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2010年7月12日(月曜日)

語りえぬものこそ語らねばならない

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時13分24秒

今日届いた新書の幾つかを読む。高橋昌一郎さんの近刊の「分析哲学者の発言」を見て、今更ながらに感じた。何故、僕は技術的には親和性が高いはずの「分析哲学系」の思想が嫌いか?おそらく、最大の理由は「語りえぬものには沈黙を守るべきだ」という態度だろう。

ソフトウェア工学とかIT人材育成とか、そういう仕事をしていると「出来ないことを行う」でなくては何の意味もないことがわかる。これの意味は本当は「完全無欠の理想状況は出来ないことは端から判っていることを、少しでもましにする」という意味だ。ハイデガーたちは「科学が語りえぬものだけ」を語り始めたが、それはソフトウェア工学とか人工知能・自然言語理解という『哲学的工学』において「プラクティカルな形而上学」として機能した。技術者が使うソフトではなくて、「社会の中で使われるソフト」を作ろう、その作り方を知ろうとしたことがある人ならば、少々気の効いたソフトウェア構築法より、「ソフトウェアには被投性がある。その投げ込まれ方の理解がソフトウェア構築には重要だ」という「抽象論」の方が、どれだけ本当に役に立つか理解できるだろう。「被投性」という気取って奇妙な専門用語が使われているのが理解を妨げるが、そうならば「ゴール」のような小説仕立てで伝えればよい。実際には、小説まで書かなくても、態度で伝わる。工学においての現場の徒弟的コミュニケーションは実に重要だ。これが出来ない「知恵」は技術としては「役立たず」になる。

こういうコミュニケーションをしてまで「伝えたい、しかし、語りえぬ、不完全でしかし現に世界を変える知恵」の存在と、それを確かに次の世代が古い世代の行動から「読み取る」という意味での「コミュニケーション」が可能であることを知っていれば、「語りえぬことは沈黙しなければならない」というテーゼがいかに硬直しているかが理解できる。

このことを考えるときにいつも思い出す話:ある人が街灯の下で何かを探している。近づいて尋ねてみた「何を探しているんですか?」「いや、500円玉をそこの暗がりで落としてしまいましてね。」「???どうして、落としたとこでなくて、ここで探しているんでしょうか?」「え?!だって、あそこは暗いじゃないですか」


2010年7月9日(金曜日)

ポイカート2:それを生きる、それを知る

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時20分10秒

なぜ、ポイカートに共感できたか?

  1. 情報工学者、私大教員、中堅国立大教員として、近代のテーゼが示すものを生きていた。
  2. 『検証論』『ソフトウェア工学』の研究者だったために、「生きる」だけでなく、「それについて考える」ことを余儀なくされていた。
    だから、「近代を生きている」だけでなく、その生きている場所と時間に埋め込まれた形の「近代のテーゼを考える」をやっていた。
  3. さらに、それを大学評価などの大学経営などの埋め込まれたものと比較する機会を偶々得ていた。根は半ばはがされていた。丁度、それと同じ位のタイミングでポイカートや社会学文献を読んでいる。
  4. だから、ポイカートを通して、ウェーバーを知り、それを通してギデンズを知れば….それは容易に脱埋め込みできますよね!

そうだ、そうだ!!

;-)

フムフム、なかなか複雑なリフレクション・メタ関係だなあ。 :-x

コラ!遊んでないで、講義資料を作れ! :hammer:


ポイカート

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時37分49秒

講義準備のために、物凄く久しぶりにポイカート「ウェーバー近代の診断」を読む。今やっていることの、あまりに多くがポイカートの史観と同じであることに驚く。ウェーバーという巨人の実像については、これで学んだのだが(「マクドナルド化…」がきっかけだから10年くらい前か?それぐらい文系オンチだったわけで…思えば遠くへ来たもんだ〜♪(^^;))、最初に読んだときに、すでに「共感」してしまっていたから、「診断のテーマ」はポイカートに学んだわけでないのだが、ポイカートから多く学んでいることは間違いなさそう。訳も良さそうだし、来年、これで特殊講義をするかな(学部演習には、ちょっと難しすぎだろう)。もし、ドイツ語原本でやったら、どれくらい学生がくるかな?著者は現代史家、テーマは社会学者と近代化、教師はもと理系、ドイツ語!… :oops:


2010年6月22日(火曜日)

組合は “participation” を嫌う

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時26分46秒

ドラッカー「知の巨人ドラッカー自伝」:p.149, 知識労働者=責任ある労働者. GMについての1940年代の調査から生まれた概念.最初は「責任」後で「知識」に変更.(when?) pp.150-151. しかし,その participation を UAW http://en.wikipedia.org/wiki/United_Auto_Workers は嫌った.UAW会長ルーサー「経営陣が管理し,労働者が働く.労働者に対して管理者としての責任まで負わせるということは,労働者に大きな負担をもたらす」.

日本企業のそれは,おそらく「マイクロ・ファイナンス」と同じく,「マイクロ・マネージメント」だった.だから,労働者は喜んで参加できた.階層構造は明らかで,どんなに現場で工夫をしようとも,それで社長になれるわけではないことが「文化的・社会的に保証」されているので安心できた.

そういうことか????あるいは,敗戦国として,労働者に上昇へのガッツがあったのか?しかし,日本労働者のメンタリティーの中の TQC が社会的階層中の上昇志向と結びついていたとは思えない.

現在は「雇用」の確保のためにさえ, participation を求められる.その participation は,現代日本ではマイクロに限定されているかどうか?人々は,それをどう望むのか?おそらく「正しい京都人」の多くはマクロを望まないのだろけど. ;-)


Giddens on Peter Drucker?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時10分16秒

「知の巨人ドラッカー自伝」を読む.「日本的経営」などの要素が,すでにスローン,ワトソン,ドラッカーたちによって用意されていたことがわかる.やはり源流は米国.ここで疑問が起きる.Giddens は,なぜ Sociology で日本の経営に言及しながら,その源流としての Drucker たちには言及しないのか?(Soc. 6th ed. には Drucker はない.装丁は by Peter Ducker MISTDだけど. :-D). もちろん,Giddens は Drucker を「知って」いる.Giddens, Introductory Readings, revised edition, http://www.amazon.co.uk/Sociology-Introductory-Readings-Anthony-Giddens/dp/toc/0745624405
には “Beyond the Information Revolution” Peter F. Drucker がある.

もうひとつの疑問は,ドラッカーたちは情報の UNIX ハッカーたちと自分たちの「類似性」に気が付いていたかということ.Winograd さんが Steve Kline を知らなかったことからして,この間に人的つながりが無かった可能性が高い.いままでに判っているのは Nathan Rosenberg が S. Kline と同じ委員会にいたこと.(S. Kline が日本について書いているものがある.それが和訳もされていることも面白いが.)あまりに弱いリンク.無きに等しい?

これは何度も経験した不思議な現象.本質的なアイデアを出す人たちは,案外サークルが狭い.そして,同じような考えが,関係のないいくつものサークルから生まれてくる.田辺だったら『絶対無・絶対媒介がそうさせるというだろう」.要するに「社会・歴史」の圧力・流れが thinkers たちを導いている.その流れの中で我々は動いている.流されているのではない.下流に流されつつ,上流に泳いで見たり,横にずれたり,様々に行動する.だから,歴史としての「時間」は局所的には後ろに流れるようにさえ見えるし,実際,そう流れている.しかし,結局のところ,つまり,大局的には,時間はやはり下流にのみ向けて流れ,我々は水流の上を流されている.しかし,水流は沢山ある.水流から水流に泳ぎつくことくらいの能力(自由)は我々には備わっている.


2010年6月12日(土曜日)

Giddens Sociology 日本的組織

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時04分13秒

Giddens, “Sociology” (4th edition? 以後), Organizations and networks の日本的組織が Weber 的官僚制を変えたという節は,背景により専門的な研究があるのか?あるいは Ritzer 程度か?check 必要."Sociology” は基本的には入門的教科書であることに注意.


2010年6月7日(月曜日)

HCPアーキテクチャ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時15分02秒

画像, セグメントが複数, linear order 付きのタイリング, が基本。ただし、default でタイルにも linear order を付ける。これはサーチをするときの方便であり、何ら意味が無い。従って、物理順序でも良い。と言うことは、この順序はなくても良い。

同じ画像を共有する抽象セグメントの集合と、その画像上のセグメントの集合は、論理的には同値でも、
intensionally (and intentionally) different.

segument 間の inclusion も考えない。同じ画像の別の行切り出しは、「別の史料」と見なす。


2010年5月29日(土曜日)

http://www.twiddla.com/

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時42分12秒

http://www.twiddla.com/ WEB上ホワイトボード史料画像を貼り付けて,任意の場所に記しをつけつつ,共同翻刻も可能.ただし,原理的には.実際は無理.

このような機能を SMART-GS につける.それで史料を共有して,それに書き込みをしながらの遠隔講義ができるようになる.翻刻も共有(このツールでは無理?).

SMART-GSにあって,これにはない機能はWEB化の機能.こちらの方が難しい?タグ,リンクなども共有することに注意.これらにすべて,ユーザーと作成時間(サーバー時間)のマークアップをつける.それがIDとなる.


2010年5月27日(木曜日)

西田文庫「論理と生命」

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時59分08秒

文学部の西田幾多郎文庫ファイル16「論理と生命」の原稿.328頁中,327頁. 「私は論理を媒介とする反省的論理の立場から,弁証法的論理へ行こうというのは不可能と思う」という,岩波文庫版では300頁にあたる,この論文の最後の部分に,原稿では「要するにはマールブルグ学派の如き立場を推し進めたものに過ぎない」とある.(2010.06.07, この削除は「思想版」から単行本版への変化の際に起きている.) 文庫版では287頁から300頁は種の論理批判.(see. 416頁の上田の解説.) また,原稿では最初タイトルが「論理について」になって,おり,それを修正して「論理と生命」にしている.


2010年5月26日(水曜日)

「読む」ということ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時15分10秒

火曜日は佐藤さん,相原さんが来訪.共同研究の相談.永井先生の SMART-GS を使った倉冨倉富勇三郎日記の演習の見学.まだ慣れない院生の人らしく,読めない文字がかなりあった.おそらくサーチ可能手書き辞書機能を使えば読めるようになる可能性が高そうだった.もちろん共有辞書が必要だが,この演習だったすぐにできるだろう.

月曜日は,「訓点資料の構造化記述」研究発表会に誘われて参加.予想より遥かに少人数.初めて見る学問なので,何をやっているのか観察していると,こちらは3時間近い研究会中「この文字はなんと読むか」という議論が一度もなかった.写経などが対象のため,「文字は読める」という前提が成り立つようだ.一方で,訓点は,多くのシステムがあるので(つぼ,と聞こえた),「訓点を読む」ということをやっていた.文字からの離れ具合で,意味が変わる場合もあり,ある○印が,2以上ある「点」のどれをあらわすかを議論していた.

両者は非常に良いコントラスト.近代現代の史料は,主に倉富のケースのようになることを説明したが,理解してもらえたかどうかは疑問だった.現物を見せればよかったのだが,史料画像が入ったSSDを家に置き忘れた. (^^;)


2010年5月23日(日曜日)

群馬大調査メモ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時32分26秒

Hartmann: Grundzuege der Metaphysik der Erkenntnis の書き込みは量は多い.大部をかなり徹底的に読んでいる.田辺としては珍しい方だろうか?
しかし,特に特定のものに触発されたということはなさそう.どちらかというと,×コメント, falsch! コメントが多い.田辺にすれば遅くとも種の論理
のころには Hartmann など超えているという意識があったか?下村は,12巻の解説で,「しかし,新カント派ではこの科学批判・認識論に哲学の課題を制限し,又をそれを特色とするものだったが,先生の場合は,最初から,その制限を越えて形而上学に到らんとするものであった」(pp.403-404)と書いている.新カント派の社会主義,特にコーエンの道徳論や Jewish study を考えれば,前半の議論は半分ほどは「不十分な間違い」といえるが,後半の視点は,このことの傍証に使えるか?

Hartmann の本の現物と目録の対応があまり良くない.他にも間違いは多いかもしれない.一応,全部見ていくべきだろう.

日本語の書き込みに面白いものがある.高坂の「西田哲学・田辺哲学」の自分の「」への言及に,
「宗教ならぬ宗教」という意味の書き込みを繰り返す.


火曜日用メモ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時44分13秒

Google Wave: http://wave.google.com/about.html
Google Etherpad: http://etherpad.com/
Google Docs: http://googledocs.blogspot.com/2010/04/rebuilt-more-real-time-google-documents.html
Evernote: http://dekiru.impress.co.jp/contents/036/03633.htm

こういう風に SMART-GS の資料を共同編集したい.

テキストに線を引く.ハイライトする.その意味を
喋りながら録音して,その「強調」の属性にする:
Livescribe: http://nobi.com/jp/Gadgets/entry-1146.html
http://blog.dataich.com/lang/jp/2010/01/20/livescribe-pulse-smartpen/
http://www.livescribe.com/
http://www.livescribe.com/smartpen/techspecs.html

これにさらに自分が見ている書籍のページのイメージまで記録できれば
紙文書を読むのが大変に楽になる.問題は紙上でそれをやるか,
あるいは紙を一旦電子画像にしておいてやるか.これがUIのハードの
問題で,今はどちらがよいともいえない.後,5年くらいで先行きが
決まるか?あるいは,e-paper が出てくるまで決着は無理か?

まだ液晶などのパッドは紙の代用にするには性能が低すぎる.
小説を読むだけ,ビジネス how to本を読むだけならば,
Kindle などの今のハードでも十分だろうが,僕がやる「読み」
の作業,おそらく他の学者の多くにとっては,その性能では足りない.

SMART-GS の画像サーチを見せると,丁度,LiveScribe などで
やるような画像の中の文字認識の方が良いという人がいるが,
文献研究と情報技術-史学・古典学の現場から-.人工知能学会誌,
特集「歴史情報学」, 2010, Vol.25, No.1, pp.24-31で
書いたが,「読む」という作業が素人さんと我々玄人ではまったく
違う.その違いは量というより質の差異にまで達しており,
丁度,カントの transcendental の議論と同じ仕組みで,
『学者にとっての「読み」の作業が,これらの技術に完全に
代替されるのは分析的に不可能』とさえほぼ論証できる.
#ただし,たとえば田辺元全集とか,帝国議会の速記録とか,
#こういう「誰でも読める」ものは,どんどんOCRで読めるように
#なって欲しい.

しかし,そういう印刷物の場合も,田辺元哲学のような,長期に
変化が激しいものを分析する場合には,まだ紙の方が媒体として
総合的性能が優れている.例えば僕は史料を生成的(genetic)に
研究するときは,史料を何枚も時系列で並べて作業を行う.そのために,
わざわざ横が2メートル近い横長のテーブル(作業台)を見つけて2つ買った.
これの上に10枚くらいのA3用紙に
焼かれたマイクロフィル画像を並べて,車輪付きの椅子で移動しながら,
あるいは歩きながら,書き込みをしつつ考える.もちろん,PC,辞書,
本なども同時に使う.この様な環境で SMART-GS を使いたい.
壁やテーブルがUIとなる仕組みを米国で作っていたが,ああいうものができれば
可能となる.それに近いものは,もうかなり市販されているから,
実用には,凄く早ければ,後10年くらいか?

新SMART-GS の共同編集機能は,これを見据えた設計にする必要がある.
もう一つのポイントは,Cloud computing か?これが普通になれば,
gs-file と,その共有が WebDAV というのは何の意味もなくなる.
しかし,これは今でも技術的要素としては小さいか?すべての情報が
雲の彼方の仮想空間に置かれても,他人との情報共有,協働編集という
部分の technological な仕組みは殆ど変わりなさそうか???
そういう意味では,とりあえず WebDAV で古く臭く作っておいて,
後で環境がパラダイム・シフトを起こしたときに「水平移動」すれば
よいだけか?

Google の Wave などが,ほとんど open source というのは
ありがたい.これを活用すべきだろう.


2010年5月16日(日曜日)

清朝化

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時40分10秒

日本のガラパゴス化という言葉が流行っている.ガラパゴス化ならば良い.孤立して幸せに暮らすのは楽しい.でも,現在の日本と比べるべきは,ガラパゴスの動物たちではなく,アヘン戦争の頃の清朝だろう.日本と中国の位置が逆転しようとしているときに,中国は百年間苦しんだことが気になって仕方が無い.豊かさと成功体験からくる無為と驕りに対抗できるのは一人一人の生き方しかない….


西田・田辺デジタルアーカイブ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時18分16秒

月曜日からまた田辺元文庫調査で群馬大図書館.今回は学期途中なので5時限目の演習後に出発して夜中近くに到着,1日調査して夜中近くに帰京という強行軍.明日は大学に行って,そのための準備.LEDパネルを史料撮影の光源にする試みをやってみる予定だがうまくいくかどうか.もって行くのは,LEDパネル2枚,三脚,史料押さえアクリル板,静電気discharge シート,カメラ,電池チェック,カメラ用ACアダプタ,タップ(PC,カメラ,光源2−3,だから4−5!),レフ板,撮影台,おっと背景用ビニールシートをまだ作っていない!,PCはカメラ制御のソフトと使用法マニュアルをチェック&ACアダプタ,そのためUSBケーブル,梱包テープ,セロテープ,手拭(大きいのをダイコクで買う!),ゴミ用袋,PostItメモ(タイトル用),USBハブなど一式.史料を借りることができた場合の袋も,科研費の資料も印刷して! イソイソ….

西田・田辺哲学のテキスト生成研究を行う科研費挑戦的萌芽が採択されたので,その一環.N. Hartmann の Metaphysik der Erkenntnis などにどんな書き込みがあるかの調査,資料貸借の相談,Ontologie von Dr. Heidegger と手帳の残りのカラー撮影.

この科研費は種の論理と善の研究のテキストというか思想が如何に生まれたかを跡付ける手稿を電子化して,SMART-GS でアーカイブ化して解析するというもの.分野は哲学.額はかなり減額されたが僕にとっては最初の文系の科研費なので,久しぶりに凄くうれしい科研費採択.藤田先生,出口さんが分担者なのと,SMART-GS を使うというのが効いたのだろうが.特に田辺は講義下書きメモを SMART-GS の崩し字辞典機能をつかって読めるようにしたい.これができると種の論理の成立の過程が相当に見えてくるはず.かつ,これができると,哲学と歴史の間にある史料への態度の差を,少しは解消できるのではないかという気持ちも大きい.小林道夫先生などは,歴史史料の読み込みに歴史家から見ても迫力があるが,こういう哲学者は少ないらしい.哲学の人が書いたものを見ると,エッそこまでしか読まないの..?!,と言いたくなることが結構ある.まあ,好みの差もあるでしょうね.僕とか,和算史の佐藤さんとか,同僚の永井さんとかのような史料研究をする人は,単に史料が好きという面があるような気もする.古い史料があると聞くと,それだけで何か血が滾ってきて,埃アレルギーをものともせず駆けつける. :-)

で,史料ベース歴史家の血が滾る研究なわけだが,今の時期の調査旅行はいずれにしても無理過ぎの面が強い.初老の身としては体力が持つかどうか…
#今年はちょっとロードかかり過ぎ.4月のWEBサイト更新も応えたし,現在は実質週4つ講義をやっているのに近い.
#どれも新しい内容なので楽しいが睡眠時間4時間台が続くと初老の身にはつらい.演習2つがそろそろ講義モードを脱するのでそれまで堪えねば.


2010年5月15日(土曜日)

命綱

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時56分47秒

Kantian Ethics and Socialism 届く.学位論文で賞をとって出版されたものらしい.Maryland 大学か? Reason and Hope は紀伊国屋から入手不可の連絡が来たので,Web 上で探して私費で発注.一店だけ新品を持ってるところがあったが,他は古書ばかり.Cohen の,それも Jewish writings の selection なのでこれは当然か.このような思想史の迷路に入り込むと,おそらく「職業としての哲学」をやる人,特に若い人には荷が重過ぎるのだろう.力学系の発展史についての科哲史の修士論文の審査に参加したとき,最初ドイツ語圏を調べたが,あまりに複雑で理解不可能だったので英語圏の研究に変えたと,学生さんが言っていた.19世紀ドイツ思想史に関連した分野をやっているものとしては,この意味はよく判る.

要するに豊穣すぎる.といえば良さそうに聞こえるが,若手にとっては底なしの泥沼に等しい.やれでもやれども新しい要素がでてくる.しかし,よくこれだけの文化的石炭層が堆積したものだ.中戸川さんが19世紀から20世紀のドイツ語圏というのは歴史上もっともインテレクチャルなレベルが高い地域と時代だったと思う,と言っていたが賛成できる.もちろん,我々が「知っている」歴史という限定つきだが.

で,僕のやっていたことだと数学基礎論史だと,どうみてもヒルベルトとかクロネッカーとか,そういう人たちでも思想が「学校」での教育に強く依存しているように見える.これは今の日本からすると異様にも感じるが,ようするに中等・高等学校の先生のレベルが今の日本の大学などより高い.クロネッカーのギムナジウム時代の先生がクンマーだと言えば数学者なら意味がわかるだろう.(ちなみに,クンマーは哲学はプロに近かったらしい.クロネッカーはその影響を受けている.)

で,そうなるとギムナジウムなどでどんな教育をしていたのか,これを抑えないと数学基礎論の時代の真の意味がわからないはずだ.となるとプロイセンの数学教育史をやらねばならなくなる.僕の学生の独りがそれを始めたが,1次史料を使った本格的研究だったので,そこだけで沼に沈んだ.それだけでも学術論文になるので,その意味では成功.しかし,数学基礎論史にはもどってこれない.学生時代に聞いた話で,代数的整数論をやろうとして其の基礎として代数幾何を始めると,そこが深すぎて返ってこれなくなる人が多い,というのがあったが,それと同形.

数学基礎論史,田辺哲学…など,僕のやっていることは全部ここに関連しているので,大変だがヒルベルト研究のような具体的特殊分野を「命綱」として使うという戦略がある.つまり,「自分はこれこれの数学史をやるのだ」,たとえば,ヒルベルトの代数思想とその系譜をみるのだ,という命綱を体にくくりつけて,この泥沼に飛び込む.そこで豊穣そうな solid ground があれば,それによじ登ればよいし,どうも沼に引き込まれそうだと言うことだったら,命綱を手繰って逃げ出せばよい.ゼミでやっている Plato’s Ghost の泥沼を,どう「使うか」を学生さんたちに説明するために,こういう言い方をしたが,考えてみれば,これは僕がやってきたことそのものだな...(^^)


2010年5月3日(月曜日)

忘れられた者たち

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時18分09秒

『数理哲学』としての種の論理,の原稿を少し書く.『数理哲学』の用語の説明で悩んでしまう.本来,ライプニッツ辺りまでの哲学は,すべて『数理哲学』ではないか?

僕の田辺哲学理解は,細谷昌志先生の著書とほぼ同じであることを発見.「局所的・微視的」という考え方と歴史主義がポイント,しかも,実は個の論理が強いという理解まで同じ.奇妙なのは,「極微」という言葉に注目しながら,コーエンに全く言及していないこと.どうしてだろうか?これがコーヘン由来だと気が付いていないということがあるのだろうか?

まあ,コーヘンはあまりに忘れ去られているらしいから,本当に気が付いてないのか,あるいは,気が付いても気に留めて考えてみる気にもなれないほど,現代の哲学者にとってはコーエンが過去のものということだろうか...

先日,出口さんと議論したとき,なぜ田辺や新カント派に興味を持つ人が少ないのかという話になり,哲学者は「現代の哲学の問題に繋がらないものはあまり興味を持たない」という説明を聞いて,かなり納得.つまり,科学の場合と同様に,注目テーマがあり,それを外すと,少なくとも若い人は研究をしにくいだろうし,論文も書けないということだろう.西田も出口さんが学生のころには殆ど忘れ去られていたが,今は「テーマ」になっているらしい.また,新カント派への注目は,浮かんでは沈み,浮かんでは沈みだそうだ.

歴史は忘れ去られているものを発掘するのが面白いので,ここら辺が大きく異なるところか?僕などは忘れられていれば忘れられているほど,研究していて楽しい気がする.良く知られているものは,研究しても先にもう判っているからつまらない.もちろん,そういう場所で誰も思いつかなかったような新視点を提示できたら,それが一番凄いことだけれど,今は誰も注目していないことを調べていくというのも楽しい.毎日が新しい発見となるので,初めての映画を見ているような気分になる.現実離れした荒唐無稽な話が,もの凄くリアルに描かれている映画が好きだが,同じ種類の好みなのだろうな...

連休も後少しで終わり,遅れていた色々を連休の間に回復しようとしてるが,此れくらいの連休では全然足りない・・・


2010年4月19日(月曜日)

日経記事 デジタル人文学

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時46分58秒

先日の永井先生の取材の記事が日経2010年4が宇17日の朝刊文化欄に掲載されたのを、記事を書いて松岡さんから送ってきた。川嵜さんの写真が出ている。(^^)

史料編纂所の話が最初に出ていたが、これは多分、赤池さんが、さきがけの発表会で言っていたものかな「大日本史料」だし。

しかし、こういう投稿をかけるだけ余裕でた訳で。うれしい!

でも、まだもう一山、低い山ではあるが….

5時の DNS 切替で、何も起きませんように. Cross your fingers!


2010年4月18日(日曜日)

ようやく...

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時30分58秒

研究科・学部のサイト更新の世話をしていて,そのために殆どブログを書く暇がなかった.それに新学期開始がオーバーラップしてしまい...もう少し初期にコミットすべきだったのだが,発注先に任せすぎて,それを怠ったのが失敗の原因.工学部時代の学生に見られたら,言っていることとやっていることが違うと笑われそう.やはり人文学が生活の中心になっていて,工学的なものを無意識に忌避している.工学部時代だったらこんなことにはならなかったのだが...

今日で何とか峠は越したはずだが(と思ったときが一番危ない(^^;)),実は,ここから本番.組織本体が出来ていないのに,先にファサードを作ったので...しかし,WEBの意味の理解が低く,ホワイトカラーのITリタラシーが低い,また,それが高い人が重視されない,のは,日本で顕著な現象か,あるいは,世界中なのか.以前やったIT人材調査で,技術者,管理職,人事,父兄,では日本人の意識の立ち遅れが目だったが,ホワイトカラーは調べなかった.目が明らかに「工業」に向いていた.これは反省点.実は,ホワイトカラーの方が今の社会では重要だ.しかし,当然ながら同じ結果,あろいは,さらに悪いのだろうな...一度,韓国のオフィスとか見てみたい気がする.

これで漸く,田辺・ブラウワー論文を書き始められるかな...ヒルベルト論文も終わりにせねばいけないし,「展示」のファイルもUPすべきだ.おっと,SMART-GS の手書き辞書機能も触らねば.それから,あれとこれとそれと...老化して体力が落ちてきているのでつらい.もうそろそろ戦線を狭めるしかないのだろうか.いわゆる『雑用』に手を出さねば,まだましな筈なのだが...ついやってしまう.性格なのだろう.プロテスタントでもないのに.(^^;)


2010年3月27日(土曜日)

科学の特殊性

カテゴリー: - susumuhayashi @ 17時02分16秒

科学が何故特殊かと問うのは無意味.我々が現在科学と呼ぶものは如何に特殊かという問いが正しい.そのグループに現実の例が落ちて吸い込まれていく.その「生産性」を見た社会(学問)が,それに落ちるように社会(学問)を変えていく.役に立った形式技法としてのUMLなどは典型.形式技法が役立ったのではなく,形式技法が役立つ場を求めて姿と位置を変えた.そして,それに合わせてエンタープライズさえも姿を変える.

では,科学の特殊性とは?「手戻り」の無さ,少なさ.自然科学者には「科学的なものには手戻り」がないと思っているかのような人が沢山いる.だからシステム開発もそうだという誤解が広がったのだろう(waterfall の神話).これは,実際のシステム構築をしたことがある人間には信じられない態度だが,「科学者」から見たら合理的態度だろう.つまり,科学とは「手戻りがすくなく,知のシステムを累積的に発展させることが可能な分野」という性格を持つ.これがあると,複利計算で指数関数的「増加」が見込めるので,急速な「進歩」が可能となる.

ただし,それだけならば一部の宗教なども入るかもしれないので,他に実用性とか実証性とかが入るだろう.しかし,その最大の特徴は,おそらくこれ.だから,「進歩」という言葉が当たり前になった.どうして進歩,進化しないといけないのか.過去の時代の人に合って,そういう語り方をしたら唖然とされるだけだろう.しかし,今の時代では,科学者でない人にさえ,これを言えば唖然とされる.これに科学,そして,それより「科学的であること」という神話の特質のかなりの部分が見える.


数学基礎論史はまだ書かれていない 2

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時47分51秒

よりよい数学基礎論史を書くために.数学の危機とは何か?

  1. 岩波文庫「ゲーデル 不完全性定理」の解説で,Weyl の neue Grundlagenkrise を,ワイマール共和国の時代状況から説明したが,これでは浅すぎる.C.R.Bambach, Heidegger, Dilthey,… p.41 あたりのような1880-1930の「危機意識」の一つとして Weyl を捉える必要がある.ただし,このpage の例の殆どは,1920年代であることに注意.当時の政治・社会状況が,この Krisenbewustsein というガスに点火をした,というみるべきか.
  2. 数学基礎論の危機,つまり,集合論のアンチノミーとは何か?この大きなドイツ思想史の流れの中で,ことさら「数学にだけ真の危機が訪れた」のはなぜか?これは裏返すべき!
  3. 物理では,今も標準理論が「矛盾」している.数学だけなぜ矛盾してはいけないのか?実際,オイラーのころまで,無限小解析は矛盾だらけだ.それが何故数学では矛盾が許されなくなったか?
  4. ギリシャ以来の伝統などという常套句では,これを説明するのは間違い.この時代に「整然たる理論」を求めた何かの圧力があるはず.それは数学とそれ以外で異なったのか?1などの視点に立てば,これを論じることができる.
  5. ただし,あまりに社会構成論の方向に走るのはおかしい.数学には特殊性がある.正確に言うと「そのように特殊なもの」が数学と呼ばれる.典型は数理論理学.なぜ,1000年以上も数学でなかった論理が数学の一分野になったかを考えればよい.

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