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2017年3月29日(水曜日)

西田幾多郎田中上柳町旧宅について

カテゴリー: - susumuhayashi @ 17時10分44秒

京都哲学会機関紙「哲学研究」600号記念号に依頼されて登校した論説「西田幾多郎田中上柳町旧宅について」林、市川共著。公開の許可いただいた京都哲学会に感謝します。(編集の中畑さんの話では、許可もなんもなく、自由にやってください、とのこと。 :-)


2017年3月7日(火曜日)

みんなで翻刻してみた ニコニコ生放送

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時52分54秒

SMART-GS の開発ミーティングで、橋本君から、古地震研究会のニコニコ生放送「みんなで翻刻してみた」の報告。視聴者が1万5千程度あったとのこと。ますます上手く行きつつある。

これは月に一度の生放送になるそうで、橋本君は、4月から千葉県にある国立歴史民俗博物館の助教になるので、月に一度京都に戻って来ることになり大変そう。

「みんなで翻刻」が成功しつつあることを受け、また、そのアーキテクチャを使うと、SMART-GSを比較的容易にWEBサービス化できる目途がついたので、現在やっている科研費基盤Bの研究の中心を、「みんなで翻刻」にシフトさせることにし、SMART-GSの定例ミーティングも名称も変えて、史料画像ベースのWEB上のデジタル・ヒューマニティ―のWEBミーティングにする予定。

もう随分前になるのだが、北大の田中譲先生のすすめで、SMART-GSを中心にした重点領域(科研費)研究に応募してはどうかということになり、現代史の永井さんや情報学研究科の山本さんなどと一緒に申請をしようとしたら、その年から重点領域が「新学術領域」というものに化けてしまい、新しい学術分野を作るという種目になってしまった。これは困ったと思ったが、既存分野のイノベーションでもよいと書かれていたので、正統的人文学が、ITで進化するのだということにして、これに応募した。

実は、この話が最初にあったとき、僕は、こういう大きな額のプロジェクトでやると、SMART-GS プロジェクトが変な方向に向いてしまうと思った。しかし、SMART-GSの成立の際に画像検索で、お世話になった田中先生の御意見であるので困った。それで情報学研究科の山本さんに相談したら「止めた方が良い」といってくれるのではないか、田中先生の信頼があつい山本さんの意見を口実にして断ろう、と思って山本さんに相談に行ったら、予想に反して「是非、やりましょう」という返事で、僕は逃げ場がなくなってしまった。 :-(

それで覚悟を決め、永井さんや山本さん、そして、NIIの相原さんなどにお願いして、申請を2年ほどだったか行った。こういう億単位の申請は、最初から面接にまで進むのは難しいとのことだったが、初年度、次年度とも、面接までに進んだ。その時、僕にはひとつ大きな拘りがあって、「このプロジェクトでできるのは、伝統から離れた新領域ではなくて、伝統的人文学がITで進化したものだ」というスタンスを崩さないことにした。そうでないと、また、役にも立たない、面白いだけで終わる技術をいっぱい作って終わり、という風になると思ったからである。

案の定、そのあたりを面接では聞いてきた。若い審査委員(?)のひとりが、あきらかに助け舟として「新領域を作ると言えばいいんですよ」と大きな声で言っていたが、これは僕の絶対譲れない線だったので、言っている意味は分かったが、従わなかった。

パートナーの八杉は、もし本当に採択されたら、僕の健康が大変なことになるのではと心配していたし、僕自身も、これが採択され、大型資金にまつわる「風習」に完全に従っていたら、本当に人文学者が喜ぶオープンソースのツールを作るという方針で作っていたSMART-GSが死ぬ、とおもっていたので、最後の拘りだけは絶対に譲らなかった。しかし、それもあって(というか、それが最大かも…)、協力してくれた仲間には悪かったのだが、2回とも面接で落ちて、それで3回目はやらないことにした。

その後は、比較的僕一人の意見で自由になる小さい資金をもらって、SMART-GSの開発を続けた。そういう中で、橋本君が大学に帰って来て、デジタル・ヒューマニティをやることになり(最初はドイツ数学教育史の予定だったのだが…。でも、変えてよかった)、新学術領域の申請の際には、全く考えもしなかった「学習ベースの古文書のクラウド翻刻」という技術によって、そのころ将来是非やりたい、そんなものが出来てい欲しいと思っていたことが出来つつあるというこは、実にすばらしい!

おそらく、このまま上手く行くだろう。地震史料、くずし字の江戸期以前の古文書という、現在の条件がなくなったら、どうなるか、という問題はあるのだが(たとえば、田辺元史料では、こういうことは起き得ない。 :-D)、おそらくは、地震史料ではなくても、「くずし字の鎌倉から江戸期の古文書」の殆どでは上手く行くのではと思う。

そのためには、広報が大切なのだが、「みんなで翻刻してみた」の様なものは、それに大きな貢献をするだろう。

最初、放映の話を聞いたときは、古地震研究会の様子など放送しても、何も面白くないのではないかと訝しく思っていたのだが、実際の放送を見せてもらうと、予想と全く違い、ドワンゴがシナリオを作り、NHK第2(Eテレ)の語学講座か何かのように作り上げていた。そういうものを見たい人には、面白くみられるようにできていたのである。

「講座」なので、これも「まなび」のシステムの一つである。橋本君の「学びベースのクラウド・ソーシング」の体系の一つに入るだろう。まだまだ、「学びベースのクラウド・ソーシング」は色々と拡張できそうだ。これからの進展に期待したい。

と他人事のように書いているが、橋本君が京都からいなくなるので、彼が帰って来てないときなど、僕がかわりに時々でも古地震研究会に参加することになった。で、崩し字の勉強をしなくてはならない。大変だ…… ;-)


2017年2月25日(土曜日)

みんなで翻刻

カテゴリー: - susumuhayashi @ 18時10分42秒

またまた久しぶりに、ブログを書いている。

今日と明日は入試監督で、そのストレスが書かせている面がある。 ;-)
#続きを書いているのは、もう試験が終わった26日の深夜

それで思い出すのが、確か3年前の入試監督の日のこと。文学部では、色々な研究所の人たちが、入試監督の手助けをしてくださるのだが、この年は、それが宇治の防災研だった。

その助っ人の一人が、防災研地震予知研究センターの加納さんで、彼が「SMART-GSを作っている方ですよね」と切り出したのには驚いた。

なんでも江戸期以前の古文書から、地震の情報を引き出すという研究分野があるという話で、それにSMART-GSを使えないかということだった。

東北の震災から間もないころであったし、何より歴史学が人命を救うかもしれないというのが良い。
#実は歴史学は国境線を決定したり、戦争責任を決定したり、凄くプラクティカルな学問。

あの悲惨な津波の半年ほど前だったか、確かアメリカ(もしかしたらカナダ?)のドキュメンタリで、北米の北西部を高さ10メートル超えの大津波が襲った跡が、上流の河岸の地層の発掘で判明し、今は、学校などでも避難訓練をしているというのを見た。

東北の津波の映像を見ながら、この番組を思い出し、もしかして、日本でも、あの番組で紹介されていたのと同じことができたのではないかと思っていたら、貞観地震というのが記録されていて、それと殆ど同じ地域が被害にあったことが段々と報道されるようになり、「ああ、またか、この国は…」と暗澹たる思いをした。

そういうなかで、こういう話があり、大変興味を持ち協力を約束した。もしかしたら、歴史が人命を救うかもしれないのである。素晴らしいことだ。

その後、京大古地震研究会を主宰している理学研究科の中西さんが、研究室に尋ねて来てくれて、地震学には現代地震学、古地震学という分類があること、地質学を使う考古学的古地震学は、情報が得られるタイムスパンが何百万年になる一方で精度が100年単位くらいになる。一方でスパンが1000年単位に減るものの古文書による古地震学は精度が数時間になり、現代地震は精度が秒単位だがスパンが100年単位となる、というような話や、南海地震があると土佐の地盤が一端下がるため高潮が増える、それが数十年かけて戻るということも、高潮被害についての古文書記録を見ていくとわかる。だから、「地震」というキーワードがある文書だけ読めているだけでは足りないというような、非常に興味深い話を教えてもらえた。

その話は、まさに、我々情報屋がビッグデータやIoTの様な世界でのヘテロな情報の質と量のトレードオフにもっている感覚に似ていた。そういうのをどう上手く組みあわせて有用な情報を引き出すか。それが問題なのである。

これは、まさに情報技術を適用するにうってつけの分野だと思い、非常に強い関心を持ち、まだ、学位論文のテーマを決めかねていた院生の橋本君に、こんな重要な分野がある、将来的にきっと重要なものとなる、などと話した。

橋本君は、僕が彼を京大古地震研究会に送り込んだようなことを言うが、これは間違いで、そんなことをした覚えはない。単に、重要な分野の存在を伝えただけで、後は、橋本君の自由意志で進んだこと。

いずれにせよ、橋本君は、以後、京大古地震研究会に参加するようになり、今や、その主要メンバーの一人。

そして、その後の橋本君の様々な頑張りが実を結び、加納さんと僕の「入試監督での邂逅」は、「みんなで翻刻」という大きな成果を生みつつある。

この成果は、1月にプレス・リリースされたのだが、何故か、入試一日目の土曜日の京都新聞夕刊1面に掲載されていて(これが電子版)、それで入試監督と重なり、思い出して、このブログを書いている。

現在まで、くずし字古文書の crowd-sourced transcription、つまり、みんなでやる翻刻は、成功したものがない。現代の印刷物でも、青空文庫ぐらいだろう。

まだ、公開して間もないので、まだまだ予断を許さないが、みんなで翻刻は、その最初の成功例になりそうだ。

今の所の成功のポイントは、橋本君の発案の「学習ベース」のクラウド翻刻にしたこと。つまり、くずし字解読のスキル上達ができる「みんなと交流できるまなびの場」であることが、成功しつつある理由だろう。

これは、橋本君が研究協力者、加納さんが分担者で、僕が代表の科研費基盤B「古文書のWEBを目指して」での成果だが、僕は代表として、お金の管理をして、後は、時々、橋本君に指導教員としてコメントする程度で(「みんなで翻刻」は橋本君の学位論文で大きな部分を占める)、橋本君、加納さん、中西さんの研究成果。

名前の発案者は中西さんだそうだが、設計やコーディング、改造は、橋本君ひとりでやっているが、これは京大古地震研究会なしでは考えられないものなので、古地震研究会を始めた中西さんや、加納さんの貢献は大きい。とくに、加納さんは自身が、WEBベースの古地震研究サイトを作っていて、みんなで翻刻も、そちらのサイトでのサービスらしい。

ただし、京大古地震研究会のサイトは、僕が代表の東大地震研の共同利用のプロジェクトの成果です。とはいっても、これもプロジェクトメンバーの加納さんの活躍がすべて。僕は資金集め以外は威張れない。(^^;)


2017年1月27日(金曜日)

哲学の道と西田幾久彦さん ( 1月29日に大幅編集)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時28分31秒

今週、木曜日は、西田記念館より館長の浅見先生たちが来訪。予定していた仕事の相談は順調に進んだのだが、その際に、西田幾久彦さんが急逝されたと聞きショックを受ける。WEBで検索してみたら武蔵高校の卒業生物故者リストを見つける。昨年の11月に亡くなっていた。

西田幾久彦さんは、西田幾多郎のお孫さんで、直接お会いしたことはなかったが、9月ころだったか、哲学の道と西田幾多郎の事で電話でお話し、機会をみて林が訪ねていく約束をしていた。その時、お見せしようと、あるものの写真を探していたのだが、それでボヤボヤしている間にお会いできないことになってしまった。

左京区田中上柳町の西田幾多郎旧宅の一部保存の活動をやっていたとき、西田が哲学の道を散歩しながら哲学したという証拠がない、という話を新聞記者さんたちにすると、一様に驚かれた。

僕は、哲学の道歩勝会の方に、「実は少し場所が違うらしい」と聞いていたこともあって、記者さんが皆の様に驚くということに驚き、少し調べて、高山のエッセイを見つけて、6月24日の投稿、哲学の道と西田を書いた。

それを見た、読売新聞日曜版名言巡礼の担当者が興味を持ち、こういう記事になったのだが、それを見た幾久彦さんから、西田記念館を通してコンタクトがあり、電話でお話をした。

何でもおともだちが読売日曜版の記事を読み幾久彦さんに電話をしてきてくれたと言うことで、結論から言うと小さいころに御爺様の兵児帯にぶら下がるようにして、哲学の道あたりを歩いた記憶があるということであった。

検証は必用だが、西田幾多郎が哲学の道を散歩したという、唯一といっても良いほどの確実な証拠だろう。

その検証のための写真探しの間に残念なことになったわけだが、初めての電話ながら波長が合ったというか、話が弾み、その他にも色々と教えていただけたので、調べつつあったことも含めて、記憶が薄れる前に記録しておく。

幾久彦さんのお父様の外彦さんは2回召集を受けた。幾久彦さんの手になるエッセイ「祖父の思い出」(西田全集月報昭和41年7月、下村「西田幾多郎 -同時代の記録-」、pp.294-297)によると、一回目が幾久彦さんが小学校4年のときで、二回目が中学校の時とのこと。一回目がおそらく1938年前後だろう(小学校の就学年齢資料)。

上記のエッセイや電話でのお話によると、週末になると、幾久彦さんは、芦屋の自宅から京都まででかけ、御爺様や御婆様から、漢文などの古典や英語の教育をうけ、また、京都の名所旧跡を訪ねた。西田の交友関係などから、通常は拝観できなかったお寺なども見学できたらしい。これは幾久彦さんが書かれたエッセイにも書かれている事実。

その訪問先に、どうも哲学の道あたりの寺院か神社などが含まれていたらしい。また、これとは別と思われるが、西田家は、家族で連れだって弁当も持ち、遠足かピクニックのようなものをしていたそうで、その際にも、哲学の道の辺りを歩いたらしい。

その頃の疏水(分線)沿いの道は、今のような散歩道ではなく、草が繁った田舎道であった。また、歩いていると、向こうから人が来て、「やあ」という風に手をあげて挨拶する。誰かと聞くと、大学の関係者とのことだったという。疏水沿いは、やはり昔から散歩道で、京大関係者は多く歩いていたことが推測される。

これらの際に、祖父の兵児帯に手をかけながら歩いた記憶がある、と仰っていたが、小学校4年の時の話にしては、兵児帯に手をかけて歩くというのは、些か幼い。おそらくは、もっと前に、つまりお父上の召集の時ではなくて、西田家のピクニックの際の話なのかもしれない。

人の記憶というものは曖昧なもので、時期場所など、改めて調べてみると自分の記憶と異なって驚くというのは、齢を重ねている人ならば共感してもらえるだろう。(^^;)

それで、こういう記憶から歴史的な情報を引き出すには、必ず史料による裏付けが必要となる。

幾久彦さんからは、この話を、どこかに書きますか、このままにしますか、と聞かれたのだが、もちろん放置というのは歴史の虫が許さない(^^;)。お話をしながら、幾つかの点を確認する必要があると考え、凡その調査計画を組み立てられたので、どこかにちゃんとした文章として出したいので、書いたら、西田哲学館の山名田さんを通してお送りしますので、ご覧いただけますか、また、機会があったらお会いしたいのですが、というと、東京に用事があったときにでも訪ねてきてくれれば、という話だった。

それで、色々調べ始めたが、手がかかりがなかなかなく、多忙に追われて先に進めることができずにいた間に幾久彦さんにお会いできないことになってしまった。

では、何を調べていたかというと、それは昭和のころの蹴上周辺の風景。より正確に言えば、山科を通って京都に入った琵琶湖疏水の蹴上・岡崎あたりの様子の変遷。

哲学の道は、琵琶湖疏水分線の一部分だけを言い、疏水の周辺を歩いたからと言って、現在の、哲学の道の辺りを歩いていたとは言えない。僕は西田は京大農学部あたりの疏水沿線などを歩きながら哲学した可能性は高いと思っている。それならば、6月24日の投稿、哲学の道と西田に引用した高山の証言と非常に整合する。

実は、お名前などの記憶があいまいで思い出せないのだが(ハッキリおぼているのは、現役時代は瓜生山学園で教務の仕事をしていましたと仰った点。確か教務課の課長さん?)、かなり以前、哲学の道歩哨会の幹部らしい方から、突然研究室にお電話があり、哲学の道沿いのマンション建設を防ぐ方策など相談を受けた。その時、その方が「実際は若王子のあたりを歩かれたらしいですが」という意味のことを言っておられたので、哲学の道を西田が歩いたという証拠は本当は無いのだろうと思うと同時に、哲学の道というのは、実は琵琶湖疏水分線の、かなり限定された領域であることを、その時始めた気が付いたのだった。

だから、この哲学の道の関係者の方のように、厳密に言うならば、本当に西田幾多郎が哲学の道を歩いた証拠を見つけるのは、実は、それほど簡単ではないのである。

一般には、僕もそうだが、疏水分線全部を哲学の道、あるいは、それの「延長」位に思っているのが普通だと思う。それで幾久彦さんにも、それを少し言ったのだが、意図が伝わったかどうか怪しかった。観光地図でもお見せして、説明しないと、この話は、そう簡単には理解できない。一般的認識と公式の定義がずれているのだから仕方がないのである(京都では、他にも同じようなのが色々とある。大学近くの吉田本通は、どうも国土地理院の名称では吉田東通というらしい。そして、ビリケン理髪店があった狭い道が吉田本通らしい。しかし、タクシーの運転手さんなど、皆、吉田東通を吉田本通と呼ぶ。こういうの他にも沢山ある)。

そこで、幾久彦さんに、「御爺様と、どの辺りまで、歩かれたのですか」とボンヤリした質問をしたら、「疏水が山から下りて来るところまで歩いた」という、非常に面白いお返事だった。

こういう印象的な言葉で語られる記憶は、それから何かの情報を引き出せる場合が多い。しかし、「疏水が山から下りて来るところ」という言葉で表されている記憶の意味を明らかにしなくてはいけない。こういう時には、何かの構造的誤解が入っていることが往々にしてあるのからだ。重要な記憶が、字義どおりに解釈しては誤解のもとになるような言葉で語られていることが多いのである。その「誤解の構造」を史料を使って解きほぐしていく、それが史料ベースの歴史学なのである。

これはTVのサスペンスものなどの推理のシーンが好きな人にはお分かりいただけると思う(^^;)。実は、史料ベースの歴史学研究は、そういうドラマの探偵の調査・推理にすごく似ている。しかも、歴史はフィクションではなく現実なのだから、解きほぐせたときには、凄く嬉しい。 :-D

話を戻しまして…

そこで、地図で調べると、琵琶湖から山科盆地を通って京都市街に入った疏水・疏水分線は一箇所を例外としてフラットであり「山から下りて」こないことが分かった。

そして、その唯一の例外が、僕が通勤の時に、何時もの様に通る蹴上の発電所の辺りなのである。ここは、疏水を挟んで動物園の「向い」でもある。

実は、西田幾多郎は、動物好きで、動物園も好きで、良くお嬢さんたちを岡崎の動物園に連れて行き、お嬢さんたちが大きくなってからは、それが途絶えていたが、幾久彦さんが少し大きくなって、動物園行きが再開されたことが、お嬢さんたちのエッセイでわかる。この辺りのお嬢様たちの描くエピソードがなんとも微笑ましく、読んでいてついニコニコしてしまうのだが、どうやって左京区田中から、岡崎の動物園まで行ったのだろうかというのが、前から気になっていたのである。電車が、それとも近衛あたりをテクテク歩いたか…

しかし、この蹴上の辺りまで、兵児帯にぶら下がって歩くような、小さなお孫さんと散歩をしていたのならば、この動物園へのルートの問題も解決する。

夜間動物園にも行ったとあるので、この様なときは電車やら街中を歩いたりであったろうが、幾久彦さんが言う、田舎道を通ってのピクニックのようなものならば、銀閣寺道あたりから、疏水を辿って動物園に向かえば、遠回りにはなるが、いかにもピクニック的な経路となる。これはきっと楽しい道だったろう。今でも歩いていると疏水を琵琶湖の魚が泳いでいるのが見えたりして、凄く楽しいのだから。

哲学の道は、正確に言えば、銀閣寺道あたりで始まり、若王子橋で終わる。若王子橋より南は疏水が「地下に入る」ので、ここから西に進めば、平安神宮、美術館、などがある岡崎地域の北東に出る。そして、今度は、白川沿いに南西に下れば蹴上の発電所と動物園に辿り着くことになる。

当時は、かなり長閑な道であったろうが、今でも車は多いものの十分観光ルートになりえる道のりである。

この様な、東山沿いの長閑な道を歩いて動物園の辺りまで歩く場合、おそらく哲学の道あたりを通るのが最も自然であったろう。つまり、西田が、幾久彦さんの勉強を兼ねての散歩、家族とのピクニックの際に、狭い意味での哲学の道を歩いたことは、まず間違いない。

ただ、僕が書いていたのは「哲学の道で哲学したことはまず無かったはずだ」ということで、ここを散歩することが一度もなかったということではないので、そこの所が、幾久彦さんも、少し誤解されていたように思う。当時、すでに知られた散歩道になりつつあったらしい、哲学の道あたりを、西田が一度も歩いたことがないとえば、それはむしろ不自然なのだから。

しかし、子煩悩で家族思いの西田が、家族と連れ立って歩くときに、哲学に没頭したとしたら、それも不自然なのである。幾久彦さんも「(祖父が)denken(思索)しつつ哲学の道を歩いたかどうかはわかりません」と仰っていた。

哲学の道と呼ぶには、西田が、歩きながら、そこで思索した、それがちゃんと目撃されて記録に残っているのが理想である。しかし、あまり学問上のことに拘って無粋なのも、観光地として主に知られている「哲学の道」のような場合には困りものだ。別に西田が歩いたというだけが、名前の由来ではないらしいのだから。

そこで、西田が哲学の道を歩いたかどうかをすごく気にしていた読売の記者さんには、西田の石碑があるのだから、それで哲学の道でよいのでは、と言ったら、記事にそう書かれていた。幾久彦さんの証言で、これにさらに「哲学の道」の名前に「由来」が加わったと言えるのではないか。家族や孫と歩きなれた道を、哲学をするための散歩のときにも歩いたというの自然だろう。

跡取り息子、外彦さんの証言によると、激しい気性だった西田も、晩年には、その晩年の書が示すように、丸い人格になっていったらしい。残念ながら証拠となる史料は見つけられていないが、闘う様に歩きながら思索した「場所の論理にいたる時代」ではなく、晩年の西田が悠然と「哲学の道」を歩きながら思索をしたというのは、鎌倉時代の散歩の様子を語る女婿金子武蔵(東大倫理学教授)のエッセイの西田晩年の描写からすれば十分考えられることなのである。

エッセイ「秋風の高原に立つ 岳父さながらに」(西田全集月報昭和40年4月、下村「西田幾多郎 -同時代の記録-」、pp.276-282)で、金子は、鎌倉の家で、哲学の議論が終わって、女婿としての自分と連れ立って散歩するとき、京大名誉教授としての西田の「ワク」が外れ、高坂、下村、高山などの京大のお弟子さんたちに対する態度と違う態度となったと書いている(下村 pp.278-279)。

その様な時にも、時として西田の壮年のころまでの激しい気性が蘇り、岩波「思想」の「西田哲学特集号」(昭和11年1月号)の諸論文を評して、「文句のいえるのはやはり田辺だけで、あとは皆物マネにすぎぬ」と批判したり、おそらくは自分が京都への招請に関わったはずのB.ラッセルの品行を批判したり、杖で小石をはねとばしながら、激しく語った、という。

しかし、それは例外的であり「このような放談には少々面食らったのは事実であるが、多くの場合、物静かな回顧談であった」と金子は書いているのである。この記録は、あまり語られることが無かったように思うが、金子武蔵という人は、非常に実直な人だったというから、また、唯一と言って良い「身内の哲学者」の記録としても、この金子のエッセイは大変貴重であり、また、それからすれば、「物静かに哲学の道を歩く晩年の西田」という姿を、証拠がないと言って否定するのは間違いだろう。(もちろん、だからと言って、「そうだ!}というのは、さらに不味い。それが歴史学というものである。)

兎に角、「疏水が山から下りてきている」そういう情景を写した蹴上発電所あたりの昭和初期の写真を見つけて、それを幾久英彦さんに見て頂き、確認が取れたら、こういう話をどこかに書こうと思っていたのだが、そういう風景写真の調査などしたことがなくて、なかなか写真の目途がつかなかったのである。

しかし、正月ころに、地下鉄の駅を歩いていたら、疏水の観光ポスターが目に入った。その時、蹴上の疏水博物館ならば、たしかジオラマがあったから、それの元になった写真を持っているのではないかと思いついたのである。そう思ってAmazonで調べてみると、疏水関係の図版などがかなりあることがわかった。図書館や博物館に行くともっと見つかるはずである。授業期間が終わり、時間がとれるようになったら、博物館を訪問し、資料も調べ、その上で幾久彦さんに確認して頂こうと思っていたのだが、幾久彦さんが亡くなってしまった以上、もう確認する方法はないのだろう…


2016年10月30日(日曜日)

京都から北軽井沢へ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時01分06秒

田辺の昭和20年7月の京都から北軽井沢への移転について、調べて分かったことを記録。

実は、かなり前に分かって一度ブログに「書いた」のだが、操作ミスか何かで書いたものが消えた。

その後、色々な締切やら2週間近く続いた咽喉風邪などで書けず今日まで来てしまった。

昨日で、漸く、哲学研究に寄稿を依頼された「西田幾多郎田中上柳町旧宅について」の校正が終わったので、これを書く余裕が生まれた…

と、書きつつ、もう夜も遅いので、概要だけ書き、それにもとづいて、明日にでも詳しいデータを記録。

9月24日のエントリ「西谷啓治と田辺元」で大島のエッセイを色々と引用したが、この大島の文章がかなり間違っていることが判明。

ひとつは京都から北軽井沢への移動について、田辺が珍しく哲学以外のことなのに日記に書いているのを見つけたこと。

もう一つは、昭和20年7月の国鉄の時刻表の復刻版を手に入れて、大島の証言の矛盾が明らかになったこと。

大島の京都から北軽井沢への田辺の転居についてのエッセイは、そのイベントより遥か後に書かれていて、時間についての confusion が相当にあるらしいことがわかった。

簡単に纏めれば、大島は、同年7月のある日の朝、京都を立ち、その日の内の午後に北軽井沢に到着したかの如く書いているが、これは間違い。

このころ、全国で国鉄の急行は東京門司間の一往復のみ。特急は皆無という状況。おそらくは燃料不足が主な理由だろうが、軍用列車の優先、米軍の攻撃など、色々な理由があったはず。

いずれにしても、昭和20年7月の時刻表によれば、こういう状況下で、最短ルートの中央線経由をとったとしても、その中央線が、一日に4往復しかないという状況。

田辺夫妻、大島、西谷の4名が京都から群馬県北軽井沢に向けてとったルートは、京都から名古屋まで東海道線、名古屋から塩尻まで中央線、塩尻から篠ノ井まで篠ノ井線、篠ノ井から軽井沢まで信越本線、そして、国鉄軽井沢の向いのある新軽井沢駅から北軽井沢まで、草軽電鉄、という経路であったことは、おそらく大島の記述どおりだろう。

田辺の日記には、大島が書いたような完全なルートの記述がないが、田辺の記述は、大島の記述と矛盾しないし、昭和20年の状況からして、他の可能性は考え難い。

ただ、田辺は、朝に京都を出立し、あくる日に北軽井沢に到着と書いている。

大島のエッセイが、「田辺元 思想と回想」の中の一編として出版されたのが、1991年。

大島が亡くなったのが、1989年で、大島の原稿を元に返事達が最終版を書いたらしい。

たとえば昭和が平成に変わる1989年に、その原稿を大島が書いたと想定すると、44年前の出来事を記憶をもとに再現して書いたことになる。

つまりは、還暦を過ぎた大島が、自分の20代の出来事を書いている。

還暦を過ぎた我が身として、考えてみると、そんなに正確に日時を思い出せるとは思えない。

まあ、そういう能力を持つ人もいるが、晩年はアルコールが過ぎたのではないかという人もいる、大島の場合は、おそらくは、質的出来事は記憶に強く残りながら、日時の様な量的な記憶が曖昧になっていたのだろうと思う。

あるいは、大島の死後に、大島の原稿を編集をした人たちが、昭和50年代の感覚で、大島のテキストを勝手に変更していしまったことも可能性としてはある。

しかし、ひとつの日の間に移動することと、一夜を経て移動することには、質的と言っても良い差があると言える。

その様な、質的差異を、何故、大島の記憶は混同してしまったのか?

もし、駅のベンチで一夜を過ごす、あるいは、途中下車して旅館かなにかで一夜を過ごすということがあれば、質的出来事として、記憶に残る可能性が高いが、それへの言及がないのである。

それが疑問だったのだが、昭和20年7月の中央線の時刻表をみて、その理由と思えるものが判明。

名古屋からの、一日4往復のみの中央線の最後の列車が夜汽車なのだ。

京都から名古屋への東海道線の列車の時刻を見ても、おそらくは名古屋駅に到着して、そこでかなり長時間を過ごし、その後で、中央線の最終列車に乗ったと思われる。そして、その最終列車が夜汽車なのである。

今は、贅沢な寝台列車は別として、夜汽車というのは無いのではないかと思うが、僕が20代だったころには普通にあった。それは、今で言えば深夜の長距離高速バスのようなもの。

昼の連続として、昼間に来ていたものと同じ衣服のまま、列車の椅子の上で一夜を過ごす。そして、早朝、目的地について、そのまま活動を始める。それが「夜汽車」である。

学生時代に、夜汽車を何度も使っていた経験からすると、その様な「夜」は、前の夕刻や、次の朝に連続している。

僕の場合だと、次の日の朝に連続的につながっている。

おそらく、これがほぼ半世紀の時間の後に、大島の記憶を錯誤させた原因だったのであろう。

ということで、大島の錯誤の原因と思われることのみ書いて、その詳しい所、史料ベースの詳細記録は、次回!


2016年9月24日(土曜日)

Russell と伝統論理学についてもう少し覚書

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時30分02秒

Russell, The principles of mathematicsにおける伝統論理学への言及で、講義で使えそうなところを幾つか記録:

Claas と class-concept (extension v.s. intension)
Chap. II
B. The Calculus of Classes
§21. The insistence on the distinction between and the relation of
whole and part between classes is due to Peano, and is of very great
importance to the whole technical development and the whole of the
applications to mathematics. In the scholastic doctrine of the syllogism,
and in all previous symbolic logic, the two relations are confounded,
except in the work of Frege*. The distinction is the same as that
between the relation of individual to species and that of species to
genus, between the relation of Socrates to the class of Greeks and the
relation of Greeks to men. On the philosophical nature of this distinc-
tion I shall enlarge when I come to deal critically with the nature of
classes; for the present it is enough to observe that the relation of
whole and part is transitive, while e is not so : we have Socrates is a
a man, and men are a class, but not Socrates is a class. It is to be
observed that the class must be distinguished from the class-concept
or predicate by which it is to be defined: thus men are a class, while
man is a class-concept. The relation e must be regarded as holding
between Socrates and men considered collectively, not between Socrates
and man. I shall return to this point in Chapter VI. Peano holds
that all prepositional functions containing only a single variable are
capable of expression in the form “x is an a,” where a is a constant
class; but this view we shall find reason to doubt.

Categorical proposition についての議論:
命題の基本を subject, copula, predicate で考えるのはおかしい。
動詞を無視している。という議論。
 "Socrates is a man" を、
 Socrates | is | a man ではなく、
 Socrates | is a man と divide する。
Chap. III: Implication and formal implication
§43. Assertions
It has always been customary to divide propositions into 
subject and predicate ; but this division has the defect of omitting the
verb. It is true that a graceful concession is sometimes made by loose
talk about the copula, but the verb deserves far more respect than is
thus paid to it. We may say, broadly, that every proposition may be
divided, some in only one way, some in several ways, into a term (the
subject) and something which is said about the subject, which something
I shall call the assertion. Thus “Socrates is a man” may be divided
into Socrates and is a man. The verb, which is the distinguishing mark
of propositions, remains with the assertion ; but the assertion itself,
being robbed of its subject, is neither true nor false. In logical dis
-cussions, the notion of assertion often occurs, but as the word proposition
is used for it, it does not obtain separate consideration. Consider, for
example, the best statement of the identity of indiscernibles: “If x and y
be any two diverse entities, some assertion holds of x which does not
hold of y.” But for the word assertion^ which would ordinarily be
replaced by proposition, this statement is one which would commonly
pass unchallenged. Again, it might be said: “Socrates was a philo=
sopher, and the same is true of Plato.” Such statements require the
analysis of a proposition into an assertion and a subject, in order that
there may be something identical which can be said to be affirmed of
two subjects.

Termについての議論:Chap. IV: Proper names, adjectives and verbs.
§46. Proper names, adjectives and verbs distinguished
§47. Terms
Whatever may be an object of thought, or may occur in any true
or false proposition, or can be counted as one, I call a term. This,
then, is the widest word in the philosophical vocabulary. I shall use
as synonymous with it the words unit, individual, and entity. The
first two emphasize the fact that every term is one, while the third is
derived from the fact that every term has being, i.e. is in some sense.
A man, a moment, a number, a class, a relation, a chimaera, or anything
else that can be mentioned, is sure to be a term ; and to deny that such
and such a thing is a term must always be false.
§48. Things and concepts
 Among terms, it is possible to distinguish two kinds, which
 I shall call respectively things and concepts. The former are the termsindicated
 by proper names, the latter those indicated by all other words.
§49. Concepts as such and as terms


A relation is not a class of couples

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時43分07秒

Tuple を使うと、アリストレス論理学の Categorical proposition だけで、RDBあるいは Datalog の方法を使うと、述語論理の論理式をシミュレートできるが、

But this derivation (上でシミュレーションと読んでいるもの)fails, as Russell points out, because the selected
couples tacitly exhibit, in the order of their presentation, the very relation they are called on to define.
The notion of relation cannot be reduced to that of class; it must be treated as primary.

という、Skidelsky “Ernst Cassirer” 2008, p.60 の記述は、Russell, The principles of mathematics, Chap. IX,
§98. A relation is not a class of couples を指している。


西谷啓治と田辺元

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時58分54秒

今、日本哲学史専修の紀要に投稿する「西谷啓治と田辺元」という論文を書いていて、そのために久しぶりに「田辺元 思想と回想」(筑摩書房、1991)を読む。これに昭和20年に定年退職した田辺が、その夏、京都から北軽井沢大学村の山荘に疎開というか、引っ越すときの情景が書かれていたと記憶していたので、それを論文で引用するために調べるため。

この論文は、実は田辺と西谷の間柄が、西田と西谷の間柄より、遥かに親密であり、実は哲学の理論上でも、西谷に「否定的」な意味で田辺の影響があることを示すというもの。西谷と田辺は、西谷が波多野の退職の後に講師となってから、非常に多く議論したらしい。しかし、その割には、西谷の哲学に、田辺の哲学の直接的影響の形跡を直接的に示す証拠は、ほとんど見られないのだが、面白いことに、最晩年の「空と即」には、田辺を意識したとしか思えない用語の使い方などが多くみられるのである。そういうことを書いている。

田辺と西谷の議論の逸話を最初に読んだときに印象的だったのが、田辺は、そのころ病気がちで、毎日、一日の半分位は寝込むほどの状態ながら、京都から北軽井沢まで、田辺と西田の二人が延々と哲学の議論をしていたということ。

数年ぶりに、その本を読み返してみて、この田辺とその夫人の京都から北軽井沢への移住の際の逸話の著者が、大島であったことが分かった。また、西谷による田辺についてのエッセイも、数年ぶりに再度読む。この数年で、京都学派への理解が各段に深まり、以前、読んだときの印象と大きく違い、沢山の情報が得られたという気がする。

まだ、当時の時刻表など調べてみないと良くわからないのが、北軽井沢に、まだ日があるころに到着している点。学生時代、普通を乗り継いで、東京から広島県の郷里まで帰るということを何度かやってみていたが、その経験からすると、もっとかかったのではという気がしていたのだが、日本の内陸部、つまり、中央線などを使い、京都から北軽井沢まで移動すると距離的には案外近く、東京と広島県との距離より随分近いのに気が付く。

その京都から北軽沢へのルートが気になっていたのが、田辺が東京の焼け野が原を見ていたかどうかという点。大島の記述から、やはり中央線を通るルートで、田辺は出身地の東京の米軍の爆撃による焼け野原を目撃していないことが分かった。これは、そうではないのかと思っていたが、一方で、東京より酷かったとも言える名古屋の焼け野原は見ていた可能性が高い。

正直に言って、日本の京都を除く、大都市の焼け野が原を見れば、太平洋戦争というものが、この日本の伝統に対して犯した限りない罪が見えるはずなのだが、そういう気持ちが戦後の田辺の著作に一切見えない。そのことが、僕には非常に違和感としてあって、きっと、昭和20年の日本の大都市の惨状を、田辺は見ていないのではないかという仮説を立てていたのだが、これはどうも間違い。

どうも、田辺や西谷は、そういう惨状を無視する人たちであった可能性が高い。それは大島が岐阜当たりの駅舎がB29の焼夷弾で燃えているのに驚いている様に、田辺、西谷が、しょうがない奴だという風な顔をして、大島の様を一瞥し、自分たちは哲学の議論を続けていたという大島の記述からわかる。明治人の特質か?

いずれにせよ、久しぶりに「田辺元 思想と回想」を読んだことにより、西谷と田辺の人間的な近さが、間違いなく確認できた。
それにより、京都学派の文化史的な理解は、まだ、殆どなされていないのだという感を強くする。


2016年9月19日(月曜日)

Markus Rehm

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時46分33秒

パラリンピックが、突然、NHKなどで大きく取り上げられるようになったので、あれあれ、と思ってみていた。
義足などによりサイボーグ化した人が、その努力と知恵により、所謂「健常者」というものより高い能力を獲得するという
話はかなり前から知っていたので、講義で、「近い将来、高い能力を得るために自ら手脚を切断する人がでる」などと
言って、案の定、男子学生から、それはあり得ないという反発、女子学生からは、賛同を得たりしていたのだが、
このRehm という人のことは知らなかった。

で、NHKスペシャルで、この人の事を取り上げたのが分かったので、NHK オンデマンドで見たら、何故か、
取り上げられいない。幸い、YouTube で番組を見ることができて驚愕&感激!

脳の働きまで変えて、飛んでいる!

踏切の方法が全く違うらしいので、Rehm と「健常者」のジャンプが同一のものとして扱われるのは、
確かに、unfair だが、この人の記録が無視されるのは、さらに unfair と言える。

どういう条件下であり、人力だけで、どれだけ遠くに跳べるか?

そういう競技があっても良い。その時、「健常者」も、例えば水泳で疑問視されたスイムスーツとか、
あるいは、さらにフィンとか、そういうものを使っていいとしたらどうか?

そういう条件下で、「健常者」と、Markus Rehm が競う姿が見れたら素晴らしいだろう。


2016年7月27日(水曜日)

Google 東京オフィスなど

産業総合研究所の人工知能の社会インパクトプロジェクトの一環で、TensorFlow など、Google の機械学習への対応の話を伺うために、Google 日本オフィスのGCP(Google Cloud Platform)部門を訪問。佐藤一憲さんから色々教えて頂く。パロアルト的立場からは、実に自然な流れであることがわかり納得。大変良い方向に進んでいるという気がする。ただ、これは「機械が職を奪う」という方向に繋がらないとも限らないと言う懸念も抱く。少数の機械学習の「職人」+マシン(AI)が、多くの「職人」を代替する可能性がある。

この時、MITのAutor教授が言うような、別のセクターの職がどれだけ生まれて来るのか、それが問題。Autor氏の主張では、アメリカの農業労働人口が劇的に減少したかわりに、工業の労働人口が爆発的に増加したわけだが、この工業セクターでの労働人口にあたるものが、まだ見えない。それが Autor 「理論」の弱いところ。果たして何か、生まれるか…

この訪問の前に、僕の研究室の出身で Google で働いている清水君と会う。Google Culture Heritage の相談で、京都に来てくれたのが、もう数年前で、それ以来。

彼との話で面白かったのが、サンフランシスコのイメージの、清水君と僕とのズレ。清水君によると、最近、サンフランシスコについての歌を聞いて、その歌詞にサンフランシスコが、ロマンチックな場所の様に歌われているのに違和感があったらしい。僕は長らくサンフランシスコを訪問してなかったので、分かってなかったが、どうもアジアの沸騰都市の様になったサンフランシスコは、2000年代に始まったらしい。だから、清水君は、それしか知らない。

そのために、10階建て以上の建築など、殆どなかったサンフランシスコの風情は、清水君には無縁のものらしく、それで僕などが抱く昔のサンフランシスコのイメージに「なぜ?」と思うらしい。世界はすっかり変わってしまったことに、今更ながら思いを馳せる。

Google 訪問の後、私用を済ませた後、岩波新書の編集長の永沼さんと会って、随分前に依頼された新書の書き方の変更を相談。思いがけず、面白いと言ってもらえたので、その方針で進む。僕も、定年まで後、2年と少ししかない。アカデミズム一辺倒の姿勢から方向転換をすべき時期だろう。


2016年7月19日(火曜日)

失敗しなきゃ、始まらない

雑誌としては、唯一、良く買うアエラの7月18日号の特集のタイトルが「失敗しなきゃ、始まらない」だった。

大体、僕がいつも言っている事に近い話ばかりなので、楽しく読む。

アエラは働く若い女性をターゲットにしている雑誌らしい。創刊当時から良く買っていたのだが、長らく女性がターゲットであることを知らずにいて、連れ合いに指摘されて驚いたのが、もう10年近く前か?分かってみると、確かに女性をターゲットにした記事が多いので、納得した。

この特集の「失敗こそ最大の財産」というメッセージは、実は「お父さん」たちに聞いて欲しいのだが、ダメなのかなー。

やはり、女性に期待をかけるしかなさそう。


2016年7月11日(月曜日)

差は広がっているのか…

経済産業研究所のAIの社会影響研究のプロジェクト(中馬プロジェクト)のMLで、こういうページのリンクが流れ、日本の企業が何処にも現れないという話になったが、AIを含むITの日米の差は、そういう風な議論が無意味なほどに開いている様に見える。航空機以上の差かも?

若い人たちの中に有望な人がかなり出てきているというのが、安浦さんのさきがけのお手伝いをしていて感じることなのだが、以前、この文章で書いたように、僕の理解では、この差は社会が作り出しているところが大きい。だから、若い良い人が出始めていると同時に、差はむしろドンドン開いているのではないかという懸念を持ち始めている。

そう感じ始めたのは、中馬プロジェクトで、カリフォルニアの bay area の調査旅行の際に使った Uber のシステムと、日本のタクシー配車のシステムのあまりの差に気づいてから。

Uber で感心したことは色々とあるが、狭い意味での技術の問題で感心したのは、そのリアルタイム性の良さ。今の、GPSの性能からしたら当たり前なのだが、近くのすべての車が配車前からリアルタイムに動くのが見える。これが小さな甲虫がノソノソ動いているようで大変に可愛い。車の位置は、配車を依頼する前も見えるが、乗車した後も見えるので、実際の位置と表示される位置をくらべてみたら、すこしズレはあるものの、せいぜいが100~200メートル程度でしかなかった。

それに比較すると、MKタクシーのスマホ配車は、配車が完了するまで、タクシーの位置はわからないので、どれ位かかりそうか、全く予想がつかない。また配車後にはタクシーの位置が見えるには見えるがリアルタイム性は非常に悪い。また、配車の効率の悪さは全く信じられないほどの低レベルで、目の前に何台も空車が通って行くのに、うんと遠くの車が配車されたりする。つまり、天国と地獄ほど違う。

他のものはどうかと思って使って見た全国タクシー配車は、到着までの希望時間を指定できるなど、MKのシステムよりはましだが、これも配車前のタクシーの位置は見えないし、配車後のタクシーの位置の表示も、500メートル程度でとびとびという感じで、リアルタイムとは言い難いもの。後者が5年前のシステムで、おそらく、それから、あまり進化してないのだろう。MKはもっと前か?

どちらもタクシー会社(やそのグループ会社)が作ったシステムで、運転手さんたちの話では、スマホによる配車の率は、非常に少ないらしいので、タクシー会社も改善しようという気はないのだろう。今の Google map のGPSの性能を考えると、技術的には、信じられないほどの低性能なのだが、真剣に使うつもりがなければ、古いままで低性能というのも納得ができる。つまり、デマンドの低さがシステムの低性能を生んでいるのだろう。つまり、この文章のシナリオどおり…

一方で、Uber は、サービスとシステムで生きているのだから、ドンドン改善されているはず。導入当初が、どれ位の性能だったのか、調べてみないとわからないが、もしかしたら、生まれた時から、すでに日本とは大きく差があった可能性も高い。

イギリスのEU離脱では、若者から年寄りにむけて「我々の未来を奪わないでくれ」というメッセージが投げられた。日本でも、同じことが起きているのに、なぜ、日本の若者は、同じようなメッセージを投げないのだろうか?メッセージを投げられるべき側の世代の人間ながら、それが不思議であり、また、歯がゆくも思う。


2016年7月8日(金曜日)

さすが Google!!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 10時18分01秒

西田幾多郎旧宅の内部を Google インドアビューとして撮影して保存する件、
報道された予定日では、既に出来ていないといけないのだが、まだ出来ていない。

理由の一つは、僕がマイビジネスの登録方法を良く理解できず、
登録手続きに、もたついたこと。これで数週間位遅れた?

もう一つが、Google 社内の手続きの問題。
撮影をお願いした Google の認定会社の JTB プラネットが、
ストリートビューを担当する、マップの部門に、
消えてしまう建物のインドアビューを残してもらえるという、
異例の対応をしていただけると確認を取ってくれていた。

ところが、いざ、登録手続きを始めてみると、インドアビューには、
マイビジネスというサービスが伴っていることを、
僕を含む関係者のみんなが見落としていて、
マイビジネスの部門で建物などが消えていると
色々問題が起きることが判明。

ソフト/サービスというものは、まあ、こういうものなのです。
あまりに自由で多様だから。見落としは幾らでも置きる。
これを見落としとして批判するか、「あら見落としか、では対処しよう」
とアクションを起こす契機にするか、どちらの態度をとるかで結果は大きく変わる。

この後者がパロアルト流。その方が実は効率が良いし気楽。

で、昨日、JTBプラネット社の大西さんから
研究室に電話があり、マイビジネスなしで、ストリートビューだけの
登録という、今までにないやり方で、やって貰えることになり、今、
その動作確認をしています、という連絡が入った。

これは、多分何かシステムを一部書き直してくれたのではないかと思う。
ごく簡単な修正のはずだが、こういうこのために、わざわざシステムを
書き直してくれるというのは、日本の大企業では、想像し難いこと。

世界有数の大企業 Google が、1週間程度(もっと短い?)で、
そういう対応を取ってくれるというところが、さすが Google!!

以前、僕があまりに Google を褒めるものだから、Google Japan の
初代社長だった村上さんに、「Google 愛をありがとうございます」
と、からかわれたことがあった。(^^;)

まあ、それ位に、僕は、Google が好きだ。

正確にいえば、Tim Winograd さんがいう「パロアルトの
精神」が好きで、Google がその精神で行動している
ということなのだが。


2016年7月5日(火曜日)

闘う西田幾多郎 –ある同僚の証言–

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時36分00秒

田中上柳町の西田幾多郎旧宅の一部保存に関わったことで、色々と調べが進んで面白いということを一つ前の投稿で書いたが、実は、その投稿の前に書きかけて、途中で入力が飛んでしまった話を再録。

西田幾多郎「悲哀の哲学」の現場 西田幾多郎田中上柳町旧宅についてで、静かな泰斗というイメージが強い西田幾多郎が、実は壮年時代、特に京大時代、少なくとも場所の論理の前までは闘う人であり、その背景に「悲哀の哲学」があるという「新しいイメージ」を出して記述した。

で、「新しいイメージ」に括弧がついているのは、そのページでも引用した藤田正勝さんの岩波新書「西田幾多郎」などで詳しく論ぜられているように、西田の「悲哀の哲学」というイメージは、多くの専門家に共有されているイメージだと思うからである。確か、関西学院大学の嶺さんも悲哀の哲学のことを書いていたし、哲学館にいくと、吹き抜けの空間に、こういう巨大なタペストリーがかかっている。

しかし、「闘う西田幾多郎」というイメージは、藤田さんの本でも、それほど強調されているようには思えない。嶺さんの著作でも、あまりこれは強調されていないように思える。

で、「闘う西田」には妥当化というか、証拠が必要だが、その一つとして、西田のある同僚の話を記録。

それは下村の「西田幾多郎 同時代の記録」の pp.73-6の朝永三十郎の「古人刻苦光明必盛大ー西田博士の書」というエッセイ。オリジナルは西田全集、昭和26年10月月報。

朝永三十郎は、西田と一歳違いで、西田が京大哲学の教授であった時代に、哲学史の教授であった人。京大文への赴任は西田の1910年より三年早い1907年(明治40年)。

この人が、次のような面白い話を残している。実は、大半は「闘う西田」とは直接の関係はないのだが、こういう人物の証言ならば信用できるだろうという意味で、これをここに採録。

———–
私の長男が家庭を離れて東京で独立の修業生活を営むことになつた際、私は西田さんに、何か若い者を鼓舞するやうな言葉を、と言つて揮毫を願つた。気軽るに引きうけて数日後に持つて来て呉れられたのは、「古人刻苦光明必盛大」といふ慈明和尚の語であつた。それを掛け軸に仕立てたのを長男は、下宿の自分の部屋の床の間に掛けて居たらしかつたが、どれくらゐか経つたあとに帰省した際、家内に、あの軸を掛けて置くと何だか始終叱りつけられてるやうな気がして、苦しくて仕様がないから、折角いただいたのだが、何か外のものに取りかえてほしい、と言つて代りの軸を持つて行つた、といふことであつた。
 その後このことを西田さんに打あけたところ、西田さんは一寸軽い感動の色を示したやうであつたが、ただ静かに、さうかと言つただけであつた。それで私は、此語が与へるこの様な圧迫感は語から来るのだらうか、筆の力から来るのだらうかと問ふて見たところ、語の力さ、といふ簡単な答へであつた。(あとで考へると、私のこの問は甚だデリカシーを欠いた問であつたといふことに気づいたのであつたが。)その後鈴木大拙さんに会つた際私は、何かの話しのきつかけに此事を話し、且つ同様の問をかけたところ、それに対する答へは、そりや筆の力だよ、といふのであつた。これは西田さんなほ存生中のことである。
———–

この後、朝永は、「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたのである。

朝永三十郎という人は、軽妙洒脱な人であったのではないかと思う。今、京都学派アーカイブの新版の用意をしているが、そのトップページには、西田、田辺を始め、朝永を含む20数名の思想家たちの肖像写真が並ぶ。その写真群の中で、ある意味で最も異彩を放っているのが、朝永三十郎の写真である。

朝永の写真で解像度が良いもので著作権処理ができそうなものがなかなか見つからなかった。解像度が比較的良い写真の朝永は、何故か奇妙な服装をしていたが、それを使うことにした。しかし、変な服装だなと思って、よくよく見てみると、朝永が着ていたのは割烹着らしいのである。キャプションによると、どうも鰻の蒲焼を作っている際の姿らしい。僕等のような「旧帝大の小遣い同然の、現代の旧帝大の教授」と違って、朝永の当時の教授職の地位は高かった。そういう人が割烹着を着て料理を作り、その写真を撮らせるというのは、拘りが少ない、自然な人だったはずである。

三木が西田を「激しい魂」と呼んでいるが、三木自身が激しいので、少し割り引いてしまいたいところがある。しかし、朝永が「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたものは額面通りに受け取れると思うのである。

ところで、西田が書いた古人刻苦光明必盛大とは、猛烈に精進せよ、という意味である。その西田の書に「叱られているようで苦しい」といった、朝永の長男というのは、後のノーベル賞物理学者朝永振一郎である。東京での修行生活というのは、1931年に理科学研究所の研究員になったことをいうのだろう。そうすると、このとき朝永三十郎は60歳、西田は61歳である。

朝永振一郎が1965年に日本人として二番目のノーベル賞を受賞したき、新聞で朝永の写真を見た。それはまな板の上で大根か何かを切っている図で、料理は遅いが上手なのだ、という説明がついていた。まだ子供で、家庭科以外では料理をしたことがなかったが、それを何か妙に好ましく思ったのを思い出す。


2016年7月4日(月曜日)

村山知義と戸坂潤

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時59分59秒

このところ京都学派の人脈を調べ続けている。

京都学派の研究を続けているが、僕が見たいのは、本当は、近代というものの正体。つまり、モダニズム研究、近代化研究が、僕がやりたかったことで、それで理系・工学系の学問を止めて、人文学に移った。

京都学派の時代と、その周辺を知ることは、哲学における近代を見ることに通じ、それで数年で止める筈の田辺元研究が、西谷、西田の京都学派研究にまで発展してしまったのだが、「自分の研究は、哲学史ではなくて、哲学の思想史だ」、とは言ってみても、哲学の理解に時間と労力がかかるものだから、哲学者の哲学史とあまり変わりがなくなって来ていて、自分では、不満というか、面白くなくなってきていた。

しかし、田中上柳町の西田旧宅の保存に関わったお蔭で、なぜ、西田の現在の様なイメージができたのか、それは京都学派の世代の移り変わりから来てはいないかという仮説がでてきて、そういうことを調べる内に、大正の中ごろに、いささか上滑な哲学ブームが起こり、それもあって京都学派の隆盛があったらしいことなどが分かってきて、京都学派の研究に文化史的側面が出てきて、面白くなりつつある。

そのころの証言を讀むと、そういうことが起きたことが、当たり前であるかの様に語る語り口に出会う。これは日本文化史の、こういうことの専門家には当たり前の話に違いないのだが、果たして、現在、そういうことの専門家がいるのかどうか、実は、それが怪しい。しかし、昔存在した専門家が書籍や論文にまとめていた可能性はある。が、しかし、兎に角、見つからない。

ということで、自分で調べるしかなく、また、調べると芋づる式にドンドン史料が地中から出て来るので、面白くなってきて、今、熱中しているところ。こういう時が研究のフェーズとして一番面白い。

で、そういう話が今日(4日)、一つあったので、記録。

3日に、高坂節三さんの著書に引用されていた梯明秀のエッセイの『唐木順三が、「あそこに四天王子がいる」とささやいた』という一節のオリジナルを見るために、注文していた「回想の戸坂潤」(1976)の古書が届いたので、その目次を開いて、著者の欄に村山知義の名を見つけて驚いた。本文を読んでみると、戸坂と村山は開成中学で同級生であった。(ちなみに、この四天王子というのは、木村素衛、高坂正顕、西谷啓治、そして、戸坂のこと。場所は、p.50)

村山については、2011年に京都国立近代美術館であった、ハンガリー出身のアバンギャルド、モホイ=ナジの展覧会で、村山の著書を売っていたのを買ったのが契機で興味を持った。

この頃は、僕は、まだ自転車通勤をしていて、2,3ある通勤経路の一つが、近代美術館の前の神宮道の歩道を南行しフランス惣菜のお店「オ・タン・ペルデュ」で晩御飯を買って帰るという道だった。それで、近代美術館で面白そうな展示があると、寄り道したり、土日に出かけることがときどきあった。

モホイ=ナジは、勿論、モダニズムからの興味で、特に Ein Lichtspiel が気に入って、DVDを買ったり、同時代の日本のアバンギャルドとして、村山の「構成派研究」の復古版も売っておりこれを買って読んだのだが、数学のモダニズムと芸術のモダニズムの類似性を考える様になったのは、これが切っ掛け。それで村山には大変興味を持ち続けていた。

その村山が京都学派の文脈で出てきたので驚いたのだが、梯のエッセイなどを読むと、これらの人物の関係は、当然という感じもしてくる。要するに土俵が小さいので、大抵の人が結びついてしまうという、当時の日本の状況の、これも一例だろう。

その梯のエッセイの中に、子供の頃に親に連れられて行った昔の洋食店の雰囲気が残っているので、時々、利用する南座前のレストラン菊水の話がでてくる。今は宴会場、ダンス場になっている、僕もCMUのSiegさんが来た時にパーティを開いた3階は、昔は、バーであり、そこで三木や梯、戸田などが、一高会を開いたのだそうだ。僕が昔住んでいたアパートのすぐ近くが西田の旧宅であったように、また、田中上柳町の西田旧宅に昭和30年代に住んでいた画家・音楽家の家族が山科に建てた家が、僕が買って、今住んでいる古家だったなど、京都に住んでいると、京都学派の痕跡に度々出会う。定年退職したら離れることも考えていた、この街に住み続けることになりそうだが、その理由は、こういう所にあるような気がする。


2016年7月3日(日曜日)

植田と天野 京都学派の黎明

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時02分44秒

一つ前の投稿で、三木清こそが京都学派形成のキーマンだと書いたが、これは三木が一高から京大に来たころから京都学派というものが形成されたと言う意味ではない。これ以前に、例えば務台や三宅などがいる。

しかし、西田と京大哲学が有名になり、多くの人材が、それに引かれて集まってくる「華やかな」時代と、務台たちの時代は明らかに違う。「三木清こそが京都学派形成のキーマン」と書いた意味は、その華やかな時代の幕が三木により開けられたということである。堀維考宛に書いた手紙の一節は、西田が、その時代の「華やかさ」に違和感を持っていたことを示唆するが、この華やかさに軽薄な部分が全くなかったとは言えないものの、確かに充実した時代であったのであり、また、西田は、自分を慕って、わざわざ一高から京大文に来てくれた三木のような若者、特に三木が可愛くて仕方がなかった様に見える。

とはいうものの、こういう時代以前の、西田が京大に来る前から京大にいた人物たちのことも無視することはできない。桑木、朝永などの同僚は、それに入るが(ただ、桑木はさすがに京都学派に入れるには躊躇する。やはり、東大の哲学者というイメージが強すぎる…それで桑木は僕の意味での京都学派には入れていない)、西田、田辺を中心とする京都学派という時、やはり、同僚よりは、西田、田辺に影響を受けた人たちのことを考えないといけない。

それで、そういう人たちを、西田との関係で分類すると、次のような類があり得る。

類1.西田を慕って、京大文学部を目指した人たち。
類2.類1ではないが、西田に大きな影響を受けた人たち。

類1は、もちろん、三木、西谷、さらには学生ではないが田辺が入る。

一方で、類2の代表格としては、植田寿蔵と天野貞裕をあげることができる。この二人と西田の関係を非常に良く物語るものとして、また、何故、西田が、あれほどまでに人を引き付けたのかということを理解するために、非常に良いのが、下村の「西田幾多郎 同時代の記録」、p.103 からの植田の「西田先生」という文章、オリジナルは西田全集、昭和28年4月月報。その時、文学部の3回生であったはずの植田は、天野とともに参加した西田の京大での始めて哲学の講義(明治43年9月22日)の印象を、次のように綴っている: 

これが2時間つづくうちに、その地味な講義の、今まで聴いたどの講義とも違った思いのする、人間味と言おうか、温かさと、段の違ったような深さがありありと感ぜられた。講義が済んで、インキの栓をして立ち上がると、傍らの席にいた天野君と目が合った。どちらからともなくその2時間の印象を話し合った。言葉はすっかり忘れてしまった、その時の感じを、窓の高い広い教室の初秋の明るさとともに、今もはっきり覚えている。40年間の深い尊敬と帰依がこの日からはじまった。

戸坂潤は、西田を称揚する人たちは、結局、西田ファンなのだ、と書いたが、どうも西田哲学の内容より、西田という人の魅力が、人を引き付けたという面が、相当にあるようだ。これは三木についても見られることに注意。植田の記述も、三木の記述も、内容は忘れてしまったとか、良く理解できなかった、という風に書かれている。つまり、植田や三木の様な人たちでさえ、最初は「西田ファン」であったわけで、これは実に興味深いことといえる。

そういう人物は内容を伴わない場合が多いが、西田の場合は、そういう「人気」が先行しながら、場所の論理以後の内実が伴うところが実にユニークで面白い。要するに西田は周囲の受けなどは一切無視して、懸命に戦っていたのであり、その姿に人びとが魅かれて「ファン」になったということだろう。だから、西田自身にとっては、ファンなどいようがいまいが関係なかったのであろう。そういうところが、また、西田が人を引き付ける原因であったろう。


2016年7月2日(土曜日)

三木清と西田幾多郎

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時07分03秒

 京都学派について論じる時、常に伴う問題として「京都学派とは何か?」という事がある。
 京都学派とは西田幾多郎の思想に端を発する絶対無の哲学であるとすると、マルクス主義に傾倒した、所謂、西田左派とか言われる人たち、三木清、戸坂潤、船山信一、こういう人たちが、すべて京都学派から滑り落ちる。しかし、それは西田のお子さんたちの証言に見られる、西田が最も心配していたのが三木と戸坂のことであったという事実にそぐわない。
 マルキスト戸坂の最も親しい友人が、戦前はヒトラーを称え、その故にか、あるいは、悪名高い座談会「近代の超克」に参加した故か、戦後GHQによる公職追放にあった西谷啓治であったように、この時代の人間関係を、その後のイデオロギーの目から見ることは空しい。
 それは『後知恵』に過ぎない。そういう後知恵で、過去を裁く行為は、空しく、また、歴史学として間違いである。思想史家と自称する以上、如何に難しくとも、その時代に生きた人たちの、あるいは、それにより近いマインドで、その時代を理解したいと思う。
 もし、私のこの方法論が正しいとしたら、三木や戸坂、特に三木を西田から遠ざける如何なる解釈も妥当性を持たない。三木こそが「京都学派」形成のキーマンだからである。
 以下、三木清全集からの引用。

西田幾多郎先生のこと
三木清全集17巻、p.245
 西田先生に初めてお目にかかつたのはちやうど先生が『自覚に於ける直槻と反省』を書き上げられた頃であつた。「この書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドッキュメントである」と云はれてゐるが、先生に接して私のまづ感じたのは思想を求めることの激しさであつた。私は嘗て先生の如きほんとの意味において激しい魂に會つたことがない。
 この激しさは先生がつねに何物かに騙り立てられて思索してゐられることを示すものである。それは先生のうちに深く藏せられた闇、運命、デーモンと云つても好いであらう。先生の哲學から流れてくるあの光はこの闇の中から輝き出たものである故にそれだけ美しいのである。先生は早くからロシア文學を好んで讀まれたやうであり、つい最近にも、ドストイェフスキーは非常に面白いと話してゐられた。意味深い事實である。先生は自分自身に大きな問題を負うて生れて來られた。この問題の大きさが先生の哲學を大きくしてゐるのだと思ふ。

西田先生のことども
昭和十六(一九四一)年八月『婦人公論』。
三木清全集17巻、pp.295-312
 大正六年四月、西田幾多郎博士は、東京に來られて、哲學會の公開講演會で『種々の世界』といふ題で、話をされた。私は一高の生徒としてその講演を聴きに行つた。このとき初めて私は西田先生の馨咳に接したのである。講演はよく理解できなかつたが、極めて印象の深いものであつた。先生は和服で出てこられた。そしてうつむいて演壇をあちこち歩きながら、ぽつりぽつりと話された。それはひとに話すといふよりも、自分で考へをまとめることに心を砕いてゐられるといつたふうに見えた。時々立ち停つて黒板に圓を描いたり線を引いたりされるが、それとてもひとに説明するといふよりも、自分で思想を表現する適切な方法を摸索してゐられるといつたふうに見えた。私は一人の大學教授をでなく、「思索する人」そのものを見たのである。私は思索する人の苦悩をさへそこに見たやうに思つた。あの頃は先生の思索生活においてもいちばん苦しい時代であつたのではないかと思ふ。その時の講演は『哲學雑誌』に発表されて、やがてその年の秋出版された『自覚に於ける直観と反省』といふ劃期的な書物に跋として收められたが、この本は「余の悪戦苦闘のドキュメント」であると、先生自身その序文の中で記されてゐる。
 その年、私は京都大學の哲學科に入學して、直接西田先生に就いて學ぷことになつた。私がその決心をしたのは、先生の『善の研究』を繙いて以來のことである。それはこの本がまだ岩波から出てゐなかつた時で、絶版になつてゐたのを、古本で見附けてきた。その頃先生の名もまだ廣く知られてゐなかつたが、日本の哲學界における特異な存在であるといふことを私は聞かされてゐた。その後先生の名が知れ亙るやうになつたのは、當時青年の間に流行した倉田百三氏の『愛と認識との出發』の中で先生のこの本が紹介されてからのことであつたやうに記憶してゐる。『善の研究』は私の生涯の出發點となつた。自分の一生の仕事として何をやつていいのか決めかねてゐた私に、哲學といふものがこのやうなものであるなら、哲學をやつてみようと決めさせたのは、この本である。その時分は、一高の文科を出た者は東大へ進むことが極まりのやうになつてゐたが、私は西田先生に就いて勉強したいと思ひ、京大の哲學科に入らうと考へた。高等學校時代にいろいろお世話になつた速水滉先生に相談したら、賛成を得た。かやうにして私は友人と別れて唯ひとり京都へ行つたのである。<中略>
 その時分は九月の入學であつたが、七月の初め、私は歸省の途次、速水先生の紹介狀を持つて洛北田中村に西田先生を訪ねた。どんな話をしたらいいのか當惑してゐると、先生は出てこられるとすぐ「君のことはこの春東京へ行つた時速水君からきいて知つてゐる」といつて、それから大學の講義のこと、演習のことなどについていろいろ話して下さつた。哲學を勉強するには先づ何を讀めばいいかと尋ねると、先生は、カントを讀まねばならぬといつて『純粋理性批判』を取り出してきて貸して下さつた。その頃は世界戦争の影響でドイツの本を手に入れることが困難で、高等學校の友人の一人がレクラム版の『純粋理性批判』のぼろぼろになつたのを古本屋で見附けてきて、得意氣にいつも持ち廻つてゐるのを、私どもは羨みながら眺めてゐたといふやうな有様であつた。
 最初にお目にかかつたとき親切にして戴いた印象があつたからであらう、その後私は學生時代、月に一二度は先生のお宅に伺つたが、割に氣樂に話をすることができた。先生は自分から話し出されるといふことが殆どなく、それでせつかく訪ねてゆきながら、どんな質問をしていいのか迷つて黙つてゐるうちに半時間ばかりも時が經つて、遂に自分で我慢しきれなくなり「歸ります」といふと、先生はただ「さうか」と云はれるだけである、―― そんなことが多いと學生仲間で話してゐた。考へてみると、あの時代の先生は思索生活における悪戦苦闘の時代で、いはば哲學に憑かれてゐられて、私どもたわいのない學生の相手になぞなつてゐることができなかつたのであらう。私は通學の途中、先生が散歩してゐられるのを折々見かけた。太い兵兜帯を無造作に巻きつけて、何物かに駆り立てられてゐるかのやうに、急いで大股で歩いて行かれた。それは憑かれた人の姿であつた。先生の哲學のうちにはあの散歩の時のやうなひたむきなもの、烈しいものがあると思ふ。

 
 
 


2016年6月24日(金曜日)

哲学の道と西田

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時51分29秒

西田が哲学の道を歩いたかどうか、何か客観的証拠はないかと探していたら、高山岩男の文章を発見。

これは燈影舎燈選書13「西田哲学とは何か」に収録された雑誌「心」掲載の「西田哲学と私」(昭和54年, cf. p.260)という文章の「田辺先生のこと」pp.204-213のp.207-8の次の部分:

これより余程前からですが(注1)、先生(注2)は午後に吉田山界隈を散歩されます。戦後、私は京都を去りましたが、疎水支線の桜の並木道を「哲学者の道」と名づけていることを数年前に知りました。西田寸心先生も波多野精一先生も散歩をするが、疎水べりでお見かけすることはなく、もっと北の田圃道が多かったように思います。「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが、数年前或る人が"先生の頃から疎水支線の道を「哲学者の道」と名づけられていたそうですね"と申されたのには驚きました。私の頃にはまだそんな名称はなく、橋本関雪という日本画家が妻君の死を悲しんで桜の苗木を疎水支線に沿う何丁か植えた河べりがいい繁道となっていたのは事実です。まだ人家はまばらの時代で、私はこの近くに止宿していましたので、毎日散歩は致しましたが、「哲学の道」などという洒落た名前などはありませんでした。田辺先生もここまで足を延ばされていたかどうかは、詳しいことは知りませぬ。

注1. 「これ」とは、高山が田辺と吉田山を散策中に、種の話を聞いたという田辺研究者ならば皆良く知っているはずの逸話の時。
注2.田辺元のこと。

この文章で良くわからないのが、「「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」の、「大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」という所。おそらくは、ハイデルベルグの「哲学者の道」がネッカー川を挟んで大学と反対側にあるという意味だろうが、もしかして、この「大学側の反対」の大学が、京大だとすると、高山が「哲学者の道」を今出川通り北の疏水の部分を意識して書いたことになる。しかし、この部分は正式には「哲学の道」ではない。http://souda-kyoto.jp/map/area_04.html

公式には、東山に沿って南北に走る部分のみが哲学の道。気になるのが、高山が、西田、波多野が散歩した辺りとして「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている点。疏水は「哲学の道」の北の終点から、ほぼ東西の流れに変わり、農学部裏を通って北白川の現在は住宅地となっている地区へと続く。高山のころには、この辺りは田園であったはずで、こちらの方が「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている「北の田圃道」として自然。西田が良く散歩をするようになったのは、飛鳥井町の家に移ってからだが、現在、スーパーマーケット Grace たなかの西の裏手辺りにあったはずの、この家から現在の「哲学の道」の北の出発点までの道のりと、その出発点から「哲学の道」の南の終点までの道のりが、ほぼ同じ。ということは、現在の「哲学の道」にあたる地域を歩くために、その北端まで歩くというのは不自然なことになる。西田の散歩の目的は考えることにあったはずであり、風光明媚な風景を愛でることではなかったはずである。西田の散歩は、云わば、真剣勝負だったはずなのである。

そして、飛鳥井町から東に散歩するならば、東大路を超えて、百万遍知恩寺の裏手の辺りを通り、京大農学部の裏手辺りを歩くのが自然だろう。その時、気が向けば、さらに南に南下して、現在の「哲学の道」を歩くこともあったかもしれない。しかし、北行した可能性も高い。そう仮定すると高山の記憶に一致しているように見える。もし、高山が、当時、どこに住んでいたのか、書簡、葉書の住所などで特定できると、もしかしたら、ハッキリするのだが。


2016年6月23日(木曜日)

西田の三高寄贈書と旧宅部材の燻蒸

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時00分36秒

今日(23日)も西田幾多郎関係の仕事が二つ。

吉田南図書館の依頼で西田幾多郎寄贈の三高図書館蔵書の書き込みを調べる。
西田の筆跡とは異なるものや、西田ならば書き込まないだろう初歩的な
ドイツ語の読解に関する書き込みなど、やはり、どれも西田のものではない。
おそらく新品を買って寄贈したはずだから、西田の書き込みはないと見るのが自然
だろう。しかし、西田の墨書の筆跡が、良く知られている西田の手書き文字と比べて
非常に綺麗。本当に西田のものか、少し疑ったが、署名の特長的な「郎」の字など、
確かに西田のものらしい。他に、あの様に綺麗な楷書で書いた西田の手書き文字は
あるのだろうか?また、寄贈の時の台帳を見せてもらったが、
この台帳自体が、すでに貴重な史料と言える。

その後、博物館に行って、横山研究員に「哲学の廊下」などの部材の燻蒸を見せて
いただき、京都学派アーカイブ用に撮影もさせてもらう。燻蒸は、僕が想像していた
ものと異なり、大きなビニールのテントに部材を入れ、二酸化炭素を充満させて、
後は中で扇風機で送風するだけらしい。殺虫剤をドンドン入れるのかと思っていた。
しかし、ちゃんと殺虫が出来ているか、生きている虫を入れて確かめるというのは、
ちょっとかわいそう…… まあ、僕もムカデやゴキブリがでたらすぐに殺すから、
勝手なものだ。

キャンパス内の道路で土蜘蛛が歩いているのを見る。潰されないといいけど。
土蜘蛛というのだと思っていたが、地蜘蛛(ジグモ)の方が正式名らしい。


2016年6月18日(土曜日)

北軽井沢のひぐらし

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時33分00秒

今日は、本当に久しぶりで北軽井沢大学村を訪問。群馬大学田辺記念館の撮影をさせて頂く。

帰りに田辺記念館の管理人をされている茂木さんのご厚意で、僕の連れ合いの実家の八杉山荘を訪問。

多分、10数年振りだが、心配していたよりは、状況は良かった。

岳父が健在のころ、四人で八杉山荘の母屋から満月を仰ぎ見た時をおもいだす。

日暮らしが鳴いていた。山科のひぐらしとは歌い方が違うような…


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