Welcome Guest 
メインメニュー
林晋ブログ 最近のエントリ
Blogカレンダー
2012年 2月
« 1月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
26272829  
Blog 月別過去ログ
Blog 検索
カテゴリ一
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

リンク
検索

2012年2月4日(土曜日)

Hertz の力学への田辺の書き込み

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時14分18秒

京大文、田辺文庫、貴重書、42, 25, Bd.3 Die Prinzip der Mechanik… の調査。
Einleitung に大量の書き込み。ほぼ、「古典力学の弁証法」の内容と連動。
ただ、1910年刊の本。何時手に入れ、何時書いたのか不明。おおきな問題。
力概念の矛盾的性格を議論。ハミルトニアンなどは否定的に議論されているとして
良いだろう。

これをキーに、多様体の哲学が、田辺哲学を誤解し、「否定」さえする
ものであることを指摘。


2012年2月3日(金曜日)

Mach, Kirchhoff, Hertz

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時53分33秒

田辺全集12, 古典力学の弁証法。ちから概念が「合理的」でないとの初期の意見として、Mach, Kirchhoff, そして、Hertz.
Mach は Die Mechanik in ihrer Entwicklung 7te Auflage の S.251-238. Kirchhoff は「力学講義」の序文。

前者は群馬文庫にある。Kirchhoff は、京都、群馬、どちらの文庫にも無し。
ただし、1897年版が0001

哲学
G||139
8694622611
152819
にある。

Herz は群馬と京都の双方にGesammelte Werke がある。群馬は書き込み無し?京都は貴重書。
42, 25, Bd.3 Die Prinzip der Mechanik…
この巻だけ京都か?チェック!
その次のが京都文庫のカタログでは Voigt…


2012年2月2日(木曜日)

Structure and agency

カテゴリー: - susumuhayashi @ 16時34分36秒

Wikipedia の Structure and Agency
The question over the primacy of either structure or agency in human behavior is a central debate in the social sciences. In this context, agency refers to the capacity of individuals to act independently and to make their own free choices.[1] Structure, in contrast, refers to the recurrent patterned arrangements which influence or limit the choices and opportunities available.[1] The structure versus agency debate may also be understood as an issue of socialisation against autonomy, and can be contrasted with the “nature versus nurture” debate.

もとは、Barker, Chris. 2005. Cultural Studies: Theory and Practice. London: Sage. ISBN 0-7619-4156-8 p448
人文研
書庫2F 洋書人文部
361.5||B/21
2000690885
00069088

ほぼ、Mengeと Wahlfolge の定義と同じ。比較のために良い
定義の候補:
http://www.psiquadrat.de/downloads/heyting1931.pdf

そこから種と個へ。ただし、最も初期の種。
まだ、自己媒介しない段階のもの。
Giddensだとagencyがstructure に reflectする。
ただし、直接。これは田辺が陽に排したアプローチ。
種の論理とGiddens理論の比較。
agency には intensional な実存がない。
というより、sociology は外延的なので、
それを無視する。シェーラーの社会哲学では?


2012年1月28日(土曜日)

コミック 数学ガール ゲーデルの不完全性定理

カテゴリー: - susumuhayashi @ 13時56分35秒

物語「京都学派」の前日についたコミック「数学ガール ゲーデルの不完全性定理」1,2巻
を繰り返し2度も読んでしまった。内容が正確なのは、原作者の結城浩さんが
チェックしたらしいから当然として、解説書の文章では、僕の「ゲーデルの謎を解く」
とか、結城さんの原作でも表現できていない、形式系や形式的証明、あるいは、
数学の推論(証明)を前にしたときに感じる「感情」が見事に表現できている。
こんなの見たことがない。

二巻pp.142-3の「数学の樹」。僕が形式的証明や、
論証的なハイパーテキストをココロのなかでイメージするときの、殆ど、
そのままが絵になっている。信じられん!!

と言いつつ、そういう感情はWEB時代を新時代と感じる旧世代の人間のもので、
作者のように(おそらくは)WEB時代が自分のネイティブな時代の人には、
あたり前のことなのかもしれない。ネットワーク可視化技術は当たり前の
ツールになっているから、こういう図を専門家でなくても自然に目にするはずだから、
若い人の場合は、少なくとも深層心理にこういう図が自然なものとして最初から
潜んでいるのかもしれない。
#僕の場合はプログラム検証などやっていた時代に、R. バーストールさんが
#Mac 上の HyperCardで ProofCheckerを作っていたのを見たのが
#最初の芽だな。

形式的ルールや、形式的体系の説明は難しいものなのだが、
それがテーマパークでのシーンに見事にダブらせてある。
僕は形式的システムの説明に巨大宇宙船の中に作られた自然とか、
マトリックス(映画のです)とか、ディズニーランド(これは社会学由来)
を使うのだが、そのイメージが実際に可視化されたものがみられるとは….

「知らないふりゲーム」という用語も見事だ。これは結城さんのものなのだろうか?
原作には、ここまではなかったような。

コミックを研究テーマにしている20世紀学の杉本さんがコミックにしかできない表現が
あると言っていたが、このコミックを見て納得した。

兎に角、これは凄いので、今後不完全性定理について説明したり、書いたりするとき、
何等かの形で使わせてもらおう。

でも、どうしてもマネができないものがある。それはコミックの形式自体。
複数のキャラクターが同時に目前にあり、それらがコミュニケーションを行なう。
しかも、それぞれが読者のアバター的存在になっている。数学の場合では、
「でも、そういわれても理屈は追えるけど納得できないな」というときの
不安な感情とか、「あっ!そうか!」という時の明るい感情とか、それらが
キャラクターの表情、現在の会話の様式、それらすべてを、イラストと文字情報
という、自分のスピードで見ることができる形式で(ここが動画と違うところ)、
2次元の広がりに配置されている(ここが文章では絶対にまねできないところ)。
かつ、時間軸がある。それもいつでも簡単にもどれる時間軸が。

文章では、著者と読者のトポロジーをこういう風に配置することはできない。
どうやっても無理だろう。良いところで著者と読者の会話くらいだ。
工夫しても会話形式にするくらいだが、1次元の表現形式に本質的に
グラフ構造をもつ複数人の「会話」形式を押し込めると、どうしても無理がある。
実際の会話では、複数の人が声を上げたり、誰かが話しているときに、
他の2人が顔を見合わせて「エーッ?」という印象の共有をやっている
ことがあり、この共有が、ある意見に対する、その2人の印象を強く決定
したりするのだが、こういう情景を、文章で書くのと、コミックにするのとで
は伝わり方が雲泥の差だろう。

PositLogの作者の久保田さんに非常勤講師をやってもらっていたころ、
彼が4コマ漫画を使って、色々なものを見事に表現してみせるのを見て、
これはマネができん、これからの研究者は、漫画を描く能力も必要では
と驚いたものだが、あれより凄い。

コミュニケーション・ツールのモデルになるな!

ところで、一見、1日に二つ投稿しているように見えますが、
前のは寝る前。今度のは起きた後です。実質、2日間。


物語「京都学派」

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時42分43秒

竹田篤司、物語「京都学派」が届く。ざっと読んで、ムムムムムッム……….
という感じ。僕が知らなかった大変多くの史料のことが書いてあり、一応は、
京都学派の思想史をやっている(と言張っている)人間としては、多いに恥じ入ると
同時に、この史料の扱い方は何だーーー!???!!???!!!!
という感じ。岩波の西田全集の編集委員を務めた方だから期待していたのだが、
これでは興味本位のジャーナリズムと変わらない。
色々と理由がつけてあるのだが、世俗的意図が透けて見えるような気がして、
ゲンナリ…..

藤田さんが、竹田さんを「細部に神宿るという考えの人でした」と言って
いた。ちょっと揶揄したように聞こえた(だけなのかも)ので、
歴史家としてのプライドとして、「僕もそうです」と言っておいたが、
#細部に神が宿らない歴史学を僕は信じない。
#細部こそが個を軽々と越えていく現実だ。
なるほど、藤田さんの気持ちがわかる。これはないだろう….

これでは、歴史家の品位とか矜恃とか、そういうものが何もない。
おそらく歴史には基本的に興味のない哲学者の方で、
凄い史料が手に入ったので、なんとか世間にアピールしたい
という意図が先走ったのだろう。こういう書き方をしてはいけない。
折角の史料が台無しだ!!!

公開と暴露は本質的に違う。こんなのが歴史だと思われたら、
歴史学の品位が下がる。いや、こういうものは歴史学ではない。
歴史を知らない哲学者の歴史もどきだ。キツイと思われるかもしれないが、
歴史家としての矜恃の問題だから、あえてキツイままでおく。


2012年1月27日(金曜日)

歴史学が消える?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時36分56秒

超長期のデジタルデータを保存する千年メモリの研究について質問され、
それ以来、omnipresent log (あらゆる場所のあらゆる時間のログをとるという意味で、
僕の造語。以下 oplog)が実現された時代以後の歴史学、あるいは、歴史、がどうなるのか、
そのことが頭を離れない。これは学問の問題ではなく、人間の社会・文化、人間存在
そのものを根本的に変えてしまうものかもしれないからだ。

僕は oplog が達成されたら、歴史学はやりやすくなると思っていた。しかし、同僚の小野沢さんと、
それについて議論して認識が変わった。oplogは歴史(学)という現在の概念を崩壊させる可能性も
ある。何でもスエズ運河を巡るエジプトと米英の間の紛争、スエズ紛争、については、時単位で
人々の行動が残っているのだそうだ。しかし、それを見ても歴史が描けないのだそうだ。

歴史学というのは、消えてしまう時々の事実が、記録、たとえば、公文書、メモ、通信記録、
日記、当事者の記憶とその証言、などにより、その一部が、ほんの一部が残されているとき、
それを通して、過去を再構成することだ。これは(再)構成であり、実際には、多くの部分は、
歴史家の創作である。別な言い方をすると解釈なのである。

一方に史料が物語る事実があり、一方で、歴史家の推理や解釈がある。
最初の方に忠実であることに重点を置けば歴史学となるし、後の方に
重点を置き、少々の矛盾、大きな矛盾が、史料との間に生じても、
面白さの方をとる、つまり、物語であることを重視すれば、歴史小説とか、
梅原猛日本学になる。

この時、史料の数が、それほど多くないからこそ、それに整合する歴史を
物語れるのであるが、その数が、途方もなく巨大だったら、そういうものを
作れるだろうか?これはデータマイニングのような、ビッグデータの話になって
しまうのである。

最近、オウムの平田容疑者が出頭してきて、その後、彼の映像を、
駅の監視カメラの記録から抽出したものを報道していた。それらの
映像は、平田容疑者が出頭する前に撮影されたものなのだから、
平田容疑者は駅構内の群集の一人に過ぎなかったのである。それが
記録されていて、必要ならば、それを抽出できるということは、僕についても
同じことができるわけだ。

これはGoogleやFacebookのさまざまなプロダクツについて
よく言われる問題と同じなのだが、それは主に現在のWEBの広がりの中で
語られることが多い。こういう透過性、一望性により、WEBは世界の経済と社会を
変えたわけだが、もう一次元増えて過去まで一望できてしまうと何が起きるのだろうか。

少なくとも一人の人間として、過去が何年たっても現在と同じような明瞭さで見えるとしたら、
これほど辛いことはないのではないか?昭和20年8月6日の広島の情景は、それを経験した人、
それを翌日経験した人の誰もが忘れたいものらしい。
昭和20年8月6日の広島の情景が、永遠にそのまま残るとしたら、
人間はそれに耐えられるだろうか。2012年3月11日に稼動していた監視カメラ、報道のカメラ、
アマチュアのカメラ、ケータイのカメラ、は、すでにこの問題を引起しているはずだ。それが
一見ないようにみえているのは、報道や、個人が、それを隠しているからだろう。
インド洋の津波の場合には、流される人々の映像がかなりあった。それが全くといって
ないというのはおかしい。要するに隠しているのだろう。しかし、それをもし全く隠さなかったら
耐え切れなくなって生き続けることができなくなる人が沢山いるはずだ。

死と言うものが大変すばらしい「発明」であることは、年をとってからヒシヒシと実感できる
ようになった。人は死ぬから、その後の世代が可能となる。誰も死ななければ、世界は混雑
し過ぎるから誕生というものが不可能となる。死があるから生がある(ムムッ!田辺に乗り移られたか!)。

冗談はさておき。

大方の過去の記憶が消滅するから、人間は過去を耐えることができるのであり、
また、大方の過去の事実が消滅するから歴史と言うものは可能なのだろう。

過去の全ての情報が、丸侭残ってしまったら、それは混沌とした現在と何も違わない。
つまり歴史学が持つ「理性的」な側面は維持できなくなるのだろう。

では、その時、少しでも「理性的」であるには、どうするか。

現在のWEB社会で行なわれている、ビッグデータで世界を動かす
という方法、キャッチコピーで言えば、集合知、データマイニング、
データ同化などの言葉が表していること、もっと、簡単に言ってしまえば、
「統計的」推論を使うことなのかもしれない。

しかし、それで一人の人間が圧倒的な現実を耐えられるとは思えないが…


2012年1月26日(木曜日)

次は美学だ!..???

廊下で、たままた、美学の吉岡さんに出会ったので、迷惑かとはおもったが、講義でやっていた、
美術・建築におけるモダニズムと数学のモダニズムの関係について、僕の意見をどう思うかを聞いた。
で、興味をもってもらえたようで、素人美学ながら、案外、いい線言っていたらしい。
僕が、学生さんたちに話していた内容は、メインストリームのモダニズム(?)解釈らしく、
グリーンバーグのものだそうだ。驚いたのはハウスドルフが文学者(?)であることを
吉岡さんが知っていた点。美学などでは有名なのかも知れない。それともポストモダン
の方かな?

原稿を書いたら、読んでもらえることになり、大変に嬉しい!! :lol:
で、調子に乗って「次は美学をやる!」と言って八杉に笑われた。(^^;) :hammer:


2012年1月24日(火曜日)

すべての文庫は分かり易くあるべきか?

カテゴリー: - susumuhayashi @ 20時45分21秒

前の投稿で取り上げた「あぎ」という人の岩波文庫「ゲーデル 不完全性定理」の書評について、もう少し。

この人に限らず「ゲーデル 不完全性定理」についてある基本的な誤解があるで、それについて書いておこうと思う。
#他の意見は、好みの問題もあるので、賛成はしないが、反対の論拠は書かないでおく。ただ、
#(5) 本書の大部分を占める解説に論文の内容の説明がない。
#という最後のコメントだけは事実に反するので指摘しておく。解説の最後に論文の全体的構成が詳しく分析してある。
#ただし、この部分は数理論理学の学生でも相当の力のある人にしか理解できないだろう。逆に、そういう人には、
#凄く役に立つだろうという自信がある。

この人のように、あの本が不親切だという人は多い。それはその通りで、
あの本は、2011年10月26日(水曜日)の消費という投稿に書いたような
「本の消費者」のために書いた本ではない。そういう人が読めないということは、
著者の意図にあっている。そういう人は読めない方が著者としてはうれしい。

僕の若い頃までは、高級そうなもの、難しいものを、むやみにありがたがる変な価値観があって、
これは実に困ったことだったのだが、今は、逆に「分かり易い」が価値になってしまっている。
これは、第二次世界大戦の敗戦前には、「天皇陛下」という言葉に逆らえず、いまは
「庶民」という言葉には逆らえないのと同じ逆転の現象だ。僕は、こういう風潮には、
徹底抗戦する。(以下少し、遊びすぎたので、翌日、抹消!)

あの本が、なぜ、多くの読者が「不親切」「難しい」と感じるか、その理由は、
そういう本を読める人、あるいは、そういう困難な本を読んで自分を高めたいという
人の為に書いてあるからだ。

あの本には大変明瞭な3つのターゲット読者集団があった。ひとつ目は、
京大文学部3回生以上と文学研究科の院生をターゲットにした僕の講義の出席者、
二つ目は、以前、ゲーデルと数学基礎論についてのBBSを主催して
いたときに書き込みをしてくれていた人たちの中で、知識やセンスのレベルが高いと感じた人たち、
この人たちの職業は、著名な哲学者の方もあったが、多くは、学者ではなく、お医者さん(歯医者さんだったかな?)、
CDの工場の技術者の方(工学部時代符号理論を勉強したとか)、学生のころ哲学をやってました
という個人タクシーの運転手さん、など多彩であった。とくにかく、そういう多くは学者ではないが、
知識欲旺盛で、山が好きな人がわざわざ苦労して山を登るように、知的な高みに苦労して
登ることに快感を感じるような人たち、これが第二グループの仮想読者だった。
そして、三つ目が、僕の様な学者、より正確に言えば、僕自身であった。

最初の二グループの意味は明瞭だろうが、最後のグループの意味は補足説明がいる。
歴史家となる前の僕、数理論理学で学位をとり、
それに関連する情報科学をやり、また、ソフトウェア工学もやっている
神戸大学工学部教授林晋という人。この読書大好きな中年男性(当時。今は
初老)が、連日、睡眠時間3時間の激務の合間に訪れた偶の休日に、何冊かの面白そうな
本を買い込み、寝転がりながら本を読む。読み始めたら知的好奇心がむらむらと
湧いてきて、ワクワクして読み進み、兼業主夫なのに食事を作るのも忘れて
読み続けてしまう。そういう本が、ときどきあった。そういう本にであうと、僕は本当にうれしくて、
「いやー!今回の休日は本当によかったなーーー」とニコニコしてしまったものだが、そういう本に少しでも
近い本、そういう本を自分自身でも書きたかった、というのが、第3のターゲット読者が自分自身であるという
意味で、もっと正確に言えば、きっと彼らも僕と同じような人に違いない、と思えるような、知人、
友人、同僚たちが想定読者だったのである。

こういう風に、あの本を楽しく読める人は、最低でも、京大文学部の学部学生の
3回生くらいの能力は持っている、と前提として書いたのだから、多くの読者に
とっては難しく感じて当たり前なのである。実際、京大文学部の学生諸君も
大半の人は、あの本を読めても、楽しくは読めないだろうと思う。
あれを楽しく読める人は、やはり、主に大学教員、それも人文系の教員
だろうと思う。実際、あの本に最初にWEB上で反応してくれた人たちは、
中世西洋哲学、仏教学、を教えている大学教員の人たちだった。
これは狙い通りだと大変に嬉しかったものである。

しかし、もちろん、そういう人たちだけに、読者を限定できるわけはなく、
様々な人たちが読んでくれている。その人たちの書いたものをみると、
多数はでは全然ないものの、ある程度の数の人たちが、「岩波文庫も他の文庫と同じレベルの文庫だ」
と考えているように見える。だから、文庫であるから、内容が易しく解説されているべきだと、
思っているようなのだが、これは全く間違いだ。岩波文庫は、ぼくらの本のようなものを少数の
例外として、ほとんど解説がつかない。カント、ハイデガー、などの、専門家でも完全には
理解できない哲学の作品などが、ほとんど解説なしに、ドンと提示されている。それが岩波文庫なのである。
専門書などという生易しいレベルではないのである。いまどきの専門書など、岩波文庫の古典に比べれば、
簡単なのである。ただし、もちろん、すべてがそうではない。楽しく読める小説も岩波文庫には
収録されている。収録規準はおそらく唯一つ、それが古典であるかどうか、だけであろう。
だから、それはウルトラ級に難しい、この岩波文庫の内容を完全に説明できたら修士号は
おろか学位をあげてもいいですよ、と言いたくなるようなものから、中学生に、これ面白いよ、
と言って渡せるものまで、千差万別なのである。そういうことさえ理解できない読者は、
その程度のレベルだということである。
#まあ、昔の僕も、「その程度のレベル」でしたね。でも、僕は「消費者」では
#なかったわけだ。

そういう古典のシリーズが親切なわけがないし、最初からエンターテイメントを目指して
書かれた「解説」や、原典自体が大衆を読者としてかかれた小説などが主な構成要素の、
他の文庫とは、もともと違うものなのである。岩波文庫は昭和2年に出版が始まった
らしいが、その内容のレベルは、現在でも、殆ど変わっていないのである。

僕は何か難解な本を訳書で読むとき、よほど自信がない限り、岩波文庫だけで読むことは
避けて、できるだけ単行本の解説本&訳書を探す。文字の大きさだけとっても、後者の方が
読みやすいから。「ゲーデル 不完全性定理」は、なまじ、岩波文庫としては
モンスター並みの分量の解説が付いているために、一般向けに書かれている他社の文庫と
同じものだと読者は勘違いしてしまうのかもしれない。
しかし、あれは飽くまで岩波文庫のあるべきレベルを想定して書いた解説である。

おそらく、あぎ氏の「それほど分かりやすい本だろうか?」というコメントは、
岩波文庫以外の「現代的」文庫の標準で、「ゲーデル 不完全性定理」を評した
コメントだろう。しかし、それは、この平成20年代に昭和2年ころの高い
スタンダードを崩していない岩波文庫の一冊、つまり、同じ文庫という名前がついて
いながら、全く別物なのである。

だから、大方の読者の方のWEB上のコメントは「解説でさえ難しい」
「親切に書いていない」が大勢だし、実際、そうなのであり、そうでなく
てはおかしいのである。その意味で、あぎ氏のコメントは、まったく正しいの
であるが、ただ、そうであっていけないと思っているらしいところが、
変なのである。

しかし、実は、幸いにも、こういう誤解をして憤慨する人は、極く少数で、
おどろくこと、大変うれしい方向に、出版前の予想が大きく外れ、
あの本は、その内容と書き方からは予想できないほどの多くの読者を得て、
しかも、多くの人が、その難しさを肯定的に捉えてくださったようだ。
#もちろん、多いといっても、数万部に過ぎない。多分、2〜3万部位かな?
#毎回刷る冊数が違うし(どんどん減っている)、ちゃんと記録してない
#のでいい加減…

僕が、読者に一番伝えたかった、数学基礎論のダイナミックな歴史の流れや、
それに関わった偉人たちの努力・苦闘、勝利・敗北、そして、それを超然と
無視して流れていく歴史の、壮大な自然の光景のような姿、というものは、
細部の理解、特に数学的内容の理解とは全く関係なく、相当数の読者の方に
受け止めてもらえるものなのだなと思っている。そういうリアクションがWEB上に
多くみられるし、個人的にそう言って下さる方もある。

僕は、そういう読者こそが、本当に読書をしている人、本を消費してない
人たちなのだと、思う。そういう人たちは、僕の思っていたよりずっと
多かったのである。そして、その人たちは、難しいなー、ようわからんなー、
と唸りつつ、でも滅茶苦茶面白いなー、と喜びつつ、たまの休みに、
畳に寝転がりながら、ウェーバー社会学などの本を読んでいたころの
工学部教授の僕と同じように、僕の本を読んでくださったのではないかと思う。

で、多分、あぎ氏は、そういう読者たちの反応を誤解して、そういう人たちが、
「易しい」「読みやすい」「わかりやすい」と言っていると勘違いしたのでは
ないのだろうかと思う。あるいは、それとは関係なく、文庫だから、平均以下の
読者でも読めることを、目的にして書くべきだと思っているのだろう。

実は昔、私学にいたときなど、できるだけ誰にでも分かり易く書こうと
努力していたときがある。残念ながら、それは達成できなかったが、
ただ、文体だけは、妙に軽い、一見読みやすそうな、ものが身に付いてしまった。

あの文庫の解説を書くときには、それを懸命に封印しつつ書いたのだが、
身に付いたものは恐ろしい。原稿を渡した学部学生に、読み物のようで、
一気に読めたといわれたときには、うれしいような、悲しいような…(^^;)

学者かつ著作家の方から「著者魂と研究者魂の葛藤がみえる」という
過分なコメントをWEB上で頂いたこともあるが、多分、心の
潜んで消えないエンターテイメント指向が、研究者的スタイルの皮の
下から透けて見えているだけなのではないかとも思う。(^^;)
#とにかく、本大好きです。本と(PCと周辺機器、これがまたすき!)
#を買わなければ、もう少し、貯金があるのではないかな… (^^;)
#ちょっと硬くて、色々と考えさせられて、
#でも、数時間から半日、長くて1日で読めるこういう本を数冊買い込んで、
#寝転がりながら読むときの楽しさはない!
#しかし、そういう時間が最近ないなあ…
#ちなみに、僕は速読で、
#新書だと普通数時間で1冊よむ。場合によっては数分で読む。まあ、読むというより、
#パッパッと飛ばしている。自分で本を書くようになってから著者が何を
#書きたがっているか、目次と前書きで大体予測がつくようになったので、
#予想しながら読むのである。自分なら、こう書くな、と思いながら読むと、
#あっ!やっぱり、…、また、やっぱり!、…、うん、そうですな!…、
#数分で読了!、ということになる。これが裏切られた時に、
#すごく面白い本がある。
#なんか、またまた脱線。このところ人事の仕事がいくつも続き
#ストレスが溜まっているらしい…(上司に見つかるとまずいので、
#この部分、翌日抹消!)


岩波文庫「不完全性定理」amazon書評の誤り

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時31分26秒

岩波文庫「ゲーデル 不完全性定理」について、WEB上にの匿名の言及で、訳が間違っているとか、
適当でないと書いている人がいる。匿名でも、僕たちの訳が間違えていたり、不適当、あるいはWEB
に書いている人の訳の方が優れているときは、必ず、それを次の刷の時に反映して、
正誤表http://www.shayashi.jp/correction-jp.htmlに記録している。

指摘の方が間違えているときは、基本的には何もしないことにしているのだが、
あぎ “ε-δ”氏の2012/1/8づけのamazon.co.jp での書評の中にある誤解は、
ドイツ語をよく知らない読者を混乱させてしまう可能性がある間違いなので、
ここで間違いを指摘しておく。あぎ氏は以下に紹介する「誤訳の指摘」以外にも、色々書いているが、
そちらについては別の投稿でコメントを書く。

あぎ “ε-δ"氏の投稿から:
(3) 翻訳は分かりやすいとは言えない。誤訳もある。
たとえば「命題[R(q);q]が証明可能ならば、それは正しいので、上記のqがKに属すことになり、(1)により¬Bew[R(q);q]が成り立つことになる。しかし、これは仮定に矛盾するのである。」(p. 19)の「正しいので、上記のqがKに属すことになり」の部分。論理に敏感な読者はここで迷うだろう。疑問は当然である。原文には「しかし」の意味のaberが入っている。くどく訳すならば「もしも命題[R(q);q]が証明可能だとすれば、その場合命題は正しくもあるのだが、しかし上述のようにqはKに属するので、(1)により¬Bew[R(q);q]となって仮定に矛盾することになる。」である。原文は次のとおりである。
Denn angenommen der Satz Bew[R(q);q] waere beweisbar, dann waere er auch richtig, d.h. aber nach dem obigen q wuerde zu K gehoeren, d.h. nach (1) es wuerde ¬Bew[R(q);q] gelten, im Widerspruch mit der Annahme.
否定の意味のバーが表記できないので代わりに¬を使った。Bew xはxが証明可能、¬Bew xはその否定である。ウムラウトはae、oe、ueと書いた。誤訳の原因は逆接のaberの見落としとnach dem obigenがqを修飾すると誤解したためだろう。だがその文が成立するならそこに主語のない文が現れることになる。それよりも翻訳文の論理が矛盾していることに気付かなかったのだろうか。

間違いの説明:
あぎ氏の引用の Denn angenommen der Satz Bew[R(q);q] waere beweisbar は、Denn angenommen der Satz [R(q);q] waere beweisbar の書き
間違いだが、これは修正して、このゲーデルの論文の該当部分を、より現代的な書き方で書いてみると次のようになる:

Denn angenommen der Satz [R(q);q] waere beweisbar, dann waere er auch richtig.
Das heisst aber, nach dem Obigen, q wuerde zu K gehoeren.
Das heisst, nach (1), es wuerde ¬Bew[R(q);q] gelten, im Widerspruch mit der Annahme.

あぎ氏は、この2行目に aber があることから、「q wuerde zu K gehoeren」つまり、「自然数qが類Kに属す」
が、1行目の dann 以下の主張 「[R(q);q] が正しい」と否定の関係にあると理解したようだが、
上にカンマをおいて示したように、この aber は、それ以下に属すのではなく、das heisst aber,
das heisst aber noch, das heisst aber nicht, das heisst aber auch, のように das heisst
についている語で、強い反対を表すのではなくて、「ところが」というような、話をさらに転じる
役割をしている。ここの部分でゲーデルが言っているのは、『「自然数qが類Kに属す」は、「[R(q);q] が正しい」から、その上にある
q の取り方を考えると導かれる』ということ。これは、本質的には、
言い換えなのだが、この言い換えは、それほど簡単には分からない。
それをゲーデルの論文の文章の、引用より前の方も含めて詳しく説明すると以下のようになる:

1. Aを自然数を表す自由変数を一つだけ持つ論理式、nを自然数とすると、
 [A;n]は、「Aの唯一の自由変数に自然数nを表す項、つまり、形式表現」を
 形式的に代入したもの表す。
2. 自然数を表す自由変数を一つだけ持つ論理式のすべての数え上げRを一つ固定する。
(固定するというのは、たくさんあるので、その内の一つを 
 選んで使うという意味。どれを選んでも同じ結論が導かれるので選び方は任意。)
3. 自然数を表す自由変数 a を一つ固定し、a のみを自由変数としてもつ論理式で、
  それの意味が「自然数 a が類Kに属す」となるようなものを一つ固定し、それを
S と書くことにする。
4.R(q)=S となるように自然数qを一つ固定する。
5. この q の取り方(固定の仕方)により、一行目の「[R(q);q] が正しい」とは
 「[S;q]が正しい」ということである。
6. ところが論理式Sが表す意味は、3のように「自然数 a が類Kに属す」だったから、
 [S;q]という論理式は「自然数 q が類Kに属す」という事実を意味している。
 つまり、「[S;q]が正しい」とは、「「自然数 q が類Kに属す」は正しい」、
 つまり、「自然数 q が類Kに属す」ということである。
 
これで、終わり。

Das heisst aber の aber は、最後のステップ6の冒頭の「ところが」
にあたる。つまり話題をさらに一歩進める、あるいは、今話していることから、
意外な方向に話を展開する、などの場合につかわれる「ところが」「ところで」なの
である。だから、もちろん、完璧な否定の場合にも使われるが、この場合のように、
全く同じ意味だが、直ぐには気が付かないような命題を推論する場合にも使われる
わけである。

あぎ氏は、これを否定の展開と理解し「しかし上述のようにqはKに属するので、」
としている。しかし、これでは、背理法の仮定、「命題[R(q);q]が証明可能」を
仮定する前に、「qはKに属する」がすでに示されている、と言っているように見えて
しまう。しかし、「qはKに属する」は、この das heisst aber の行で初めて
導かれているのである。

あぎ氏は我々が “nach dem obigen q” と、obigen が q を形容するように
読み違えたと理解しているようだが、そうなると、”上述の q から”に
なってしまい、また、彼(?)も書いているように、主語も分からなくなり、
無茶苦茶な構文になる。とろが、僕らの訳は「上記のqがKに属す」と、
ちゃんとした日本語になっている。この二つがどうやったら結びつくと思えた
のかわからない。僕らはドイツ語がわからず、適当に訳していると理解したのか
とも思っても見たが、おぎ氏の訳、「しかし上述のようにq は K に属す」の方
こそ、どう勘違いしたら、原文の訳語になるのか分からないのである。
どうやったら、d.h.aber nach dem ogiben q が、「しかし上述のように」
と読めるのだろうか。

また、「主語がなくなる」とか言う前に、"obigen q"と結びつけると、
ドイツ語を読むときの基本ともいうべき定冠詞の各変化が変になるのである。
女性の Zahl として選ばれた q は、変数であっても女性なので、
nach の後では定冠詞が3格となり、nach der obigen q とならねばならない。
もし、これを何かの間違いで主語、つまり、1格だと考えたとしても、
die obige q である。nach dem obigen ときたら、obig は女性の
q の形容詞ではないと分かるのである。

おそらく、おぎ氏は、ドイツ語の基本的な読み方が身についておらず、また、
上に詳説した数学の推論も理解できなかったため、辞書を引き引き、
適当に理解(誤解)してしまったのだろう。Nach dem obigen という
数学などの教科書、論文で使われる常套句は辞書にはまず載ってない
ようだ。しかし、Google Books や Search で “nach dem obigen”
と検索すると、数学の本とか講義ノートなどの沢山の用法が見つかる。
ただし、その殆どは

nach dem Obigen

とう形である。現代の正書法では、このフレーズを、必ず Obigen
と綴るが、古い時代では、たまに obigen と綴られ形容詞 obig の
名詞化(の3格) なのである。

つまり、日本語の「上記により」に対応する、数学、物理学などの
テキストで多用される慣用句なのである。

以上を注意して、問題のフレーズを少し「丁寧」に、しかし、直訳風に訳すと、

もし仮に命題[R(q);q]を証明可能と仮定するならば、それはまた正しくもある。
ところが、上記のことから、それは、qがKに属することを意味することになる。
それは、1)により、¬Bew[R(q);q]が成り立つことをいみするが、しかし、
これは仮定に矛盾するのである。

となる。

しかし、こう訳すと、「上記のことから」が、「上の方にある何のことなのか」が
曖昧になり、あぎ氏の場合のように、「上でもう既に証明した」という風に読む
人がでてくる可能性もあり、これは気持ちが悪いし、数学的に間違えていて、
ゲーデルの証明の勘所が台無しになる。

まあ、ゲーデル自身が、そういう分かり難い文章を書いているのだから、
良いではないかと、という考え方もあるだろうし、こう直訳して、注釈を
入れた方が良いのかもしれないが、あぎ氏も書いているように、僕らの
訳では、解説のための注は殆どいれてない。入れてあるときは、専門家でも
間違うだろう、あるいは、実際に全集の英訳で間違えている、というような
時位である。だから、この程度は、これはやりたくない。

ただ、推論を助けるような注はつけないが、意訳することを基本方針にしていた
ので、訳の方で工夫して、分かり易くする、というのは常に心がけていたつもり
である。そこで、これも「上記の○○」の○○を、訳で頑張って明瞭にしようと試み
てみよると:

もし仮に命題[R(q);q]を証明可能と仮定するならば、それはまた正しくもある。
ところが、上記のqなどの取り方から、それは、qがKに属することを意味することになる。
それは、1)により、¬Bew[R(q);q]が成り立つことを意味するが、しかし、
これは仮定に矛盾するのである。

とするとよく判る。これを文庫の訳のシンプルな訳にすると、

命題[R(q);q]が証明可能ならば、それは正しいので、上記のqの取り方により、
qがKに属すことになり、(1)により¬Bew[R(q);q]が成り立つことになる。

となる。
#上記のqの取り方により、は、上記のqとSの取り方により、とか、上記のqとSとRの取り方により、でもよいが、
#q の取り方の条件S=R(q)にS,Rがでているので、これを理解するには、S,Rも理解しなくてはならないから、
#やはり、「q の取り方」というのが一番、すっきりしていてよいだろう。

こう訳すれば、あぎ氏でも読み間違えることはなかったのかもしれない。

しかし、僕の執筆スタイルでは、簡略化できるときは常に簡略化するという原則がある。
(ただし、文章のリズムの良さの方が、それに優先される。)
実は、翻訳を始めた最初のころの訳は、すごく、あっさりと、

もし, 命題$[R(q);q]$が証明可能とするならば, それは正しい.
つまり, $q$ は $K$ に属すことになり, (1)により$overline{Bew}[R(q);q]$が
成り立つことになる. しかし, これは仮定に矛盾する.

とやっていたのである。ここから、どうして今の形になったのか不明だが、
おそらく、共役者の八杉とか、試読してもらった人たちからか、
さすがに分からんとか指摘があって、こう変えたのだろう。僕は、今でも、
最初の単純な訳が一番よいと思うが、まあ、人の考え方は
いろいろであるから工夫が必要だ。そこで、

上記のqの取り方により、qは(が)…である

という文章の意味は、「この文章の位置から上に方に見ていった
ときに書いてある q の取り方をみれば、『qは…である』とわかりますよ」
ということだから(と、僕は考える)、要するに今の文章の位置から、読者に
上の方の q の取り方の説明を読むように仕向ければよいのだ、と考えると、
これは「上記の q は…である」で十分だ!と僕は考える。というか、
我ながら、これは達意の役じゃ、天晴れ!などと思ってしまう。(^^)
つまり、僕の好みやスタイルからすると、現在の訳が最善なのである。

ところで、全集の英訳では、nach dem obigen を、according to the definitions given above
「上記の定義により」と大胆に意訳している。こうすると、読者は、上方向に, [R(q);q], q,K に関連する
定義を探しに行くだろうから論理的には良いのだが、これも僕には気持ちが悪い。これは論理の問題というよりは、
どちらかというと、ニュアンスの問題なので理解し難いと思うが、おそらく、数学科で教育を受けた人の多くは、
僕と同じように違和感を感じると思うのである。というのは、上で「固定する」という言葉を多用したように、数学者には、
任意に選べるものを「固定する」(英語ではfix)とは、定義と言いたくないという気持ちがあるからである。
普通定義というと、任意に選ぶ場合でも、選んだものが何等かの意味で本質的には唯一であることを示すのが
普通なのだが、ここで選ぶ q, S, R などは、本質的にコーディングがらみのことなので、定義と呼ぶには
あまりに気持ちが悪い。英訳者もかなり訳し方に困ったのかもしれない。


2012年1月21日(土曜日)

忙しかった今日 御殿荘の大山桜

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時58分49秒

今日で、全学共通の「ゲーデルと数学の近代」が終わり。ちょっと、最後ははしょり過ぎだったが、まあ、さすがに、これ以上講義をすると学生さんたちも嫌だろう。

しかし、今日も沢山来ていたな… 感心すると同時に、つい、教師などに依存しないで、もっと自分で勉強してね、とも言いたくなってしまった。
京大の教員の場合、その使命は、自分より優秀な次世代の研究者を育てることにある。その場合、自分が助言してしまうと、
結局、経験で勝る自分が勝ってしまい(実は目先で勝っているに過ぎないのだが)、次世代の新しい展開の芽を摘む。
#学生ではなくて若手の研究者にだが、これをやってしまったことが僕にはある。Nさんごめん!
#20年以上前の話なのだが、思い出すと、今でも悔やまれる。

で、自分よりエライ奴を「育てる」最善の方法は、遠巻きにして介入せず、そっと見守るしかない。
だって、自分には、そういう奴を育てる能力などないのだから。もし、自分の考えで
育てられる人材ならば、それは、自分よりエライ奴にはならない!これは自信を持って言える。
#ただ、明らかに変な方向に行っているときは、先輩として何か言うが。

これに京大文に転職して、暫くして気が付き、僕の癖である、すぐに答を言ってしまう。しかも、
なるべく分かり易いように努力して言う、という性格をできるだけ矯正するように努めた。
これは、お喋りででしゃばりな僕としては、正直、相当に辛いことなのだが、それが自分の京大教員としての
使命だろうと思ったから、かなり努力して、そうしてきたので、最近では割とうまい
阿吽の呼吸が身につきつつある。しかし、やはり、これは難しい。つい、(自分の)答を
言ってしまう。当然、まだ、経験の浅い1,2回生は僕ベッタリになってしまい、それは
大きな間違いのもととなる。

で、今日、講義の後に、いつも前の方で来ていた諸君に後で聞いてみたら、
文学部から来ている3、4回生とかは別として、
殆ど1回生だったので驚く。本当に、大変な知識と理解力だ。
と、感心しつつ、ちょっと気になったのは、彼らが、僕の思想にあまりに賛同しすぎているように
見える点。まあ、単なるおべんちゃらかもしれないし、1回生なのだから、数年たてば、
僕の考えに疑問を持つようになるだろう。そうあって欲しいと思う。ただしかし、僕には、そうであっても、
駆け出しの学者などには負けないぞ!という自信はある。

講義の前後は、情報処理学会、デジタル・ドキュメント研究会。といいつ、「後」の方は、学生からの
質問で時間を喰い、懇親会にしか参加できず。その懇親会で、よく、その前を通る、御殿荘の
中に初めて入った。中庭にある立派な大山桜に驚く。こんな大山桜が、京都の市街地の中に
あるのは、今まで見たことがない。一度、咲いているのをみたいものだ…

これは嬉しい発見だったが、先日あった悲しい発見は、柊屋の道を挟んだ東隣、俵屋の北隣の
低層ビルが、どうやら、巨大マンションに建て替えられそうなこと。これは第二次世界大戦中の
疎開の余波が一因なのだが、もう少し近隣の人は考えてくれないものだろうか… まあ、
俵屋は外は殆ど見えないので建築時の振動など以外は、あまり影響はないか…(と祈る)。
しかし、柊屋は東西の両方を巨大コンクリート建造物に挟まれて、庭にでたときなど、
かなり辛いのではないのかな…
その内、俵屋も柊屋も、建物ごと、亀岡か嵐山に移転してしまうかも。


2012年1月12日(木曜日)

石川県西田幾多郎記念哲学館

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時26分49秒

一昨日、石川県西田幾多郎記念哲学館を訪問。学芸員の大熊さんに丁寧に案内してもらえた。感謝!

大熊さんの説明と展示品により、どうも、西田を誤解していたような気がしてきた。

田辺への現在までの評価が、西田への強い評価によりバイアスがかかっているのは明らかだが、
それへの反感で、僕の西田評価には、その逆のバイアスがかかっているように感じた。
一つ前のブログの投稿の最後の部分など、その典型だろう。反省!

このようなバイアスからフリーでなくてはならない。そのような状態になると、西田の人間的魅力は、
否定できないものだと展示から感じた。特に戦後民主主義的な雰囲気に馴れた人には、
西田は相当に魅力的であるはずだ。

僕は、戦後民主主義の「恩恵」にあずかりながら、どうも1970年代以後のそれには、
強い違和感を感じる。それが西田への違和感にも通じていたが、西田の全体主義と個人主義
への言及の録音などを聞いて、かなり感じ方が変わった。

やはり、西田・田辺「論争」の研究は、全く進んでいないと理解すべきだろう。
もし、あの時、西田が、田辺の『批判』をガッシと陽に受け止めていたら。
その後の、日本の思想界の流れは大きく変わったかもしれない。
この点、西田の田辺の「批判」への対応があまりに日本的に過ぎて、ある意味で稚拙なのは
実に残念だ。その態度は、思想の対立の回避にしか過ぎないからである。


2012年1月7日(土曜日)

「多様体の哲学」について(2)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 04時31分14秒

澤口論文 (二) p.51

引用:「田辺博士の晩年の数理哲学は結局のところ「種の論理」の数学化に帰着する。」
分析:「晩年の数理哲学」は第2次世界大戦敗戦終結以後の哲学のこと。この文で一番問題なのは「数学化」
の意味が不明であること。これより後の文章を吟味しても、あまり明瞭な答は得られない。解釈は、おそらく、
二つあって、(1)種の論理を数理論理学的にする、(2)種の論理で、数学(の特定の理論)を理解する、
つまり、種の論理を数理哲学に応用する、のふたつだろう。つまりは、目的が、(1)種の論理の理論体系、
(2)数学、ただし、数理哲学の対象としての数学、のどちらか、ということ。

おそらくは、後者(2)が正しい。

引用:そこで数学化に必要なかぎりで種の論理の要点を摘出しておかねばならない。
分析:先ほどの(2)が正しいとして、数学に適用する限りで「必要な種の論理の特徴」を考えよう、ということであろう。
「必要な限りで」という言い回しに、すでに澤口の思想の問題点を感じざるを得ないが、それは置いて、
澤口の思想を即物的・客観的に、しかしながら、解釈学的に解明すべきだろう。

引用:この論理の特質はいうまでなく、<略>、これとともに種の論理はもう一つ特異な側面を持っている。
それは矛盾の相のもとでものを見るといういわば裏返しの論理であることである。
分析:是に続けて澤口はヘーゲルの弁証法では、時間がたてば矛盾は統一・解消されるが、
田辺の絶対弁証法では、収束することがない、「次のより深き矛盾へと下る」とする。
かなり正確な理解と言える。

引用:それではこの裏返しの論理にては何ゆえに中間段階たる種が決定的役割を演ずるのであろうか。
これは個と類は同一性的性格が強いからであろう。
分析:この様に主張し、それの裏づけの議論が続く。それは論拠が明瞭でない断定的な推論であるが、
この「種に矛盾が集約される」という澤口の理解が、後の「種=シンプレクティック多様体」という
断定に繋がっていると思われる。つまり、シンプレクティック多様体は、座標系の様なもので、
非常に抽象的である。澤口は「抽象」を、群・環・体のような抽象数学と関連づける。
抽象性=捨象性=不定性、という特質により、各個における矛盾が解消されると考えていると思われる。

引用:博士は種として何を考えているであろうか。まず国家、人倫が典型的な種としてあげられている。
これは政治的種といわれるべきであろう。<中略>そして国家は方便性を持つという。
分析:「方便的性格」という言及から澤口が、その脚注(3)で述べているように、
戦後の「種の論理の弁証法」で、種の論理を理解しているということが明瞭である。
澤口の種の論理論の議論では、その思想の変遷が考慮してあるとは思えず、
「種の論理の弁証法」でフィックスすれば、種の論理が理解できるという
前提で議論が進めらていると思われる。また、その思考法には狭義の歴史主義、
思想はその最終系に向かい進歩するものだ、従って、その最終段階を理解すれば、
その思想を理解できる、という悪しき「歴史主義」が見て取れる。田辺哲学を歴史的存在として、
理解する場合、これが大きな間違いを招くことを指摘したい。田辺哲学は昭和一桁から
十年代への国家主義への流れと、その後の敗戦という、歴史的現実と無縁であることは
できない。これは田辺が背負った歴史的な条件であり、それが田辺の哲学を思想史的に
みれば、最大の難局の時代にすでに世事から引退していた幸運な西田の哲学より
遥かに深みのあるものとする。西田の選科時代の不遇などは些細な不幸に過ぎない。
家族との死別は確かに西田に大きな陰を落としたであろうが、子供や家族の死亡は、
この時代では『当たり前』のことでさえある。むしろ、子供ができないことを知りながら、
貞節を保持した田辺の方が、明治人としては異例なのではないか。再婚のことなど考えると、
西田の後半生は、信じられない程の幸運に満ちている。それに反して、知的エリートなどと「揶揄」される
田辺の方が、実は、その人生の最盛期に、第二次世界大戦と日本のファシズムという
「世界史的」条件に対峙・関係せねばならなかったという「歴史的不遇」を抱えている。
2011年3月11日を、1945年8月6日を、「腑に落とす」ことができるための
哲学は西田哲学なのか田辺哲学なのか、と問われれば、後者の方が、「より良い」と
言える。「竹林の賢者の思想」は、個を容易に捻り潰す圧倒的な「世界史的条件」には応えられない。
それが北森の西田・田辺への評価に顕れていると思う。
かなり『脱線』してしまったが、澤口の議論には、こういう視点は全くなく、
田辺哲学の分析哲学化、あるいは、戦後日本でも共用される哲学に変えること
しか念頭にないように思える。それは田辺哲学の正反対を目指す途だろう。


2012年1月2日(月曜日)

「多様体の哲学」について(1)

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時39分47秒

澤口昭聿「田辺元における数学の形而上学」分析1
 澤口昭聿「田辺元における数学の形而上学」、pp.48-76、武内他編「田辺元 思想と回想」、筑摩書房、1991の分析1

引用1p.48:博士晩年の著作『数理の歴史主義展開』は特異な数理哲学書というほかない。<略>
数学者が本書を読むならばほとんど真意を把握できないであろう。そきにはあまりにも強く形而上学が出ており、
直接には数学的に理解不可能である。
分析:評価が師である下村のそれと非常に近い。下村が澤口の師であることは、澤口の「連続体の数理哲学」東海大学出版会、
1977の序からわかる。

引用2p.48:したがって問題は第一に数理哲学においてはたして形而上学的な方法が必要であるか、ということである。そして、
その場合に田辺博士の歴史主義が適切であるかが第二の問題となる。
分析:文章に癖があり意味がわかりにくいが、本文の展開からすると、要するに「したがって第一に数理哲学においてはたして形而上学的
な方法が必要であるかが問題となる。そして、もし必要であるというのならば、田辺博士の歴史主義が数学の形而上学として適切であるかど
うかが問題となる。」という意味。

引用3p.48:結論をいえば、博士の方法は外見はともかく真相においては意外に現代数学に適合性をもっている。
分析:前の文章からの繋がりが悪いので、これも意味不明だが、pp.60-61の切断では「"抽象"が行なわれない」という記述、
および、p.63の「種の論理の真の活動の場は、”多様体"の哲学においでてあると考えられる。博士はリーマン面に触れているから、
特殊な多様体は考えているわけであるが、もっと全面的に拡大すべきである。」という記述、および、その後の、シンプレクティック幾何学、
シンプレクティック多様体の幾何学としての「多様体の哲学」の導入と、そこにおける類種個の解釈、および、「種の論理は「矛盾部分」
と「無矛盾部分」を持つ」という澤口の考え方からすると、種の論理が、シンプレクティック幾何学と似た構造を持つということを、
「意外に現代数学に適合性をもっている」と述べているらしい。しかし、澤口の最初の問い「数理哲学に形而上学は必要か」また、
「田辺の歴史主義が、数理哲学における形而上学の中で適切であるか」という問いと、この結論は、かなりずれている。
澤口という人の議論は、こういうものが多く合理的な分析は難しい。
このような情況なので、澤口の議論を分析にするには、文章をそのまま
理解しようとしては無理で、全体の流れを掴んで、言いたいことを類推するしかない。以下、それを行なう。

引用4p.48:現今の数理哲学は論理学的方法に集中された観がある。これはラッセル以来生じた顕著な傾向である。
初期の田辺哲学に見られるごとき数学の認識論はとうに学界の関心の外に忘れられている。
分析:現代の数理哲学は英米系の分析哲学に集約され、それ以前の数理哲学、たとえば田辺の新カント派的な
初期数理哲学は、現代(1991)では数理哲学として受け入れられなくなっている。と、いう議論。
つまり、フリードマンの2つの道の一方から歴史を見ている。

要約1p.49:ラッセルのプリンキピア・マテマティカで論理学が現代化され、それを利用して集合論が再建された。
思惟法則まで含めた数学が建設されたのである。このプリンテキアも「還元可能性の公理」という問題を含んでいた。
これは数学を実行可能にするための純然たる仮説である。しかし、この問題はゲーデルの構成可能性の公理に
よりほぼ解決されたとみなせる。ゲーデルのこの公理は還元可能性の公理を含み、さらには、「完全な形で
古典的集合論の論理学的再現を果たしたものと考えられる。さて、この集合論の論理学的再現は同時に他の
可能性に道を開くことになる。」と主張して、公理的集合論における独立性・無矛盾性のなどの研究への言及がされる。
分析:主張は三つだろう。プリンキピアで公理的集合論への道が開かれたこと。構成可能性の公理で還元性公理の
妥当性が保証されたこと。そして、さらに非標準的集合論の研究に構成可能性の公理が道を開いた、ということ。
澤口はコーエンの「連続体仮説」の訳者の一人だが、公理的集合論が分かっていたのかに疑問がもたれるような
議論である。構成可能性の公理は還元性公理、つまり、非可述的なcomprehension axiomより遥かに強い公理
である。これは非可述的なcomprehension axiomと本質的には同じ前提に立つような超限順序数の体系を前提
にすれば、その順序数で番号付けた変数、個体定数、述語記号などを持つ、超限的な論理学により構成される
集合論モデルLと「標準的集合の全体」Vが一致するという公理なのだが、一見、順序数の体系の中に、
非可述的性が入っているのが見えない。ヒルベルトはこれを非可述性なしでやれると思ったらしいが(それが、
かれの「無間に就いて」)、それで失敗して、それを見たゲーデルが、相対的無矛盾性という手法で、
それを前提にしてヒルベルトの議論を再構成して、構成可能性公理V=Lの無矛盾性を示し、それにより、
選出公理と連続体仮説の相対的無矛盾性を証明した。というわけで、このp.49の第2パラグラフの議論の
一番多い部分は澤口の数学的誤解と思われる。この部分は、その後の議論展開には影響はもたない。
しかし、澤口の記号論理学への理解に疑問が持たれる理由となる。他にも、そのような議論が、
この論考にはある。生前の澤口を知る数理論理学を正確に理解する哲学者の話では、
澤口の数理論理学理解には疑問がもたれるとのことである。おそらく、数学としては理解できて
いない。

引用5p.50:現代の集合論はさらに再拡大された同一性論理であると考えられる。
分析:p.49終わりの議論から、同一性論理=伝統論理学<記号論理学<集合論、と捉えていることがわかる。

引用6p.50:記号論理学を本質的に使用する数学を「形式的」formalと呼ぶならば、形式的数学が
現代数学の本姓をなすかどうか。これに対して多くの数理哲学者は肯定の答えを与えるであろう。
<略>しかるに数学プロパーの現状に目をやるならば、依然として別種の数学論理が働いている
と考えざるを得ない。<略>形式的数学に対して抽象的 abstract数学がそれであろうと思われる。
<略>ところで、田辺博士晩年の思索はこれに対してある種の示唆を与えるものと考えられるのである。
分析:澤口が言う抽象数学というのは、ブルバキ構造主義の数学、つまり、ヒルベルトの初期形式主義が
発展したモルフィズムが保存する性質により、数学の本質を語る数学のことである。特に、抽象という
ところが重要で、ヒルベルトと異なり、一意性を無視する、という所に、澤口は、弁証法的な
矛盾を回避する術があると考えている(これは後ででてくる議論)。


2011年12月25日(日曜日)

田辺元の思想―没後50年を迎えて

カテゴリー: - susumuhayashi @ 18時33分48秒

雑誌「思想」2012年1月号田辺元の思想―没後50年を迎えてが2冊昨日届く。(店頭にでるのは12月27日か?)。
田辺史料の画質がゲラ刷りでは今ひとつで心配していたが、紙質が大変よいので相当に明瞭。定価2100円。
雑誌というよりは書籍だな。値段も紙質も僕には驚き。WEBで値段を見たときには、高すぎだろうとおもったが、
この紙質ならばむしろ安い?

ざっとみて僕の二つのアーティクルだけ、文体が全然違う。竹花君のとかは、内容を講演で聞いて、僕自身の田辺研究がえらく影響を受けたので、
これは比較的楽にわかるが、他は何を言っているのかわからんのが多い。経歴、分野をみると、僕だけが哲学関係者でないので、
まあ、そういうことなのだろう。ちなみに、藤田さんのは、まだ読んでない。もう2年間(3年?)も、
講義を聞かせてもらっているので、藤田さんの田辺理解はよく判っているつもりなので後でいいやと思って後回しにしてしまっている。
杉村さんのも原稿をもらったが、これは、その時点で読んでギブアップ。(^^;)

そういう中で、合田さんという人のアーティクルは、文章も内容も例外的によくわかる。この人の田辺像は僕のものにかなり近そう。
僕が見逃していた史料的事実も書いてあった。デーデキント切断に田辺が肩を持ち始めたのが、留学前とは気が付かなかった。
コーエン哲学にも弁証法があるので、そこらあたりか?田辺自身が書いたものかすると、これが本格的な弁証法を意味するものとは、
まず考えられないが、初期の西田哲学に依拠しての論理主義批判などと合わせて、留学前の弁証法的なものへの興味を再検討した方がよさそうだ。

中には、岩波文庫の田辺元選集だけを読んで書いたのだろうか、などと疑いたくなるようなことが書いてある記事もある。
また、いくつかフィロソフィア・ヤポニカを褒めている著者がいて、エーッ!?、という感じ。後者の方では、中沢多様体哲学論の
一番問題のあるところ、つまり、幾何学的で静的なもので田辺の種の論理を説明するところあたりが、一番、受けがいいらしい。
やはり、ここは一度、ちゃんと書いておかないと駄目だな…そうしないと、際限なく誤解が続きそう。

幸い、今朝、中沢の多様体の哲学の種本である澤口の1991年の論文の議論の構造が漸く分析できたので、
「日本哲学史」に書かせてもらうのは、こちらの方が良いかも。中沢批判だけでは、中沢氏がアカデミック
な学者ではないから、学術論文にならないが、澤口さんのは、一応、その形を成しているので、これを
ちゃんと分析できれば、一応、学術論文になりえる。藤田さんに相談してみよう。

最近、偶々、山本夏彦の文庫本を色々読んでいるが、今朝来たのが、「私の岩波物語」。
明日、岩波本社に行くので、どれくらい悪口が書いてあるかと興味本位で読んだのだが、
悪口ばかりかと思ったら、そういうことは書いてない。諧謔で道理が通っている。お江戸のセンス。
#正義が通っているのではなくて道理ですね…

チクリとやってもブスリとはやらず、正義を振り回さない姿勢など、
故前原先生の世間話を思い出す。僕は若い頃、江戸東京古典落語が好きだったから、こういうのは大好きだ。

唯一、違和感をもったのが、田中美知太郎を引用しての西田・田辺の文体の批判。
彼らの日本語が、不必要に難解で、ほとんどドイツ語のような日本語であることは正しい。
それはそれを苦労しながら何年も読んでいる(読まされている?)僕は良く知っている。
「…といわれる」などというのは、どうみても man sagt … だ。
最初は、何か深い意味でもあるのだろうか、と思っていたものが、
分かってみると「なーんだ!」というのが結構沢山ある。この点、
西田・田辺に限らず京都学派の文体には直感的に反感を覚える。
#といいつつ、最近何か学術的なものを書くと、時々文体が田辺になる
#ことがある。慣れというものは恐ろしい…

しかし、では、田中の批判が適当かというと、それは半分しか妥当性を持たない。
田中は、西田・田辺は日本語で語りえるものと語りえないものを知らないと言ったと
山本は書いているが、これが本当ならば、そこが、一番のポイントで、
田中には大きな誤解(?)があることになる。

西田・田辺が日本的宗教観に影響されていたのは、
間違いないが、京都学派の哲学の中心が、そういうものだというのは、すくなくとも
僕は十分読んだ田辺に就いては間違いだと断定できる。田辺の日本思想は、
西洋人が日本思想を読んでいるようなところが明らかにある。現実の浄土真宗の
土着的雰囲気は田辺の理解する親鸞とは当然ながら随分違う。近代化・
西欧化が著しい本願寺でもそうなのである。

また、最近の藤田さんの講義など聴いていると、西田についても禅とか言い過ぎる
のは間違いらしい。今の一般に流布するイメージは西谷や上田の戦後の活動による
the invention of tradition だろう。

僕には、田辺は、ドイツ人に見える。西田は随分日本的らしいが、それでも
普通の日本人ではない。この二人は、本来日本にはない、ドイツ語ならばピッタリ
くるような思考法を身に着けようとしたと理解すべきだろう。だから、日本語の限界などといっても
こまるのである。目的が日本的なものも越えることだったのだから。
(「も越える」である。つまり、西洋も日本も越える。)

田辺の日記の最初の方のものには、ほとんど日本語がない。ヨーロッパの言語で
メモが記されている。おそらく日本語で適当に語るための方法がないのである。
つまり、西洋的哲学者になろう、その中で、同時に日本的・
東洋的なものを出そうとしたのが、この人たちであるわけで、できたら、全部、
ドイツ語で語りたかったであろう人に、日本語の限界を言っても仕方がない。

で、田中美知太郎は、全部、日本語の限界のなかで語ったのだろうか?
そうだとすると、ちゃんとした哲学(史)はできなかったのではないかと、
疑問に思えてくる。


2011年12月4日(日曜日)

田辺「思想」特集号論文校了

カテゴリー: - susumuhayashi @ 12時08分47秒

岩波「思想」2012年1月号の最終校正をメールで送る。これで校了。ふーッ。

再校が来る直前に新しいことに気が付いて、かなり手直しをさせてもらった。
岩波の対応は、今回も他の出版社とは違い、この際だから、良くできるものは、
ちゃんと良くしましょうというものだった。批判も多いが、やはり岩波は学術的には、
他の出版社と一線を画す。またまた脱帽。

物理、特にテンソル関係の話が、田辺の「切断」の着想の一つになっている可能性が
大きい。全集の種の論理の冒頭の論文が、種の論理以前の「図式「時間」から図式「世界」へ」
であるように、物理、特に一般相対論の世界のイメージの、「世界」の問題が、種の論理の
先駆として大きいことは、以前から指摘されている。それに加えて、「数理哲学」も、この
物理に対する思想がカタリストになっている可能が大きくなってきた!ますますコーエン的というか、
「科学概論」の時代の田辺のコーエン哲学の解釈との同型性が顕になってきた。
そう考えると、田辺の「トンでも性」は、実に腑に落ちる。むしろ「保守的」だったのだ。
#ヒルベルトが「保守的」だったというのと、同じ意味での「保守」。数学では、
#それが本当に保守すべき主流になったが、哲学では消え去ってしまったので、現代からみると、
#「トンでも」に見える。

ちなみに、テンソルとは W.Voigt が作った
用語で、テンションから来ている。このVoigtが使い、佐藤省三も昭和9年の哲学研究の
論文(「社会存在の論理」と同じ号)で引用しているテンソルの図示の方法が、
切断に似ている。Voigtのもとの図式は、それほど似ていないのだが…
ちなみに、Voigtは独逸語読みではフォイクトだそうだ。デンマーク読みだとフォークト。
独逸の人がオランダの読み方だと違うかもしれないなどといっていたから、
どちらかというと独逸本体以外の名前なのかもしれない。
FORVOでは、デンマーク読みでフォークト、独逸語でもフォークト。
http://ja.forvo.com/word/riborg_voigt/#d
http://ja.forvo.com/word/voigt/
佐藤はフォーグトと書いている。
ゲッチンゲンの物理の教授で、学長もつとめていて、ヒルベルトの物理の公理化の
研究についての Leo Corry の著作でも取り上げられていた。


2011年11月30日(水曜日)

忙しすぎる…

カテゴリー: - susumuhayashi @ 22時23分53秒

演習資料をUPしてハタと気がついたら11月の今日が最終日で、全くブログを書いていない。忙しすぎたんだんな…


2011年10月26日(水曜日)

消費

カテゴリー: - susumuhayashi @ 03時04分50秒

以前、社会学で「羽入・折原論争」というのがあって、ある意味で日本社会を象徴するような、
がっかりするような事態が起きたのだが、そのとき、このサイト「羽入・折原論争」の作成者の北大の橋本さんに、
お願いして、その中でコメントをしていた学者でない人を紹介してもらい、メールで議論をさせてもらったことがある。
議論は羽入・折原のそれと同じく、全く噛み合わず、「砂を噛むような」という使い古されて陳腐なはずの言葉がピッタリ嵌る状況を経験した。

その時のことを時々反芻し、それがその後の僕の執筆の態度にも影響をしている。それまでは「一般向け」の良い本を書きたいと思っていたが、
それからは、それがこの国では不毛だと思うようになった。それで、岩波文庫の「不完全性定理」(の解説)を書くときなど、
京大で教えている院生や、学部生の優秀な人たち、そして、お医者さんとか、別分野の学者さんを読者として想定して書いた。
#僕もその人種の一人だが「一般向け」の本は大好きだ。ただ、楽しめるもののほとんどが、
#そのオリジナルが海外の言葉で書かれているのが悲しいが…

で、そういう読者の設定の理由として、なんとなく「そうでない読者は、僕の本を消費する。
たとえ印税が沢山入っても、その代償に消費される本を書くのは嫌だ」と思ったことがあるのだが、
でも、その肝心の「消費」の意味が、自分でも分かっていなかった。

ところが、突然、それが分かった。多分、岩波「思想」1月号の結局は削除してしまった中沢新一批判の部分を書くために
中沢さんのテキストの分析を真面目にやったとこと、そして、卒論を書いているS君と、ハーレクイーンのような「消費される小説」
について議論したことなどがそれの原因なのだろう。

で、結論として、「AがBを消費する」とき、Aはそれによっては本質的に変わることがないという特性がある。
要するに消費者というのは、自分が本質的に変わることを嫌がる人である。哲学や数学、あるいは、
思想の古典などの「難解」と呼ばれるテキストと格闘し、それこそ何年も格闘し、それを「理解」したと思ったときには、
大抵の場合、自分自身が大きく変わっている。「理解」という言葉は、自分は円の中心にあり、動かず、変わらず、
何か外にあるものを摂取するかのようなニュアンスが少なくとも現代日本語ではつきまとうが、実は「本当の理解」
というのは自分がその「理解の対象」と融合し、あるいは、絡め取られることでもある。
外国語が自然にわかるようになるという経験をした人には、この意味がわかるだろう。
この様に変化する。そうでなくては、新しい自分の段階は得られないのだから、
たとえば、学者としては、消費としての「理解」は理解というに値しないものとなる。
学者の言う理解とは、それ以前ものを壊し否定することだから。

しかし、文化やテキストを消費する人は、一回ごとのエピソードで自分が変わることなど考えてはいない。
癒されました、とか、感動しました、とかいうのは、実は自分の本質は何も変わっていないという意見表明だ。
本当に変わったら言葉はでない。変化に圧倒されて言葉を出すことなど無理になる。
圧倒的に美しい自然を目にしたときのようにただ黙って見つめているしかなくなる。

これが消費される本か、消費されない本かの違い。つまり、消費者とは、怠け者だといえる。
しかし、ハーレクイーンならば、消費者は怠け者でないといけない。そのために、つまり、楽しむために、消費するために、その本は書かれているのだから。
ハーレクイーンを読んで「地下生活者の手記」を読むようなセンセーションを受けたのではかなわない。
以前、亡くなった森さんがおもしろいことを書かれていて、学生が感動するような講義をせよという人が多いが、
もし、全部の講義が感動ものだったら、学生は一日に幾つも講義を聴くのだから疲れて大変だろう、というのである。
なんと、真っ当な意見だろうと感動しつつ、大笑いした。

そういう意味で消費されるものはあるべきだ。むしろ、大勢は消費されるべきものだ。素人と玄人の人口比を考えれば、それは当然のことだ。
ただ、今は、玄人がなにもかもえらいのだという、僕らの学生のころまであった、いまとは逆向きの非現実的な支配的意見への反発として、
単に、それの裏返しが起きている。戦前の天皇陛下は神だ、の裏返しとしての、消費者は神だ、というのと同じ。
これらは方向が逆なだけで、実は同じ思想。僕は、こういうのが一番嫌だ。

だから、僕は売れる本は書きたくない。もちろん、しょうもなく世俗的な僕はお金は欲しい。しかし、そうでない要素も持っている僕は、
自分の感情に素直になると、印税より気持ちよさを取る。「僕の本が、現在の日本で、売れに売れたら、それは恥だ」と思うし、
そのまま発言して同僚に訝れたりする。もちろん、自分と同じ考えの人が増えて売れに売れたのならば、
もう、その時点で死んでもいいぐらいにうれしい。デモ、死ねません。センセイの世話をせねば。 :-)

ということで僕の意味での「消費」が漸く自分で理解できたいう話….. ウン?
学生諸君、以上の「理解」についての議論から、この「自分の意味での消費が漸く自分で理解できた」という文の意味を説明せよ!レポートの提出は….
#冗談です

ところで、全然関係ないのですが、sourceforge.jp のユーザ活動順位が月間7位、週間4位になってしまった。
どうなっているのだろう。玄人の学者が、こういうのをやるのは珍しいということかな…
#エートっ。この文をテキスト分析すると….


2011年10月23日(日曜日)

sourceforge.jp

カテゴリー: - susumuhayashi @ 14時17分49秒

今日、10月23日には、sourceforge.jp の活動ランキングが週間4位, 月間9位に!!

プログラミングをしなくなったのに変だと思ったがWikiで簡易マニュアルを書いているかららしい。あまり信頼できない順位だな…


2011年10月20日(木曜日)

SMART-GS0.8作業終了

カテゴリー: - susumuhayashi @ 00時09分00秒

SMART-GS0.8の僕の担当作業分完了!

(´◇`;)疲れたー…..

おかげで(?)、sourceforge.jp 活発度ランキング月間18位!、週間では9位になった。ちなみに3年ほど前のメンバー数が3万人超だから、今はもっと多いだろう。その中で18位!

若い頃のことを考えれば大したことはないが、もう数年で還暦であることを考えると自慢したい。 ;-)老眼でのコーディングは本当に辛い。よく見えてなくて、あてずっぽうでやってたりする。若い頃に視力にもどれたらなあー。僕の場合、現在が今までで一番充実した仕事をしている時期なので、若がえりたいとかは全然思わないけれど、視力と持久力だけは回復できるものならば回復したい。それでないと折角の楽しい仕事が十分できない。この一ヶ月で、コーディングだけでなく、全く新しい講義を2つ開始、「思想」の論文を書き、系代表の仕事を沢山行い、2、3回会議を忘れてすっぽかし :hammer:、実に良く働きました。 :-)しかし、これも優秀な同僚や、特別研究員のお二人、+の謎を解いた院生の小林君などの若い優秀な人達が周りにいてくれるからだな…それになによりセンセイのおかげ。実にありがたい。南無阿弥陀仏。

などと感傷に浸っている場合ではない。次は、京都学派アーカイブを何とか年内に開設せねば。あっと、来年の開講科目の世話が… そうだ、明日は教授会… :-(


2011年10月14日(金曜日)

「思想」田辺特集号ゲラ

カテゴリー: - susumuhayashi @ 02時00分34秒

岩波「思想」田辺特集号のゲラが来た。僕のは田辺の『数理哲学』と、田辺文庫の話の二つ。

『数理哲学』の方は西谷の議論を使って田辺哲学が数理抜きでは理解できないことを主張。
京大文情報・史料学を立ち上げるときに、アメリカからわざわざ来ていただいたJ.Gougen さん*が、西谷、西谷と言っていて、知らない僕は何なのだろうと思っていたのだが、西谷哲学自身は読んでないものの、田辺全集14巻の西谷の解説を読むと、この人は只者ではないと感じた。下村とは大分違う。やはり哲学にも天才とそうでない人がいるようだ。西谷の田辺評価は、田辺を師として敬いつつも、そういう意味での天才的な才能が田辺には欠けているというように主張しているかに見える。しかし、田辺の場合、恐るべき緊張感と努力で天才ができないようなことを成し遂げているともいえて、西谷もそういう評価なんだったろうと思っている。単に師を敬っているだけではない、自分とは全然違うが、それはそれで凄いといような評価だと読んだ。ただ、西谷もちょっと辟易していたのかも。 ;-)

この『数理哲学』論文では、澤口・中沢の「多様体の哲学」批判をやることにしていたのだが、50枚が60枚になり、70枚になり、で、これはバッサリ切らんとしょうがない、ということになって、全体を眺めたら、やはりその部分だけが浮いていたので、バッサリ削除。ということで、特に中沢新一批判ができなかった。ただ、これはマスコミ学者とアカデミズムの学者を同じ土俵に置いて評価する、今の世の中を見ると、やはり出しておいた方がよいだろうと思うので、田辺特集号のころに、僕のWEBページにでも置いておこう。

で、結論として、澤口昭聿さんは、まあ時代の問題もあったのだろうが、方向が悪すぎる、哲学的才能の欠如というか… と言うのが評価。
中沢新一さんは、兎に角、不勉強、努力不足、というのに尽きる。ちょっと、酷すぎ。もし、フィロソフィア・ヤポニカが学術論文だというのならば、澤口多様体哲学に対しての剽窃の問題がでてくる。まあ、文芸賞を取っているから一般向け文芸作品として考えれば、岩波書店でさえ脚注はあまり書くななどと言うのだから、引用がなくても仕方がないともいえるので、それならば、僕は黙る。しかし、努力不足というのは、ありありと見えて、それなりの才能(うまく「こなす」才能)のある人らしく、ヒラリとかわしているようなところがあるのだが、それゆえにこそ、その対極にいる田辺を理解できなかったらしく、澤口を利用するものだから、全く変な所に着地してしまう。マスコミ学者の悲劇というところか…

まあ、文章は上手だし、センスのよさみたいのなのは見えるので、それほどコテンパンに伸ばしてしまう気はないのだが、しかし、田辺がもしフィロソフィア・ヤポニカを読んだら、どれだけ怒ったことか…

でもないか。田辺が批判しているのは、田辺自身が説明しているところがあるのだが、実は田辺が最も評価している人たち。たとえば、ハイデガーであり、西田。この人たちへの批判は、実は、田辺がこの思想家達を最も評価していたから起きたこと。それに比べてニコライ・ハルトマンへの評価など、最初、種の論理がハルトマンに依拠しているのではと誤解して、ハルトマンの著書への書き込みやら、講義ノートやら調べていたのだが、その過程で、正直の所、本当に背筋が凍った。群馬大の図書館でハルトマンの本への田辺の書き込みを読みながら撮影してて、なにやら、あまりの冷たい態度に、自分も学者だけに、他人に、これだけ冷たくされたらどれだけ落ち込むかな、とゾーッとした次第。そういう次第で、おそらく背筋も凍るほどの無視を中沢多様体哲学論に対して示した可能性が大きい。

まあ、面識もない中沢新一さんには、気の毒だが、学者の力量というのは、ハッキリでるものなので仕方がない。

*)京都に来て南禅寺の知人などを訪問して、本当に嬉しそうで興奮していたが、帰米されて少しして急死された。今でも、呼んで良かったのかな、カンフォーラでシンドソウなときに、もう少し気を使っておけば… などと思うことがある。昭和20年8月6日に,もし,…というのと同じ想い。歴史的真実、歴史的現実は、本当に重い…


58 queries. 0.132 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress

XOOPS Cube PROJECT