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2016年9月24日(土曜日)

Russell と伝統論理学についてもう少し覚書

カテゴリー: - susumuhayashi @ 15時30分02秒

Russell, The principles of mathematicsにおける伝統論理学への言及で、講義で使えそうなところを幾つか記録:

Claas と class-concept (extension v.s. intension)
Chap. II
B. The Calculus of Classes
§21. The insistence on the distinction between and the relation of
whole and part between classes is due to Peano, and is of very great
importance to the whole technical development and the whole of the
applications to mathematics. In the scholastic doctrine of the syllogism,
and in all previous symbolic logic, the two relations are confounded,
except in the work of Frege*. The distinction is the same as that
between the relation of individual to species and that of species to
genus, between the relation of Socrates to the class of Greeks and the
relation of Greeks to men. On the philosophical nature of this distinc-
tion I shall enlarge when I come to deal critically with the nature of
classes; for the present it is enough to observe that the relation of
whole and part is transitive, while e is not so : we have Socrates is a
a man, and men are a class, but not Socrates is a class. It is to be
observed that the class must be distinguished from the class-concept
or predicate by which it is to be defined: thus men are a class, while
man is a class-concept. The relation e must be regarded as holding
between Socrates and men considered collectively, not between Socrates
and man. I shall return to this point in Chapter VI. Peano holds
that all prepositional functions containing only a single variable are
capable of expression in the form “x is an a,” where a is a constant
class; but this view we shall find reason to doubt.

Categorical proposition についての議論:
命題の基本を subject, copula, predicate で考えるのはおかしい。
動詞を無視している。という議論。
 "Socrates is a man" を、
 Socrates | is | a man ではなく、
 Socrates | is a man と divide する。
Chap. III: Implication and formal implication
§43. Assertions
It has always been customary to divide propositions into 
subject and predicate ; but this division has the defect of omitting the
verb. It is true that a graceful concession is sometimes made by loose
talk about the copula, but the verb deserves far more respect than is
thus paid to it. We may say, broadly, that every proposition may be
divided, some in only one way, some in several ways, into a term (the
subject) and something which is said about the subject, which something
I shall call the assertion. Thus “Socrates is a man” may be divided
into Socrates and is a man. The verb, which is the distinguishing mark
of propositions, remains with the assertion ; but the assertion itself,
being robbed of its subject, is neither true nor false. In logical dis
-cussions, the notion of assertion often occurs, but as the word proposition
is used for it, it does not obtain separate consideration. Consider, for
example, the best statement of the identity of indiscernibles: “If x and y
be any two diverse entities, some assertion holds of x which does not
hold of y.” But for the word assertion^ which would ordinarily be
replaced by proposition, this statement is one which would commonly
pass unchallenged. Again, it might be said: “Socrates was a philo=
sopher, and the same is true of Plato.” Such statements require the
analysis of a proposition into an assertion and a subject, in order that
there may be something identical which can be said to be affirmed of
two subjects.

Termについての議論:Chap. IV: Proper names, adjectives and verbs.
§46. Proper names, adjectives and verbs distinguished
§47. Terms
Whatever may be an object of thought, or may occur in any true
or false proposition, or can be counted as one, I call a term. This,
then, is the widest word in the philosophical vocabulary. I shall use
as synonymous with it the words unit, individual, and entity. The
first two emphasize the fact that every term is one, while the third is
derived from the fact that every term has being, i.e. is in some sense.
A man, a moment, a number, a class, a relation, a chimaera, or anything
else that can be mentioned, is sure to be a term ; and to deny that such
and such a thing is a term must always be false.
§48. Things and concepts
 Among terms, it is possible to distinguish two kinds, which
 I shall call respectively things and concepts. The former are the termsindicated
 by proper names, the latter those indicated by all other words.
§49. Concepts as such and as terms


A relation is not a class of couples

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時43分07秒

Tuple を使うと、アリストレス論理学の Categorical proposition だけで、RDBあるいは Datalog の方法を使うと、述語論理の論理式をシミュレートできるが、

But this derivation (上でシミュレーションと読んでいるもの)fails, as Russell points out, because the selected
couples tacitly exhibit, in the order of their presentation, the very relation they are called on to define.
The notion of relation cannot be reduced to that of class; it must be treated as primary.

という、Skidelsky “Ernst Cassirer” 2008, p.60 の記述は、Russell, The principles of mathematics, Chap. IX,
§98. A relation is not a class of couples を指している。


西谷啓治と田辺元

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時58分54秒

今、日本哲学史専修の紀要に投稿する「西谷啓治と田辺元」という論文を書いていて、そのために久しぶりに「田辺元 思想と回想」(筑摩書房、1991)を読む。これに昭和20年に定年退職した田辺が、その夏、京都から北軽井沢大学村の山荘に疎開というか、引っ越すときの情景が書かれていたと記憶していたので、それを論文で引用するために調べるため。

この論文は、実は田辺と西谷の間柄が、西田と西谷の間柄より、遥かに親密であり、実は哲学の理論上でも、西谷に「否定的」な意味で田辺の影響があることを示すというもの。西谷と田辺は、西谷が波多野の退職の後に講師となってから、非常に多く議論したらしい。しかし、その割には、西谷の哲学に、田辺の哲学の直接的影響の形跡を直接的に示す証拠は、ほとんど見られないのだが、面白いことに、最晩年の「空と即」には、田辺を意識したとしか思えない用語の使い方などが多くみられるのである。そういうことを書いている。

田辺と西谷の議論の逸話を最初に読んだときに印象的だったのが、田辺は、そのころ病気がちで、毎日、一日の半分位は寝込むほどの状態ながら、京都から北軽井沢まで、田辺と西田の二人が延々と哲学の議論をしていたということ。

数年ぶりに、その本を読み返してみて、この田辺とその夫人の京都から北軽井沢への移住の際の逸話の著者が、大島であったことが分かった。また、西谷による田辺についてのエッセイも、数年ぶりに再度読む。この数年で、京都学派への理解が各段に深まり、以前、読んだときの印象と大きく違い、沢山の情報が得られたという気がする。

まだ、当時の時刻表など調べてみないと良くわからないのが、北軽井沢に、まだ日があるころに到着している点。学生時代、普通を乗り継いで、東京から広島県の郷里まで帰るということを何度かやってみていたが、その経験からすると、もっとかかったのではという気がしていたのだが、日本の内陸部、つまり、中央線などを使い、京都から北軽井沢まで移動すると距離的には案外近く、東京と広島県との距離より随分近いのに気が付く。

その京都から北軽沢へのルートが気になっていたのが、田辺が東京の焼け野が原を見ていたかどうかという点。大島の記述から、やはり中央線を通るルートで、田辺は出身地の東京の米軍の爆撃による焼け野原を目撃していないことが分かった。これは、そうではないのかと思っていたが、一方で、東京より酷かったとも言える名古屋の焼け野原は見ていた可能性が高い。

正直に言って、日本の京都を除く、大都市の焼け野が原を見れば、太平洋戦争というものが、この日本の伝統に対して犯した限りない罪が見えるはずなのだが、そういう気持ちが戦後の田辺の著作に一切見えない。そのことが、僕には非常に違和感としてあって、きっと、昭和20年の日本の大都市の惨状を、田辺は見ていないのではないかという仮説を立てていたのだが、これはどうも間違い。

どうも、田辺や西谷は、そういう惨状を無視する人たちであった可能性が高い。それは大島が岐阜当たりの駅舎がB29の焼夷弾で燃えているのに驚いている様に、田辺、西谷が、しょうがない奴だという風な顔をして、大島の様を一瞥し、自分たちは哲学の議論を続けていたという大島の記述からわかる。明治人の特質か?

いずれにせよ、久しぶりに「田辺元 思想と回想」を読んだことにより、西谷と田辺の人間的な近さが、間違いなく確認できた。
それにより、京都学派の文化史的な理解は、まだ、殆どなされていないのだという感を強くする。


2016年9月19日(月曜日)

Markus Rehm

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時46分33秒

パラリンピックが、突然、NHKなどで大きく取り上げられるようになったので、あれあれ、と思ってみていた。
義足などによりサイボーグ化した人が、その努力と知恵により、所謂「健常者」というものより高い能力を獲得するという
話はかなり前から知っていたので、講義で、「近い将来、高い能力を得るために自ら手脚を切断する人がでる」などと
言って、案の定、男子学生から、それはあり得ないという反発、女子学生からは、賛同を得たりしていたのだが、
このRehm という人のことは知らなかった。

で、NHKスペシャルで、この人の事を取り上げたのが分かったので、NHK オンデマンドで見たら、何故か、
取り上げられいない。幸い、YouTube で番組を見ることができて驚愕&感激!

脳の働きまで変えて、飛んでいる!

踏切の方法が全く違うらしいので、Rehm と「健常者」のジャンプが同一のものとして扱われるのは、
確かに、unfair だが、この人の記録が無視されるのは、さらに unfair と言える。

どういう条件下であり、人力だけで、どれだけ遠くに跳べるか?

そういう競技があっても良い。その時、「健常者」も、例えば水泳で疑問視されたスイムスーツとか、
あるいは、さらにフィンとか、そういうものを使っていいとしたらどうか?

そういう条件下で、「健常者」と、Markus Rehm が競う姿が見れたら素晴らしいだろう。


2016年7月27日(水曜日)

Google 東京オフィスなど

産業総合研究所の人工知能の社会インパクトプロジェクトの一環で、TensorFlow など、Google の機械学習への対応の話を伺うために、Google 日本オフィスのGCP(Google Cloud Platform)部門を訪問。佐藤一憲さんから色々教えて頂く。パロアルト的立場からは、実に自然な流れであることがわかり納得。大変良い方向に進んでいるという気がする。ただ、これは「機械が職を奪う」という方向に繋がらないとも限らないと言う懸念も抱く。少数の機械学習の「職人」+マシン(AI)が、多くの「職人」を代替する可能性がある。

この時、MITのAutor教授が言うような、別のセクターの職がどれだけ生まれて来るのか、それが問題。Autor氏の主張では、アメリカの農業労働人口が劇的に減少したかわりに、工業の労働人口が爆発的に増加したわけだが、この工業セクターでの労働人口にあたるものが、まだ見えない。それが Autor 「理論」の弱いところ。果たして何か、生まれるか…

この訪問の前に、僕の研究室の出身で Google で働いている清水君と会う。Google Culture Heritage の相談で、京都に来てくれたのが、もう数年前で、それ以来。

彼との話で面白かったのが、サンフランシスコのイメージの、清水君と僕とのズレ。清水君によると、最近、サンフランシスコについての歌を聞いて、その歌詞にサンフランシスコが、ロマンチックな場所の様に歌われているのに違和感があったらしい。僕は長らくサンフランシスコを訪問してなかったので、分かってなかったが、どうもアジアの沸騰都市の様になったサンフランシスコは、2000年代に始まったらしい。だから、清水君は、それしか知らない。

そのために、10階建て以上の建築など、殆どなかったサンフランシスコの風情は、清水君には無縁のものらしく、それで僕などが抱く昔のサンフランシスコのイメージに「なぜ?」と思うらしい。世界はすっかり変わってしまったことに、今更ながら思いを馳せる。

Google 訪問の後、私用を済ませた後、岩波新書の編集長の永沼さんと会って、随分前に依頼された新書の書き方の変更を相談。思いがけず、面白いと言ってもらえたので、その方針で進む。僕も、定年まで後、2年と少ししかない。アカデミズム一辺倒の姿勢から方向転換をすべき時期だろう。


2016年7月19日(火曜日)

失敗しなきゃ、始まらない

雑誌としては、唯一、良く買うアエラの7月18日号の特集のタイトルが「失敗しなきゃ、始まらない」だった。

大体、僕がいつも言っている事に近い話ばかりなので、楽しく読む。

アエラは働く若い女性をターゲットにしている雑誌らしい。創刊当時から良く買っていたのだが、長らく女性がターゲットであることを知らずにいて、連れ合いに指摘されて驚いたのが、もう10年近く前か?分かってみると、確かに女性をターゲットにした記事が多いので、納得した。

この特集の「失敗こそ最大の財産」というメッセージは、実は「お父さん」たちに聞いて欲しいのだが、ダメなのかなー。

やはり、女性に期待をかけるしかなさそう。


2016年7月11日(月曜日)

差は広がっているのか…

経済産業研究所のAIの社会影響研究のプロジェクト(中馬プロジェクト)のMLで、こういうページのリンクが流れ、日本の企業が何処にも現れないという話になったが、AIを含むITの日米の差は、そういう風な議論が無意味なほどに開いている様に見える。航空機以上の差かも?

若い人たちの中に有望な人がかなり出てきているというのが、安浦さんのさきがけのお手伝いをしていて感じることなのだが、以前、この文章で書いたように、僕の理解では、この差は社会が作り出しているところが大きい。だから、若い良い人が出始めていると同時に、差はむしろドンドン開いているのではないかという懸念を持ち始めている。

そう感じ始めたのは、中馬プロジェクトで、カリフォルニアの bay area の調査旅行の際に使った Uber のシステムと、日本のタクシー配車のシステムのあまりの差に気づいてから。

Uber で感心したことは色々とあるが、狭い意味での技術の問題で感心したのは、そのリアルタイム性の良さ。今の、GPSの性能からしたら当たり前なのだが、近くのすべての車が配車前からリアルタイムに動くのが見える。これが小さな甲虫がノソノソ動いているようで大変に可愛い。車の位置は、配車を依頼する前も見えるが、乗車した後も見えるので、実際の位置と表示される位置をくらべてみたら、すこしズレはあるものの、せいぜいが100~200メートル程度でしかなかった。

それに比較すると、MKタクシーのスマホ配車は、配車が完了するまで、タクシーの位置はわからないので、どれ位かかりそうか、全く予想がつかない。また配車後にはタクシーの位置が見えるには見えるがリアルタイム性は非常に悪い。また、配車の効率の悪さは全く信じられないほどの低レベルで、目の前に何台も空車が通って行くのに、うんと遠くの車が配車されたりする。つまり、天国と地獄ほど違う。

他のものはどうかと思って使って見た全国タクシー配車は、到着までの希望時間を指定できるなど、MKのシステムよりはましだが、これも配車前のタクシーの位置は見えないし、配車後のタクシーの位置の表示も、500メートル程度でとびとびという感じで、リアルタイムとは言い難いもの。後者が5年前のシステムで、おそらく、それから、あまり進化してないのだろう。MKはもっと前か?

どちらもタクシー会社(やそのグループ会社)が作ったシステムで、運転手さんたちの話では、スマホによる配車の率は、非常に少ないらしいので、タクシー会社も改善しようという気はないのだろう。今の Google map のGPSの性能を考えると、技術的には、信じられないほどの低性能なのだが、真剣に使うつもりがなければ、古いままで低性能というのも納得ができる。つまり、デマンドの低さがシステムの低性能を生んでいるのだろう。つまり、この文章のシナリオどおり…

一方で、Uber は、サービスとシステムで生きているのだから、ドンドン改善されているはず。導入当初が、どれ位の性能だったのか、調べてみないとわからないが、もしかしたら、生まれた時から、すでに日本とは大きく差があった可能性も高い。

イギリスのEU離脱では、若者から年寄りにむけて「我々の未来を奪わないでくれ」というメッセージが投げられた。日本でも、同じことが起きているのに、なぜ、日本の若者は、同じようなメッセージを投げないのだろうか?メッセージを投げられるべき側の世代の人間ながら、それが不思議であり、また、歯がゆくも思う。


2016年7月8日(金曜日)

さすが Google!!

カテゴリー: - susumuhayashi @ 10時18分01秒

西田幾多郎旧宅の内部を Google インドアビューとして撮影して保存する件、
報道された予定日では、既に出来ていないといけないのだが、まだ出来ていない。

理由の一つは、僕がマイビジネスの登録方法を良く理解できず、
登録手続きに、もたついたこと。これで数週間位遅れた?

もう一つが、Google 社内の手続きの問題。
撮影をお願いした Google の認定会社の JTB プラネットが、
ストリートビューを担当する、マップの部門に、
消えてしまう建物のインドアビューを残してもらえるという、
異例の対応をしていただけると確認を取ってくれていた。

ところが、いざ、登録手続きを始めてみると、インドアビューには、
マイビジネスというサービスが伴っていることを、
僕を含む関係者のみんなが見落としていて、
マイビジネスの部門で建物などが消えていると
色々問題が起きることが判明。

ソフト/サービスというものは、まあ、こういうものなのです。
あまりに自由で多様だから。見落としは幾らでも置きる。
これを見落としとして批判するか、「あら見落としか、では対処しよう」
とアクションを起こす契機にするか、どちらの態度をとるかで結果は大きく変わる。

この後者がパロアルト流。その方が実は効率が良いし気楽。

で、昨日、JTBプラネット社の大西さんから
研究室に電話があり、マイビジネスなしで、ストリートビューだけの
登録という、今までにないやり方で、やって貰えることになり、今、
その動作確認をしています、という連絡が入った。

これは、多分何かシステムを一部書き直してくれたのではないかと思う。
ごく簡単な修正のはずだが、こういうこのために、わざわざシステムを
書き直してくれるというのは、日本の大企業では、想像し難いこと。

世界有数の大企業 Google が、1週間程度(もっと短い?)で、
そういう対応を取ってくれるというところが、さすが Google!!

以前、僕があまりに Google を褒めるものだから、Google Japan の
初代社長だった村上さんに、「Google 愛をありがとうございます」
と、からかわれたことがあった。(^^;)

まあ、それ位に、僕は、Google が好きだ。

正確にいえば、Tim Winograd さんがいう「パロアルトの
精神」が好きで、Google がその精神で行動している
ということなのだが。


2016年7月5日(火曜日)

闘う西田幾多郎 –ある同僚の証言–

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時36分00秒

田中上柳町の西田幾多郎旧宅の一部保存に関わったことで、色々と調べが進んで面白いということを一つ前の投稿で書いたが、実は、その投稿の前に書きかけて、途中で入力が飛んでしまった話を再録。

西田幾多郎「悲哀の哲学」の現場 西田幾多郎田中上柳町旧宅についてで、静かな泰斗というイメージが強い西田幾多郎が、実は壮年時代、特に京大時代、少なくとも場所の論理の前までは闘う人であり、その背景に「悲哀の哲学」があるという「新しいイメージ」を出して記述した。

で、「新しいイメージ」に括弧がついているのは、そのページでも引用した藤田正勝さんの岩波新書「西田幾多郎」などで詳しく論ぜられているように、西田の「悲哀の哲学」というイメージは、多くの専門家に共有されているイメージだと思うからである。確か、関西学院大学の嶺さんも悲哀の哲学のことを書いていたし、哲学館にいくと、吹き抜けの空間に、こういう巨大なタペストリーがかかっている。

しかし、「闘う西田幾多郎」というイメージは、藤田さんの本でも、それほど強調されているようには思えない。嶺さんの著作でも、あまりこれは強調されていないように思える。

で、「闘う西田」には妥当化というか、証拠が必要だが、その一つとして、西田のある同僚の話を記録。

それは下村の「西田幾多郎 同時代の記録」の pp.73-6の朝永三十郎の「古人刻苦光明必盛大ー西田博士の書」というエッセイ。オリジナルは西田全集、昭和26年10月月報。

朝永三十郎は、西田と一歳違いで、西田が京大哲学の教授であった時代に、哲学史の教授であった人。京大文への赴任は西田の1910年より三年早い1907年(明治40年)。

この人が、次のような面白い話を残している。実は、大半は「闘う西田」とは直接の関係はないのだが、こういう人物の証言ならば信用できるだろうという意味で、これをここに採録。

———–
私の長男が家庭を離れて東京で独立の修業生活を営むことになつた際、私は西田さんに、何か若い者を鼓舞するやうな言葉を、と言つて揮毫を願つた。気軽るに引きうけて数日後に持つて来て呉れられたのは、「古人刻苦光明必盛大」といふ慈明和尚の語であつた。それを掛け軸に仕立てたのを長男は、下宿の自分の部屋の床の間に掛けて居たらしかつたが、どれくらゐか経つたあとに帰省した際、家内に、あの軸を掛けて置くと何だか始終叱りつけられてるやうな気がして、苦しくて仕様がないから、折角いただいたのだが、何か外のものに取りかえてほしい、と言つて代りの軸を持つて行つた、といふことであつた。
 その後このことを西田さんに打あけたところ、西田さんは一寸軽い感動の色を示したやうであつたが、ただ静かに、さうかと言つただけであつた。それで私は、此語が与へるこの様な圧迫感は語から来るのだらうか、筆の力から来るのだらうかと問ふて見たところ、語の力さ、といふ簡単な答へであつた。(あとで考へると、私のこの問は甚だデリカシーを欠いた問であつたといふことに気づいたのであつたが。)その後鈴木大拙さんに会つた際私は、何かの話しのきつかけに此事を話し、且つ同様の問をかけたところ、それに対する答へは、そりや筆の力だよ、といふのであつた。これは西田さんなほ存生中のことである。
———–

この後、朝永は、「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたのである。

朝永三十郎という人は、軽妙洒脱な人であったのではないかと思う。今、京都学派アーカイブの新版の用意をしているが、そのトップページには、西田、田辺を始め、朝永を含む20数名の思想家たちの肖像写真が並ぶ。その写真群の中で、ある意味で最も異彩を放っているのが、朝永三十郎の写真である。

朝永の写真で解像度が良いもので著作権処理ができそうなものがなかなか見つからなかった。解像度が比較的良い写真の朝永は、何故か奇妙な服装をしていたが、それを使うことにした。しかし、変な服装だなと思って、よくよく見てみると、朝永が着ていたのは割烹着らしいのである。キャプションによると、どうも鰻の蒲焼を作っている際の姿らしい。僕等のような「旧帝大の小遣い同然の、現代の旧帝大の教授」と違って、朝永の当時の教授職の地位は高かった。そういう人が割烹着を着て料理を作り、その写真を撮らせるというのは、拘りが少ない、自然な人だったはずである。

三木が西田を「激しい魂」と呼んでいるが、三木自身が激しいので、少し割り引いてしまいたいところがある。しかし、朝永が「西田さんの一生は、はげしい戦ひの連続であつた」と書いたものは額面通りに受け取れると思うのである。

ところで、西田が書いた古人刻苦光明必盛大とは、猛烈に精進せよ、という意味である。その西田の書に「叱られているようで苦しい」といった、朝永の長男というのは、後のノーベル賞物理学者朝永振一郎である。東京での修行生活というのは、1931年に理科学研究所の研究員になったことをいうのだろう。そうすると、このとき朝永三十郎は60歳、西田は61歳である。

朝永振一郎が1965年に日本人として二番目のノーベル賞を受賞したき、新聞で朝永の写真を見た。それはまな板の上で大根か何かを切っている図で、料理は遅いが上手なのだ、という説明がついていた。まだ子供で、家庭科以外では料理をしたことがなかったが、それを何か妙に好ましく思ったのを思い出す。


2016年7月4日(月曜日)

村山知義と戸坂潤

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時59分59秒

このところ京都学派の人脈を調べ続けている。

京都学派の研究を続けているが、僕が見たいのは、本当は、近代というものの正体。つまり、モダニズム研究、近代化研究が、僕がやりたかったことで、それで理系・工学系の学問を止めて、人文学に移った。

京都学派の時代と、その周辺を知ることは、哲学における近代を見ることに通じ、それで数年で止める筈の田辺元研究が、西谷、西田の京都学派研究にまで発展してしまったのだが、「自分の研究は、哲学史ではなくて、哲学の思想史だ」、とは言ってみても、哲学の理解に時間と労力がかかるものだから、哲学者の哲学史とあまり変わりがなくなって来ていて、自分では、不満というか、面白くなくなってきていた。

しかし、田中上柳町の西田旧宅の保存に関わったお蔭で、なぜ、西田の現在の様なイメージができたのか、それは京都学派の世代の移り変わりから来てはいないかという仮説がでてきて、そういうことを調べる内に、大正の中ごろに、いささか上滑な哲学ブームが起こり、それもあって京都学派の隆盛があったらしいことなどが分かってきて、京都学派の研究に文化史的側面が出てきて、面白くなりつつある。

そのころの証言を讀むと、そういうことが起きたことが、当たり前であるかの様に語る語り口に出会う。これは日本文化史の、こういうことの専門家には当たり前の話に違いないのだが、果たして、現在、そういうことの専門家がいるのかどうか、実は、それが怪しい。しかし、昔存在した専門家が書籍や論文にまとめていた可能性はある。が、しかし、兎に角、見つからない。

ということで、自分で調べるしかなく、また、調べると芋づる式にドンドン史料が地中から出て来るので、面白くなってきて、今、熱中しているところ。こういう時が研究のフェーズとして一番面白い。

で、そういう話が今日(4日)、一つあったので、記録。

3日に、高坂節三さんの著書に引用されていた梯明秀のエッセイの『唐木順三が、「あそこに四天王子がいる」とささやいた』という一節のオリジナルを見るために、注文していた「回想の戸坂潤」(1976)の古書が届いたので、その目次を開いて、著者の欄に村山知義の名を見つけて驚いた。本文を読んでみると、戸坂と村山は開成中学で同級生であった。(ちなみに、この四天王子というのは、木村素衛、高坂正顕、西谷啓治、そして、戸坂のこと。場所は、p.50)

村山については、2011年に京都国立近代美術館であった、ハンガリー出身のアバンギャルド、モホイ=ナジの展覧会で、村山の著書を売っていたのを買ったのが契機で興味を持った。

この頃は、僕は、まだ自転車通勤をしていて、2,3ある通勤経路の一つが、近代美術館の前の神宮道の歩道を南行しフランス惣菜のお店「オ・タン・ペルデュ」で晩御飯を買って帰るという道だった。それで、近代美術館で面白そうな展示があると、寄り道したり、土日に出かけることがときどきあった。

モホイ=ナジは、勿論、モダニズムからの興味で、特に Ein Lichtspiel が気に入って、DVDを買ったり、同時代の日本のアバンギャルドとして、村山の「構成派研究」の復古版も売っておりこれを買って読んだのだが、数学のモダニズムと芸術のモダニズムの類似性を考える様になったのは、これが切っ掛け。それで村山には大変興味を持ち続けていた。

その村山が京都学派の文脈で出てきたので驚いたのだが、梯のエッセイなどを読むと、これらの人物の関係は、当然という感じもしてくる。要するに土俵が小さいので、大抵の人が結びついてしまうという、当時の日本の状況の、これも一例だろう。

その梯のエッセイの中に、子供の頃に親に連れられて行った昔の洋食店の雰囲気が残っているので、時々、利用する南座前のレストラン菊水の話がでてくる。今は宴会場、ダンス場になっている、僕もCMUのSiegさんが来た時にパーティを開いた3階は、昔は、バーであり、そこで三木や梯、戸田などが、一高会を開いたのだそうだ。僕が昔住んでいたアパートのすぐ近くが西田の旧宅であったように、また、田中上柳町の西田旧宅に昭和30年代に住んでいた画家・音楽家の家族が山科に建てた家が、僕が買って、今住んでいる古家だったなど、京都に住んでいると、京都学派の痕跡に度々出会う。定年退職したら離れることも考えていた、この街に住み続けることになりそうだが、その理由は、こういう所にあるような気がする。


2016年7月3日(日曜日)

植田と天野 京都学派の黎明

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時02分44秒

一つ前の投稿で、三木清こそが京都学派形成のキーマンだと書いたが、これは三木が一高から京大に来たころから京都学派というものが形成されたと言う意味ではない。これ以前に、例えば務台や三宅などがいる。

しかし、西田と京大哲学が有名になり、多くの人材が、それに引かれて集まってくる「華やかな」時代と、務台たちの時代は明らかに違う。「三木清こそが京都学派形成のキーマン」と書いた意味は、その華やかな時代の幕が三木により開けられたということである。堀維考宛に書いた手紙の一節は、西田が、その時代の「華やかさ」に違和感を持っていたことを示唆するが、この華やかさに軽薄な部分が全くなかったとは言えないものの、確かに充実した時代であったのであり、また、西田は、自分を慕って、わざわざ一高から京大文に来てくれた三木のような若者、特に三木が可愛くて仕方がなかった様に見える。

とはいうものの、こういう時代以前の、西田が京大に来る前から京大にいた人物たちのことも無視することはできない。桑木、朝永などの同僚は、それに入るが(ただ、桑木はさすがに京都学派に入れるには躊躇する。やはり、東大の哲学者というイメージが強すぎる…それで桑木は僕の意味での京都学派には入れていない)、西田、田辺を中心とする京都学派という時、やはり、同僚よりは、西田、田辺に影響を受けた人たちのことを考えないといけない。

それで、そういう人たちを、西田との関係で分類すると、次のような類があり得る。

類1.西田を慕って、京大文学部を目指した人たち。
類2.類1ではないが、西田に大きな影響を受けた人たち。

類1は、もちろん、三木、西谷、さらには学生ではないが田辺が入る。

一方で、類2の代表格としては、植田寿蔵と天野貞裕をあげることができる。この二人と西田の関係を非常に良く物語るものとして、また、何故、西田が、あれほどまでに人を引き付けたのかということを理解するために、非常に良いのが、下村の「西田幾多郎 同時代の記録」、p.103 からの植田の「西田先生」という文章、オリジナルは西田全集、昭和28年4月月報。その時、文学部の3回生であったはずの植田は、天野とともに参加した西田の京大での始めて哲学の講義(明治43年9月22日)の印象を、次のように綴っている: 

これが2時間つづくうちに、その地味な講義の、今まで聴いたどの講義とも違った思いのする、人間味と言おうか、温かさと、段の違ったような深さがありありと感ぜられた。講義が済んで、インキの栓をして立ち上がると、傍らの席にいた天野君と目が合った。どちらからともなくその2時間の印象を話し合った。言葉はすっかり忘れてしまった、その時の感じを、窓の高い広い教室の初秋の明るさとともに、今もはっきり覚えている。40年間の深い尊敬と帰依がこの日からはじまった。

戸坂潤は、西田を称揚する人たちは、結局、西田ファンなのだ、と書いたが、どうも西田哲学の内容より、西田という人の魅力が、人を引き付けたという面が、相当にあるようだ。これは三木についても見られることに注意。植田の記述も、三木の記述も、内容は忘れてしまったとか、良く理解できなかった、という風に書かれている。つまり、植田や三木の様な人たちでさえ、最初は「西田ファン」であったわけで、これは実に興味深いことといえる。

そういう人物は内容を伴わない場合が多いが、西田の場合は、そういう「人気」が先行しながら、場所の論理以後の内実が伴うところが実にユニークで面白い。要するに西田は周囲の受けなどは一切無視して、懸命に戦っていたのであり、その姿に人びとが魅かれて「ファン」になったということだろう。だから、西田自身にとっては、ファンなどいようがいまいが関係なかったのであろう。そういうところが、また、西田が人を引き付ける原因であったろう。


2016年7月2日(土曜日)

三木清と西田幾多郎

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時07分03秒

 京都学派について論じる時、常に伴う問題として「京都学派とは何か?」という事がある。
 京都学派とは西田幾多郎の思想に端を発する絶対無の哲学であるとすると、マルクス主義に傾倒した、所謂、西田左派とか言われる人たち、三木清、戸坂潤、船山信一、こういう人たちが、すべて京都学派から滑り落ちる。しかし、それは西田のお子さんたちの証言に見られる、西田が最も心配していたのが三木と戸坂のことであったという事実にそぐわない。
 マルキスト戸坂の最も親しい友人が、戦前はヒトラーを称え、その故にか、あるいは、悪名高い座談会「近代の超克」に参加した故か、戦後GHQによる公職追放にあった西谷啓治であったように、この時代の人間関係を、その後のイデオロギーの目から見ることは空しい。
 それは『後知恵』に過ぎない。そういう後知恵で、過去を裁く行為は、空しく、また、歴史学として間違いである。思想史家と自称する以上、如何に難しくとも、その時代に生きた人たちの、あるいは、それにより近いマインドで、その時代を理解したいと思う。
 もし、私のこの方法論が正しいとしたら、三木や戸坂、特に三木を西田から遠ざける如何なる解釈も妥当性を持たない。三木こそが「京都学派」形成のキーマンだからである。
 以下、三木清全集からの引用。

西田幾多郎先生のこと
三木清全集17巻、p.245
 西田先生に初めてお目にかかつたのはちやうど先生が『自覚に於ける直槻と反省』を書き上げられた頃であつた。「この書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドッキュメントである」と云はれてゐるが、先生に接して私のまづ感じたのは思想を求めることの激しさであつた。私は嘗て先生の如きほんとの意味において激しい魂に會つたことがない。
 この激しさは先生がつねに何物かに騙り立てられて思索してゐられることを示すものである。それは先生のうちに深く藏せられた闇、運命、デーモンと云つても好いであらう。先生の哲學から流れてくるあの光はこの闇の中から輝き出たものである故にそれだけ美しいのである。先生は早くからロシア文學を好んで讀まれたやうであり、つい最近にも、ドストイェフスキーは非常に面白いと話してゐられた。意味深い事實である。先生は自分自身に大きな問題を負うて生れて來られた。この問題の大きさが先生の哲學を大きくしてゐるのだと思ふ。

西田先生のことども
昭和十六(一九四一)年八月『婦人公論』。
三木清全集17巻、pp.295-312
 大正六年四月、西田幾多郎博士は、東京に來られて、哲學會の公開講演會で『種々の世界』といふ題で、話をされた。私は一高の生徒としてその講演を聴きに行つた。このとき初めて私は西田先生の馨咳に接したのである。講演はよく理解できなかつたが、極めて印象の深いものであつた。先生は和服で出てこられた。そしてうつむいて演壇をあちこち歩きながら、ぽつりぽつりと話された。それはひとに話すといふよりも、自分で考へをまとめることに心を砕いてゐられるといつたふうに見えた。時々立ち停つて黒板に圓を描いたり線を引いたりされるが、それとてもひとに説明するといふよりも、自分で思想を表現する適切な方法を摸索してゐられるといつたふうに見えた。私は一人の大學教授をでなく、「思索する人」そのものを見たのである。私は思索する人の苦悩をさへそこに見たやうに思つた。あの頃は先生の思索生活においてもいちばん苦しい時代であつたのではないかと思ふ。その時の講演は『哲學雑誌』に発表されて、やがてその年の秋出版された『自覚に於ける直観と反省』といふ劃期的な書物に跋として收められたが、この本は「余の悪戦苦闘のドキュメント」であると、先生自身その序文の中で記されてゐる。
 その年、私は京都大學の哲學科に入學して、直接西田先生に就いて學ぷことになつた。私がその決心をしたのは、先生の『善の研究』を繙いて以來のことである。それはこの本がまだ岩波から出てゐなかつた時で、絶版になつてゐたのを、古本で見附けてきた。その頃先生の名もまだ廣く知られてゐなかつたが、日本の哲學界における特異な存在であるといふことを私は聞かされてゐた。その後先生の名が知れ亙るやうになつたのは、當時青年の間に流行した倉田百三氏の『愛と認識との出發』の中で先生のこの本が紹介されてからのことであつたやうに記憶してゐる。『善の研究』は私の生涯の出發點となつた。自分の一生の仕事として何をやつていいのか決めかねてゐた私に、哲學といふものがこのやうなものであるなら、哲學をやつてみようと決めさせたのは、この本である。その時分は、一高の文科を出た者は東大へ進むことが極まりのやうになつてゐたが、私は西田先生に就いて勉強したいと思ひ、京大の哲學科に入らうと考へた。高等學校時代にいろいろお世話になつた速水滉先生に相談したら、賛成を得た。かやうにして私は友人と別れて唯ひとり京都へ行つたのである。<中略>
 その時分は九月の入學であつたが、七月の初め、私は歸省の途次、速水先生の紹介狀を持つて洛北田中村に西田先生を訪ねた。どんな話をしたらいいのか當惑してゐると、先生は出てこられるとすぐ「君のことはこの春東京へ行つた時速水君からきいて知つてゐる」といつて、それから大學の講義のこと、演習のことなどについていろいろ話して下さつた。哲學を勉強するには先づ何を讀めばいいかと尋ねると、先生は、カントを讀まねばならぬといつて『純粋理性批判』を取り出してきて貸して下さつた。その頃は世界戦争の影響でドイツの本を手に入れることが困難で、高等學校の友人の一人がレクラム版の『純粋理性批判』のぼろぼろになつたのを古本屋で見附けてきて、得意氣にいつも持ち廻つてゐるのを、私どもは羨みながら眺めてゐたといふやうな有様であつた。
 最初にお目にかかつたとき親切にして戴いた印象があつたからであらう、その後私は學生時代、月に一二度は先生のお宅に伺つたが、割に氣樂に話をすることができた。先生は自分から話し出されるといふことが殆どなく、それでせつかく訪ねてゆきながら、どんな質問をしていいのか迷つて黙つてゐるうちに半時間ばかりも時が經つて、遂に自分で我慢しきれなくなり「歸ります」といふと、先生はただ「さうか」と云はれるだけである、―― そんなことが多いと學生仲間で話してゐた。考へてみると、あの時代の先生は思索生活における悪戦苦闘の時代で、いはば哲學に憑かれてゐられて、私どもたわいのない學生の相手になぞなつてゐることができなかつたのであらう。私は通學の途中、先生が散歩してゐられるのを折々見かけた。太い兵兜帯を無造作に巻きつけて、何物かに駆り立てられてゐるかのやうに、急いで大股で歩いて行かれた。それは憑かれた人の姿であつた。先生の哲學のうちにはあの散歩の時のやうなひたむきなもの、烈しいものがあると思ふ。

 
 
 


2016年6月24日(金曜日)

哲学の道と西田

カテゴリー: - susumuhayashi @ 11時51分29秒

西田が哲学の道を歩いたかどうか、何か客観的証拠はないかと探していたら、高山岩男の文章を発見。

これは燈影舎燈選書13「西田哲学とは何か」に収録された雑誌「心」掲載の「西田哲学と私」(昭和54年, cf. p.260)という文章の「田辺先生のこと」pp.204-213のp.207-8の次の部分:

これより余程前からですが(注1)、先生(注2)は午後に吉田山界隈を散歩されます。戦後、私は京都を去りましたが、疎水支線の桜の並木道を「哲学者の道」と名づけていることを数年前に知りました。西田寸心先生も波多野精一先生も散歩をするが、疎水べりでお見かけすることはなく、もっと北の田圃道が多かったように思います。「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが、数年前或る人が"先生の頃から疎水支線の道を「哲学者の道」と名づけられていたそうですね"と申されたのには驚きました。私の頃にはまだそんな名称はなく、橋本関雪という日本画家が妻君の死を悲しんで桜の苗木を疎水支線に沿う何丁か植えた河べりがいい繁道となっていたのは事実です。まだ人家はまばらの時代で、私はこの近くに止宿していましたので、毎日散歩は致しましたが、「哲学の道」などという洒落た名前などはありませんでした。田辺先生もここまで足を延ばされていたかどうかは、詳しいことは知りませぬ。

注1. 「これ」とは、高山が田辺と吉田山を散策中に、種の話を聞いたという田辺研究者ならば皆良く知っているはずの逸話の時。
注2.田辺元のこと。

この文章で良くわからないのが、「「哲学者の道」という名はハイデルベルグのネッカー川に沿う山道から来ているに違いなく、大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」の、「大学側の反対の、散歩道としてまことに優秀なものですが」という所。おそらくは、ハイデルベルグの「哲学者の道」がネッカー川を挟んで大学と反対側にあるという意味だろうが、もしかして、この「大学側の反対」の大学が、京大だとすると、高山が「哲学者の道」を今出川通り北の疏水の部分を意識して書いたことになる。しかし、この部分は正式には「哲学の道」ではない。http://souda-kyoto.jp/map/area_04.html

公式には、東山に沿って南北に走る部分のみが哲学の道。気になるのが、高山が、西田、波多野が散歩した辺りとして「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている点。疏水は「哲学の道」の北の終点から、ほぼ東西の流れに変わり、農学部裏を通って北白川の現在は住宅地となっている地区へと続く。高山のころには、この辺りは田園であったはずで、こちらの方が「もっと北の田圃道が多かったように思います」と書いている「北の田圃道」として自然。西田が良く散歩をするようになったのは、飛鳥井町の家に移ってからだが、現在、スーパーマーケット Grace たなかの西の裏手辺りにあったはずの、この家から現在の「哲学の道」の北の出発点までの道のりと、その出発点から「哲学の道」の南の終点までの道のりが、ほぼ同じ。ということは、現在の「哲学の道」にあたる地域を歩くために、その北端まで歩くというのは不自然なことになる。西田の散歩の目的は考えることにあったはずであり、風光明媚な風景を愛でることではなかったはずである。西田の散歩は、云わば、真剣勝負だったはずなのである。

そして、飛鳥井町から東に散歩するならば、東大路を超えて、百万遍知恩寺の裏手の辺りを通り、京大農学部の裏手辺りを歩くのが自然だろう。その時、気が向けば、さらに南に南下して、現在の「哲学の道」を歩くこともあったかもしれない。しかし、北行した可能性も高い。そう仮定すると高山の記憶に一致しているように見える。もし、高山が、当時、どこに住んでいたのか、書簡、葉書の住所などで特定できると、もしかしたら、ハッキリするのだが。


2016年6月23日(木曜日)

西田の三高寄贈書と旧宅部材の燻蒸

カテゴリー: - susumuhayashi @ 23時00分36秒

今日(23日)も西田幾多郎関係の仕事が二つ。

吉田南図書館の依頼で西田幾多郎寄贈の三高図書館蔵書の書き込みを調べる。
西田の筆跡とは異なるものや、西田ならば書き込まないだろう初歩的な
ドイツ語の読解に関する書き込みなど、やはり、どれも西田のものではない。
おそらく新品を買って寄贈したはずだから、西田の書き込みはないと見るのが自然
だろう。しかし、西田の墨書の筆跡が、良く知られている西田の手書き文字と比べて
非常に綺麗。本当に西田のものか、少し疑ったが、署名の特長的な「郎」の字など、
確かに西田のものらしい。他に、あの様に綺麗な楷書で書いた西田の手書き文字は
あるのだろうか?また、寄贈の時の台帳を見せてもらったが、
この台帳自体が、すでに貴重な史料と言える。

その後、博物館に行って、横山研究員に「哲学の廊下」などの部材の燻蒸を見せて
いただき、京都学派アーカイブ用に撮影もさせてもらう。燻蒸は、僕が想像していた
ものと異なり、大きなビニールのテントに部材を入れ、二酸化炭素を充満させて、
後は中で扇風機で送風するだけらしい。殺虫剤をドンドン入れるのかと思っていた。
しかし、ちゃんと殺虫が出来ているか、生きている虫を入れて確かめるというのは、
ちょっとかわいそう…… まあ、僕もムカデやゴキブリがでたらすぐに殺すから、
勝手なものだ。

キャンパス内の道路で土蜘蛛が歩いているのを見る。潰されないといいけど。
土蜘蛛というのだと思っていたが、地蜘蛛(ジグモ)の方が正式名らしい。


2016年6月18日(土曜日)

北軽井沢のひぐらし

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時33分00秒

今日は、本当に久しぶりで北軽井沢大学村を訪問。群馬大学田辺記念館の撮影をさせて頂く。

帰りに田辺記念館の管理人をされている茂木さんのご厚意で、僕の連れ合いの実家の八杉山荘を訪問。

多分、10数年振りだが、心配していたよりは、状況は良かった。

岳父が健在のころ、四人で八杉山荘の母屋から満月を仰ぎ見た時をおもいだす。

日暮らしが鳴いていた。山科のひぐらしとは歌い方が違うような…


2016年6月8日(水曜日)

西田幾多郎「哲学の廊下」解体保存

カテゴリー: - susumuhayashi @ 18時22分19秒

この5か月ほど、一番力と時間をつぎ込んでいた西田幾多郎とその家族が大正元年から11年まで住んだ家の一部解体保存の仕事が、今日で一応の目途がたった。
所有者のプライバシー保護のため、これについては一切具体的なものを公開しなかったが、解体して博物館に持ち込み、プレスリリースも終わり、今日から解禁。

最初は、1,2社にでも書いていただけたら、それが将来の展示につながれば、と思って計画したプレスリリースなのだが、驚くほどの反響で、新聞や通信社だけでなく、TVも毎日放送、京都放送、NHK京都と取材があった。

どうもみなさん西田や京都学派に興味があるらしい。若い女性の記者さんが西田旧宅の内部をみて、こんなところに住みたい、もったいない、と言っていたのが印象的だった。こういう人がもっと増えてくれればよいのだが。でも寒いですよーー。

それから、どうも二階外廊下を、僕が勝手に「哲学の廊下」と名付けたのが、面白がられたみたい。

この名前は、初めて内部に入り、廊下を行き来してみたときに突然浮かんだもの。

僕も考えに詰まると部屋の中をうろうろしながら考えるのだが、僕の家は、それほど大きくないので、歩きにくい。しかし、この廊下、歩いてみると、長さと幅が、考えながら歩くのに、実に具合がよかった。

で、「わー、こんな廊下があると考えるときに歩きやすいな。哲学の廊下だ!」と思った次第。

興味がある方は、http://www.shayashi.jp/nishidakitaroukyutaku/を見てください。

しかし、今日は、早朝から、講義が終わる6時まで、本当に忙しく、この5か月を象徴するような日だった。そのため4時半からの講義に少し遅れてしまった。今日は、僕が弁士になって ;-)、無声映画のSFの名品メトロポリスを見せる日だったので、映画を見る時間が10分ほど短くなり、学生さんたちは不満だったかも… ごめん!

しかし、福井工大の市川さんにも言ったのだが、実は、まだ、中間点。保存したものを展示できるようにして初めて仕事が完成する。

これは資金の問題もあり簡単にはできない…

がんばります!

おお、今日から、また、ブログが書けるぞ! :-D


2016年5月31日(火曜日)

今日も不如帰忍

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時46分14秒

今日もホトトギスの鳴き声。

今夜は昨年つけてもらったインナーサッシを超えて聞こえた夜半の鳴き声。

ということは、かなり近くで鳴いたか?
鳴き声の方向からすると、最初は、うちの桜で、
次は裏山か?うちの桜なら珍しいことだ。

一つ前の投稿で、

>この4か月(5か月かも)ほど、最も時間を割いていたことに、
>一応、今日で目途が立つ。

と書いたが、「一応」を入れた様に、懸念があったのが、
顕在化。(^^;)

本当に、退屈している暇がない…
#このフレーズわかる人、どれくらいいるかな?
#ハハ。(^^)

おっと、また、ホトトギス。
これは例年通り裏山から。

初夏が近いか。


2016年5月29日(日曜日)

ホトトギス忍音

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時08分30秒

土曜の夕方ごろ用事を終えて家に帰ってきたら山から不如帰忍音。
例年は夜中に窓を開けていて聞くのだが、本当は、
夕方から鳴いているんだな。

この4か月(5か月かも)ほど、最も時間を割いていたことに、
一応、今日で目途が立つ。


2016年5月25日(水曜日)

SMART-GS 0.10.1 リリース

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時31分02秒

SMART-GS 0.10.1 をリリース。
0.10.0 をリリースしたばかりだが、直ぐに、現代史の都留さんからバグレポートがあり、ケアレスミスのバグで作成した文書をsaveできないと判明。
直ぐに修正したが、ついでに別のバグがみつかり、それを担当の久木田さんに fix してもらうなどしていたら、結構遅くなってしまった。

しかし、これでかなり安定したかもしれない。β版だということにしてあるがβではないかも…

また、研究員の Thompson 君が、英語の video tutorial の凄く良いのを作ってくれていて、
これで海外での使い始めの「壁」が一挙に低くなるはず。今回の科研費研究の
ターゲットは江戸期以前の古文書が主なのだが、
結構、これが海外での需要が多いので、こういうものを作っている。

今日のミーティングでは、Thompson 君の video tutorial が非常に良いので、
これを日本語化しようということになった。ナレーションの上手な人を
学生課を通してバイトで募集するか?

また、ネット上共同翻刻も、橋本君のアイデアで出来そうな目途がたち、
遅れている科研費研究に光が指す!


2016年5月23日(月曜日)

京都学派形成の研究

カテゴリー: - susumuhayashi @ 01時49分56秒

最近、ブログを書いていないが、これは活動をしていないのではなくて、ブログに書けない活動が忙しすぎるから。
これは、6月の中頃の少し前位には、公開できるはず。多分…

で、それに関連して、またまた新しい研究計画を思いつく。

以前から、西田や田辺の現在からは信じがたいポピュラリティーが何であったのか、知りたかったのだが、それの手がかりになるかもしれない文章を、下村の「西田幾多郎―同時代の記録―」で見つける。

それは同書の、p.125の菅円吉の「西田先生のことなど」と、相原信作の「師弟」。

前者では、一高の首席だった三木清が、西田のもとで学ぶために、わざわざ京都に来ると言うことがあるまで、京都帝国大学哲学の地位が低かったこと。たとえば、菅の同級生たちは、皆、京都帝国大学哲学でなく、東京帝国大学哲学に進学してしまったという逸話が語られている。しかし、三木の頃以後、京都学派の哲学の隆盛は目を見張るものがある。

これに関連して気になるのが、下村の同書の相原信作著「師弟」の内容。p.144で、父親に、喰えない哲学に進むことを反対されたが、実際には、岩波書店を巡る空前の哲学ブームで、ドイツへの留学さえ、哲学書一冊を翻訳すれば、ドイツ留学の費用など簡単にでると岩波茂雄に示唆されたという話など、非常に興味を引く。

こういうデータ、京大の資料や、岩波の資料で、実証できないか?

できたら、凄く面白いと思う!!!


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