という二条件を満たす照明を見つけるため、今まで
どれだけの照明器具を試みて来たことか…

昨日、放送大学の講義のための収録に来て
下さった撮影会社に教えてもらった、ビデオ近畿という
会社を訪問して、この問題のソリューションになり得る
照明を見せてもらう。

サンテック社というところの製品で、昨日見たものより、
ずっと安い。LED電球が268個使われており、それに細かい穴が大変多数
開いているプラスチック板が取り付けられている、
という構造らしいが、非常に良さそうな光の具合だったし、
それなりに軽量。また、色温度も容易に設定できるので、
即決で2セット注文。

照明パネルのためのスタンドが入るのが1月の半ばになりそうだが、
それまでに調査旅行の予定はないので、全く問題なし!!

これで上手く行くといいのだが…


2017年12月27日(水曜日)

放送大学インタビューの収録

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時49分06秒

26日午後は、放送大学青木久美子教授の「日常生活のデジタルメディア」という講義の
最終回のためのインタビューの収録。

以前だったら、放送大学の事情を見るのに良い機会だと、東京にイソイソと出かける所だが、
最近、色々と忙しいこともあるが、出不精になっているため、京都まで来ていただいて、
僕の研究室で収録。

大阪から来ていた撮影スタッフの方たちが組み立てている照明が、目に飛び込む!

群馬大の田辺元史料には、原稿用紙を半分に折って裏表両面を使うノートにしたものが、
かなりの数あるのだが、広げて撮影するのだが、原稿用紙は、結構広いため、
光のムラなく撮影するのが難しい。

人間の目には、なんらのムラも見えなくても、プロにフィルターをかけてもらおうとすると、
「人間の目では確認できないような光ムラのためにできません」といわれることが
多々ある。そのため、なんとか京都から群馬まで携行出来て光ムラがない照明を求めて、
もう随分沢山の撮影用照明を試したが、未だに、理想の照明器具が見つかっていない。

それが、今日(26日)の撮影のために使われたライト(?)では、LEDが数百ほどならんだ
板の様なものが使われていて、スタッフの方に聞くと、肉眼では認識できない光ムラのことを
ご存じで(さすがプロ!)、この機材だと、そういう光ムラなく撮影できるとのこと!!

それに、それほど重くもなさそう。値段も十分買える範囲。

京都で売っている所の情報を後で送っていただけることになり思いがけない収穫だった!

インタビューの方は、青木先生とも、制作の責任者の園田さんとも、
僕の話を面白いといってくださって、色々と共感してもらえたので、大変楽しかった。

実は、僕の話は、かなりの確率で、意味を理解してもらえないことがある。
特に機械系などの、工学部生え抜きの様な人にはなかなか理解してもらえない。
それどころか反発を受けることも、以前は、良くあった。
まあ、少し語弊があるが、「オジサン」に話すと反発を受けることの方が多かった。

そういう中で、共感してくれる人は、建築とか、デザイン関係の方、
アメリカで教育を受けたり、仕事をした経験のある人に多いのだが、
青木先生は、アメリカでの教育と、教職の経験をもつひとだった。

園田さんは番組制作の方だが、これはデザイン関係の人と同じなのだろう。

それに、お二人とも女性で、兼業主夫である僕としては、現政府が進める女性の
社会参加の関係の話でも、共感してもらえたみたいだった。
#締切が幾つも重なる時、大学での仕事を終えて家に帰り、
#夕食の準備をして、その後、また、仕事にもどるのは、
#体力が衰えて来た僕にとっては、かなりつらい…
#50代位までは、そういう時には、睡眠時間を1,2時間に切り詰めて、
#場合によっては0時間にして乗り切っていたが、残念ながら、もう
#やれなくなっている…
#そういう仕事が、ジェンダーだけで担い手が決まるのは、実に変だ!
#ちなみに、我が家の場合は、ジェンダーではなくて、スキルの差で決まっています。 :-D

今日みたいに、面白がって、共感してもらえると、大変嬉しいため、
例によって、ちょっと喋りすぎた… 

僕は、おばさんみたいな性格で、おしゃべり大好き、な人で、喋りすぎて、仕事をしたいパートナーに煙たがられている。 :hammer:
反省…

この投稿を書きながら、メールをチェックしたら、撮影スタッフの方から、
照明を販売している会社の詳しい情報が来ていた。感謝!!!
:-)

今年度も、そろそろ予算の執行の締切が近づいて来ているので、
明日にでも電話してみよう。まだ、営業しているといいのだが。


2017年12月26日(火曜日)

早朝セミナーと京大らしくない京大

木曜日に産官学連携本部の菊川さん来訪。RIETIのPDP「AIと社会の未来」を見ての来訪とのこと。

京大オリジナルという株式会社ができるが、その事業のひとつが一般向けの講義シリーズで、丸の内に努める30代、40代の人たちをターゲットに、早朝7時台からの4回ものの講義の依頼。

内容は、必ずしもAIでなくてもよかったらしいが、多分、それが一番受けると思い、昨年度の特殊講義でやったAI論をベースにして、現在のAIの実相を暴くというテーマで講義することなった。

パートナーに、「私は70歳まで働いたのだから、あなたも70歳まで働きなさい!」と指令を受けているので、来年度末の定年退職を見据えて、以前だったら断ったかもしれない、東京での講義を引き受けた :-?

グーグルのネコ、東ロボ君、AlphaGo、オズボーンたちの失業予想、など、マスコミで話題になっているものの実相を暴き、最後に、RIETIのPDPで展開した「AIによる能力格差拡大とその社会的意味(危険性)」について話す予定。

この内容ならば、話すことに、それ程違和感はないし、丸の内あたりに勤務している人たちに聞いてもらって、実体の無い日本のAIブームの危険性に気づいてもらうのは良いことだろう。

しかしながら、このテーマに落ち着くまでに、かなり紆余曲折した。その理由は、菊川さんが説明してくれた(株)京大オリジナル、そのものへの僕の違和感。

菊川さんは、京大らしさ、を出したいというので、僕を選んだというが、僕のどこが京大らしいのか不明。

僕の持つ感じでは、京大らしさ、すくなくとも京大文学部らしさというののひとつは、講義の初日に教室に行くと、どう見ても学生には見えない年配の人が前の方に陣取っていて、
講義の前やら後に、自己紹介をしてくれて、文学部の学生ではありませんが、講義を聞いていいですか、と言われること。
以前は、これが、よくあって、お礼だとかで、宇治の茶団子を頂いたりしていたのだが、最近は全く無くなった…

下手をすると、茶団子一包で、わいろだ!などと騒ぎ立てられかねない時代になっているので、当たり前か。

そして、京大オリジナルという会社を作るということは、こういう自然発生的な大学の社会貢献まで、大学オーソリティがコントロールして、収益システムの一部に組み込もうということ。

それが菊川さんが見せてくれた、京大オリジナルなどの資料から透けて見えて、「何でこれが京大らしいのだ?!」という違和感を覚えた次第。京大の京大らしさは、
そういう「権威」を突き抜けるところにあるような気がするのだが……

そのため、菊川さんとの会話の中で「今の京大は、もっとも京大らしくない大学だ」という意味のことを言ったが、この人は動じなかった… なんでも東京の大手保険会社からの出向らしい。

本当に京大は変わった…


2017年12月15日(金曜日)

常識の差

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時55分32秒

現代史の小野沢さんとは、研究室が向いであることもあり、良く立ち話をする。
この人は、本当に優秀な人で、特に博士論文でもある「幻の同盟」()を、
読んだときには、「私は歴史家です」とは二度と言うまい、と落ち込んだ程。
ここまでやるか!?でも、やってる… ウーム。僕は歴史家と言い張って良いのだろうか……

まあ、そういうことはさて置き。トランプはオバマが生んだとか、
色々と二人の研究室前の廊下で立ち話することがあるのだが、
今日は、なかなかシビアだった臨時教授会の「毒消し」の意味もあり、
教授会閉会の後、暫く、二人のオフィスの前の廊下で立ち話。

ITの社会インパクトについての評価は、大きく分かれるが、
トランプ大統領の実現など、様々なことについて話す。
そして、多くの事は同意見。

で、その中で、少し驚いた、あるいは、実は、僕が無知過ぎた、
こととして、ラストベルトの労働者の話しがある。

小野沢さんの様な人にとっては、ラストベルトが、栄えていた頃、
労働組合の力が高まり、マフィア化さえしていたというのは、
常識らしい。

(ここから続きを21日に書いている)

しかし、このこと、というか、アメリカの自動車産業の
組合のメンバーである労働者が、例えばレイオフをされても、
それまでと同じ収入を保証されているほど優遇されていることを、
僕が知ったのはリーマンショック後、デトロイトが崩壊した時の
ことだ。

それを知って、初めて、NUMMIが、日本の工場の
様なパーフォーマンスを叩き出せなかった理由が分かったような気がした。

アメリカ人に幾ら教えても、やはりトヨタ生産方式のようなものは、
日本人の素質、精神がないと実行できないのだ、という風な
論調に違和感を持ちながらも、数字としては、その通りだという
ことなので反論できないでいたが、これで一挙に疑問が氷解した。

そんなに優遇されていれば、向上心は生まれないだろう。
そんな風に、デトロイトの崩壊の後に、漸く僕は日米の差を
納得した。

しかし、もし、小野沢さんの「常識」を知っていれば、
NISTEPの客員研究官時代に書いたものや、調査・研究の
結論も、大きく変わっていたかもしれない。

常識の差というものは怖い…


2017年12月6日(水曜日)

Boston Dynamics とソフトバンク

日本はものづくり大国、世が世ならば日本が世界一、
こういう話を「失われた○○年」の間に、何度も聞かされた。

実は、林も、意識的に、そういう風に書いていたときもある。
まあ、そうやって「勇気づけよう、元気づけよう」としていたわけだが、
最近、もう、この国はダメなのだと、ハッキリ言うことに決めた。

11月26日の「日本のIT遅れ」で書いたように、ようやく、多くの人たちが、
日本のITが世界から大幅に遅れているということに気が付いたようなので、
林の意見も普通に通るようになったようだと思い、そうすることにした。
というか、正直なところ、もう元気づけるのでは、ダメな段階まで来て
しまったと感じ始めたのが大きい。

以上は純粋にITの話だが、最近、急に、世間が本当は日本に優位性がないことに
気が付き始めたものの一つにロボティクスがある。

アメリカには軍用の四つ足ロボットで有名な Boston Dynamics という会社があり、
この開発思想が、ホンダの Asimo などと全く違うので、僕は、まだNISTEPの客員だったころから
注目していて、NISTEPの雑誌「科学技術動向」で、これのレポートを書こうとしたら、
ロボティクスは以前やった、と言って編集長に切られた。

編集長はITが分からない人だったので、言っても、意図が分かってもらえないだろうと思い、
引き下がった。

そういう時代だったので、当然ながら、そのころは Boston Dynamics, Big Dog といっても知らない人が、
ほとんどだったが、最近になって日本でも普通に語られるようになったようだ。
#などと言いつつ、一番好きな動画はこれでした。
#ウーム、このおちょくり加減、センス良すぎる!!誰が作ったのだろう???
#知っている人がいたら、林まで、是非、ご一報を!

特に、先月の中ごろ、アトラスが「バク宙」する動画がでて、これが話題になったみたいだが、
実は、この「バク宙」は、最後にポーズを決めるところなどが、まるでホンダみたいで、Boston Dynamics らしくなく、
僕は、あまり重要と思わない。どうみても、台と台との間隔などが「決め打ち」で、
アトラスが判断しているわけではない。

こういうのはデモのためのデモに過ぎない。

それより、
荒れた雪の路面を二足歩行したり、
転んでも起き上がる
ことの方が遥かに大きい。

特に蹴飛ばされても起きるのは、Big Dog のころから、是非本物を見てみたくて仕方がなかった。

それでRIETIのAI調査の際に、久米さん(当時、リクルート・ワークス、現在、
東洋大)に頼んで、取材先としてアプローチしてもらったのだが、久米さんの努力にもかかわらず、
残念ながら、梨のつぶてだった。

それが現在は、ソフトバンク傘下!

もしかして、調査が、少し後だったら見せてもらえたのかな?残念!

もちろん、コケタ Big Dog が元に戻るのもデモではあるだろうが、
日本のロボティクスと目指すところが違うのはハッキリと見てとれる。

その様なことを考えていると、本当に暗くなってしまう。
どうして、この国は、自ら自分を追い詰めるのだろうか?

生きていくということほど重要なものは、他にない筈なのに…
日本的「潔さ」は、それを許さないのか????

僕には理解できない。在日日本人と言われても、このポジションは譲れない!!!

多くの日本人が見下してきた中国が、日本のはるか先を行っていることが露わになり、
日本が、それを呆然と眺めているという図式が定着し始めた。
#たとえば、

今日、地上波テレビの池上彰さんの番組でも、そういうのをやっていて、
芸能人のコメンテータ(?)が暗い顔をしていたのが、せめてもの救い!
#ここでヘラヘラされては、本当に望みがない…

そういう中で、このところ、Boston Dynamics を買収するなど、
どんどん aggressive さが加速しているかの様にさえ見える
ソフトバンクが、唯一の日本の望みという所だろうか………


2017年12月2日(土曜日)

西田哲学館訪問

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時15分36秒

今週も忙しい一週間が終わる。

今週は木曜日に石川県かほく市の西田幾多郎記念哲学館を訪問。

今回は同館館長の浅見さんの科研費などの関係のミーティング。

この科研費の京大での研究員の吉野さん、満原さんと出席。二人の積極的な参加もあり活発な議論。このプロジェクト順調以上に進みそうな期待感大。

宇野気の駅までキューレータの山名田さんが送迎して頂き、何時もながらも恐縮。

驚いたのが、調査研究棟という新しい建物が建設中だったこと。研究員の中嶋君の本拠となるのだろう。

中嶋君のために建物が出来つつありますねというと、資料の為ですとの中嶋君の返事だった。 :-)

かほく市のどなたかが、国から予算を獲得したとか。

此の所、気の滅入る話が多い中、かほく市も、国も、クリーンヒット!!という感じ。

こういう所から、これからの日本の芽が芽生えて欲しい。

木村素衛展をやっていて、山名田さんに案内してもらい説明を聞く。

小さいスペースながら、木村のスケッチや画材などもあり興味深い。

信濃には常滑の谷川の会に劣らない集団があるらしい。

今回の木村の展示は、その方たちから史料を借りているとのこと。

取材せねば!


2017年12月1日(金曜日)

経産研究所PDPと京都哲学会講演PPTスライド

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時42分09秒

随分遅くなってしまった経済産業研究所RIETI(経産省のシンクタンク)のAIの社会影響のポリシーディスカッションペーバーが完成して公開された。
こちら:https://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/17110014.html

また、同時に、公開ができてなかった、先日の京都哲学会の講演用PPTスライドを公開。
こちら:http://www.shayashi.jp/2017Nov03NishitaniAndTanabe.pdf

どちらもホームページからリンクをはる。


2017年11月28日(火曜日)

西田裕作などメモ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時43分22秒

一つ前の投稿に関連してサーチをしているとき、以前から気になっていたことについての情報を少しみつけたのでメモ。

西谷啓治の長男でライプニッツなどを研究して京大文の助教授だった西谷裕作のこと:

1.何時だったか立教大学数学科にいたころ、良く数学史の講義を拝聴していた村田全先生が、
「裕作君が…」といって、西谷裕作のことを僕に話されたことがあったが、どんな話だったか忘れてしまった。
村田先生が亡くなったのが2008年のことらしいので、僕が田辺研究を始めたころだったのかもしれない。
京都学派研究を始める前も J. Gougen さんから聞いて、西谷の名前だけは知っていた。
2.こういうものがある。調べること:村田全「下村先生と西谷裕作君のこと」『下村寅太郎著作集』第13巻月報
3.関連リンク:
http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/koshikata-utf.pdf
http://www.kousakusha.co.jp/planetalogue/leibniz/leib14.ht
https://books.google.co.jp/books?id=mrl1CQAAQBAJ&lpg=PT13&dq=%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E8%A3%95%E4%BD%9C&hl=ja&pg=PT13#v=onepage&q=%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E8%A3%95%E4%BD%9C&f=false

http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/koshikata-utf.pdf
によると村田先生と西谷裕作は、北大で短期間、同じ数学科かなにかの同級生だったらしい。


北軽井沢と軽井沢

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時00分25秒

佐藤優「学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む」を少し読む。

北軽井沢が軽井沢の一部か近くだと誤解しているらしい。

佐藤優氏は、最近、色々な所で、「太平洋戦争末期に軽井沢や箱根に住むのは「卑怯者」の証明」という議論をしているらしく(たとえば、これ)、「佐藤優 箱根 軽井沢」などでサーチすると、色々と出て来る。要するに、そういう人たちは、各国の大使館、公使館の避難先だった、軽井沢、箱根は米軍が爆撃しないだろうと考えたのだという主張。

これを使い、田辺の昭和20年の北軽沢隠遁(これに疎開の意味もあったのは、お弟子さんたちの証言からまず間違いない)を田辺の人間性に疑問符が付く証拠としていて、まず、これを前提にして田辺論が始まる。しかし、これは北軽井沢を軽井沢の一部か近くだという誤解に基づく議論だ。

北軽井沢は、本物の軽井沢から遠い、現在は寂れてしまった別荘地で、群馬県吾妻郡にある。一方で、軽井沢は、その南に位置するが、長野県北佐久群にある。

富裕層が別荘を構える軽井沢では無理だが、学者でも別荘は持てるのだ、という対抗意識もあってつけた名前が北軽井沢らしいことは、北軽井沢大学村の草創期から山荘を構えていた野上弥栄子さんの短編などからわかる。もともとは地蔵川という場所。そこに法政大学の関係者が法政大学村という学者の別荘地を開いた(鉄道の煙突から飛んだ火の粉が原因といわれる山火事の跡)。

北軽沢には二回行ったことがあるが、随分、アクセスが難しい、辺鄙な所だなとは思っていたが、距離などをちゃんと調べたことがなかったので、Google maps で距離を測ってみた。

旧田辺山荘である群馬大学北軽沢研修所(大学村の南東の外れの位置になる)から北陸新幹線軽井沢駅までを測ってみたら、13.22km だった。京都駅と大津駅の間が10km 無いので、かなりの距離。東京だと東京駅から千葉の浦安市街くらい。

Google Maps で、軽井沢駅から群馬大北軽井沢研修所への経路を調べようとしたら、なんと計算不可能だった。辺鄙…(^^;)

ということで、いずれにせよ、佐藤優氏の議論は実は成り立たない。北軽沢という地名をサーチするだけで、直ぐに解ることなのだが…。

田辺は色々言うし、本人は命がけのつもりで政府の政策批判をしたりしているのだが、最後の最後で逃げてしまうというのが、僕の持っている田辺像。

先日、京都哲学会で、田辺元と西谷啓治について話したときにも、そのことは言っておいたが、以前から、こういう問題が、つまり、田辺にそういう印象を持つ自分は、同じ様な状況でどう行動できるのか、という問が、咽喉に刺さった魚の骨みたいな感じでいる。

昭和20年に北軽井沢の夏の山荘に疎開の意味を含めて移転したことには、色々ある田辺への違和感のひとつ。北軽沢は米軍が爆撃対象にするには、あまりに小さく辺鄙で、軽井沢以上に安全であったはずだ。そして、京都から北軽沢に移住したのに疎開の意味もあったのは、ほぼ確実である。

ただ、一方で、田辺夫妻は、元々が関東の人で(田辺は東京神田、夫人は逗子辺りだったはず)、京都に染まった感じが全くないこともあり、定年退官すれば、関東に戻るのは自然な流れ。昭和20年の大混乱の中、関東に戻るとすれば、その目的地が、自分が所有する夏の山荘であることは極く自然だったろう。

明治人で、生まれた家のこともあり、田辺は大日本帝国には疑問を持たなかっただろうと思われる。それを現代から批判しても仕方がないと僕は思っているが、問題は、「国や社会の進む方向がおかしい」と判断した場合、そして、三木や戸坂のように検挙される可能性があるとき、あるいは蓑田の様なウルトラ右派から攻撃をうけそうなとき、そういう様な状況で自分がどう行動できるだろうかということ。

まだ、十分調べられてないので、確実ではないが、三木、戸坂は生命の危険をどれくらい考えていたかは疑問が残る。一番危なかったはずの戸坂さえ、死につながった二度目の収監の際に、攻撃してくるウルトラ右派に憤慨して反撃してやろうと思うという大親友西谷啓治に、戦争はすぐ終わる、自分もすぐ出て来る、そんなの無視して置けという意味のことを言ったらしい。それがああいう結果になった。歴史とはそういうもの。

大島康正は国立の帝大の教員である間は、政府に協力するのは当然で、そうでないときは、まず、国立大学の教官であることを辞めるべきだというのが、田辺の見解で、(戦後)国立大学教官でありながら政府批判をしている人に比べて倫理観として田辺の方に共感するという意味のことを書いているが、これは、田辺研究を始める前から、僕自身も考えていた問題で、それでNISTEPなどの霞ヶ関の研究所などへの協力は積極的にやるというスタンスにしていた。

僕の場合は、ITをやっている仲間たちに大企業の人が多く、そういう人たちと普通に仲間として付き合いながら、昔は強かった大企業批判に同調するのは卑怯ではないかという問題意識だったが…

僕は、諸般の理由で、30代のころから、大学を辞めても数年は無職でも生きられるような経済的条件を維持するというのを意識的にやっていた。それもあって、自分以外の教授会のメンバー全員と意見対立するというのを、龍谷でも神戸でも経験したが、こんなのは学部長になりたいとか、学内政治力を持ちたいとか、そういう気が無ければ、そして、一定の条件に恵まれれば、全然平気でできること。

しかし、田辺の時代と同じような時代に自分が置かれたとき、自分はどういう行動・態度をとれるか。正直のところ、田辺以上に毅然として立つ自信がない…

数学基礎論史とか、京都学派とか、20世紀の戦争の時代の歴史をやっていると、こういう問題に出くわしてしまった人たち、しかも、学者としての自分の先輩のような人たちの姿を目にすることになる。特に、ドイツはシビアだ。亡命するユダヤ人学者、強制収容所から逃れるため一家で自殺する学者、ナチ党に入党する学者、様々である。それに比べれば、京都学派の人々は幸せにさえ見えてくる。

今の時代は、この時代に非常に似てきている。僕と同じ時代をやっている人の多くは、そう思っているらしい。

もし、そうなったとき、僕はどう行動できるか?

田辺は、日本の敗戦が確実になり始めるまでは、恵まれたエリートコースに乗る学者だったと言える。一方で、西田は、京大に職を得た後も、小康の後、定年退職することまで、個人的な不幸続きだった。そして、京大に移るまでは職でも苦労している。その西田の晩年は敗戦の前に亡くなることも含めて比較的幸運であった。それに対して、田辺の人生は、昭和10年代ころから暗転していく。

その田辺が群馬の山奥で太平洋戦争末期を過ごしたのに対して、西田は米軍の上陸も想定された鎌倉で最晩年を送った。そのころ太平洋に面する鎌倉では米軍機の攻撃会うことが多かったらしく、同じ鎌倉に住む親友鈴木大拙に、最近は米軍の攻撃が酷くて、会いに行きたいが思う様にならない、という意味の葉書を送っている。

性格も含めて、実に対照的な二人であるが、晩年も対象的であった。

西田は海、田辺は山。


2017年11月26日(日曜日)

日本のIT遅れ

今日だが、昨夜だかに、JBPressから、
——————————————————————————————————————
すべての戦略は デジタル前提に!

現在、デジタルの世界は転換期にあります。テクノロジーやビジネスにおける変化の
速度は、私たちの理解をはるかに超えています。

いまだかつて、こんなにも多数の新しいテクノロジーやパラダイムが集中して
登場したことはありませんでした。ITとビジネスの戦略の交差が複雑になるにつれ、
事業予測、事業計画、競合優位性に関するこれまでの前提事項はすべて消え去りまし
た。

企業は今、あらゆることについて再考を強いられています。
——————————————————————————————————————
という内容の記事の配信があり、驚く。

最初、「この記事は、その通りなのだが、20年前、遅くとも10数年前に配信されるべき記事だ」と思った。
そういうことが、これからすぐに起きるので、日本はIT化に対応しなくてはならないと、
NISETPの「日本の危機としてIT人材問題」などを書いていたのが、もう10年ほど前なので。が…

しかし、よく見ると、この記事では「消え去る時代がすぐ来ます」でなくて、「消え去りました」となっている。

「消え去ったのに、日本の企業は、それに対処できていない」という趣旨らしい。

暗然となり、色々とネットブラウジングをする。

「日本 IT」でググると、何と、https://wirelesswire.jp/2017/01/58716/ というような、
日本社会のIT化は世界に遅れてしまったという趣旨の記事ばかりが出てくる。そうでもない
内容のものもあるが、日付が2010年だったりする。随分、変わったものだ。
で、やはり、遅れが産業の現場で肌で感じられるようになってきたらしい。

しかし、それは産業のレベルであって、日常生活では、まだまだ、世界のIT革命から隔離されたままという気がする。

スマホなどの普及を言う人もあるかもしれないが、スマホやタブレットを使っているだけでは、本当の意味での社会のIT化は成されない。

JBPress の記事の意味での「デジタル化」「IT化」は、日常生活もガラリと変えるものなのである。

しかし、この国では変えないようにしようという力が強く目立つ。

僕は兼業主婦なので、良くデパ地下などで買い物をするのだが、いつも違和感がぬぐえないのが、
クレジットカード式のポイントカードをだして、ポイントをもらいながら、現金で払っている人が
圧倒的に多いこと。これが、中国だと、すでにアリペイなどが、主流と聞くし、
北欧では、国が現金を無くそうとしている

そのアリペイが、日本でも使えるようになるとか、
中国人観光客が、配車サービスを使い、中国人が運転する白タクを使って、
日本のタクシー業界に影響を与えているが、それを一斉に摘発したとか、
そういうニュースが増えている。

あるいは増加する外国人観光客が日本に風穴をあけるのか?

うーん……

多分、難しいだろうな… :-(

出島の時代から、日本は、そういうのを隔離するのには長けている。
外国人技能実習制度など「現代の出島」だ。

広島の牡蠣打ちで、中国人実習生による殺人事件が起きたときでさえ、
マスコミが、本当の問題を隠蔽してしまったかのようだったし…

あれは、その少し前に放映された、広島・宮島でロケが行われた
NHK「鶴瓶の家族に乾杯」を見ていたら、ある程度、予測できた。
僕は偶然見ていたのだが、出演者が話しかけた外国人実習生の
無表情と無反応が、完全に、番組の「日本的空気」を崩していた。

多くの人は、こういうことはITと関係ないと思っているらしいが、
実は、ITは社会を根本的に変えることができる技術なので、
社会の在り方、そのもの、社会の持つ価値観と、直接、
連動したり、対立したりする。

つまり、社会のIT化とは、社会の変革そのものであり、
それを前例のないスピードで達成できるようにする技術が
ITだと理解すべきだ。つまり、変革しよう、という意思が
ない限り、ITという技術は、それほど重要な結果を産まない
のである。

幕末のころの西洋文明との対応に似て来ているが、
今度は、中韓が日本の位置に、日本が中韓の位置にいる。


2017年11月20日(月曜日)

RIETIペーバー完成とブログ再開

経済産業研究所RIETIのAIの社会影響研究のプロジェクトの成果である、ポリシーディスカッションペーバーの最終版を、漸く完成。

実は、すでにプロジェクトは終了しているのに、遅れていたもの。RIETIの担当者の方たち、特に小林さんには、本当に御迷惑をおかけしました。平にお許しを!!我ながら、実に困った奴です。 :hammer:

これで、一応、AI研究は終わりにして、歴史研究にもどる。来年度末で定年なので、それまでに、積み残しの数学基礎論史関係の本やら論文やら、何とかしたいのだが、とても1年半でできる量ではないものが残っている。 :-?

まあ、一部は定年後にやるしかないか…

こういうことを避けるために、定年までは、新規の仕事を引き受けたり、始めたりをしないことにした。

それに伴い、長く書いてなかったプログを再開。新規の仕事を避けるようにしたためか、少し時間に余裕がでてきたように思うので。

と、いいつつ、先日の京都哲学会で話した「西谷啓治と田辺元――空と種」の論文版を書かねばならない。

当面は、主な仕事は、岩波新書の「ゲーデルの不完全性定理」(仮題)の原稿だが、これ以外にも、西田幾多郎記念館から引き受けている仕事も結構忙しい。また、これは事務的なことが忙しく、何とか、定常状態に入りつつはあるのだが。

いずれにせよ、以前の様に、プログを書けるだけの時間を見いだして書きたい。

このブログは、僕があまりに沢山新しいことを始め、色々なことを同時に行うものだから、学生が林が今この時に何をやっているのか見えない、というのを聞いて、研究室の学部生・院生たちに、林が何をしているのかを伝えるために書き始めたもの。

その研究室「情報・史料学専修」も、新メンバー募集は、昨年度で終わり、今年度は、来年4月から発足する「メディア文化専修」の学生・院生だけを募集している。

この新専修は、情報・史料学専修と、二十世紀学専修が合併してできるのだが、僕は発足後、1年だけいて辞めるので、新専修の学生さんの卒論を見ることがない。つまり、このプログの本来の役目が、必要なくなりつつある。

それもあって、今後は、今までのブログの方針「学術的なことしか書かない、専修の学生や院生、そして、(広い意味での)同僚に、林が何をやっているのかを伝えることに目的を限定する」を取っ払って、好き勝手に書くことにしようと思う。 :-)

まあ、あんまり羽目を外すと、僕のことだから、何を書き出すかわからない。 :-D
注意、注意! ;-)


2017年3月29日(水曜日)

西田幾多郎田中上柳町旧宅について

カテゴリー: - susumuhayashi @ 17時10分44秒

京都哲学会機関紙「哲学研究」600号記念号に依頼されて登校した論説「西田幾多郎田中上柳町旧宅について」林、市川共著。公開の許可いただいた京都哲学会に感謝します。(編集の中畑さんの話では、許可もなんもなく、自由にやってください、とのこと。 :-)


2017年3月7日(火曜日)

みんなで翻刻してみた ニコニコ生放送

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時52分54秒

SMART-GS の開発ミーティングで、橋本君から、古地震研究会のニコニコ生放送「みんなで翻刻してみた」の報告。視聴者が1万5千程度あったとのこと。ますます上手く行きつつある。

これは月に一度の生放送になるそうで、橋本君は、4月から千葉県にある国立歴史民俗博物館の助教になるので、月に一度京都に戻って来ることになり大変そう。

「みんなで翻刻」が成功しつつあることを受け、また、そのアーキテクチャを使うと、SMART-GSを比較的容易にWEBサービス化できる目途がついたので、現在やっている科研費基盤Bの研究の中心を、「みんなで翻刻」にシフトさせることにし、SMART-GSの定例ミーティングも名称も変えて、史料画像ベースのWEB上のデジタル・ヒューマニティ―のWEBミーティングにする予定。

もう随分前になるのだが、北大の田中譲先生のすすめで、SMART-GSを中心にした重点領域(科研費)研究に応募してはどうかということになり、現代史の永井さんや情報学研究科の山本さんなどと一緒に申請をしようとしたら、その年から重点領域が「新学術領域」というものに化けてしまい、新しい学術分野を作るという種目になってしまった。これは困ったと思ったが、既存分野のイノベーションでもよいと書かれていたので、正統的人文学が、ITで進化するのだということにして、これに応募した。

実は、この話が最初にあったとき、僕は、こういう大きな額のプロジェクトでやると、SMART-GS プロジェクトが変な方向に向いてしまうと思った。しかし、SMART-GSの成立の際に画像検索で、お世話になった田中先生の御意見であるので困った。それで情報学研究科の山本さんに相談したら「止めた方が良い」といってくれるのではないか、田中先生の信頼があつい山本さんの意見を口実にして断ろう、と思って山本さんに相談に行ったら、予想に反して「是非、やりましょう」という返事で、僕は逃げ場がなくなってしまった。 :-(

それで覚悟を決め、永井さんや山本さん、そして、NIIの相原さんなどにお願いして、申請を2年ほどだったか行った。こういう億単位の申請は、最初から面接にまで進むのは難しいとのことだったが、初年度、次年度とも、面接までに進んだ。その時、僕にはひとつ大きな拘りがあって、「このプロジェクトでできるのは、伝統から離れた新領域ではなくて、伝統的人文学がITで進化したものだ」というスタンスを崩さないことにした。そうでないと、また、役にも立たない、面白いだけで終わる技術をいっぱい作って終わり、という風になると思ったからである。

案の定、そのあたりを面接では聞いてきた。若い審査委員(?)のひとりが、あきらかに助け舟として「新領域を作ると言えばいいんですよ」と大きな声で言っていたが、これは僕の絶対譲れない線だったので、言っている意味は分かったが、従わなかった。

パートナーの八杉は、もし本当に採択されたら、僕の健康が大変なことになるのではと心配していたし、僕自身も、これが採択され、大型資金にまつわる「風習」に完全に従っていたら、本当に人文学者が喜ぶオープンソースのツールを作るという方針で作っていたSMART-GSが死ぬ、とおもっていたので、最後の拘りだけは絶対に譲らなかった。しかし、それもあって(というか、それが最大かも…)、協力してくれた仲間には悪かったのだが、2回とも面接で落ちて、それで3回目はやらないことにした。

その後は、比較的僕一人の意見で自由になる小さい資金をもらって、SMART-GSの開発を続けた。そういう中で、橋本君が大学に帰って来て、デジタル・ヒューマニティをやることになり(最初はドイツ数学教育史の予定だったのだが…。でも、変えてよかった)、新学術領域の申請の際には、全く考えもしなかった「学習ベースの古文書のクラウド翻刻」という技術によって、そのころ将来是非やりたい、そんなものが出来てい欲しいと思っていたことが出来つつあるというこは、実にすばらしい!

おそらく、このまま上手く行くだろう。地震史料、くずし字の江戸期以前の古文書という、現在の条件がなくなったら、どうなるか、という問題はあるのだが(たとえば、田辺元史料では、こういうことは起き得ない。 :-D)、おそらくは、地震史料ではなくても、「くずし字の鎌倉から江戸期の古文書」の殆どでは上手く行くのではと思う。

そのためには、広報が大切なのだが、「みんなで翻刻してみた」の様なものは、それに大きな貢献をするだろう。

最初、放映の話を聞いたときは、古地震研究会の様子など放送しても、何も面白くないのではないかと訝しく思っていたのだが、実際の放送を見せてもらうと、予想と全く違い、ドワンゴがシナリオを作り、NHK第2(Eテレ)の語学講座か何かのように作り上げていた。そういうものを見たい人には、面白くみられるようにできていたのである。

「講座」なので、これも「まなび」のシステムの一つである。橋本君の「学びベースのクラウド・ソーシング」の体系の一つに入るだろう。まだまだ、「学びベースのクラウド・ソーシング」は色々と拡張できそうだ。これからの進展に期待したい。

と他人事のように書いているが、橋本君が京都からいなくなるので、彼が帰って来てないときなど、僕がかわりに時々でも古地震研究会に参加することになった。で、崩し字の勉強をしなくてはならない。大変だ…… ;-)


2017年2月25日(土曜日)

みんなで翻刻

カテゴリー: - susumuhayashi @ 18時10分42秒

またまた久しぶりに、ブログを書いている。

今日と明日は入試監督で、そのストレスが書かせている面がある。 ;-)
#続きを書いているのは、もう試験が終わった26日の深夜

それで思い出すのが、確か3年前の入試監督の日のこと。文学部では、色々な研究所の人たちが、入試監督の手助けをしてくださるのだが、この年は、それが宇治の防災研だった。

その助っ人の一人が、防災研地震予知研究センターの加納さんで、彼が「SMART-GSを作っている方ですよね」と切り出したのには驚いた。

なんでも江戸期以前の古文書から、地震の情報を引き出すという研究分野があるという話で、それにSMART-GSを使えないかということだった。

東北の震災から間もないころであったし、何より歴史学が人命を救うかもしれないというのが良い。
#実は歴史学は国境線を決定したり、戦争責任を決定したり、凄くプラクティカルな学問。

あの悲惨な津波の半年ほど前だったか、確かアメリカ(もしかしたらカナダ?)のドキュメンタリで、北米の北西部を高さ10メートル超えの大津波が襲った跡が、上流の河岸の地層の発掘で判明し、今は、学校などでも避難訓練をしているというのを見た。

東北の津波の映像を見ながら、この番組を思い出し、もしかして、日本でも、あの番組で紹介されていたのと同じことができたのではないかと思っていたら、貞観地震というのが記録されていて、それと殆ど同じ地域が被害にあったことが段々と報道されるようになり、「ああ、またか、この国は…」と暗澹たる思いをした。

そういうなかで、こういう話があり、大変興味を持ち協力を約束した。もしかしたら、歴史が人命を救うかもしれないのである。素晴らしいことだ。

その後、京大古地震研究会を主宰している理学研究科の中西さんが、研究室に尋ねて来てくれて、地震学には現代地震学、古地震学という分類があること、地質学を使う考古学的古地震学は、情報が得られるタイムスパンが何百万年になる一方で精度が100年単位くらいになる。一方でスパンが1000年単位に減るものの古文書による古地震学は精度が数時間になり、現代地震は精度が秒単位だがスパンが100年単位となる、というような話や、南海地震があると土佐の地盤が一端下がるため高潮が増える、それが数十年かけて戻るということも、高潮被害についての古文書記録を見ていくとわかる。だから、「地震」というキーワードがある文書だけ読めているだけでは足りないというような、非常に興味深い話を教えてもらえた。

その話は、まさに、我々情報屋がビッグデータやIoTの様な世界でのヘテロな情報の質と量のトレードオフにもっている感覚に似ていた。そういうのをどう上手く組みあわせて有用な情報を引き出すか。それが問題なのである。

これは、まさに情報技術を適用するにうってつけの分野だと思い、非常に強い関心を持ち、まだ、学位論文のテーマを決めかねていた院生の橋本君に、こんな重要な分野がある、将来的にきっと重要なものとなる、などと話した。

橋本君は、僕が彼を京大古地震研究会に送り込んだようなことを言うが、これは間違いで、そんなことをした覚えはない。単に、重要な分野の存在を伝えただけで、後は、橋本君の自由意志で進んだこと。

いずれにせよ、橋本君は、以後、京大古地震研究会に参加するようになり、今や、その主要メンバーの一人。

そして、その後の橋本君の様々な頑張りが実を結び、加納さんと僕の「入試監督での邂逅」は、「みんなで翻刻」という大きな成果を生みつつある。

この成果は、1月にプレス・リリースされたのだが、何故か、入試一日目の土曜日の京都新聞夕刊1面に掲載されていて(これが電子版)、それで入試監督と重なり、思い出して、このブログを書いている。

現在まで、くずし字古文書の crowd-sourced transcription、つまり、みんなでやる翻刻は、成功したものがない。現代の印刷物でも、青空文庫ぐらいだろう。

まだ、公開して間もないので、まだまだ予断を許さないが、みんなで翻刻は、その最初の成功例になりそうだ。

今の所の成功のポイントは、橋本君の発案の「学習ベース」のクラウド翻刻にしたこと。つまり、くずし字解読のスキル上達ができる「みんなと交流できるまなびの場」であることが、成功しつつある理由だろう。

これは、橋本君が研究協力者、加納さんが分担者で、僕が代表の科研費基盤B「古文書のWEBを目指して」での成果だが、僕は代表として、お金の管理をして、後は、時々、橋本君に指導教員としてコメントする程度で(「みんなで翻刻」は橋本君の学位論文で大きな部分を占める)、橋本君、加納さん、中西さんの研究成果。

名前の発案者は中西さんだそうだが、設計やコーディング、改造は、橋本君ひとりでやっているが、これは京大古地震研究会なしでは考えられないものなので、古地震研究会を始めた中西さんや、加納さんの貢献は大きい。とくに、加納さんは自身が、WEBベースの古地震研究サイトを作っていて、みんなで翻刻も、そちらのサイトでのサービスらしい。

ただし、京大古地震研究会のサイトは、僕が代表の東大地震研の共同利用のプロジェクトの成果です。とはいっても、これもプロジェクトメンバーの加納さんの活躍がすべて。僕は資金集め以外は威張れない。(^^;)


2017年1月27日(金曜日)

哲学の道と西田幾久彦さん ( 1月29日に大幅編集)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時28分31秒

今週、木曜日は、西田記念館より館長の浅見先生たちが来訪。予定していた仕事の相談は順調に進んだのだが、その際に、西田幾久彦さんが急逝されたと聞きショックを受ける。WEBで検索してみたら武蔵高校の卒業生物故者リストを見つける。昨年の11月に亡くなっていた。

西田幾久彦さんは、西田幾多郎のお孫さんで、直接お会いしたことはなかったが、9月ころだったか、哲学の道と西田幾多郎の事で電話でお話し、機会をみて林が訪ねていく約束をしていた。その時、お見せしようと、あるものの写真を探していたのだが、それでボヤボヤしている間にお会いできないことになってしまった。

左京区田中上柳町の西田幾多郎旧宅の一部保存の活動をやっていたとき、西田が哲学の道を散歩しながら哲学したという証拠がない、という話を新聞記者さんたちにすると、一様に驚かれた。

僕は、哲学の道歩勝会の方に、「実は少し場所が違うらしい」と聞いていたこともあって、記者さんが皆の様に驚くということに驚き、少し調べて、高山のエッセイを見つけて、6月24日の投稿、哲学の道と西田を書いた。

それを見た、読売新聞日曜版名言巡礼の担当者が興味を持ち、こういう記事になったのだが、それを見た幾久彦さんから、西田記念館を通してコンタクトがあり、電話でお話をした。

何でもおともだちが読売日曜版の記事を読み幾久彦さんに電話をしてきてくれたと言うことで、結論から言うと小さいころに御爺様の兵児帯にぶら下がるようにして、哲学の道あたりを歩いた記憶があるということであった。

検証は必用だが、西田幾多郎が哲学の道を散歩したという、唯一といっても良いほどの確実な証拠だろう。

その検証のための写真探しの間に残念なことになったわけだが、初めての電話ながら波長が合ったというか、話が弾み、その他にも色々と教えていただけたので、調べつつあったことも含めて、記憶が薄れる前に記録しておく。

幾久彦さんのお父様の外彦さんは2回召集を受けた。幾久彦さんの手になるエッセイ「祖父の思い出」(西田全集月報昭和41年7月、下村「西田幾多郎 -同時代の記録-」、pp.294-297)によると、一回目が幾久彦さんが小学校4年のときで、二回目が中学校の時とのこと。一回目がおそらく1938年前後だろう(小学校の就学年齢資料)。

上記のエッセイや電話でのお話によると、週末になると、幾久彦さんは、芦屋の自宅から京都まででかけ、御爺様や御婆様から、漢文などの古典や英語の教育をうけ、また、京都の名所旧跡を訪ねた。西田の交友関係などから、通常は拝観できなかったお寺なども見学できたらしい。これは幾久彦さんが書かれたエッセイにも書かれている事実。

その訪問先に、どうも哲学の道あたりの寺院か神社などが含まれていたらしい。また、これとは別と思われるが、西田家は、家族で連れだって弁当も持ち、遠足かピクニックのようなものをしていたそうで、その際にも、哲学の道の辺りを歩いたらしい。

その頃の疏水(分線)沿いの道は、今のような散歩道ではなく、草が繁った田舎道であった。また、歩いていると、向こうから人が来て、「やあ」という風に手をあげて挨拶する。誰かと聞くと、大学の関係者とのことだったという。疏水沿いは、やはり昔から散歩道で、京大関係者は多く歩いていたことが推測される。

これらの際に、祖父の兵児帯に手をかけながら歩いた記憶がある、と仰っていたが、小学校4年の時の話にしては、兵児帯に手をかけて歩くというのは、些か幼い。おそらくは、もっと前に、つまりお父上の召集の時ではなくて、西田家のピクニックの際の話なのかもしれない。

人の記憶というものは曖昧なもので、時期場所など、改めて調べてみると自分の記憶と異なって驚くというのは、齢を重ねている人ならば共感してもらえるだろう。(^^;)

それで、こういう記憶から歴史的な情報を引き出すには、必ず史料による裏付けが必要となる。

幾久彦さんからは、この話を、どこかに書きますか、このままにしますか、と聞かれたのだが、もちろん放置というのは歴史の虫が許さない(^^;)。お話をしながら、幾つかの点を確認する必要があると考え、凡その調査計画を組み立てられたので、どこかにちゃんとした文章として出したいので、書いたら、西田哲学館の山名田さんを通してお送りしますので、ご覧いただけますか、また、機会があったらお会いしたいのですが、というと、東京に用事があったときにでも訪ねてきてくれれば、という話だった。

それで、色々調べ始めたが、手がかかりがなかなかなく、多忙に追われて先に進めることができずにいた間に幾久彦さんにお会いできないことになってしまった。

では、何を調べていたかというと、それは昭和のころの蹴上周辺の風景。より正確に言えば、山科を通って京都に入った琵琶湖疏水の蹴上・岡崎あたりの様子の変遷。

哲学の道は、琵琶湖疏水分線の一部分だけを言い、疏水の周辺を歩いたからと言って、現在の、哲学の道の辺りを歩いていたとは言えない。僕は西田は京大農学部あたりの疏水沿線などを歩きながら哲学した可能性は高いと思っている。それならば、6月24日の投稿、哲学の道と西田に引用した高山の証言と非常に整合する。

実は、お名前などの記憶があいまいで思い出せないのだが(ハッキリおぼているのは、現役時代は瓜生山学園で教務の仕事をしていましたと仰った点。確か教務課の課長さん?)、かなり以前、哲学の道歩哨会の幹部らしい方から、突然研究室にお電話があり、哲学の道沿いのマンション建設を防ぐ方策など相談を受けた。その時、その方が「実際は若王子のあたりを歩かれたらしいですが」という意味のことを言っておられたので、哲学の道を西田が歩いたという証拠は本当は無いのだろうと思うと同時に、哲学の道というのは、実は琵琶湖疏水分線の、かなり限定された領域であることを、その時始めた気が付いたのだった。

だから、この哲学の道の関係者の方のように、厳密に言うならば、本当に西田幾多郎が哲学の道を歩いた証拠を見つけるのは、実は、それほど簡単ではないのである。

一般には、僕もそうだが、疏水分線全部を哲学の道、あるいは、それの「延長」位に思っているのが普通だと思う。それで幾久彦さんにも、それを少し言ったのだが、意図が伝わったかどうか怪しかった。観光地図でもお見せして、説明しないと、この話は、そう簡単には理解できない。一般的認識と公式の定義がずれているのだから仕方がないのである(京都では、他にも同じようなのが色々とある。大学近くの吉田本通は、どうも国土地理院の名称では吉田東通というらしい。そして、ビリケン理髪店があった狭い道が吉田本通らしい。しかし、タクシーの運転手さんなど、皆、吉田東通を吉田本通と呼ぶ。こういうの他にも沢山ある)。

そこで、幾久彦さんに、「御爺様と、どの辺りまで、歩かれたのですか」とボンヤリした質問をしたら、「疏水が山から下りて来るところまで歩いた」という、非常に面白いお返事だった。

こういう印象的な言葉で語られる記憶は、それから何かの情報を引き出せる場合が多い。しかし、「疏水が山から下りて来るところ」という言葉で表されている記憶の意味を明らかにしなくてはいけない。こういう時には、何かの構造的誤解が入っていることが往々にしてあるのからだ。重要な記憶が、字義どおりに解釈しては誤解のもとになるような言葉で語られていることが多いのである。その「誤解の構造」を史料を使って解きほぐしていく、それが史料ベースの歴史学なのである。

これはTVのサスペンスものなどの推理のシーンが好きな人にはお分かりいただけると思う(^^;)。実は、史料ベースの歴史学研究は、そういうドラマの探偵の調査・推理にすごく似ている。しかも、歴史はフィクションではなく現実なのだから、解きほぐせたときには、凄く嬉しい。 :-D

話を戻しまして…

そこで、地図で調べると、琵琶湖から山科盆地を通って京都市街に入った疏水・疏水分線は一箇所を例外としてフラットであり「山から下りて」こないことが分かった。

そして、その唯一の例外が、僕が通勤の時に、何時もの様に通る蹴上の発電所の辺りなのである。ここは、疏水を挟んで動物園の「向い」でもある。

実は、西田幾多郎は、動物好きで、動物園も好きで、良くお嬢さんたちを岡崎の動物園に連れて行き、お嬢さんたちが大きくなってからは、それが途絶えていたが、幾久彦さんが少し大きくなって、動物園行きが再開されたことが、お嬢さんたちのエッセイでわかる。この辺りのお嬢様たちの描くエピソードがなんとも微笑ましく、読んでいてついニコニコしてしまうのだが、どうやって左京区田中から、岡崎の動物園まで行ったのだろうかというのが、前から気になっていたのである。電車が、それとも近衛あたりをテクテク歩いたか…

しかし、この蹴上の辺りまで、兵児帯にぶら下がって歩くような、小さなお孫さんと散歩をしていたのならば、この動物園へのルートの問題も解決する。

夜間動物園にも行ったとあるので、この様なときは電車やら街中を歩いたりであったろうが、幾久彦さんが言う、田舎道を通ってのピクニックのようなものならば、銀閣寺道あたりから、疏水を辿って動物園に向かえば、遠回りにはなるが、いかにもピクニック的な経路となる。これはきっと楽しい道だったろう。今でも歩いていると疏水を琵琶湖の魚が泳いでいるのが見えたりして、凄く楽しいのだから。

哲学の道は、正確に言えば、銀閣寺道あたりで始まり、若王子橋で終わる。若王子橋より南は疏水が「地下に入る」ので、ここから西に進めば、平安神宮、美術館、などがある岡崎地域の北東に出る。そして、今度は、白川沿いに南西に下れば蹴上の発電所と動物園に辿り着くことになる。

当時は、かなり長閑な道であったろうが、今でも車は多いものの十分観光ルートになりえる道のりである。

この様な、東山沿いの長閑な道を歩いて動物園の辺りまで歩く場合、おそらく哲学の道あたりを通るのが最も自然であったろう。つまり、西田が、幾久彦さんの勉強を兼ねての散歩、家族とのピクニックの際に、狭い意味での哲学の道を歩いたことは、まず間違いない。

ただ、僕が書いていたのは「哲学の道で哲学したことはまず無かったはずだ」ということで、ここを散歩することが一度もなかったということではないので、そこの所が、幾久彦さんも、少し誤解されていたように思う。当時、すでに知られた散歩道になりつつあったらしい、哲学の道あたりを、西田が一度も歩いたことがないとえば、それはむしろ不自然なのだから。

しかし、子煩悩で家族思いの西田が、家族と連れ立って歩くときに、哲学に没頭したとしたら、それも不自然なのである。幾久彦さんも「(祖父が)denken(思索)しつつ哲学の道を歩いたかどうかはわかりません」と仰っていた。

哲学の道と呼ぶには、西田が、歩きながら、そこで思索した、それがちゃんと目撃されて記録に残っているのが理想である。しかし、あまり学問上のことに拘って無粋なのも、観光地として主に知られている「哲学の道」のような場合には困りものだ。別に西田が歩いたというだけが、名前の由来ではないらしいのだから。

そこで、西田が哲学の道を歩いたかどうかをすごく気にしていた読売の記者さんには、西田の石碑があるのだから、それで哲学の道でよいのでは、と言ったら、記事にそう書かれていた。幾久彦さんの証言で、これにさらに「哲学の道」の名前に「由来」が加わったと言えるのではないか。家族や孫と歩きなれた道を、哲学をするための散歩のときにも歩いたというの自然だろう。

跡取り息子、外彦さんの証言によると、激しい気性だった西田も、晩年には、その晩年の書が示すように、丸い人格になっていったらしい。残念ながら証拠となる史料は見つけられていないが、闘う様に歩きながら思索した「場所の論理にいたる時代」ではなく、晩年の西田が悠然と「哲学の道」を歩きながら思索をしたというのは、鎌倉時代の散歩の様子を語る女婿金子武蔵(東大倫理学教授)のエッセイの西田晩年の描写からすれば十分考えられることなのである。

エッセイ「秋風の高原に立つ 岳父さながらに」(西田全集月報昭和40年4月、下村「西田幾多郎 -同時代の記録-」、pp.276-282)で、金子は、鎌倉の家で、哲学の議論が終わって、女婿としての自分と連れ立って散歩するとき、京大名誉教授としての西田の「ワク」が外れ、高坂、下村、高山などの京大のお弟子さんたちに対する態度と違う態度となったと書いている(下村 pp.278-279)。

その様な時にも、時として西田の壮年のころまでの激しい気性が蘇り、岩波「思想」の「西田哲学特集号」(昭和11年1月号)の諸論文を評して、「文句のいえるのはやはり田辺だけで、あとは皆物マネにすぎぬ」と批判したり、おそらくは自分が京都への招請に関わったはずのB.ラッセルの品行を批判したり、杖で小石をはねとばしながら、激しく語った、という。

しかし、それは例外的であり「このような放談には少々面食らったのは事実であるが、多くの場合、物静かな回顧談であった」と金子は書いているのである。この記録は、あまり語られることが無かったように思うが、金子武蔵という人は、非常に実直な人だったというから、また、唯一と言って良い「身内の哲学者」の記録としても、この金子のエッセイは大変貴重であり、また、それからすれば、「物静かに哲学の道を歩く晩年の西田」という姿を、証拠がないと言って否定するのは間違いだろう。(もちろん、だからと言って、「そうだ!}というのは、さらに不味い。それが歴史学というものである。)

兎に角、「疏水が山から下りてきている」そういう情景を写した蹴上発電所あたりの昭和初期の写真を見つけて、それを幾久英彦さんに見て頂き、確認が取れたら、こういう話をどこかに書こうと思っていたのだが、そういう風景写真の調査などしたことがなくて、なかなか写真の目途がつかなかったのである。

しかし、正月ころに、地下鉄の駅を歩いていたら、疏水の観光ポスターが目に入った。その時、蹴上の疏水博物館ならば、たしかジオラマがあったから、それの元になった写真を持っているのではないかと思いついたのである。そう思ってAmazonで調べてみると、疏水関係の図版などがかなりあることがわかった。図書館や博物館に行くともっと見つかるはずである。授業期間が終わり、時間がとれるようになったら、博物館を訪問し、資料も調べ、その上で幾久彦さんに確認して頂こうと思っていたのだが、幾久彦さんが亡くなってしまった以上、もう確認する方法はないのだろう…


2016年10月30日(日曜日)

京都から北軽井沢へ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時01分06秒

田辺の昭和20年7月の京都から北軽井沢への移転について、調べて分かったことを記録。

実は、かなり前に分かって一度ブログに「書いた」のだが、操作ミスか何かで書いたものが消えた。

その後、色々な締切やら2週間近く続いた咽喉風邪などで書けず今日まで来てしまった。

昨日で、漸く、哲学研究に寄稿を依頼された「西田幾多郎田中上柳町旧宅について」の校正が終わったので、これを書く余裕が生まれた…

と、書きつつ、もう夜も遅いので、概要だけ書き、それにもとづいて、明日にでも詳しいデータを記録。

9月24日のエントリ「西谷啓治と田辺元」で大島のエッセイを色々と引用したが、この大島の文章がかなり間違っていることが判明。

ひとつは京都から北軽井沢への移動について、田辺が珍しく哲学以外のことなのに日記に書いているのを見つけたこと。

もう一つは、昭和20年7月の国鉄の時刻表の復刻版を手に入れて、大島の証言の矛盾が明らかになったこと。

大島の京都から北軽井沢への田辺の転居についてのエッセイは、そのイベントより遥か後に書かれていて、時間についての confusion が相当にあるらしいことがわかった。

簡単に纏めれば、大島は、同年7月のある日の朝、京都を立ち、その日の内の午後に北軽井沢に到着したかの如く書いているが、これは間違い。

このころ、全国で国鉄の急行は東京門司間の一往復のみ。特急は皆無という状況。おそらくは燃料不足が主な理由だろうが、軍用列車の優先、米軍の攻撃など、色々な理由があったはず。

いずれにしても、昭和20年7月の時刻表によれば、こういう状況下で、最短ルートの中央線経由をとったとしても、その中央線が、一日に4往復しかないという状況。

田辺夫妻、大島、西谷の4名が京都から群馬県北軽井沢に向けてとったルートは、京都から名古屋まで東海道線、名古屋から塩尻まで中央線、塩尻から篠ノ井まで篠ノ井線、篠ノ井から軽井沢まで信越本線、そして、国鉄軽井沢の向いのある新軽井沢駅から北軽井沢まで、草軽電鉄、という経路であったことは、おそらく大島の記述どおりだろう。

田辺の日記には、大島が書いたような完全なルートの記述がないが、田辺の記述は、大島の記述と矛盾しないし、昭和20年の状況からして、他の可能性は考え難い。

ただ、田辺は、朝に京都を出立し、あくる日に北軽井沢に到着と書いている。

大島のエッセイが、「田辺元 思想と回想」の中の一編として出版されたのが、1991年。

大島が亡くなったのが、1989年で、大島の原稿を元に返事達が最終版を書いたらしい。

たとえば昭和が平成に変わる1989年に、その原稿を大島が書いたと想定すると、44年前の出来事を記憶をもとに再現して書いたことになる。

つまりは、還暦を過ぎた大島が、自分の20代の出来事を書いている。

還暦を過ぎた我が身として、考えてみると、そんなに正確に日時を思い出せるとは思えない。

まあ、そういう能力を持つ人もいるが、晩年はアルコールが過ぎたのではないかという人もいる、大島の場合は、おそらくは、質的出来事は記憶に強く残りながら、日時の様な量的な記憶が曖昧になっていたのだろうと思う。

あるいは、大島の死後に、大島の原稿を編集をした人たちが、昭和50年代の感覚で、大島のテキストを勝手に変更していしまったことも可能性としてはある。

しかし、ひとつの日の間に移動することと、一夜を経て移動することには、質的と言っても良い差があると言える。

その様な、質的差異を、何故、大島の記憶は混同してしまったのか?

もし、駅のベンチで一夜を過ごす、あるいは、途中下車して旅館かなにかで一夜を過ごすということがあれば、質的出来事として、記憶に残る可能性が高いが、それへの言及がないのである。

それが疑問だったのだが、昭和20年7月の中央線の時刻表をみて、その理由と思えるものが判明。

名古屋からの、一日4往復のみの中央線の最後の列車が夜汽車なのだ。

京都から名古屋への東海道線の列車の時刻を見ても、おそらくは名古屋駅に到着して、そこでかなり長時間を過ごし、その後で、中央線の最終列車に乗ったと思われる。そして、その最終列車が夜汽車なのである。

今は、贅沢な寝台列車は別として、夜汽車というのは無いのではないかと思うが、僕が20代だったころには普通にあった。それは、今で言えば深夜の長距離高速バスのようなもの。

昼の連続として、昼間に来ていたものと同じ衣服のまま、列車の椅子の上で一夜を過ごす。そして、早朝、目的地について、そのまま活動を始める。それが「夜汽車」である。

学生時代に、夜汽車を何度も使っていた経験からすると、その様な「夜」は、前の夕刻や、次の朝に連続している。

僕の場合だと、次の日の朝に連続的につながっている。

おそらく、これがほぼ半世紀の時間の後に、大島の記憶を錯誤させた原因だったのであろう。

ということで、大島の錯誤の原因と思われることのみ書いて、その詳しい所、史料ベースの詳細記録は、次回!


2016年9月24日(土曜日)

Russell と伝統論理学についてもう少し覚書

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時30分02秒

Russell, The principles of mathematicsにおける伝統論理学への言及で、講義で使えそうなところを幾つか記録:

Claas と class-concept (extension v.s. intension)
Chap. II
B. The Calculus of Classes
§21. The insistence on the distinction between and the relation of
whole and part between classes is due to Peano, and is of very great
importance to the whole technical development and the whole of the
applications to mathematics. In the scholastic doctrine of the syllogism,
and in all previous symbolic logic, the two relations are confounded,
except in the work of Frege*. The distinction is the same as that
between the relation of individual to species and that of species to
genus, between the relation of Socrates to the class of Greeks and the
relation of Greeks to men. On the philosophical nature of this distinc-
tion I shall enlarge when I come to deal critically with the nature of
classes; for the present it is enough to observe that the relation of
whole and part is transitive, while e is not so : we have Socrates is a
a man, and men are a class, but not Socrates is a class. It is to be
observed that the class must be distinguished from the class-concept
or predicate by which it is to be defined: thus men are a class, while
man is a class-concept. The relation e must be regarded as holding
between Socrates and men considered collectively, not between Socrates
and man. I shall return to this point in Chapter VI. Peano holds
that all prepositional functions containing only a single variable are
capable of expression in the form “x is an a,” where a is a constant
class; but this view we shall find reason to doubt.

Categorical proposition についての議論:
命題の基本を subject, copula, predicate で考えるのはおかしい。
動詞を無視している。という議論。
 "Socrates is a man" を、
 Socrates | is | a man ではなく、
 Socrates | is a man と divide する。
Chap. III: Implication and formal implication
§43. Assertions
It has always been customary to divide propositions into 
subject and predicate ; but this division has the defect of omitting the
verb. It is true that a graceful concession is sometimes made by loose
talk about the copula, but the verb deserves far more respect than is
thus paid to it. We may say, broadly, that every proposition may be
divided, some in only one way, some in several ways, into a term (the
subject) and something which is said about the subject, which something
I shall call the assertion. Thus “Socrates is a man” may be divided
into Socrates and is a man. The verb, which is the distinguishing mark
of propositions, remains with the assertion ; but the assertion itself,
being robbed of its subject, is neither true nor false. In logical dis
-cussions, the notion of assertion often occurs, but as the word proposition
is used for it, it does not obtain separate consideration. Consider, for
example, the best statement of the identity of indiscernibles: “If x and y
be any two diverse entities, some assertion holds of x which does not
hold of y.” But for the word assertion^ which would ordinarily be
replaced by proposition, this statement is one which would commonly
pass unchallenged. Again, it might be said: “Socrates was a philo=
sopher, and the same is true of Plato.” Such statements require the
analysis of a proposition into an assertion and a subject, in order that
there may be something identical which can be said to be affirmed of
two subjects.

Termについての議論:Chap. IV: Proper names, adjectives and verbs.
§46. Proper names, adjectives and verbs distinguished
§47. Terms
Whatever may be an object of thought, or may occur in any true
or false proposition, or can be counted as one, I call a term. This,
then, is the widest word in the philosophical vocabulary. I shall use
as synonymous with it the words unit, individual, and entity. The
first two emphasize the fact that every term is one, while the third is
derived from the fact that every term has being, i.e. is in some sense.
A man, a moment, a number, a class, a relation, a chimaera, or anything
else that can be mentioned, is sure to be a term ; and to deny that such
and such a thing is a term must always be false.
§48. Things and concepts
 Among terms, it is possible to distinguish two kinds, which
 I shall call respectively things and concepts. The former are the termsindicated
 by proper names, the latter those indicated by all other words.
§49. Concepts as such and as terms


59 queries. 0.132 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress

XOOPS Cube PROJECT