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2010年3月8日(月曜日)

[無題]

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時35分20秒

買ってはみたものの,気が重くて開けなかった哲学者須原さんの本を開く.この人とは龍谷時代に数回あって話したことがある.本も書いていて,そこそこの哲学者だったらしいが,ずっと非常勤でやっていた人なので,勝手に,老後の不安と無関係ではないだろうなどと考えていたが,全然違ったらしい.明るい感じの人というかアッケラカンというか,そういう人だったが,そのままだったらしい.ご家族もあり,息子さんがあとがきを書いていた.ご家族もアッケラカン.明るいので,何か安心.本当に思想上の問題として計画してやったのだろう.それならば,須原さんの勝手だ.まずは,よかった.(^^)

学生支援プロジェクトというので,担当しているPD,ODの研究員の諸君も,想像するよりは身なりもよければ,かなりよい生活もしているらしい.以前,スイス人の友人がずっとグラントだけでプラプラしていて,一乗寺あたりの古民家で不便を楽しみながらすんでいるのを見て,経済が悪いといっても,ヨーロッパは豊かだなと思っていたが,どうやら日本もそれに近づいているのかも.この程度の豊かさをキープできたら悪くないだろう.確かに景気がわるく不安定な生活を強いられている人が多いようだが,それでも今は日本の歴史の中でもっとも豊かな時代であることは確かだろう.(バブルのはころは豊かとはいえなかった.あれは成金にすぎない.)


2010年3月3日(水曜日)

仕事がいっぱい...

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時13分48秒

石田さんの集会で疲れ,その後の入試の監督で疲れ,へとへとになったので週末は久しぶりに完全休暇をとって漸く体力が戻った.とはいうものの,仕事が山積...石田さんの集会の展示ほどではないが,情報処理学会の50周年記念の大会での大学院教育関係の集会の講演資料の締め切りが明日.まだ,全く書いてない.(^^;)その集会(11日)の前に金沢で田邊哲学と直観主義について講演だが,これの資料もできてない.これは僕にとっては始めての全部哲学史・思想史の英語講演.不安.:-( 研究科・学部の新WEBサイトのコンテンツの原稿がまだ.あせる.木曜日の連絡会議で,この新サイトの紹介もしなくては.さらに,あせるが,まあ,これは報告のための時間も長くはとれないことですし,おざなりに.←上司,同僚に見られるとまずい.;-):hammer: 説明会の方はちゃんとやりますよ〜〜〜 ←この「〜〜〜」は国母のようにバッシング受けそう.;-)これにヒルベルト論文の最後の仕上げ,新学期の講義の準備など,ということで,やはり仕事山積...

ヒルベルトは田邊研究のお陰で,結論が書けそう.ヒルベルトの思想は,おそらくカントそのものでなく新カント派の影響をうけている.彼がLCMのような「極限」でものを考えていたと思えば,理想元の話とも一致するが,この「極限」がHerman Cohen の「無限小の哲学」実は「極限の哲学」と関係がないと誰が言えるか?Weber が連発する「境界例」も,こういうのか,少なくとも Horizont と関連しているのだろう.こういうことを書く.ただし,WEBERは書かない.数学史なので.

しかし,別々の研究のはずが,このように結びつくと,やっている本人にさえ「眉唾感」があるが,これはある意味で順当.それほど,数学基礎論というものの位置が,近代思想史の中で大きいわけだ.数学の中で20世紀への変わり目での数学基礎論の重要な位置を知るには,国際数学者会議の plenary lectures を見れば直ぐ分かる.(ただし,20世紀にはいると10年ほどでほぼ消える.このころから現場の数学者にとっては「安定」が始まったのだろう.)要するに近代性の「危機」の問題なのだ.C.R.Bambach の本は,この点で実に suggestive.Weyl とかでてくるし.「近代の超克」も,数十年遅れてきた危機と思えば実に納得ができてしまう.


2010年2月24日(水曜日)

文化とコンピューティング中のこと

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時20分33秒

文化とコンピューティングの開催中のこと,覚書
1.ほとんどの人はPCの画面は見ない!ポスターはしげしげと読む.デモ用のビデオを流してもポスターがあったらあまり効果がない.寺沢さんの「ポスター+生デモ」の戦略の方が有効.
2.石田さんとの議論:色々面白かったが,一つ重要な点:XXX分野と協力して研究を行うため,学生を送り込んだら,情報のことをぼろくそに言われたらしい.これは石田さんは応えた模様.そうだろう.かわいい学生がそんな眼にあって黙っているわけにはいかん!石田さんはやはり確り考えている人のようで,強く共感した.
 これには情報の方も責任はあるだろうが(期待ばかり持たせ,実は役に立たないということを繰り返してきたことは否めない),こういうXXX分野のような,「外」「社会」「環境」「ユーザ」にあたる方の人の責任も大きい.非情報の人は情報にできもしないことを期待するか,それができなければどーんと落とすようなことをする.要するに無知なのだが,自分は情報等知らない,という風にエバる人さえいる.
 これは日本の企業人が大学などのアカデミズムの知を馬鹿にするのと同じ構造.いずれも,自分のプライドを守るための行動だろう.アカデミズムからのそれへの反撃やそれ以前の軽蔑の目線も,結局は同じこと.どちらも馬鹿げている.自分の小さなプライドより,たとえ利害関係が対立する人たちとでも必要な部分は協力して,その結果,社会・世の中がうまく回り,将来の悲惨を回避する,方が優先だろうに.
 以前の職場で,同世代の若い教授(当時(^^;))の集まりのときだった,「みんなプライドを捨てましょうよ!」といって,一斉に白い眼(だったのかな?)で見られたことがあった.おじさんは「プライド」が好きみたい.でも,それって実は,本当のプライドがないのではないかと...(個人としてのプライドがあれば,職業上の生活においての面子という意味のプライドなどどうでもよい.自分の仕事を恥ずかしくなく人に見せられるかどうか,それだけが僕の職業上のプライドの条件.)
3.永井さんとの会話:総合誌が生まれるのが震災後.だから,WWIより後.それ以前としては「日本及日本人」ISSN

05461138
,「第3敵国」(ない!,これはやはり聞き間違いだろう).ケルゼン,長尾龍一(今日,法学部で本を借りた).教育学部佐藤卓也件研究あり?雑誌としては「日本および日本人」,「第三敵国」左右田が有名だった.川嵜さんから,WWW での集合知の例の人文学研究での意味の例をもらった(XXX商店).来月の情報処理学会で喋るときに使う.他は近代デジタルライブラリでの「論理」「演繹」,佐藤賢一さんの例.これくらいか?ビデオとPPT file などもらった.これで作る.


2010年2月23日(火曜日)

文化とコンピューティング@京大時計台

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時51分03秒

昨日から、石田さんとKRPに頼まれた「文化とコンピューティング」という集会で、現代史の永井研究室といっしょに SMART-GSと応用の展示をしている(応用が主)。今は3時までの長い昼休み中。

今日午前中は予想に反して閑古鳥が飛んだ。昨日は予想に反して大変忙しかった。昨日は、最初(?)の全体セッションが終わった後、参加者がどっと展示に押し寄せたのだが、その人混みの中から基調講演をなさった長尾先生が一般参加者となんら変わらない風情で現れた時はビックリした。事前に展示のことはメールでご報告はしていたのだが、お忙しいのでお出でになる時間はないだろうと思っていたら、一直線に僕らの展示に来て下さった様だった。

非常に attentive に見て頂き、お褒めの言葉までいただき大変感激!こういうことがあると、めげそうになる気持ちが回復する。

院生の清水君は学部のころに長尾総長だったらしい。こわそうな人だと思っていたが、本当は優しい感じの方ですねと言っていた。実は、僕もメールでなんども交信したり、助手時代に上司の還暦のお祝いで長尾先生が祝辞を述べられたときに遠巻きに見ていただけで、直接お話するのは、今回が始めてだが、同じ印象を持った。

と、八杉に言ったら、八杉は、その祝辞の時から、そういう印象を持っていたとか。
当時、下っ端の僕は、うんと遠い所から見ていたので実は長尾先生の祝辞は聞こえなかったのでした.
八杉は近くで聞いたらしい。偉い先生なのに優しそうと感じたとのこと。声も聞こえなかった僕が、
「怖そう」と思ったのは、途中から宴会場に入ってこられたとたんに、それまでガヤガヤだった部屋
が一瞬で静かになってしまったからに過ぎない。と、ようやく今気づく。(^^;)

そういうえば、渕一博さんについても同じようなことがあったな….
#これについては、書いたものがあって(情報技術の思想家渕一博)、それが掲載されている
#本が、そろそろでるころだ(近代科学社です。題名忘れた。。。とにかく、渕さんを
#記念する本)。

細切れにブログを書く実験をするつもりで、短く書くつもりが長くなった。
おしゃべりは直りません。(^^;) :hammer:


2010年2月16日(火曜日)

京都学派の末裔

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時45分04秒

昨日届いていた梅原猛「隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫) (文庫)」をぱらぱらと読む.

なるほど...確かに面白い.現代のアカデミックな歴史家ならばやらないような議論が各所にあるが兎に角力強い.amazon の読者が4をつけた意味がわかる.議論の妥当性は別として背景から赤外線のように照射してくる力のようなものがある.その原因は?京都学派を調べているものとしては,特に「はじめに」の書き出しが面白い.「この本を読むにさいして,読者はたった一つのことを要求されるのである.それは,ものごとを常識でなく,理性でもって判断することである」.梅原さんの「学問」は,これに尽きるのだろう.この「理性」は明らかにKant哲学などの意味での Vernunftだ.ようするに,田辺が社会・政治に対して哲学をもって行おうとしたことを,梅原さんは日本古代史に対して行おうとしたわけだ.違いは田辺が過剰と思われるほどに高踏的であり意図的に難解に書いたのではないかと思われるような文章を紡いだのに対して(この場合,「書いた」といわず,「紡いだ」といいたくなる.一つ一つの表現の繊維が複雑に入り組み,どれがどれにどのように絡み合っているか容易には解くことができないような文章*1),梅原が最初から大衆読者を向いていること.梅原は和辻を連想させる.戦後京大文学部のアカデミズムから忌避された梅原は「ポピュラー的」だ.その議論のスタイル,目的は明らかに京都学派のものだが,むしろ,それが忌避を招いたのかと思ってしまう.

いずれにせよ,読む前は,大先達に失礼ながら「あやしげな奴」などと思っていたが,思っていたものと違い,すがすがしさのある文章に,田辺へのものと同じ程度,あるいはそれ以上に共感を覚える.特に自分の論考が歴史学的精密さに欠けることを認めた後,それに続く一節「そういう個々のミスを指摘していただくのも大いに結構であるが,願わくば,それと共に,この本の根底にある理論そのものを問題としてほしいのである.一旦,こういう仮説が提出されたからには,もはや,古い常識と通説へ帰ることは出来ないと思う.この仮説の否定は,この仮説以上の理論的整合性をもった他の仮説の創造によってのみ可能なのである...<中略>日本の古代学の発展の刺激にならんことを」には,大変共感する.

ただし,実はこの見解は間違いで,史学においては理論なくして「否定」は可能である.「否定」をなんと取るかによるが,理論を立てた本人の足をすくい,立っていられないような痛手を与え,本人自らが退場したくなる,そういう,実も蓋もない史料・事実というのは実際にはいくらでもある.こういうものを「否定」といえば,史学にはそういう否定は日常的にある.僕はこの「否定」を引き起こす史料・史実を地雷と呼んでいる.本当に地雷は怖い.何の前触れも無く,突然爆発するのだから歴史家の心は休まらない.まあ自分がゾンビならば別なのだが(^^;),大方の学者はそうではないものだ.

田辺は,すべてのものに意味を見出そうとして躓く.(一番ぶっ飛んだのは,「社会における土地占有が相対性理論における光にあたるという議論.兎に角,自分のいる時代の歴史的事柄にも意味を見出さないといられない人が田辺だったが,そういう人,今も多いですね.)すべてのものに意味を見出そうとすること,それは地雷原と知りつつ,そこに分け入り走り回るような行為だ.だから僕らのような慎重な(*2)学者はそういうことはしない.命(学者生命)は惜しい.田辺は最初極めて慎重だったが,立場上か,西田の後を襲ったころから,これが酷くなる.

梅原さんは最初から地雷原を闊歩という感じ.この点は,やはり梅原さんは歴史学者としての思考の経験がなく,あくまで戦前の京都学派的に「理性のみに頼る」という方法にこだわりすぎていると僕には思える.先日とどいた昭和6年からの岩波講座哲学の第1回配本,西田幾多郎「歴史」に眼を通したときも同じ違和感を覚えた.ランケについても議論しているが,その全体はアウグスティヌス的時間論のような抽象論に基づいていて,歴史学というものが持つ(西田は明らかに歴史「学」も問題にしている)政治性,社会性などに一切議論が及ばない.そういう所が,田辺は嫌で種の論理など考えたのだろうが,その田辺の議論の仕方が,再び「理性のみの」「論理的」な議論になっていて,20−21世紀人として,当然のように下世話な僕などは,最初に読んだときに大いに驚き,かなり研究をすすめて,田辺の文章に慣れ親しんだ,今でも違和感バリバリなのだが,梅原さんの文章はそれと同じものを僕に感じさせる.

戦後,おそらく京大文学部は戦前の京都学派を忌避する動きをしたはずだ.これは同僚に聞いてみたが,言葉を濁された.(^^;) それも梅原忌避の一原因か?

まあ,危ないから,これはこの程度にしておこう.田辺研究だけでも十分「危ない」のだから...

で,一つだけ面白い話.(面白い世間話大好きです.これを禁じられたら生きていけない..)京大文学部100年史に出身者の一人として梅原さんの文章が載っていて,それによると京都学派以後,自分で考えるという京都大哲学の伝統はなくなった,哲学史に堕しているというような意味のことが書いてあった.これを読んだとき,なんと今の哲学の同僚達は寛容なのだろうと思ったのですが,面白い話が好きな林は,そこで「一説」をひねり出しました.「これはきっと梅原猛博士の生霊を封じ込めるため,あるいは,ガス抜きするための梅原法隆寺に違いない!」.もちろん,この説を考え付いた時の僕の顔は,こんな風 :-D:-D:-D:-D にニヤニヤだったわけですが, 後で真相を聞いて:-o:-oという感じ...なんでも,哲学から推薦した方(これも著名な方)が何かの理由で原稿執筆を辞退され,編集をまかされていたT先生(どちらかというと社会科学系の人で哲学は専門外) が,困ってしまって,有名な梅原さんに頼んでしまったというだけのことだったらしい.普通の大学や大学部局だと,勝手なことをやったとか言って大喧嘩になりそうだが(以前,そういう所にいました.(^^;)),京大文学部は互いになるべく干渉しないし,物事を根に持つ人が僕が知っているほかの場所にくらべて驚くほど少ない.で,事なきを得ているらしい.というか,僕みたいのが目ざとく見つけて一人で喜んだり,残念がったりしているだけらしい.

歴史をやっていると,こういう風に,大きな意味を持ちそうなことが,実も蓋もない偶然のために起きているということに多く出くわす.ある人が,昭和20年8月6日に広島にいたことに,普遍的・論理的「意味」を見出すことは不可能だ.しかし,そのことは,その人にとって,とてつもなく大きな意味をもつ.歴史的事実・歴史性というのは,そういうもので,逆説的ながら,それこそが一種の超越性であり.... なんだか京都学派みたいになってきましたところで,終わりにしよう.最後のデモ・ビデオ作らねば!  そうです.これも現実逃避でした.:-D:hammer:

*1:ただし,田辺の初期の科学哲学関係の論文や本は読みやすい.論旨や議論が単純なのである.ただし,初期と中期以後で殆ど同じことを言いながら,後者の文章は奇妙に難解だったりするので,単に文体の問題もあるのだろう.

*2:慎重:つつしみ深く考え深いこと.凡庸ともいう.


searchable 崩し字辞典?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時02分30秒

手書きの読みを登録・検索できる機能につける名前.searchable 崩し字辞典ではおかしい?辞典というのは汎用性を前提としているので,色々な崩し字のパターンを網羅しているという前提があるだろう.それが searchable だと,崩し字が読めないときに「絵柄」のほうから苦労なくサーチができるのだが,というのは誰でも思うので,searchable 崩し字辞典という名称をつけたくなる.しかし,私が作っているのは,特定の筆跡の個人,あるいは特定の史料内での手書き文字の読み方のDB・辞書で,画像で searchable なもの.さらに,手書き,崩し字であることも本質的ではない.では,何と呼ぶ?困った....


低体温

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時05分33秒

昨日漸く展示ビデオの内,ひとつを除いて,テロップ作成をしてくれる学生さんたちに渡す.3時間位しか睡眠時間をとれず体力を消耗したため,お定まりの低体温で体が冷たい...こうなるとシンドイ.

テロップ作成をしてくれる学生の内,1名は僕の授業にでていた人だが漫画家志望とのこと.彼はあまり勉強ができないと自分では思っているらしい.まあ,正しいかもしれないが,そう悪くはない.わざとそう言ってる面もありそう...もう一人漫画家志望の学生を個人的に知っているが,こちらは見るからに勉強ができそう(院生だから研究というべきか).昨日ある会議で彼が確かに学業成績も学部でトップクラスだと分かった.これだけ漫画というものの力が若い人たちの間で強いことに今更ながら驚く.神戸大では漫画好きのMITの学生が留学してきていた.なんで神戸大などにと思って,WEBで名前を検索したら,MIT漫画愛好会のメンバーだった.(^^;)ためしに漫画の話を振ってみると「手塚センセイは...」などという(もちろん,流暢な日本語).これがもう10年近く前になるか...成田空港で韓国の人に話しかけられ,自分はアニメの製作会社の者だ,知らないだろうが日本のテレビアニメのかなりの部分は韓国で作られている,そういう商談で日本に来た,という話を聞かされたのが1980年代の前半ころか.世界も日本も随分変わった.

昨日の会議では新研究科長予定者が「シンドイ」という意味のことを,脈絡も無く独り言のようにもらしていたが,それを聞いた隣の同僚が「ツイッただけ」とか言っていた.最初何か分からず,何度か聞きなおして,twitter のことと判明.(^^;) twitter をやるのか,と聞いたら,twitter や blog のように怖いものはしないとのこと.blog はコメントとか禁止すれば別に怖くないと思うが,確かに,最近の投稿のようについ正直に書いてしまうことは否めない.

むかし,ゲーデルについてのBBSを主催していたころに,変な人たちが集まってきて,優秀な投稿者を蹴散らしてしまい,結局面倒になって閉鎖したことがあったが,それ以来,そういう種類のものは避けてきた.一番困るのは,時間を取られること.変な投稿者は,それ自体が生きがいになっているらしいので,勤務時間だろうがなんだろうが書き込んでくるが,こちらは活動の一部でしかないので,そういうものに大きな時間を取られるのは困る.自分が論駁されたことさえ分からないくらいの程度なので「ゾンビ」みたいに死なないので,本当に手間がかかる.で,論争というものは,互いが同じ場に立っているときに初めて成り立つものだと理解して,以来,そういう人たちとは付き合わないことにしている.最初は,そういう人たちに論拠を示して,「あなたは死んだ!」と言っていたのだが,ゾンビなので絶対死なないので:-(,諦めるようになった.で,ゾンビ(似非科学もそのひとつ)を殺そうとしても仕方がない.ゾンビにはそのままそこにいてもらい.しかし,「健全な人」,つまり,僕と同じ側に立つ味方の数を増やすしかない,と考えたが,これはどうも伊勢田さんたちがやっている運動(?)の戦略に似ているらしい.

で,そういう僕がなぜブログを開設したか.理由は簡単で,これは僕の学生達に向けて書いている.専修の学生でも,僕が何を遣っているか,何を考えているかが分かっていない.あまりに,色々やっているから仕方がない.僕には個人の歴史という,それらに線を通すものがあるが,学生は,それらの断片と交差する,特定の学問の断片をやっているから,交差する場所が大変小さくなる.僕の「学問」は偶々出来上がった僕だけのものだから,真似はするな,まずはちゃんとした学問をやれと学生には言っているから(まあ,それに若いときはそうでしかできない),学生が僕が何を遣っているか,いつどう変化したかを知るのは通常チャンネルでは殆ど無理.昔のように世間話をする機会や時間をとればよいのだろうが,兼業主夫の僕には時間がない.あったら,読みたい本が山のようにあるし...

サイトだと「完成」を意識してしまうし,そう出来ているから「時間性」(即時性?ちょっと違う,時間の流れそのままに即応すること)が弱い.となるとログであるということになり,これを書き始めた.で,使い方がそうだからコメント・トラックバックは禁止ということになる.僕の活動のある部分に学生が興味を持てば,学生は僕とそれについて直接話せるわけだから.

で,twitter はどうだろうと,考えて見たこともあるが,これは僕のような学問のやり方をする人間には不必要だし,時間の無駄だ.学生に見せたいのは僕自身の「日々の生活」ではなく,僕の学問上の「日々のアイデア」なので,ブログ程度の「まとまり性」と文章の規模が必要.学問上のアイデアは一瞬では成り立たない.着想は一瞬だが,その後,数時間,数日,は最低でも頭の中でこね回す.twitter のように,それをそのまま文章にすると例え短い文章でも,自分のアイデアが固定化される(逆に言うと学者のような主に個人的思考でなくチームでやる思考・集合知のようなものには,これは適している).特に他者を意識して書くとあぶない(アイデアの自由性が減る).だから,応答できないブログ程度の「まとまり」と属人性が適当で,twitter のように,個人の「生活」をログする必要まではない. 

ということで,ブログを書いている.:-D


2010年2月14日(日曜日)

またまた現実逃避!!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時13分14秒

うーん.SMART-GS のデモビデオを作らねばならないのだが...やる気がでない.それより田辺から芋づる式に広がってきた思想史の方をやりたい...昨日も昭和10年代の岩波哲学講座の古書一セットが届いたが,表紙の著者名をみるだけでも面白いのに,読んでる暇がない...

と書きつつ,さらに時間を消耗...:hammer:

一つ前に梅原猛さんの「悪口」を書いたが,同僚との世間話で得た知識(印象?)ではだめで,根拠を抑えておくべきだなと思い,Amazon で有名な法隆寺についての本を注文.

これの読者書評が感激的によかった!で,忙しい中,これを書かずにいられない!!(と,言い訳...)

伊勢田さんの物理の話と同じような現象が起きていた.書評の評価ポイントは高いのだが,内容を読むと,「梅原説は現代ではほぼ否定されている,より実証的な著者により少なくともその論拠・根拠がほぼ完全に否定されている」という書評が大半.でも,その「批判」のきっかけを作ったのは梅原さんだから,評価できる,という意見が,また,多い.

これは実に良い.「怪しげ」な理論を最初から否定一辺倒でやると,「やがて正統となる異端」までが抹殺されてしまう.数学史の例で,僕が良く引用するのが,イギリス代数学派.ブールや線形代数のハミルトン,ケーリーなどもこれの末裔だが,これの元のピーコックあたりは,本当にすさまじい.ポスト・モダンの著者など遥かに下にみる,という感じ.(^^;)ブールだって,すさまじい議論をしている.しかし,それが現代代数学の一つの源であることは,誰も否定ができないだろう.これを見てから,僕は,「飛んでる議論」も否定しなくなった.

ただし,後代は,それをちゃんと批判して,さらに,それの持つ歴史的意味を考えなくてはいけない.その時,ホイッグ史観ではだめで,その人たちは,なぜ,そういう風に考えたのか,という歴史的コンテキストの分析が重要.僕が歴史学でやっていることなど,これに尽きるともいえる.そして,その時に,今からみたらどんなに酷いものでも,貢献があれば,ちゃんと評価する.これを社会が行えば,飛んで落ちても,それほど怖くなくなる.だから,良い意味で飛ぶ人が増える.間違えた飛翔もちゃんとチェックしつつ,しかも,間違えた人をぼろくそに言い過ぎてもいけない.
#ただし,努力もしないでお気楽に妄想を垂れ流す人たちへの批判は徹底的にやるべきだろう.少なくとも,僕はやる.

そういう意味で,日本でもちゃんと機能しているところでは,機能している,という無知な僕には感激的な事例でした.

まあ,梅原さんは,もちろん,そんなに酷いとも思えない.ご本人はアカデミックな学問をやってなくても,アカデミックな知が何某か背景にあるので,それを一般社会に繋いだ功績はだれにも否定できないだろう.そういうものは必ず存在しなくてはならない.問題は,大衆とアカデミアの間に位置する,そういう人への評価が低い点だろう.これは梅原さんが社会的に評価されていることに矛盾しているようにみえる
かもしれないが,実は,そうではない.今の日本の場合,真の中間がゆるされず,大衆かアカデミアのどちらかに属することを迫られる.つまり,塀の上を歩くようなもので,どちらかの側に落ちることを余儀なくされる.日文研ができたりして,アカデミズムの側にいるかのように見える梅原さんだが,「正統」アカデミズムからみたら,しっかり反対側に立っている.そういう位置で,かつ,政治家との関係などで,受けた評価とみるべきだろう.まあ,あの世代までは塀の幅が少し厚かったといもいえる.#和辻や九鬼などを思い出せばよい.田辺でさえ,#戦後は「風土論」みたなことを言っている.

ところが,今は,塀の幅が狭くなっているような気がする.そうなると,がっちりとした力のある「ご苦労様な」アカデミズムの研究を踏まえたうえで(ご苦労様だから,本当に時間と労力がかかる),「ロマン」を求めさえする大衆に語りかけるということができない.

伊勢田さんによると(彼は,そういうことも専門),科学では,そういうのをサイエンス・コミュニケーションとかいうとか,こういう部分が十分大きくないと,アカデミズムは社会の支援を受けることができず衰退する.そして,それは数十年単位で社会の経済力やら競争力にさえ大きなブレーキになる.実際,それが起きている.特に社会と技術の関係が,他の分野以上に深い,ソフトウェア(会社や社会を動かしているソフト.エンタ系などという人もいる.エンターテイメントではなくて,エンタープライズ)の分野とかでは,これが大きく,僕がIT人材調査をやっていたころには,常にこれにぶつかり,社会改革に踏み込みまでの気概はないので,溜息をついて,引き下がるということばかりやっていた.しかし,公文書管理法とか裁判員制度とか,いつの間にか,この国の基盤部分が変更されていることが増えてきているように思う.政権交代が起きたということも,そういう変化と関係があるはずだ.
#万里の長城くらいの厚みが欲しい!

昨日は,心配していた学生についての思いがけない朗報もあり,時間的に追い込まれつつも,少し良い気分.:-)

でも,展示準備はできてないのだぞ,
こんなこと書いていないではやくやれっ!!:idea:
という内なる声あり.:cry:


2010年2月13日(土曜日)

一つ前の投稿の修正など(などが多い!)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 04時05分10秒

石田さんから,僕のメールに違和感があると返事をもらった.直ぐにもらったが,忙しくて返事ができなかった.
実は今も忙しいのですが,現実逃避しています.(^^;)
#なぜ,忙しいか: 石田さんの集会での展示の準備.やったことがないポスター作成,展示ビデオ作成
#で困っている.で,展示のためにヒルベルト日記研究の論文原稿を見直していたら,変なところがあることを発見!
#その後,数日,数学史研究に没頭!結果として,solvability note の執筆時期の評価の質が前よりかなりよくなった.:-)
#何が最も optimize された結論か単純には分からないような議論となったが,これは池田さんのRWMの研究の
#対象として,面白そう.ということで,複数の良い成果に結びついたが,しかし,緊急の実務は停滞!:cry:
#実によくあるパターン....

先のメールの僕の議論では,石田さんのお父さんが,現在もあるいは最近まで現役であるかの
ように書いているが,考えてみたらそれはありえない.石田さんはほぼ僕と同じ年齢のは
ずなので.(^^;)僕は父が還暦に近いころの子供なので,どうも世間一般の標準的年齢感覚
とずれているところがある.というより,そういうことを考えていない?

石田さんのお父上は,終戦前後に卒業を迎えた世代らしい.かなり名の知れ
た方だったようだったので,文学部図書館で著書などを少し見てみたら,
現代の京大文学部の歴史学のセンスからすると,少し「飛んでいる」方だったらしい.
(^^;)

発想が面白くて「飛んでいる」ということ,これは,この世代や,その少し下の
世代の学者には共通したことだが,それ以後,
大学人は,急速に「象牙の塔」にこもってしまったかのように思われる.
#僕も飛ぶのは好きだが,無根拠に飛ぶことがないように自戒している.

石田さんは,それは知らないし,理系の人はマスコミに出てくる人が文系の
主要研究者と思う傾向があるので,「文系とはロマン」と思っていることが
多いから,その両方があいまって誤解されてるらしい.
#梅原猛さんなど,京大文学部出身者として有名だが,文学部内部での
#評価は「...」.何でも最初に提出された学位論文は落とされたとか..

で,人文学の組織・教育機関というだけでなく,そういう学問のスタイルの
変化という意味でも,数十年前と人文学の状況が大きく変わっているという
ことがある.それ以上に,特に社会のアカデミックな人文学への視線が変
わってしまったという意味が大きいだろう.石田さんは理系の中では,
人文学への視線が暖かく,また,より理解力のある人だと思うが,
それでも現場に身を置くものがもつ感覚と大きく違う.

どこが変わったか?色々あるが,一つには,もの凄く専門化が進んだのである.

例えば科学史の伊藤さんは,伊東俊太郎先生とか,村上陽一郎さんの世代に東大で
教育を受けた人だが,あの世代の学問のやり方はもう不可能だという意見だ.そのころ
なら書けた,また,石田さんのお父様も書いている,古代から現代までを貫くような
通史は,もう誰にも書けないというのが,伊藤さんの意見だ.

これは僕にも良く分かる.科学史研究でも一次資料を駆使した精密な研究
が当たり前になっているから,通史など書いたら,各所でボロがでてしまう.
最近だと評判が高い Katz の数学史も,僕の専門のあたりはボロボロに近い.
おそらく,僕にはわからないだけで,他にもそういう所が相当にあるだろう.
米国人研究者による,ちょっと評判の戦後日本史の通史を買ったら,少し読んだだけで
嫌になって読むのを止めたこともあった.現在では難しい通史を書いたものとして
評価が高かったので買ったのだが,相当に無理があったようだ.僕はその分野の
専門家でないにも関わらず,そういう人が読んでもすぐに馬脚がでる.専門家で
なくても,昔に比べれば随分情報をもっているから,ボロが直ぐに見える.(深くGoogleる
能力さえあれば,昔の並みの大学教授程度の知識は直ぐに手に入る.)だから,
現代では,通史を容易には書けない.そういうものに堪ええる程度に
書こうとすれば,Max Weber 並みの2次史料読解力と構想力,かつ,
パワーが必用だが,もちろん,Weber ほどの人文学者は極く稀にしかいない.

で,今日(物理的には昨日),偶々,科学哲学の伊勢田さんと関連した議論をした.最近,よく学者・研究者
ではない,マスコミ関係の「博識」の著者を,マスコミが「知の巨人」として持ち上げ
ることがあるが,僕らからみたら,そういう有名人は「飛んでいた」上の世代の学問と
比べても,月とすっぽんくらいちがう.伊東先生などはラテン語(だったかな?)文献の
研究など,海外でも通じる本物の学問をして,かつ,ポピュラーなものも書かれていたわ
けなので,その背景知識の豊かさや確実さが,日本のアカデミズムでさえ通用しない
「巨人」たちとはわけが違う.

大学人にも同じような人がいて,たとえば,中沢新一さんの田辺元の
本など,読み物としてはおもしろいが,これが僕の学生の卒論原稿だったら
「文章はうまいね,でも,学問てそういうもんじゃなくて内容なのよ」といって
留年させるだろうというレベルのものだ.良くてノンフィクション風,フィクション.
田辺のテキストを全然読めていない.というか,読んでないのだろう.
田辺を利用して,自分の考えを書いているだけなのだが,それをあたかも
田辺が主張していたかのように書いている.しかし,実際に田辺が言っていた
ことは,中沢新一さんが書いていることとは全く違う.
#数学が分かってないのに,滔々と書く所がまた「凄い」(^^;)けれど.

僕のアンソロジーにも記事を書いてもらったことがある哲学の高橋さんなども,
まあずっと「良心的」ではあるが,同じようなところがある.彼が実は学会より
マスコミを狙っているらしいことは,彼が米国から帰国してすぐに書いたらしい
科学朝日の記事を見たときに感じた.でも,その文章は面白くて僕は好きだった.
僕らの若いころは,「とにかく難しければ偉い!」という,これも大変困った風潮が
あって,違和感を覚えていたから,日本でもこういう風に書ける学者がでたか
と思い注目し,それでアンソロジーの著者にもお願いしたのだが,どうも高橋さんの
本や記事には間違った記述が多すぎていけない.ライターとしての能力は大変
評価するが,専門家としての能力には「?」をつけたくなってしまう.(^^;)
それに,間違いを僕や八杉が指摘すると,非常に低姿勢で謝りがくる.
僕らに謝っても仕方がないと思うのだが.人情として,それ以上きつく
言えなくなるのだが,また,次の本で同じことをやっているような....(^^;)

そういえばマスコミにでる人は,共通して「謙虚」なところがありますね.
高橋さん以外にも,郡司さんとか,茂木さんとか「謙虚」な感じの人でした.
ただ,これは学者・研究者としては,決して良いとはいえない.
「このヤロー,糞生意気な!」と思って攻撃しようにも,その学問の凄さに
歯が立たない.そういう人の方が本物だ.「良い人」を売りにする学者は,
最初から学者としては逃げているともいえる.
#もちろん,自然に「良い人」の場合は,それでよいし,変な言い方だが「仕方がない」.
#稀にすばらしい人格とすばらしい能力が同居している人がいる.もの凄く稀であるが.

またまた,脱線気味.現実逃避で文章を書くと,こうなる.(^^;)

で,本題に戻して...伊勢田さんに,現代日本はマスコミに乗り,ポピュラーに
なる学問というものにあまりに低レベルのものが多い,戦前の京都学派
が活躍した時代や(現代の)米国などと比べると,あまりに落差が多すぎる.
何が原因だと思うか,と聞いたら,「アカデミズムの人間が,あまりに
専門的な研究にこだわって,外に眼を向けなかった.それが災いしている」
という意見だった.僕も,大体,同じような意見をもっていたので,大いに納得した.

伊勢田さんには,サイエンス・カフェの取り組みなど,知らないことを色々
教えてもらったが,一つ面白かったのが,物理系だと,今の「知の衰退」
はそれほど酷い状況ではないという意見.WEBなどで酷い意見がでても,
それを他の素人の人たち自身が修正する力が,日本社会でも
十分あるし,その傾向が強くなっているとのこと.これは不完全性定理,
数学基礎論関係の状況とかなり違うので,新鮮で面白かった.

僕の研究分野の関係では,例えば,学者の間でも相当に酷いのが多い.
これもアンソロジーに書いていただいた大澤さんの著書の集合論の記述を
見て,のけぞってしまったこともあった.(^^;)彼の「代数学」などは,
「殿はご乱心じゃ」のレベル.(大澤さんの社会学には,ときどき,
ハッとするようなのがあって,割りとすきなのだが,玉石混交.)

ところが,ゲーデルや数学基礎論関係だと,こういうものに殆ど修正がかからない.
これは,やはり,そういう分野が物理などに比べて,この国では弱いということで,
それがこの国の現状だと思ってはいけないのだろう.それはソフトウェア部門(弱)と
機械工学,化学(強)などにも当てはまるのかも.

ということで,話が,石田さんの話から,とんでもなく遠くまで来
てしまったが,ただ,問題意識は同じ.石田さんは,どうも学者が
夢を語ることを期待され,また,それが大学の研究者でも「ゆるされた」
時代のお父様の姿を見て,また,自身が理系の研究者で,文系の仕事
をしたことがないため,人文学の今の姿を理解されておらず,文系に
「ロマン」を求めているらしい.

しかし,現在の「方法論が進化し,精度を増した人文研究」は,
そういう「ロマン」を許さない.ある意味では,自然科学以上に,
地道な研究分野といえる.本物だと,そういう重箱の隅をつつくような
研究から,あっと驚くような飛翔が起きる.Google の村上さんに
紹介した社会学の本を読んで,村上さんは「学者というものは,
ご苦労様なものだ」と言っていたが,そう言われるほどの研究でないと
本物とはいえない.その上でようやく飛翔ができるし,そうやって起きた
飛翔は,研究主体の「思い」を超えるので,「思い」から発するもの
(たとえば,中沢田辺論)などを遥かに超える力を持つ.

しかし,残念なことに「教養主義」が理系の学生にも文系の知識を
植えつけることに貢献していた時代は去り,全共闘世代以下の
理系の文系的素養は実に悲惨.(僕だって,割と最近まで,
平均以下だった.)だから,なかなか説明を伝えられない.
伊勢田さんによれば,これらのことの原因は,歴史的には,
大学紛争があるといわれているとのこと.確かに....

いずれにせよ,異分野の人と議論をすると,色々と考えが進む.
石田さんとのメールの交信は以前からの疑問をかなりクリアにする
のに役立った.一度,時間があるときにじっくり議論してみたいものだ.
石田さんならば理解してくれる可能性も高いだろうし.

しかし,もう少し理系の人たちが文系に歩み寄る努力が
必用だろうと思う.C.P.スノーの時代の英国と,今の日本
では完全に状況が逆転しているのだから.
#19世紀ドイツではどうだったのだろうか???


2010年2月8日(月曜日)

石田さんへの返答:人文学と科学

カテゴリー: - susumuhayashi @ 17時47分38秒

SMART-GS を出展予定の「文化とコンピューティング」国際会議の関係で,主催者の石田さん(京大,情報)とのメールのやり取りの中で,
僕と現代史の永井先生,仏教学の宮崎先生の連名で書いた人工知能学会誌の紹介記事(解説論文)が,「問題解決のプロセスのモデル化」
かどうかという議論が始まり(Dreyfus-Winograd の反AI論を知っている人には,なぜ,僕が,この石田さんの言葉に引っかかってしまった
かお分かりでしょう.「問題解決」「モデル」二つの言葉とも,容易に許容はできません.プロセスは一般名詞ならばよいけれど,ソフトウェア・
プロセスとかに絡められると,簡単は「yes」といいがたいところです),「人文学者の多くは,そういうモデル化をしたがっているのではないか」という
石田さんのメールに,それは間違いだと反論したら,実は,それは石田さんのお父様(専門は思想史とか)のことを言っていたことわかり,
現在の日本の状況なども踏まえて,詳しく説明するしかないな,かつ,今,調べている19世紀ドイツでの反心理主義,反物理主義,歴史主義
などの,Naturwissenschaften と Geisteswissenschaften の葛藤の問題とも関係するし,まあ,最近,このブログで書いていたことと,
深く関係するので,長ーーーい,お返事を書いたのが,下のもの.僕は,こういう長いの書く癖があり,もらった人は迷惑だろうな,とは思うのだけれど,
まあ,喜んでくれる人もたまにはいるし,書かないと「腱鞘膨るる業」;-)となるので,つい書いてしまいました.:-D

というものが,とにかく,次のもの:
#送ったそのものでなく,文章が変だったところを,少し修正していある.
#不思議にブログになると間違いが見え易くなる.印刷と同じか?

石田先生

<中略>

現代日本では人文学が「遊び」のように扱われて,何か
理系や社会学系にくられべ一段低いような扱いを受けているので,
理系的に見せるという努力を人文学者がしてしまうという
傾向がかなりあるように思います.少なくとも,
そうしないと,理系の人たちが研究費をコントロールして
いるので,お金がなかなか来ないようです.

しかし,これは文系の素養が殆どなくなってしまった
理系の先生方の ignorance から来るものと私は思っています.
社会情報系の石田先生ならば,これらのことはお分かりでは
ないかと思いますが.

国家・社会のために重要な人文学研究は沢山あります.
私は哲学研究や文学なども,50年,100年を単位に
して考えれば,そのようなものだと思っていますが,
理系の方でも分かり易い例は歴史学のもので,例えば,
「南京虐殺はどの規模で,どのようにあったか」
「竹島(独島)は日本のものか」「チベットは歴史
的に中国の属領か.あるいはその歴史的関係は」
などの問題には,史料に基づく歴史学(私の専門がこれ)の研究が,
大きな影響を与えます.

私は,こういう学問は,現代日本では「社会のための工学」
でなく,「楽しい科学」に,「堕している」ことが珍しくない
(これは工学部時代の自分への反省も込めて),
工学部等での大方の研究より,遥かに国家・社会のために
重要だと思っていますが,そういう議論は残念ながら,
なかなか賛同してもらえません.

この様な状況で,人文学の研究者が不必要な劣等感・罪悪感を持つこ
とがあることに,文学部に転職して気がつきました.
XXXさんが「誰もやらないことを調べている」と言われる
のも,幾分は,そういう感情によるものでしょう.しかし,
これは私は大きな間違いだと思っています.研究者が,そういう
感情を持つのは勝手ですが,国家・社会が,そのようなイメージを
持つことは,その国家・社会の「力」の衰退に結びつきます.
それは戦後日本の歴史が何よりも良く示しているところでしょう.

いずれにせよ,お父様の様な方もあるのかもしれませんが,
世の中がどうであれ,それは世の中の方が間違いであるという
誇りをもてるだけの研究をしている人が多い(国内では知られて
なくても,海外のアカデミアからの評価が高い人が相当いるのです),
京大文学部では,人文学を人文科学と呼ぶことさえ間違いだと
いう意見の方が大勢だと思います.京大文学部を「アカデミズム最後の牙城」
と呼び,「もう自分達は持ちこたえられない.せめて京大文学部
だけは頑張って欲しい」といわれたことがあると,著名な
仏教学者の徳永先生が仰っていたこともありました.

痛めつけられている,また,十分な人材の集積を形成できない,
他の人文系の学部・部局では,なかなか
そのような誇りはもてないでしょう.たとえ,良い研究を個人で
していても,周囲の堀を完全に埋められてしまった状況で,
孤立無援に持ちこたえることには超人的な精神力が必用で,
普通は,まあ...,出来ません.

ですから,お父様のような考えを持つ方が増えていることは
理解できますが,同時に,京大文学部は,まだ,それを「間違い」
だと言い切れるだけのものを持っていると思っています.

もっとも,数理社会学などの面白い学問があるように,
人文学におけるモデル化やシミュレーションの可能性を
全く否定するつもりはありません.大規模な社会システムの
性格など,そういう方法でしか研究しにくい,自然科学的
性格が,社会科学だけでなく,純粋な人文学の中にさえあることは
確かです.しかし,それは飽くまで人文学の辺境に位置するもの
であるというのが私の見解です.

現代日本では,「文系=おもしろい文章を書くこと」と思っている
人さえいますし,文系は遅れていて自然科学に近づけなくては
ならないと思っている人も多いようですが,私は,
そういう考え方は誤りであり,そういう風潮を跳ね返さないと,
真の人文学の伝統が滅びてしまう,そして,それは日本という社会・
国家の将来にとって,大きな損失になる,と考えています.

本物の人文学は自然科学には還元できませんし,
また,自然科学的に行うことさえ不可能です.私は,それを
ソフトウェア工学の社会的側面の研究の中で学びました.ソフトウェア
の「仕様」「正しさ」の基準は,最後は人文学的思考,特に
社会学的な思考に還元せざるをえなくなり,それで形式的技法の
研究を放棄し,社会学的要素が強いアプローチ,UML,
agile methods などの研究にシフトしました.私の論拠は,
社会学,特に Max Weber の合理性理論でしたが,後に,
渕一博さんについて調査した際に,Winograd さんの本の存在
を偶然知って,よく似た論点であることを知り,それ以後,
Winograd さんの論法も使うようになりました.
#私はAIはそれまでは殆ど知らなかったのです.(^^;)

18−19世紀のドイツ思想界では,自然科学(特に心理学・物理学)・
工学に対する哲学の位置づけが問われ,大きな葛藤が起きたことが
知られていますが(今,私が丁度調べていること),その結論が,
私が上に書いたようなことで,それを主張した一人がハイデガーであり,
また,それに影響を受けたのが Hubert Dreyfus であり,
Dreyfus の反AI論に影響を受けたのが,Winograd さんであるわけです.

この部分は,容易に議論ができるような話ではありません.
世界に先駆けて,大学に工学部を作って「しまった」とも
言われる日本という特殊な「先進工業国」において,しかも,
目先の短期的利益にばかり眼を奪われ,実は,自分達が
(心ならずもであっても)それに依拠している西欧の学問の
伝統からの乖離をますます加速化している日本という国では,
これについての議論はさらに難しいと思います.

しかし,どのような尺度で考えても,「自然科学的な人文学」
というのは異端であり,「暗黒の未来」
ではありえても,「輝かしい未来」ではないと,
多くの人文学者が考えているということは
ご理解いただきたいと思います.

私達の HCP や SMART-GS は,この「自然化」とは全く違う方向を
目指していて,人文学の本質はそのままに保ち,しかし,
史料の閲覧,検索,情報の伝達・交換などにともなう
「物理的・社会的障害」を取り除く道具を作ろう,
グーテンベルクの印刷技術と同じような仕方で人文学に
影響を与えるものを作ろう,ということなのです.

ですから,人文学で行う学問の本質には関わらない
作業(画像文字検索「良く似たインクの染みをできるだけ多く集める」
「史料のさまざまな箇所をリンクし,アノテーションをつける」など)を
モデル化して,そのモデルに基づいて,人文学者のタスクを
軽減するツールを開発することはあっても,それは人文学研究の
本質部分のモデル化,つまり,「人文学のモデル化」では全くないのです.
#しかし,印刷技術が世界を変えた様に,こういう「下世話」なものが
#実際には世界を変える最大の要素になることも確かです.

これは,Winograd さんが,社会的存在でありえない(ありえなかった)
AIによる「総体としての真の自然言語理解」の可能性を否定しつつも,
特殊専門分野においてはAIの可能性を認めたという,その考え方に非常に
近いものです.

丁度,今,田辺元研究->新カント派研究の延長上で,
調べ,考えていることにぴったり嵌る話でしたので,
お返事という枠を外れて長く書いてしまいました.
これは,私のブログに貼る予定です.そうしたいという
こともあり,長く書いたわけです.(^^)

石田先生への返答であることは書きますが,石田先生からの
メール部分などは,削りますのでどうか悪しからずご了承
ください.


数学基礎論史はまだ書かれていない

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時29分44秒

いわゆる数学基礎論の歴史について書いたものは多い.僕も幾つか書いているし,
それが専門分野だと言っていたときもある.しかし,田辺研究を通して,19世紀を
中心とする「現代数学と哲学」のせめぎあいを理解するようになると,今まで書かれて
いたものは,論理実証主義の伝統上,M. Friedman の言葉を借りれば,neo-Kantian
から分岐した二つの道のうち,Carnap が通った道から見た風景に過ぎないので
はないかと思えてくる.それはたとえ,それへのアンチテーゼであることを強く意識しつつ書いた,
僕の「解説」でも同じことではないか?

この歴史の流れからみればヒルベルトは,自然科学の陣営ではなく,明らかに「伝統的
哲学」,特に neo-Kantian の戦士として映る.だからこそ,心理主義・物理主義の
du Bois-Reymond に強く反旗を翻したのではないか?そして,その姿を見たからこそ,
ゲーデルは「左傾化を急ぐ世界の趨勢を余所に,一人数学だけが右傾化の道を選んだ」
と書いたのではないか?ドイツ語圏に身を置いた鋭敏な人物ならば,それは肌で感じる
ことができたとしても不思議はないだろう.新カント派の政治性は今では歴史家でも
容易に感じることは難しくなっているようだが,当時ならば,日本でさえ左右田喜一郎の
社会問題研究所刊『新カント派の社会主義観』という書籍があった.

もし,この認識が正しいとしたら,「そのムーブメントの真の意味を描き出す」
という意味での数学基礎論の歴史は,まだ一度も書かれたことがないのだろう.
今までそれについて書かれたものは,Friedmanが,
“Here philosophy has taken on the trappings of a scientific discipline,
characterized by clarity of method and cooperative cumulative progress in the formulation and
assimilation of “results,” but at the expense of all contact with the central philosophical problems
that are of truly general concern beyond a small circle of narrow specialists. An engagement with
the traditionally central problems of philosophy has thus been left to the continental thinkers,…”
(Preface, A Parting of the Ways)と表現した論理実証主義の伝統から書かれており,それは,西洋哲学の
圧倒的な厚みを持つ伝統を無視した「科学読み物」に過ぎないのだろう.僕の解説とて,同じ
限界を共有している.結局,僕も Carnap が歩みだした道から,それほど外れてはいないのだから.

一方で,continental thinkers や,その影響化にあったといえるポストモダン論者のゲーデル引用
も,実は伝統からほぼ分断されているという意味で,実は極めて「モダン」であったといえる.
そのためもあって,これらの人たちの「数学基礎論史」への視線も,Carnap が辿った道を歩く人々
が用意した過去の絵を通して規定されたものに過ぎない.

このような意味で,「数学基礎論史」は,どこにおいても書かれたことがない.

それを描き出す試みは,Mehrtens, Ferreiros, Gray などにより始められている
現代数学史への新しい視線に基づく研究の上に,後,10年,あるいは,何十年かか
かって初めて可能になるのかもしれない.


2010年2月6日(土曜日)

人文学と科学:その2

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時21分15秒

昨日の展示の相談は,情報学の石田さんから頼まれた「文化とコンピューティング」での展示についてのもの.
海外などからの参加者に SMART-GS を見てもらう良い機械だと思って引き受けたが,プログラムが出てきたものを
みると,思っていたものとかなり違ってガッカリ.これなら断った方がよかったかも...

石田さんには,海外から文献・史料を扱うような人がくるかと,聞き,来るということだったので,期待していたのだが,
実際にはそういう人は国内からも殆ど参加がないらしい.「ITと文化の両方をやりました.楽しいですね」
という風なものが中心.どちらかというと「情報技術ありき.その対象が人文社会系」というアプローチ.
僕らのように人文学の専門家で「人文学ありき.ITが便利and/or必用なので使う」という人は殆ど来ないようだ.
こういう参加者は仏教学の宮崎さんも関係している大正新脩大藏經テキストデータベースのプロジェクトの人たちくらいだろう.
#この部分には大いに期待!

同じく石田さんとKRPに頼まれて,KRPバーチャル・ラボの取材を受けたときも,ライターの人が「SMART-GS の社会的
な応用を挙げて欲しい」といわれた.なんだったか良く思い出せないけれど,WEB上の
人文学とは関係ないテキストのサーチとかに使えるとか「こじつけ」のような例を言っていた.
幸いそのライターの人は京大国文・国語学出身の人だったので(僕が文系の人にして欲しいとかなり
強く要望した結果です),「そういうのを聞いてきて欲しいといわれたのでしょうけれど,
お分かりと思いますが,これは本物の人文学のために作っているもので,そういう『応用』は今は考えないようにしています.
純粋に人文学のために作っている,誤解しないで欲しい,とKRPに言っておいてください」と
答えたら,すぐさま意図を理解してくれた.

石田さんは言語グリッドなど社会的に意味のあるプロジェクトをやっている日本のアカデミズムでは珍しい人だと注目して
いたが,「社会科学」のレベルで理解は止まっていて,人文学が何かということまでは理解してくれてはいないのだろう.
分かっているのだろうと思って,つい集会の性格を細かく聞かずに引き受けてしまった.反省.こういう時には抽象的な
単語(たとえば,「文系」「人文学」など)は,誤解のもとなので,もっと具体的にどういう人やグループが来るのか聞くべき
だった.まあ,その時には,まだ出席者は全部は決まってなかったのだろうから,もともと無理だったのかも...

石田さんは「おもしろい集会になってきました」とメールをくれていたが,それは彼の視点からのことで,僕からみれば
「誤解していたようだ.自分とはあまり関係のないという意味で期待はずれの集会」だろう.
石田さんがこういうメールを書いてきてくれたということは,林も同じような興味を持っていると誤解しているらしい.

正直の所,コンピュータを「文系」に絡めて使い,コンピュータを使っていることを前面に出す
という研究には全く興味がない.それが「文系」とか社会に本当に役立っている,それを変えている(たとえば,Google,
WEB,極く最近ならばチェスなど)の時は,ものすごく興味があるが,「何と詩作をコンピュータでやったのですよ」などとい
うだけのは,「あっ.そうですか:-?. さようなら!」という感じだ.

この感覚は多くの人文学者の共有するところだろうが,「理系」の人にはわからないのだろうな・・・


2010年2月5日(金曜日)

「文化とコンピューティング」展示用意

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時59分00秒

午後に,SMART-GS の展示について永井先生,川嵜さん,佐藤さんと相談.
情報学研究科の石田さんからの依頼で文化とコンピューティングという会議でSMART-GS と寺沢さんの「画像文字検索」(word spotting)エンジンを展示するというもの.
次のような展示をすることに決まる.メモおよび林の詳細化:

  1. SMART-GS の紹介(研究・教育サポート機能)
    1. サーチ,リンク, 画像&文字テキスト向けハイパーテキスト機能.
    2. 将来的に:協働支援,特にネット上
  2. SMART-GS/HCP の考え方
    1.  HCPは,「第一に人文学ありき」で,そのための実用第一のIT技術.
    2. 「その技術を使ったことを隠しても,それだけで意味のある人文学研究」 に応用できるIT技術であることを常に心がけて開発している人文情報技術.
    3. 価値基準は「正統的人文学研究に役立つかどうか」ということだけ.だから「古い技術でもまだ研究中の技術でも役に立つ技術が良い技術」がHCPの価値観となる.
    4. 情報学のための研究ではない.帰結として,例えば林は自分自身ではHCPに関連する情報学の論文はできる限り書かないというスタンスを取っている.
    5. HCP精神に共感してプロジェクトメンバーとして協働する情報学者が論文を書き業績をあげることには.人文系メンバーは支援を惜しまない.良い技術はHCP project を挙げて支援する.
    6. 情報学系メンバーへの支援:人文学の現場からの問題提起,データ(史料など)の取得の代行・提供,ユーザーとしての実験の代行,実験結果の人文学としての評価,宣伝(「この技術は本当に有用だ」などという意見を広める)など.
  3. SMART-GS による歴史研究の事例
    1. Hilbert 日記研究(林)
      • 画像文字サーチと研究過程のメモ,研究結果の纏めと提示(Reasoning Web)
    2. 倉富日記研究(永井グループ)
      • SMART-GS の大型翻刻プロジェクトへの応用
      • 翻刻を経ない一次資料(画像)と翻刻テキストと人名・官職インデックスの一体運用.
      • それらを可能にする協働翻刻の手法とその威力
    3. 田辺元研究(林)
      • 画像文字辞典(崩し字辞典を史料ごとに研究者達が作り,史料画像の一部を指定してそれを引く機能).田辺元昭和9年「種の論理」の講義ノートで実験.
      • 講義資料作成機能と実際の講義資料
  4. SMART-GS を支える高性能画像文字検索エンジン(寺沢)
林,川嵜は,急いでビデオを作成.それに佐藤などのバイトがテロップと音楽をつける.meeting 時に忘れていたこと.デモ用のPCが4台ならぶ.全部が音楽を流したら,ぶつからないか?

林,川嵜は寺沢さんにもらったサンプルを元に,至急,ポスターを作る.出力は生協か?


2010年1月31日(日曜日)

人文学と科学

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時05分47秒

昨日までアドバイザーを引き受けているJSTさきがけの「合宿」だった.2年目に入り,面白い成果がかなり出始めているし,
領域代表の中島さんや他のアドバイザーから,我々が意図していなかったほどに各研究間の相乗効果の可能性が
出てきているという意見がでていた.それと研究員の人たちが場を仕切ってしまい「アドバイザーが発言する間がない」
という意見が出るほど議論があったこと.アドバイザーは僕を含め前時代の人間なのだから,こうでないといけない.
若い人はおとなしすぎるとおもっていたが,珍しく若い人が元気なグループで大変うれしい.

とは,いうものの疲れた...:-?

もう一つため息がでたのが,人文学と工学・理学の間の高い壁.ひとつは,若い人たちに出る資金の差.
さきがけでは3年程度で一人数千万円の研究費がでる.最近,情報でも増えてきた就職できない研究者
の場合は,それで自分の給与を払うこともできるという米国風の制度になっている.一方で人文学には
そういうものがない.僕の学生を含め京大文学研究科には優秀な院生が沢山いるが,彼らは学位をとっ
ても就職ができない,学者としての将来が非常に困難だ,という理由で研究者になる道を諦める人が
大変多い.これは以前所属していた情報系ではなかったことなので,この実態を京大文学部転職後に
知ったときには,大変ショックだった.

ひとつには院を拡張しすぎたという自業自得の面があるが,一方で以前,僕が所属していた情報の世界
ではポストがダブつきすぎて,神戸大クラスでも公募をしてもまともな人が来ない,ということがあった.
僕も龍谷や神大にいたときは,東京やら京都などの有力大学から,再三,移らないかと勧められていた.
一度は東京の大学の公募に応募して欲しいという誘いに「パートナーが京都の大学に勤めているので,
京都を離れるのはいやです」と言ったら,「みんな単身赴任しているじゃないですか!!!」と電話口で
先方の方に怒鳴られたことさえあった.(^^;)
#そういわれて,みまわしてみたら,確かに,自分のまわりは単身赴任者がうようよしていました...

要するに情報系に国の予算が落ちている割りに,人材がいなかったのである.僕程度でも,しょっちゅう,
あちこちから声がかかるほど,ひたすら人材不足だったわけだ.(もっとも最近はどうか知らない.
特に若手は状況が変わってきているらしい.)このダブつき感と比べて,これだけ良い人材が揃いながら,
どうして彼や彼女らには職がないのか!というのが今の職場に転職してからの常なる思いだったが,
最近,僕自身の学生がDに進む学年になり,彼らが心の底から悩んでいるのを見て,一方で,さきがけの元気な
若手研究者を見ると,この落差に,本当にため息がでる.理論系やソフト系の人だと,さきがけの大型
の予算額は研究の邪魔にさえなるという声もある.こういうのを少し人文にもまわして欲しい.そうでない
と数十年後に日本の国力が相当に落ちるだろう.(もう,すでに相当落ちているけれど,さらに...)

もう一つが,理系・工学系の先生方が人文学を理解できていないという事.領域の性格上,情報の中では
いわゆる文系に理解がある人たちが集まっているはずだが,それはせいぜい社会科学系までで,
歴史などの人文系への理解は,なまじ,ご本人たちが「文系」を少し勉強をしているだけに,逆に誤解が
強い面もありそうだ.僕自身が,文学研究科に転職するまで,自己流でありながらも歴史学をやっていて,
かなり分かっていたつもりだったのが,転職して,その最中に入ってみると,全く分かっていなかった
としょげたことがあるので,それと同じようなものを感じる.

数学基礎論史の関係で「成し遂げた!人文系でも大したものだろう」と思っていた僕の研究程度のことなど,
日々起きるのが本物の人文学であって,そういうものは普通に本屋で手に取れる書物位では分からないの
だとわかったのは,やはり,自分のもの程度の研究が教授会の博士論文審査で毎回でてくるのは当たり前,
それより遥かに凄いことをやっている同僚が周りに沢山いる,ということが日々の生活を通してわかり,また,
同僚の講義などを聞かせてもらったり,議論したり,そういうことを数年重ねた後のことだった.

僕は元が「理系・工学系」だから,「人文学を理系・工学系の人が分かっていない」と平気でいうが,
人文系の同僚たちは,仲間内では言うこともかなりあるが,滅多に外に向けては発言しない.
これは,奇妙に文系に厳しく,理系に甘い,現代日本社会の風潮を警戒してのことなのだろうか.
多分,それをやると,とんでもない攻撃を受けるのだろう.
#停年退職されてしまった小林道夫先生などは例外だったが.

明治20年代の医学者ペルツが言った「日本人は科学を世界中どこに据え付けても同じものを生産
できる機械だと思っている.しかし,それは間違いで,本当は樹木のようなものた.根から育てないかぎり,
それが,次々と成果を生むことはない」という警句が今の日本にも適用できるということは,気が滅入ることだ
(「根」とは精神,文化).

これを何としたいと「繊毛の一掻き」を続けてきたが,正直のところ最近諦めが出てきている...

まあ,そうは言っても,やはり「一掻き」を続けるのだろうけど.(^^)

#1月のポストはこれだけか!道理で一回で一月分ほども書いてしまったような...;-)


2009年12月24日(木曜日)

田辺の影響力(2)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時55分34秒

田辺の影響力について語ったのは「碧海 純一・石本 新・大森 荘蔵・沢田 允茂・吉田 夏彦 編
『科学時代の哲学3――自然と認識』,培風館」
の座談会の田辺についての言及は, pp.244-245.

吉田夏彦:そうしますと,たとえば田辺哲学なんかは戦後ずいぶん変わったわけですけれども,
いつも我々の行為について具体的な基準を与えようとしていたわけです.たとえば,学徒出陣
というものに対してかなりポジティブな発言を出したわけでしょう.そいうふうな哲学がなくなった
ことはけっして惜しむべきことじゃなくて,むしろいいことであるといえましょう.

沢田充茂:田辺哲学といえば,いま吉田さんがいわれたそういう面もあったかもしれない.ぼく
は田辺さんの本や西田さんの本を戦争に持って行きましたけれども,要するにそこからぼくは
なんらの具体的なものも学ばなかった.なんとなくそういう哲学のことばや大言壮語を聞いて
いると,戦争のなかにフラストレーションを忘れられるというような意味で利用していたにすぎ
ないし,‘聞け,わだつみの声’なんかをみても,また,そういうふうにしか受け取られないですね.
田辺さんの戦後書いた‘日本仏教とマルキシズムとキリスト教’ですか,あんなのをみると,
それこそそれらを融合して,なんとか行為の新しい生き方を青年たちに進めようという意図で
書かれたんでしょうけれども,あれを読んでそこからなんの新しい生き方も発見できなかった.
そういうのに比べてみれば,いまのほうが大きなことを望まないだけに今度は着実に,目の前
の道というものについて,もうすこし有効な答えができるような気がするのです.

吉田:田辺さんの哲学,たまたま戦前のを出したわけですが,興奮剤として哲学を使うと言う傾向
はいまでもありますね.マルクス主義というのはかなり多くの人にとってそういう役割を演じている
わけですね,現在でも.それはいかにトレラントな沢田さんでもあまり評価なさらないわけですか,
それともいくらかでも評価なさいますか.

吉田夏彦:1928生
沢田充茂:1940年慶応大学卒


2009年12月23日(水曜日)

概説のやり方

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時11分57秒

来年度の概説で項目を全部羅列したが,後で追加したくなる.特に新しい話題でてきたときがそう.
IEEE Spectrum の Hands On に最近,DIY 関係の話が2つ続けてでた.電動アシスト自転車を
自分で作るという話と,Google Street View のカメラとソフトのシステムを自前で$300程度で
作るという話.より小さくして旅行の際に自分の帽子につけたいというようなことも書いてある.著者は
West Point の教官らしく,米軍でこのシステムを検討しているというようなことも書いてある.軍で
これを行えばすべての兵士が Gird あるいは Matrix に組み込まれることなる(2009.10.09 issue).

これが $300 でできるという点がポイント.カメラのマウントにはダンボールを使っている.ソフトは
open source のものなどをつかい少し scripting しただけ.GPSシステムと Google maps を利用
しているのがポイント.社会システムがあるからこれができる.また,飼い猫にGPSトランスミッターをつけて,
その行動をモニターしたなどいう話もあるが,これも Google Maps にその軌跡が表示される.

現代社会の(a) 一望性への志向(見える化志向)と(b)「万能Turing機械の万能性」と同じ意味での,万能
テクノロジー装置としての標準化されサイバー化された社会テクノロジーシステム(の万能性)の
話など,これらを例にして話すと面白いのではないか.

(a) は (b) を要求し,(b) は (a) を促進する.(b) は蒸気機関の時代に,機械工学装置の万能性
の認識(ケルビン卿,バベッジ etc.)として既に存在した.それが,その時代のSF文学などの発想に
結びついているのだろう.これは「蒸気コンピュータ」や「映画にみる仮想と現実の関係」などの
テーマに結びつけると面白い.

要するに「理屈・論理で組み合わせ的に考えたこと(日本で言うモジュラー思考)が,
実際に現実世界で動く,アナログ的な勘やスキルがなくても,SF的に考えるだけで殆どの
ものが本当に現実世界で機能してしまう(ベルヌの「先見性」.映画の先見性).そして,
また,その部品を素人がホームセンターやWEBサイトで廉価で買えるということ.
一人で作って配信できる音楽,映画,番組(YouTube).
テロリストの巡航ミサイルとしての旅客機(9.11).サリン製造に使われたドイツ製(?)の装置.
そして,設計図をダウンロードして家のガレージで製品を作るというベンチャーの計画(これは(a)の
「欲望」の例.実際に機能するかは「?」).etc.

Giddens の「専門家」の話との整合性は?→「インフラ装置」に専門家の知が埋め込まれている.
その存在さえ見えなくなる?しかし,素人と専門家の垣根も同時になくなりつつある.しかし,その素人は
「素人という候補者群 (farm)」の中の極く一部の才能のある人たちのみ.
本質的選別の問題&J. Horgan の The End of Science での「タヒチ(?)」の議論&
  被教育歴と専門性の分離(?):途中から専門家集団に取り込まれるのが普通

こういうのをシラバスを書いた後に気が付く,あるいは,講義が始まってから,そういう話題が見つかる
という場合を考えて,テーマは optional にしておいた方がよい.1テーマ程度ならば,例外で
良いが,数テーマ分,そうすると予告するのも面白いかも.また,学生からテーマを募集して,
それを少し後の回にやるというのも面白いかもしれない.ただし,これは最初にテーマを募集するの
でなく,少し進んでからやると良い.そうでないと学生が「何を期待できるか」が理解できないだろう.
やってみせて,それへの反応として要望をだしもらう.ただ,2回生向けなので,それはやはり無理か・・・

それから minute paper がよかったという話も学生からあった.


2009年12月21日(月曜日)

田辺研究の意味

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時05分47秒

ひとつ前の投稿に関係するが,学生から「田辺を研究していることの意味を説明できるか」と聞かれた.
その時は「日本論理学史の一環」という程度にしか答えられなかった.しかし,数日前に届いた
Michael Friedman の A Parting of the Ways のイントロを読んでいて,その真の意味が
わかった.現代の英米哲学のかなりの部分は,「哲学の科学化」にしか見えず,意味があるように
思えなかったが,Friedman も同じ趣旨のことを書いていた.つまり,新カント派から,
論理実証主義への流れは,哲学の modenization の問題そのものであるといえる.
この問題を日本で最も強く体現し,ある意味で,それに強く抵抗しようとしていたのが田辺だっ
たといえる.それが私の田辺研究の最大の意味だろう.


2009年12月20日(日曜日)

分かりにくいシラバス

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時46分36秒

金曜日に学生たちと雑談をした際に来年度の2回生用講義のシラバスへの意見を聞いたら,
まだ分かりにくいという意見がかなりあった.専修の学生たちは,私の遣りたいことは理解して
いてくれるようだが,外から見ると何をやっているかわからないので敬遠されるというのが
学生たちの以前からの意見で,今回は,それを相当意識して書いたのだが,まだ分かりにくい
らしい.

まあ,私が何を理解しようとしているかが本当の意味で私自身に分かるときは,私が知りたいと思っている
ことはほぼ解明できたということだろうから,それが2回生に容易に分かるわけはない.同じようなことを
やっている人が「共感」あるいは「反感」として理解してくれる以外に,これを「理解」できるとは思えない.

今回は漸く16,7世紀頃から見えてきた流れの重要なエポックの話,あるいは海流的な流れを
8テーマ選んで並べたのだが,それぞれのテーマは学生は「聞きたい」と言ってくれるが,
全体がどう関連するかが分からないという.学生たちにシラバス案を見せた後で,そこを考慮して,
その部分は講義で聞いて理解して欲しいと書き添えた.

このグローバルな連関は文章ではなかなな書けない.講義するのもむずかしい.明治のお抱え医学者ベルツ
言い方(岩波文庫「ベルツの日記(上)」明治34年11月22日)に,講堂では学びえず,学者との
交際によってのみ学びえる精神,たいていの場合に,それを得るために一生を費やす精神,
というのがあるが,それに近い.ベルツが言ったのは,私が伝えたいものよりさらに根底にあるも
のなので違うのだが,しかし,それに近い.(これが文章で有る程度伝わるようになったら,私の
学問も一応完成に近づいたということになるのだろう.完成できるわけはないが)

こういう分かりにくさがあるので,8テーマの内,2つ理解できれば十分とした.単なる講義として受
けるには,それで十分だろう.そうでないと2回生にはテーマが重過ぎる.8テーマもあれば,どこ
かに爪が引っかかる可能性が高い.それを期待している.爪を引っ掛け,よじ登ってもらうしかない.

この辺りが体系的に綺麗なコースを作れた(それが分かり易いかどうかは別として)理工系を教
えていたときの講義と随分勝手が違う.標準化は無理だ.だから,来年は良いが,その後はどうす
るか.これが問題だろう.

学内でシラバスの平準化など進んでいるが,その関係の話を見聞きすると,理工系や社会科学
系(経済学・法学など)の人には,このような問題が分からないはずだろうなと思う.私自身,歴史
の研究はしていながら,人文系教員になるまで,この問題は想像もしてなかった.理工系の時は,
技術者養成が適当なミッションである大学にいたこともあり,「標準化推進派」だった
が,京大文学部に転職して,ようやくそれが社会的役割に適合しない教育機関が存在することが
わかって大いに驚いたものだ.それまでは,そんなのは単なる我侭,怠け癖だと思っていたわけだが,
今は,それこそが必要かつ合理的なものであり,また,「なまける・なまけない」という,つまらない
問題に限定しても,実は,こちらの方が,余程難しいと思っている.自分が学生より学者として高みに
いる以外に講義の場で教師としての立場(いわゆる面子)を維持できない.つまり,教師として認めて
もらえないのだから,こんなシンドイことはないからだ.

自分の長年の専門分野を教えるなら,そういう位置を保つのは簡単だが(というより何もしなくても
良い),分野を動かす場合は,本当に冷や汗もの,それどころか,胃潰瘍になりそうな感じだ.
今年の種の論理の講義の最初のころは,そんな状態だった.こちらは素人なのに日本哲学史の
ドクターの学生さんたちが聞いているのだから.

これがC言語,オートマトンやら数学の講義になると準備さえしておけば,軽い軽い.何を教えればよいか,
ほぼ決まっているので,良い講義はできないが,間違えはしないで済むので,努力さえすれば,
講義準備ができる.ところが,哲学素人の私が田辺についての講義するとなると,まともな講義の
準備をするのが研究成果を出すのと同じ様な困難を孕んでいたわけで,実は,始めるまで,それ
に気が付かなかった.(何と迂闊!

幸いそのレベルのことができて,何とか最後の段階では纏めることができた,というか,新たな研究
の道に繋がったので,大変よかったのだが,種の論理の展開時に田辺が Brouwer の spread から
着想を得てなかったら,果たしてどうなっていたか・・・

つまり講義をするのが綱渡りのようなものであるわけが,一方,研究というのは,いつもこんなものだ.
要するに京大文学部では教育と研究が同じレベルの困難を含んでいる.研究の場合,今まで何とか,それで乗り切って
来ているので,結構,平然と清水の舞台から飛び降りるのだが,毎回,何故か枝に引っかかって一命
を取り留める,どころか引っかかったら,前に有難いお札がぶら下がっているのが普通なので,観音様
を信じて飛び降りるということを何時もやっていたわけだが,教育でこれをやるのは初めてで,相当にしんど
かった.2度目は止めておいたほうがよいさえと思うが,昔の学者は,これを毎年やっていたわけだから,
凄いものだと思う.
#だから,こそ「無条件の権威」という「理不尽」が必要だったのだろう.今,それは使えない.
#自分への外的期待値を下げるか,それは崩さず,どんなに困難な状況でも乗り切るかなのだろう.


2009年12月10日(木曜日)

田辺の影響力

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時52分23秒

田辺の影響力について語ったのは「碧海 純一・石本 新・大森 荘蔵・沢田 允茂・吉田 夏彦 編
『科学時代の哲学3――自然と認識』,培風館」
の座談会の参加者のだれか?明日,附属図書館で確認.

田辺関係でもう一つ見つけられないのが,リーマン面を切ってつなぐものとして,弁証法的と議論して
いる箇所.田辺の Dedekind 切断の「切って繋ぐ」は,本当は「切れていて,かつ,繋がっている」
という意味.この場合,切った場所で,そのまま繋がっていなければ,弁証法的な状況は生じない.

しかし,リーマン面の切って繋ぐはメービウスバンドのように,切った後で繋ぎ方を変えて繋いで
しまう.田辺は,これをクラインの「19世紀の数学...」で読んで,単に言葉上の類似性で誤解し
自分の考えていたものに無理やり重ね合わせていると理解できる.

実際,そういう大域的な繋ぎ換えをしてしまうと,「切れていて,かつ,繋がっている」というつながり
部分が普通のつながりになってしまう.つまり,新規なのはトポロジーのように大域的な話であり,
種のみの話となり,個が忘れ去られる.田辺の種の論理の意図は初期においては「個の論理」
の要素が強いので,自由主義的要素がなくなる,そういう読み方は適切でなく,田辺の真意と
大きく異なる解釈となる.同様の理由で「多様体の哲学」の議論も種の論理のもともとの発想
と大きくことなる.田辺の切れていて繋がっている連続体としての種は,多様体の一例ではあるが,
わざわざ多様体として理解する必要がない実数直線なのである.

 

 


2009年12月4日(金曜日)

田辺と学徒兵

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時50分47秒
注文していた,学徒兵の精神誌 ― 「与えられた死」と「生」の探求, 大貫恵美子著が届く.田辺の影響力は僕が想像していたより
大きかった可能性が高い.わざわざ田辺の講演を聴きに京都まで旅するということもあったらしい.その影響力がどれほどの数の
学生たちを戦場に送ったのか?これはおかしな問いで,田辺に影響されて志願して戦場に赴いた人たちはそう多くは無いだろう.
種の論理が,そこまで力がある思想とは思えない.国家・社会はいずれにせよ学徒たちが戦場に赴くしかない状況を作り出した
わけだから,それは田辺の力ではない.しかし,田辺の思想を「理由」として使い国家・社会の圧力を自らに納得させた学生がいた
ようだ.それは少なくなかったはずである.種の論理自体が,田辺自身が,国家主義を「論理的に納得する」ために作られている
のだから当然といえる.先日,群馬大の資料を撮影していたら,「雑稿」中の講義下書きらしいものに明らかに国家主義を鼓舞す
る語句があった.戦争中のものだろう.昼食時に,このことをTAの橋本君と話した.二人で田辺は変わり身がはやいということで
意見が一致した.田辺は時勢に敏感に反応し過ぎる.これは僕らが持つ哲学者の(勝手な)イメージと違う.しかし,彼の哲学が,
数理も自然科学も,社会存在もすべてを貫く「論理」があり,歴史もその論理で動くという信念に基づいていると思われるから,
これはその帰結であるともいえる.つまり,田辺は「予定調和」を信じているのである.だから,時勢は彼の論理が「予測」する
ように進む.しかし,現実に起きていることは彼の論理が現実に沿って変容しているのである.絶対弁証法を標榜する田辺哲学
では,これは日和見でなく,根源的形而上学的法則に従う現実なのである.これを「田辺の時事過敏性」と僕は名づけたのだが,
その度合いはかなり凄い.しかし,気になることがあって,田辺の思想が常に少し前に「用意」されており,それを「時事」が活性化
しているように見られるところである.もし本当なら,必ずしも時事に反応しているだけではないということになる.
 
これに関連して,出口さんに教えてもらった1960年代か70年代の分析系の哲学入門書に収録された座談会で,「田辺の
影響力で学生が戦地にいったわけではない」というような発言をしている,自身がどうも学徒兵だったらしい哲学者がいた.
これがどの本で,どういう人か,まだわからない.書類の山から見つけなくては.(^^)

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