Hertz の力学への田辺の書き込み
京大文、田辺文庫、貴重書、42, 25, Bd.3 Die Prinzip der Mechanik… の調査。
Einleitung に大量の書き込み。ほぼ、「古典力学の弁証法」の内容と連動。
ただ、1910年刊の本。何時手に入れ、何時書いたのか不明。おおきな問題。
力概念の矛盾的性格を議論。ハミルトニアンなどは否定的に議論されているとして
良いだろう。
これをキーに、多様体の哲学が、田辺哲学を誤解し、「否定」さえする
ものであることを指摘。
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2012年2月4日(土曜日)Hertz の力学への田辺の書き込み京大文、田辺文庫、貴重書、42, 25, Bd.3 Die Prinzip der Mechanik… の調査。 これをキーに、多様体の哲学が、田辺哲学を誤解し、「否定」さえする 2012年2月3日(金曜日)Mach, Kirchhoff, Hertz田辺全集12, 古典力学の弁証法。ちから概念が「合理的」でないとの初期の意見として、Mach, Kirchhoff, そして、Hertz. 前者は群馬文庫にある。Kirchhoff は、京都、群馬、どちらの文庫にも無し。 Herz は群馬と京都の双方にGesammelte Werke がある。群馬は書き込み無し?京都は貴重書。 2012年2月2日(木曜日)Structure and agencyWikipedia の Structure and Agency もとは、Barker, Chris. 2005. Cultural Studies: Theory and Practice. London: Sage. ISBN 0-7619-4156-8 p448 ほぼ、Mengeと Wahlfolge の定義と同じ。比較のために良い そこから種と個へ。ただし、最も初期の種。 2012年1月28日(土曜日)コミック 数学ガール ゲーデルの不完全性定理物語「京都学派」の前日についたコミック「数学ガール ゲーデルの不完全性定理」1,2巻 二巻pp.142-3の「数学の樹」。僕が形式的証明や、 と言いつつ、そういう感情はWEB時代を新時代と感じる旧世代の人間のもので、 形式的ルールや、形式的体系の説明は難しいものなのだが、 「知らないふりゲーム」という用語も見事だ。これは結城さんのものなのだろうか? コミックを研究テーマにしている20世紀学の杉本さんがコミックにしかできない表現が 兎に角、これは凄いので、今後不完全性定理について説明したり、書いたりするとき、 でも、どうしてもマネができないものがある。それはコミックの形式自体。 文章では、著者と読者のトポロジーをこういう風に配置することはできない。 PositLogの作者の久保田さんに非常勤講師をやってもらっていたころ、 コミュニケーション・ツールのモデルになるな! ところで、一見、1日に二つ投稿しているように見えますが、 物語「京都学派」竹田篤司、物語「京都学派」が届く。ざっと読んで、ムムムムムッム………. 藤田さんが、竹田さんを「細部に神宿るという考えの人でした」と言って これでは、歴史家の品位とか矜恃とか、そういうものが何もない。 公開と暴露は本質的に違う。こんなのが歴史だと思われたら、 2012年1月27日(金曜日)歴史学が消える?超長期のデジタルデータを保存する千年メモリの研究について質問され、 僕は oplog が達成されたら、歴史学はやりやすくなると思っていた。しかし、同僚の小野沢さんと、 歴史学というのは、消えてしまう時々の事実が、記録、たとえば、公文書、メモ、通信記録、 一方に史料が物語る事実があり、一方で、歴史家の推理や解釈がある。 この時、史料の数が、それほど多くないからこそ、それに整合する歴史を 最近、オウムの平田容疑者が出頭してきて、その後、彼の映像を、 これはGoogleやFacebookのさまざまなプロダクツについて 少なくとも一人の人間として、過去が何年たっても現在と同じような明瞭さで見えるとしたら、 死と言うものが大変すばらしい「発明」であることは、年をとってからヒシヒシと実感できる 冗談はさておき。 大方の過去の記憶が消滅するから、人間は過去を耐えることができるのであり、 過去の全ての情報が、丸侭残ってしまったら、それは混沌とした現在と何も違わない。 では、その時、少しでも「理性的」であるには、どうするか。 現在のWEB社会で行なわれている、ビッグデータで世界を動かす しかし、それで一人の人間が圧倒的な現実を耐えられるとは思えないが… 2012年1月26日(木曜日)次は美学だ!..???廊下で、たままた、美学の吉岡さんに出会ったので、迷惑かとはおもったが、講義でやっていた、 原稿を書いたら、読んでもらえることになり、大変に嬉しい!! 2012年1月24日(火曜日)すべての文庫は分かり易くあるべきか?前の投稿で取り上げた「あぎ」という人の岩波文庫「ゲーデル 不完全性定理」の書評について、もう少し。 この人に限らず「ゲーデル 不完全性定理」についてある基本的な誤解があるで、それについて書いておこうと思う。 この人のように、あの本が不親切だという人は多い。それはその通りで、 僕の若い頃までは、高級そうなもの、難しいものを、むやみにありがたがる変な価値観があって、 あの本が、なぜ、多くの読者が「不親切」「難しい」と感じるか、その理由は、 あの本には大変明瞭な3つのターゲット読者集団があった。ひとつ目は、 最初の二グループの意味は明瞭だろうが、最後のグループの意味は補足説明がいる。 こういう風に、あの本を楽しく読める人は、最低でも、京大文学部の学部学生の しかし、もちろん、そういう人たちだけに、読者を限定できるわけはなく、 そういう古典のシリーズが親切なわけがないし、最初からエンターテイメントを目指して 僕は何か難解な本を訳書で読むとき、よほど自信がない限り、岩波文庫だけで読むことは おそらく、あぎ氏の「それほど分かりやすい本だろうか?」というコメントは、 だから、大方の読者の方のWEB上のコメントは「解説でさえ難しい」 しかし、実は、幸いにも、こういう誤解をして憤慨する人は、極く少数で、 僕が、読者に一番伝えたかった、数学基礎論のダイナミックな歴史の流れや、 僕は、そういう読者こそが、本当に読書をしている人、本を消費してない で、多分、あぎ氏は、そういう読者たちの反応を誤解して、そういう人たちが、 実は昔、私学にいたときなど、できるだけ誰にでも分かり易く書こうと あの文庫の解説を書くときには、それを懸命に封印しつつ書いたのだが、 学者かつ著作家の方から「著者魂と研究者魂の葛藤がみえる」という 岩波文庫「不完全性定理」amazon書評の誤り岩波文庫「ゲーデル 不完全性定理」について、WEB上にの匿名の言及で、訳が間違っているとか、 指摘の方が間違えているときは、基本的には何もしないことにしているのだが、 あぎ “ε-δ"氏の投稿から: 間違いの説明: Denn angenommen der Satz [R(q);q] waere beweisbar, dann waere er auch richtig. あぎ氏は、この2行目に aber があることから、「q wuerde zu K gehoeren」つまり、「自然数qが類Kに属す」 1. Aを自然数を表す自由変数を一つだけ持つ論理式、nを自然数とすると、 Das heisst aber の aber は、最後のステップ6の冒頭の「ところが」 あぎ氏は、これを否定の展開と理解し「しかし上述のようにqはKに属するので、」 あぎ氏は我々が “nach dem obigen q” と、obigen が q を形容するように また、「主語がなくなる」とか言う前に、"obigen q"と結びつけると、 おそらく、おぎ氏は、ドイツ語の基本的な読み方が身についておらず、また、 nach dem Obigen とう形である。現代の正書法では、このフレーズを、必ず Obigen つまり、日本語の「上記により」に対応する、数学、物理学などの 以上を注意して、問題のフレーズを少し「丁寧」に、しかし、直訳風に訳すと、 もし仮に命題[R(q);q]を証明可能と仮定するならば、それはまた正しくもある。 となる。 しかし、こう訳すと、「上記のことから」が、「上の方にある何のことなのか」が まあ、ゲーデル自身が、そういう分かり難い文章を書いているのだから、 ただ、推論を助けるような注はつけないが、意訳することを基本方針にしていた もし仮に命題[R(q);q]を証明可能と仮定するならば、それはまた正しくもある。 とするとよく判る。これを文庫の訳のシンプルな訳にすると、 命題[R(q);q]が証明可能ならば、それは正しいので、上記のqの取り方により、 となる。 こう訳すれば、あぎ氏でも読み間違えることはなかったのかもしれない。 しかし、僕の執筆スタイルでは、簡略化できるときは常に簡略化するという原則がある。 もし, 命題$[R(q);q]$が証明可能とするならば, それは正しい. とやっていたのである。ここから、どうして今の形になったのか不明だが、 上記のqの取り方により、qは(が)…である という文章の意味は、「この文章の位置から上に方に見ていった ところで、全集の英訳では、nach dem obigen を、according to the definitions given above 2012年1月21日(土曜日)忙しかった今日 御殿荘の大山桜今日で、全学共通の「ゲーデルと数学の近代」が終わり。ちょっと、最後ははしょり過ぎだったが、まあ、さすがに、これ以上講義をすると学生さんたちも嫌だろう。 しかし、今日も沢山来ていたな… 感心すると同時に、つい、教師などに依存しないで、もっと自分で勉強してね、とも言いたくなってしまった。 で、自分よりエライ奴を「育てる」最善の方法は、遠巻きにして介入せず、そっと見守るしかない。 これに京大文に転職して、暫くして気が付き、僕の癖である、すぐに答を言ってしまう。しかも、 で、今日、講義の後に、いつも前の方で来ていた諸君に後で聞いてみたら、 講義の前後は、情報処理学会、デジタル・ドキュメント研究会。といいつ、「後」の方は、学生からの これは嬉しい発見だったが、先日あった悲しい発見は、柊屋の道を挟んだ東隣、俵屋の北隣の 2012年1月12日(木曜日)石川県西田幾多郎記念哲学館一昨日、石川県西田幾多郎記念哲学館を訪問。学芸員の大熊さんに丁寧に案内してもらえた。感謝! 大熊さんの説明と展示品により、どうも、西田を誤解していたような気がしてきた。 田辺への現在までの評価が、西田への強い評価によりバイアスがかかっているのは明らかだが、 このようなバイアスからフリーでなくてはならない。そのような状態になると、西田の人間的魅力は、 僕は、戦後民主主義の「恩恵」にあずかりながら、どうも1970年代以後のそれには、 やはり、西田・田辺「論争」の研究は、全く進んでいないと理解すべきだろう。 2012年1月7日(土曜日)「多様体の哲学」について(2)澤口論文 (二) p.51 引用:「田辺博士の晩年の数理哲学は結局のところ「種の論理」の数学化に帰着する。」 おそらくは、後者(2)が正しい。 引用:そこで数学化に必要なかぎりで種の論理の要点を摘出しておかねばならない。 引用:この論理の特質はいうまでなく、<略>、これとともに種の論理はもう一つ特異な側面を持っている。 引用:それではこの裏返しの論理にては何ゆえに中間段階たる種が決定的役割を演ずるのであろうか。 引用:博士は種として何を考えているであろうか。まず国家、人倫が典型的な種としてあげられている。 2012年1月2日(月曜日)「多様体の哲学」について(1)澤口昭聿「田辺元における数学の形而上学」分析1 引用1p.48:博士晩年の著作『数理の歴史主義展開』は特異な数理哲学書というほかない。<略> 引用2p.48:したがって問題は第一に数理哲学においてはたして形而上学的な方法が必要であるか、ということである。そして、 引用3p.48:結論をいえば、博士の方法は外見はともかく真相においては意外に現代数学に適合性をもっている。 引用4p.48:現今の数理哲学は論理学的方法に集中された観がある。これはラッセル以来生じた顕著な傾向である。 要約1p.49:ラッセルのプリンキピア・マテマティカで論理学が現代化され、それを利用して集合論が再建された。 引用5p.50:現代の集合論はさらに再拡大された同一性論理であると考えられる。 引用6p.50:記号論理学を本質的に使用する数学を「形式的」formalと呼ぶならば、形式的数学が 2011年12月25日(日曜日)田辺元の思想―没後50年を迎えて雑誌「思想」2012年1月号田辺元の思想―没後50年を迎えてが2冊昨日届く。(店頭にでるのは12月27日か?)。 ざっとみて僕の二つのアーティクルだけ、文体が全然違う。竹花君のとかは、内容を講演で聞いて、僕自身の田辺研究がえらく影響を受けたので、 そういう中で、合田さんという人のアーティクルは、文章も内容も例外的によくわかる。この人の田辺像は僕のものにかなり近そう。 中には、岩波文庫の田辺元選集だけを読んで書いたのだろうか、などと疑いたくなるようなことが書いてある記事もある。 幸い、今朝、中沢の多様体の哲学の種本である澤口の1991年の論文の議論の構造が漸く分析できたので、 最近、偶々、山本夏彦の文庫本を色々読んでいるが、今朝来たのが、「私の岩波物語」。 チクリとやってもブスリとはやらず、正義を振り回さない姿勢など、 唯一、違和感をもったのが、田中美知太郎を引用しての西田・田辺の文体の批判。 しかし、では、田中の批判が適当かというと、それは半分しか妥当性を持たない。 西田・田辺が日本的宗教観に影響されていたのは、 また、最近の藤田さんの講義など聴いていると、西田についても禅とか言い過ぎる 僕には、田辺は、ドイツ人に見える。西田は随分日本的らしいが、それでも 田辺の日記の最初の方のものには、ほとんど日本語がない。ヨーロッパの言語で で、田中美知太郎は、全部、日本語の限界のなかで語ったのだろうか? 2011年12月4日(日曜日)田辺「思想」特集号論文校了岩波「思想」2012年1月号の最終校正をメールで送る。これで校了。ふーッ。 再校が来る直前に新しいことに気が付いて、かなり手直しをさせてもらった。 物理、特にテンソル関係の話が、田辺の「切断」の着想の一つになっている可能性が ちなみに、テンソルとは W.Voigt が作った 2011年11月30日(水曜日)2011年10月26日(水曜日)消費以前、社会学で「羽入・折原論争」というのがあって、ある意味で日本社会を象徴するような、 その時のことを時々反芻し、それがその後の僕の執筆の態度にも影響をしている。それまでは「一般向け」の良い本を書きたいと思っていたが、 で、そういう読者の設定の理由として、なんとなく「そうでない読者は、僕の本を消費する。 ところが、突然、それが分かった。多分、岩波「思想」1月号の結局は削除してしまった中沢新一批判の部分を書くために で、結論として、「AがBを消費する」とき、Aはそれによっては本質的に変わることがないという特性がある。 しかし、文化やテキストを消費する人は、一回ごとのエピソードで自分が変わることなど考えてはいない。 これが消費される本か、消費されない本かの違い。つまり、消費者とは、怠け者だといえる。 そういう意味で消費されるものはあるべきだ。むしろ、大勢は消費されるべきものだ。素人と玄人の人口比を考えれば、それは当然のことだ。 だから、僕は売れる本は書きたくない。もちろん、しょうもなく世俗的な僕はお金は欲しい。しかし、そうでない要素も持っている僕は、 ということで僕の意味での「消費」が漸く自分で理解できたいう話….. ウン? ところで、全然関係ないのですが、sourceforge.jp のユーザ活動順位が月間7位、週間4位になってしまった。 2011年10月23日(日曜日)sourceforge.jp今日、10月23日には、sourceforge.jp の活動ランキングが週間4位, 月間9位に!! プログラミングをしなくなったのに変だと思ったがWikiで簡易マニュアルを書いているかららしい。あまり信頼できない順位だな… 2011年10月20日(木曜日)SMART-GS0.8作業終了SMART-GS0.8の僕の担当作業分完了! (´◇`;)疲れたー….. おかげで(?)、sourceforge.jp 活発度ランキング月間18位!、週間では9位になった。ちなみに3年ほど前のメンバー数が3万人超だから、今はもっと多いだろう。その中で18位! 若い頃のことを考えれば大したことはないが、もう数年で還暦であることを考えると自慢したい。 などと感傷に浸っている場合ではない。次は、京都学派アーカイブを何とか年内に開設せねば。あっと、来年の開講科目の世話が… そうだ、明日は教授会… 2011年10月14日(金曜日)「思想」田辺特集号ゲラ岩波「思想」田辺特集号のゲラが来た。僕のは田辺の『数理哲学』と、田辺文庫の話の二つ。 『数理哲学』の方は西谷の議論を使って田辺哲学が数理抜きでは理解できないことを主張。 この『数理哲学』論文では、澤口・中沢の「多様体の哲学」批判をやることにしていたのだが、50枚が60枚になり、70枚になり、で、これはバッサリ切らんとしょうがない、ということになって、全体を眺めたら、やはりその部分だけが浮いていたので、バッサリ削除。ということで、特に中沢新一批判ができなかった。ただ、これはマスコミ学者とアカデミズムの学者を同じ土俵に置いて評価する、今の世の中を見ると、やはり出しておいた方がよいだろうと思うので、田辺特集号のころに、僕のWEBページにでも置いておこう。 で、結論として、澤口昭聿さんは、まあ時代の問題もあったのだろうが、方向が悪すぎる、哲学的才能の欠如というか… と言うのが評価。 まあ、文章は上手だし、センスのよさみたいのなのは見えるので、それほどコテンパンに伸ばしてしまう気はないのだが、しかし、田辺がもしフィロソフィア・ヤポニカを読んだら、どれだけ怒ったことか… でもないか。田辺が批判しているのは、田辺自身が説明しているところがあるのだが、実は田辺が最も評価している人たち。たとえば、ハイデガーであり、西田。この人たちへの批判は、実は、田辺がこの思想家達を最も評価していたから起きたこと。それに比べてニコライ・ハルトマンへの評価など、最初、種の論理がハルトマンに依拠しているのではと誤解して、ハルトマンの著書への書き込みやら、講義ノートやら調べていたのだが、その過程で、正直の所、本当に背筋が凍った。群馬大の図書館でハルトマンの本への田辺の書き込みを読みながら撮影してて、なにやら、あまりの冷たい態度に、自分も学者だけに、他人に、これだけ冷たくされたらどれだけ落ち込むかな、とゾーッとした次第。そういう次第で、おそらく背筋も凍るほどの無視を中沢多様体哲学論に対して示した可能性が大きい。 まあ、面識もない中沢新一さんには、気の毒だが、学者の力量というのは、ハッキリでるものなので仕方がない。 *)京都に来て南禅寺の知人などを訪問して、本当に嬉しそうで興奮していたが、帰米されて少しして急死された。今でも、呼んで良かったのかな、カンフォーラでシンドソウなときに、もう少し気を使っておけば… などと思うことがある。昭和20年8月6日に,もし,…というのと同じ想い。歴史的真実、歴史的現実は、本当に重い… 58 queries. 0.132 sec. |