2014年前期特殊講義「再魔術化」資料 2014.07.17
最終回です。少し早め(20-30分位?)に終わり、授業評価アンケートを実施しますので協力をお願いします。また、質問票も、そのときに書いてください。質問票への回答は講義のWEBページに掲載します。
今まで講義で次のような話をしてきました。資料の番号は、講義のページの資料のリストの番号です。例えば、資料4とは2014.04.28の資料。
- 資料1,2:講義の意図とイントロ。
- 資料3-7:モリス・バーマン、ウォルフガング・シェルフター、西谷啓治、クルト・ゲーデルなどの著作・論文を元に、社会学者マック・ウェーバーが導入した「脱魔術化」の概念を説明。この講義では、緻密でアカデミックなシュルフターの理解を基本として、それに西谷、バーマンなどのニーチェ由来の「近代化=ニヒリズム」の視点を強く盛り込んで理解した。
- 資料8-12:アン・ハリントンの19世紀から第2次世界大戦終結までのドイツ生命科学史における再魔術化の歴史。脱魔術化の詳細な検討と、それのニーチェ由来のニヒリズム論との関連づけと並んで、これが今回の講義のメインというべき部分であって、実質的にはヤーコプ・フォン・ユクスキュルの Umwelt 論と、彼の人生の歴史的背景などを元にした、ユクスキュルの生物学の背後にある「意図」の理解。
- 資料12-13:ジョージ・リッツアーの社会学における「再魔術化」の理論。
- 資料14:リッツアーの再魔術化の社会学を受けて考えられたアラン・ブライマンのディズニー化論。
つまり、お話したのは、
- マック・ウェーバー由来の脱魔術化論
- ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの Umwelt 論という再魔術化論
- ジョージ・リッツアーの再魔術化論
- アラン・ブライマンのディズニー化という再魔術化論
の4つでした。
この内、ブライマンは、全く「再魔術化」という言葉を使っていないことは再三注意したとおりです。また、ユクスキュルも、おそらくは再魔術化という言葉を使っていないはずです。
また、再魔術化という言葉は、講義では結局取り上げなかったバーマンの再魔術化論から来ています。しかし、バーマンの議論は、逆に脱魔術化の説明では中心的な位置を占めていました。
つまり、再魔術化が現象として起きているというバーマンの指摘のみを受け取り、それを理論化しようとした部分は、無理があるもの、不自然なものと、として紹介をしなかったのでした。
つまり、上の4項目の1は、「マック・ウェーバー由来の脱魔術化」ではなく、「マック・ウェーバー由来の脱魔術化とその反転としてのバーマンの再魔術化」としてもよいのです。
この最後の議論が示す様に、再魔術化と脱魔術化は、裏返しの関係にあるため、並列して検討が可能です。これは、双方が、脱魔術化以前の、「魔術化状態」を基本にした議論になっているからです。
そして、その魔術化の説明は、バーマンとシュルフター経由のウェーバーの議論を使って行いました。そのため、資料3-7を使って講義した期間のかなりの部分が、実は、脱魔術化以前の魔術化状態の説明でした。
(バーマン、シュルフターの議論が、そうであった。)
つまり、三つの再魔術化を比較する際の最重要のキーは、実は、ウェーバーが、キリスト教や近代合理主義のような、より脱魔術化されたものより、「人間にとって無限に自然だ」とした、アニミズム的な魔術化された精神、世界観なのです。
以下、ユクスキュル、リッツアー、ブライマンの三つの「再魔術化」を、この「魔術化」、実際には、出発点なので、「化」ではなくて、「魔術にかかっている状態」とでもいうべきものへの態度を第一のキーとして、さらに補足的な5つのキーを加えて、比較してみましょう。
- (A)魔術化への態度
- (B)脱魔術化への態度
- (C)自然科学への態度
- (D)社会の近代化への態度
- (E)社会の経済的側面政治的側面への態度
- (F)本当に魔術化か否か
- (G)再魔術化が、その「論」にもつ意味
ヤーコプ・フォン・ユクスキュルとその Umwelt 論
- (A)魔術化への態度: 憧憬。懐かしさ。エストニアのドイツ騎士団の末裔にとっての「美しい過去」と重ねあわされている。
- (B)脱魔術化への態度: ワーマール共和国=民主主義、ソビエト連邦=共産主義、という近代的政治体制と重ね合わせて理解されている。
- (C)自然科学への態度: 肯定。哲学者化したドリーシュへの態度が示す様にユクスキュルは本来自然科学者。
- (D)社会の近代化への態度: 否定。強い反発。「精霊に満ちていた美しい過去」を破壊したもの。
- (E)社会の経済的側面政治的側面への態度: 経済について注意は希薄。政治面への議論は非常に多く、Umwelt 論で国家の政治まで論じた。社会的影響力もあり。
- (F)本当に魔術化か否か: ユクスキュル本人にとっては、チェンバレンへの手紙が示す様に、Innenwelt の位置に、本当の魔術を維持しようとしたと思われる。しかし、工学における制御がまさにUmwelt論と構造的に一致し、おそらくは、Umwelt論の影響を間接的に受けていると思われたように、客観的にみれば、Umwelt 論は魔術ではない。
- (G)再魔術化が、その「論」にもつ意味: Umwelt論とは、自然科学を維持しながら、一見、それに反する「精霊に満ちていた美しい過去」を再度取り戻す手段。
つまり、自然科学の枠組みは受け入れ、その背後に潜む哲学・世界観のみを変更して、自然科学の「現実的内容」は維持したまま「魔術化状態」を回復しようという試み。
この様な態度は、ユクスキュルを祖とすると言われる、行動科学に分類される諸分野、特に、京都大学の今西錦司グループや、コンラート・ローレンツなどの生物学(動物学)の系譜として、現在も連綿と受け継がれ、特に、科学的でないと批判を受けた京大の類人猿研究の手法は世界中で広く定着し、むしろ、西欧の若い学者たちが、本家の日本以上に、その手法を無反省に使うところがあるという懸念さえ示されるようになっている。(参考)
少し紹介した、京都学派の田辺元の哲学も、この傾向が強い。西谷啓治は、自然科学からは距離をとり、存在を認めながら、批評の対象とするという態度。これはその師の一人ハイデガーと同一。西田幾多郎は、これらの中間という感じ。
ジョージ・リッツアーの再魔術化論
- (A)魔術化への態度: 自身のマクドナルド化がウェーバーの脱魔術化を主要要素とする近代化理論、特に形式合理性を中心とした理論であったことを受けて、それでは説明できない最近の動きを消費社会の中に見ようとしたもの。ただし、マクドナルド社にはもともと「再魔術化」の要素があり、マクドナルド化理論にも、そういうものが入っていた。
- (B)脱魔術化への態度: ウェーバーの脱魔術化理論は、もともとが「耐え忍ぶべき近代の運命」として語られたことは、講義の最初の方で述べたとおり。つまり、ウェーバーは、それの肯定的意味も語りながら「合理性の不合理」「鋼鉄の檻」のような否定面も語っている。そして、それはウェーバー社会学を下敷きにしたマクドナルド化において、同じ傾向がみられた。つまり、脱魔術化への批判がそこにはあった。そして、再魔術論の段階になると、近代化の「ポスト」の時代に入ったことを主張する、ポストモダン思想を theorization を利用している所に、そのサインが明瞭にでているように、脱魔術化的なもの、近代的なものに、ダイレクトな負の烙印が押される。
- (C)自然科学への態度: 自然科学は、それが再魔術化を可能にするということ以外は、検討されず。
- (D)社会の近代化への態度: 近代化は、あるもの、当然のものとして受け取られている。
- (E)社会の経済的側面政治的側面への態度: 消費社会論であり若干の文化論的議論は除き全体が経済の話といえる。政治には言及がない。
- (F)本当に魔術化か否か: リッツアーの再魔術化は、「消費という社会活動のための手段」の一種として定義されており、本来の魔術の要素はない。しかし、ポストモダン的なかすかな憧憬がみえる。(ポストモダン論は、脱魔術化された sober な社会の時代が終わり、牧歌的あるいは悪魔的な魔術的なものの復興が起きるというある種の「楽観論」。
- (G)再魔術化が、その「論」にもつ意味: リッツアーの理論は、消費という領域に限定されているが、再魔術化論そのもの。
アラン・ブライマンのディズニー化という再魔術化論
- (A)魔術化への態度: リッツアーの再魔術化論をマクドナルド化論の延長として捉えビジネス論として再編しており、再魔術化、という言葉もリッツアーを引用する所以外では語られることがなかった。つまり、魔術化(本来の魔術の時代)は、全く無視されている。
- (B)脱魔術化への態度: ブライマンは完全に近代人。つまり、完全に脱魔術化されている人なので、当たり前なので、脱魔術化などということは議論しない。つまり、当たり前に、それを生きる社会の枠組みであり、空気のようになっている。
- (C)自然科学への態度: 自然科学へはリッツアー程度の言及もない。
- (D)社会の近代化への態度: 近代化は、あるもの、当然のものとして受け取られている。(リッツアーと同じ)
- (E)社会の経済的側面政治的側面への態度: 実はビジネス論であり若干の文化論的議論は除き全体が経済の話といえる。政治には言及がない。(基本的にリッツアーと同じ)
- (F)本当に魔術化か否か: 全く違う。リッツアー以上に、魔術から遠い。気にもとめていない。
- (G)再魔術化が、その「論」にもつ意味: ディズニー化の理論が、リッツアーの再魔術化とマクドナルド化下敷きにした理論であることは、ブライマン本人も語っている。その意味では、「リッツアー再魔術化論」の改善版ともいえる。しかし、それはビジネス論、社会論としてのリッツアーの再魔術化を下敷きにしているだけであり、本来の、たとえばユクスキュルやバーマンやポストモダン論者が「期待」したような、世界観の変更としての再魔術化は、まったく考えられていない。
この3名は時間的に、この順番に並んでいるわけですが、比較して明らかなように、ブライマンにまで来ますと、完全に「脱魔術化の徹底」としての「再魔術化」になっています。
もちろん、これはそういう人たちを考察対象に選んだからで、これが社会が魔術から、さらに脱却し続けていることの証拠には、ほとんどなりません。あえて言えば、ユクスキュルの子孫である動物行動学者たち(Thure von Uexküll は実際に子息)や、一部のポストモダン論者の間に、まだ、生気論的なものが、ぼんやりと残っています。そして、どちらかと言えば、今回は取り上げなかった、情報学の関連において、シリコン・チップ上の魂(コンシャスネス)、機械の中のゴースト、として、魔術的なものが意識されている面があります。たとえば、日本ではほとんど知られていませんが、アメリカではTIMEの表紙にまでなった、カーツワイルのシンギュラリティ論(参考1,2; 日本人の反応 3)などが、この様な「雰囲気」を持ちますが、これも飽くまで「脱魔術化の徹底」、科学技術そのものです。
しかし、リッツアーがその再魔術化論で指摘したように、また、カーツワイルが彼のシンギュラリティ論で主張したように、ハイテクは、まさに魔術そのものになりつつあります。特にサイバー空間の中で、経済合理性を発揮するために、つまり、人間がより高い経済的や軍事的、あるいは、知的パーフォーマンスを達成するために、魔術化の時代と似た世界観をもって行動する必要が生まれる可能性が十分あるのです。そういう話は、アニメの世界では、当たり前に語られてきましたが、すくなくとも日本では、「大人びた意識」からは排除されています。
今回検討した三つの再魔術化論は、実は、この「アニメ的な世界観」が、実は、現実に起こり得る、その可能性を示していると林は考えています。それが人間の文明や社会にどういう意味をもつのか。急速に進歩する生命科学との関係も考慮に入れて、今後の深く考察されるべき大きな問題です。