2014年前期特殊講義「再魔術化」資料 2014.07.14

これからの予定。

今日がブライマンのディズニー化 Disneyization の話。次回(次の月曜日ではなく17日の木曜日)は、全体の纏め=様々な再魔術化の違いと共通点の分析です。これは、各思想のの歴史的位置と、その違いの間の社会変化か、それを考えだした thinker たちの(ウェーバー、バーマン、ユクスキュル、リッツァー、ブライマン)の「立ち位置」と「立つ時代」の違い、などを元にしての分析となります。

そして、最終回は、いつもより10分ほど早めに終わり、質問表の記入だけでなく、学部・研究科による授業評価アンケートを実施します。また、質問表の回答は授業のページに掲示します。

それからレポートに関連して、ブライマンの本の和訳についてコメントです。概ね、日本の社会学関連の訳本の平均水準を保っているが、ところどころ訳のために原文の意図が伝わらなくなっているところがあります。これはあまり多くはないのですが、勘所で訳者が意味を取り違えているらしい所もあるので、この訳本を読むときには、かならず英語の原文を参照しつつ読まないと意味がとれない可能性があります。ただし、全部、原文で読まなくとも、意味が不明なら必ず原文を読む(そういう所は、大抵、日本語として意味がとれないようになっているので、それと分かるケースが多いようです)、というので十分でしょう。その程度の「良い訳」ではあります。おそらく、訳者が社会学者ではなくて、それで誤解が生じて、推測で意訳して、それが語訳になっているようです。たとえば、アーリー・ホックシールドを意味する The writer most closely associated with the term ... (the term は emotiobnal labour)が、「この用語に造詣が深い研究者」という意味不明の訳になっています。このフレーズで始まる文の最後には、ホックシールドの有名な感情労働の著書が引用されており、ホックシールド社会学を知る人ならば、間違いようのない文章ですし、それを知らなくても、the writer の the が出てきたところで、どの著者のことか、most closely associated の意味は?と、調べ始めるべき文章です(ちなみに、ブライマンが、こういう婉曲な表現をしたのは、感情労働と言えが、社会学を知る誰もがホックシールドを連想するという様な状況ではありながら、実は、感情労働の概念が彼女以前にすでに議論されていたからです)。この様な、英文の誤読と思われる箇所が、この本の和訳には結構ありますので、注意が必要なのです。ただし、英文で疑問点をチェックしつつ読めば、十分意味が通る訳ですし、概ね、読みやすい日本語なので、ユクスキュルなどが哲学的過ぎると思う人は、ブライマンのこの和訳と英訳とともに読んでテーマにするのは現実的な選択だと思います。

前回からの続きの資料、ただし、重要な変更あり(下線なしの青字の部分)

G.リッツァーの再魔術化論

Enchanting a Disenchanted World: Continuity and Change in the Cathedrals of Consumption

消費社会の魔術的体系

前回までの話は、第一次、第二次世界大戦の戦間期のドイツにおいて生まれた「近代への抵抗」「前近代への憧憬」としての Umwelt 生物学と、その政治、社会、人生観などへの応用の話と、同時期の数学の基礎における類似した歴史の動きの話だった。

Umwelt 生物学の生みの親は、その実人生が、ワイマール共和国の民主主義、ロシア・ボルシェビキの共産主義、そして、後にはナチズムという、近代化の時代の波に押し流され続けたバルト・ドイツ貴族の末裔ヤーコプ・フォン・ユクスキュルであり、その思想には失われた「美しい過去」への憧憬がいたるところに見ることができた。

また、数学における類似した歴史の語り手であった論理学者クルト・ゲーデルの歴史観にも、遥かに若い世代ではあるが(ユクスキュル1864年生まれ、ゲーデル1906年生まれ)、同じく自らの「母国」が第一次世界大戦の敗戦により失われたドイツ人の過去への憧憬のようなものが見て取れる。

そして、彼らの「再魔術化」は、結局のところ、「脱魔術化以前の視点」からすれば「脱魔術化の徹底」として見えるものであった。おそらく、彼らが、生き返って、この時代をみたら、その様に嘆くだろう。(ちなみに、実際の人生で言えば、ユクスキュルもゲーデルも決して不幸であったとはいえない。むしろ、非常に成功した幸福な人たちであった。ユクスキュル家のその後

ここからの話は、ある意味で、これと対極の話。それは、現代アメリカを中心とする「消費社会」における再魔術化の話。

ユクスキュルやゲーデルの再魔術化においては、脱魔術化以前の社会が持っていた「宗教性」への憧憬が見て取れる。ユクスキュルが繰り返し、聖なるもの、について語っていることに注意!(人間の Bauplan にだけは、神や聖なるものがある。動物の Bauplan にはない。一人ひとりの Bauplan は、肉体が死ぬと、宇宙の Bauplan に帰っていく、など。)

しかし、解説する社会学者リッツァーの「消費の殿堂における再魔術化」には、宗教的要素は、カーニバルなどのアトラクションの歴史的背景、テーマ・バークにおけるデザインされた魔術で使われるテーマ、というような意味以外に全く存在しない。その考察の対象も、また、リッツァー自身の議論も、近代社会理論(マルクス、ウェーバーなど)とポストモダン社会理論(ボードリヤールなど)を背景とした完全に secular (非宗教的、世俗的)なもの。

ユクスキュルの Umwelt 概念がロボットの制御方式として大学の工学部で教えられているのを見たが、ちょうど、その様なものとして、消費の殿堂、つまり、デバート、モール、ショッピングセンター、チェーン店、テーマ・パークなどで計画的・人工的に生み出される「デザインされた魔術」を、最初から「社会装置」「経済装置」として、脱魔術化された「参加しない社会学者」の視点で分析したものが、リッツァーの本の内容。

リッツァーの社会学における立ち位置は、基本的にあ近代社会学理論の正統的なもの、特にウェーバー社会学系の議論を基本にしている人だが、有名な「マクドナルド化する社会」の後の作品では、ポストモダン現代思想の影響が強くみられるようになった。Enchanting a Disenchanted Worldでも、その方向性は明らかで、近代社会理論(マルクス、ウェーバー、ベンヤミン、キャンベル)を基礎としながらも、ボードリヤールのポストモダン社会理論の概念を多用し、特定の理論に拘らないとはしながら、結論は、(林からみれば)ポストモダン思潮の方向に傾いているように見える。そのため林の講義の内容が示唆する「結論」は、リッツァーの「結論」と、かなり異なったものになっているが、この「矛盾」は、リッツァーを批判したりせず矛盾のままで講義するので、注意して欲しい。(いままで話したことと矛盾するようなことを言っても気にしないで欲しい。意図的、意識的である。ということ。)

ここで講義では、出来るだけリッツアーを批判的に読まないこと、そのままで説明することを心がける、と言った。前回までの講義資料は、そのスタンスで作られていた。しかし、実際、講義を始めると、結構、批判してしまった。特に3章の議論が根拠薄弱であること、おそらく、林がやっている「Giddens の言う意味での組織の Japanese model と、現代の日本で使われている拡張された意味での感情労働を使って現在の産業の状況を理解する」という方法をとれば、この章の結論をかなり正当化できるだろうと言ったのが、それ。その後、ブライマンの資料を作っていて、ブライマンのディズニー化の議論が、これに近いことに気が付いたので、ブライマンの理論についての議論につなげるためにも、方針を変更して批判的にリッツアーを説明する。その批判の部分が以下の「下線なしの青字」の部分。下線があると、リンクなどのマークアップのために青になっている可能性がある。これが何色かは、使っている個別のブラウザーがどう設定されていうかで変わるので注意。

小冊子とはいえ240ページほどあるものなので、残りの回で詳しく説明することはできないが、一種のオムニバスであったハリントンの本の場合と異なり、一部だけを説明するというのではなく、全体を鳥瞰する様にして説明する。そのために、まず、コンテンツを見て、本の構造とリッツァーの議論の構造(どの様な理論を背景に、何を、どういう風に分析・議論するか)を説明する。

Enchanting a Disenchanted World 3rd edition のコンテンツ(目次)

  1. A tour of the new means of consumption
  2. The revolution in consumption and the larger society
  3. Social theory and the new means of consumption
  4. Rationalization, enchantment, and disenchantment
  5. Reenchantment : creating spectacle through extravaganzas and simulations
  6. Reenchantment : creating spectacle through implosion, time, and space
  7. Landscapes of consumption
  8. Societal implications and the future of the new means of consumption.

より詳しいコンテンツは、Enchanting a Disenchanted World: Continuity and Change in the Cathedrals of Consumption消費社会の魔術的体系の Look insideで読める。

各章の大まかな内容と構造

  1. A tour of the new means of consumption 
  2. The revolution in consumption and the larger society 
  3. Social theory and the new means of consumption 
  4. Rationalization, enchantment, and disenchantment
  5. Reenchantment : creating spectacle through extravaganzas and simulations
  6. Reenchantment : creating spectacle through implosion, time, and space
  7. Landscapes of consumption
  8. The Cathedorals (and landscapes) of Consumption: continuity and change

 

A.ブライマンの再魔術化論「ディズニーゼーション論」

リッツアーの再魔術化論と、それに先行する、やはり、リッツアーによる理論で再魔術化論に6年先行する1993年のマクドナルド化論「マクドナルド化する社会」()の双方に影響を受けて、イギリス、ロチェスター大学の、組織論、社会学などの教授であるアラン・ブライマンが生み出した概念である「ディズニー化」について検討する。

ブライマンは、これを再魔術化とは呼ばないことに注意。リッツアーの「再魔術化諭」はユクスキュルの「再魔術化諭」と異なり、むしろ、合理化論、「魔術の非魔術化論」であったが、ポストモダニズムへの志向が強かったように、「真の魔術」への一定のシンパシーが見られる。それはユクスキュルに比較すれば、無いに等しいものだが、「合理性の非合理性」を批判する論調は、たとえば、彼が基礎にしたウェーバー社会学の「魔術化されたものへの冷淡さ」は見られない。

これに反して、ブライマンのディズニーゼーション論は、リッツアーの社会学をモデルにしているように見えるものの、その様な「魔術化へのシンパシー」の様なものが全く感じられない。

この傾向は、ブライマンがリッツァーと異なり、ポスダニズム、フランス現代思想への言及を一切せず、その一方で、アメリカの社会学者A.R.ホックシールドの感情労働の理論や、テーマ化、マーチャンダイズ、などのビジネスについての概念が理論の重要要素をとなっているところに見て取れる。

しかし、どちらかというと、リッツアーの再魔術化論より、このビジネス論に近い、ある意味で「あっさり」した「ディズニーゼーション論」の方が、現代の「再魔術化」の実際を、よりよく描き出せているように思われる。これは、林が現代の再魔術化をむしろ「脱魔術化の徹底」、「魔術の非魔術化」として理解しているから、その様な結論となる。

再魔術化という言葉は、バーマンの1981年の著作 The Reenchantment of The World. によると説明して、その著書に従って、脱魔術化の概念と、それ以前の魔術化されている世界の違いを説明したが、バーマン自身の脱魔術化論は、この講義では説明していない。これは、バーマンの再魔術化論に、ポストモダニズムにも共通する60-80年代特有の「甘ったるい希望」があり、30数年後の現代の再魔術化と、あまりに乖離してしまっていて、議論として面白くないと林は感じたから。

バーマンはポストモダニストではないが、サイバネティクス系の文化人類学者でユクスキュルやその精神を受け継いだ息子Thureとともに、Biosemiotics (生命記号論)のパイオニアとされることが多いグレゴリー・ベイトソンダブルバインド概念を使い、再魔術化の意味を語ろうとする。

しかし、元記号論理学者で、その記号論理学をソフトウェア工学という実学に応用しようとする試みである「形式的技法」(林は、こう訳しています)の研究に参加し、研究書教科書なども数冊書いたものの、そういう実際の記述の努力を通して記号論理学が現実世界の記述に如何に無力であるかを経験して、それを放棄した経験を持つ林としては、記号論理学におけるラッセルの型理論(高階論理)を使うダブルバインド理論が出てくるところで、すでに「げんなり」。「気持ちはわかるが、それでは非現実的だろう。あまりにナイーブ!」と思ってしまう。それでバーマンの再魔術化論は避けた。

そして、その対極的な立場に立つのが、現在は経営(management)の学部の教授であるブライマンの、 sober な「ディズニーゼーション論」。

これはブライマン自身が語っているように、リッツアー社会学の影響を強く受けている。それは、マクドナルド化に対してディズニー化という言葉を持って来たことから明らか。

そして、ディズニーゼーション論の四つの主要テーゼを検討すれると、これが殆ど、リッツアーの再魔術化論の「作りなおし」と言いたくなるものだとわかる。そのテーマとは

  1. テーマ化
  2. ハイブリッド消費
  3. マーチャンダイジング
  4. パーフォーマンス労働

ここから今回の資料

リッツァーの著書が、「言い訳めいた3章や最終章」が象徴するように、理論の構成自体に無理が感じられるものだったのに比較し、ブライマンの著書では、ディズニー化の概念と本の構成が非常に綺麗に対応していて、理論構成に無理がない。

その章だては、次のようになっていて、これが彼の理論の構造そのものになってる。

  1. Disneyization
  2. Theming
  3. Hybrid consumption
  4. Merchandising
  5. Performative labour
  6. Control and surveillance
  7. Implications of Disneyization

その内容は、次のとおり、

  1. Disneyization ディズニー化の一般的説明、Disneyfication という先行概念との違いと同一性の説明、ディズニー化が、2-5章で説明される4つの条件(要件、dimensions)から組織や社会を見る見方であることの説明。そのそれぞれの概説。
  2. Theming の説明。
  3. Hybrid consumption の説明。
  4. Merchandising の説明。
  5. Performative labour の説明。
  6. Control and surveillance この「制御と監視」は、2-3の4条件と異なり、ディズニー化の要件ではなく、それを可能にするものとして説明されている(この説明の和訳は変なので注意。features と enabling one を、どちらも「側面」という言葉で訳してしまったため意味が取れなくなっている)。
  7. Implications of Disneyization ディズニー化が社会にもたらす影響の考察。これ以前の章では、概ねディズニー化に好意的・中立的な立場が取られ、社会学というよりは、ビジネス書に近い記述が行われるのに反して、ここではディズニー化の負の面も考察するなど、社会学的スタンスが色濃い。

ブライマンの主張を要約すると、大体次のようになる:

ディズニー化という概念は、ポストフォーディズムの時代である現代において、資本主義の中心的アイテムが、モノ(goods)からサービスに変化したことによって生じた、新たなモノやサービスの「提供の様式」 mode of delivery を言う。それには、次の4つの要件(時限、 dimensions)があり、これを備えたものがディズニー化である:

それは、フォーディズムの時代の生産の思想に基づくマクドナルド化との差分部分を意識して考えられたものであり、この時代に、マクドナルド化が必要亡くなっているという意味ではなく、ディズニー化とマクドナルド化は、グローバル化する現代の資本主義の手を携えて進行する二つの側面といえる。

マクドナルド化は、ヘンリー・フォードF.W.テイラーが唱導したフォーディズムテイラリズムの価値基準と基本的に同じである「「生産の効率化」というゴールを目指す仕組みをマグドナルド社をシンボルとして説明するものだった。これに対してディズニー化とは、フォーディズムの、飽き飽きするような画一性を減じ、消費を拡大するための手段である。 (a means of reducing the sense of sameness and thereby enhancing the appeal of its products. p.154)

現代の消費では、特にサービスの消費においては、消費者は提供されるものの品質だけを選択の基準にするのではないことが知られている。その故に、「製品以外のもの」、「製品乃本来の特性や品質と関係がないもの」である thema テーマが商品の販売のために利用される。

林による(まとめではなく)解説:日本での典型例は、ソフトバンクの白戸家と、その、お父さん。また、AKB48の総選挙とそれに伴う「競争」の物語:AKB48の総選挙でトップになることは、その歌やダンスなどが、AKB48以外のタレントより優れていることにならないことに注意。おそらく、この集団に限定しても同じだろう。また、海外でのAKB48に似たものとしては、ポール・ポッツ、スーザン・ボイルを生んだ Britain's Got Talent などの、いわゆる reality 系の視聴者参加番組がある。

サービスの提供者は、消費者がフォーディズム的な合理性が生み出す「画一性」(standardized services and settings)に飽きていることを知っている。それ故に、テーマ化により自社の製品を他社の製品から差異化(differentiate)しようとする。テーマは、そのために使われる。

また、モールなどの商業施設では、消費者が長く滞在すれば、 それだけより多くのものを買うことが知られている。もし商業施設が、単なる「ものを買う場所」でなく、エンターテイメントの場所でもあれば、消費者は自らより長く滞在する。そのために、商業施設を「購買施設だけでないものにする」仕組みが、消費者の購買を増加させるために有用である。それがエンターテイメント化したモールやレストランなどの Hybrid consumption ハイブリッド消費の仕組みである。

また、資本は、(膨大な投資により by 林)作りだしたテーマの恩恵を最大限引き出そうとする。それが Merchandising マーチャンダイジングである。たとえば、映画の公開に伴って、それに関連したTシャツを売り出す、または、そのTシャツを他社が制作することを許可するコピーライトを販売する、DVDを売り出す、原作の小説のフェアを行う、などが、これにあたる。(この本のマーチャンダイジングはビジネスの世界で使われる用語と少し違う狭い意味に使われているので注意)。また、このマーチャンダイジングは、テーマのさらなる拡大的普及を促す意味も持っている。つまり、生み出した「テーマを伴った商品」の可能性を、既存概念の枠を超えて、最大限に拡張し、また、それにより収益を上げることがマーチャンダイジングである。

サービス産業におけるディズニー化されたシステムにおいては、そのサービス提供が多くの場合、演劇に似た Performative labour パーフォーマンス労働による行われる。典型はキャストと呼ばれるディズニーのテーマ・パークの従業員の労働である。これは、ホックシールドの言う感情労働の一種であり、一定の表情などを保つことを労働者に強いる。そのためホックシールドをはじめとして、それの負の面を強調する論者が多いが、かならずしも、そうとは言えない。消費者が、完全に資本にコントロールされていないように、パリのディズニー・パークなどの事例をみると、キャストは面従腹背の戦略を取ることが知られている。

林による(まとめではなく)解説:感情労働という言葉は、日本でもAERAなどの雑誌の記事で目にするようになっている。ただし、日本では、この言葉が、本来の定義と異なった意味で使われているので注意しないといけない。その違いは、林の水5の講義のこの資料を参照して欲しい。これはギデンズの言う Japan model を生みだした国である、いまだに製造業がその経済の中心にあるという日本経済の特性からくるのだが、ブライマンは、主にサービス産業的な産業についてディズニー化を議論しているために、ホックシールドの本来の定義の範囲内で議論を修めることに成功している。ただし、章のイントロでは、産業全般において労働者の感情のコントロールが増大していることを議論しており、日本的な意味での「感情労働」への配慮も見られる。しかし、この本での議論では、それは必要なかったのである。

また、これらの4つの要件を実現するために、使われているのが、Control and surveillance 管理と監視である。この二つのもののセットのうちの最初の管理は、リッツァーがマクドナルド化の要件の一つにしたものだが、ディズニー化では消費が中心となるために(消費者は自由をもっていることに注意!by 林)、完全な管理はできず、それは監視を通して行われることになる。たとえばディズニーのテーマ・パークや、高級なモールや観光地などで、ホームレスばかりか、粗暴と思われる客自体が排除される。たとえば、ディズニーのパークでは、暴力的と思われる客は入場ゲートで拒否されるが、ゲートを持たないモールや観光地では、監視により、粗暴なものを発見して排除する。また、監視されているということを知らせることで消費者を管理(コントロール)することも行われる。たとえば、コール・センターで最初に流れる、会話が録音されているというアナウンスメントは、その例である。

内容の概説は以上。この概説は、ほぼ、章建てその通りになっており、リッツァーのものと違い、主張が自然に流れているのが分かる。ただし、最後の  は、実は第7章の説明を、林が省略したことをあらわしている。どうして、そうしたかというと、この章の内容が、どうも木に竹をつないだような印象を持ってしまうからである。

上記の説明で、下線無しの青字の部分に注目して欲しい。ディズニー化の中心概念となるテーマ化がなぜ必要となったか。ハイブリッド消費がなぜ資本にとって有用か、という説明の根拠が、資本の経験則を前提に、それを何も検討せずに公理の様に使われていることがわかる。これはビジネス指南書などに多くみられる書き方である。その傾向が、なぜ、そうなのか、ということを分析するのが社会学などで主に取られる研究手法なのだが、こういう所や、感情労働を否定的にとらえる社会学者に反対している点、また、管理と監視を、ディズニー化を可能にするなにか enabling one にして、マクドナルド化の場合と異なり、要件から外してしまっている所から、この人が、リッツァーと異なり、大幅に資本側にシンパシーを持っていることがわかる。実際、現在は、この人は日本で言えば経営学大学院にあたる教育組織の教授。

実は、最終章では、trivialization とか sanitization とか、ブライマン以前からディズニーの問題点として指摘されていた議論を使って、ディズニー化の問題点が議論される。しかし、冒頭で、同じものをディズニー化と Desneyfication というディズニー社への異議申し立ての議論と区別するための議論を行っていて、そこでは、そういう批判か身を引いている。これらのことから、最終章は、異質なものと林は理解して、つまり、あまり本心ではないだろう、と理解して、ここは省略した。しかし、これはあくまで林の解釈であることに注意。

以上で、ブライマンのディズニー化理論の説明を終るが、これはリッツァーの「再魔術化」を「ビジネス論」にしたかのうような社会学(?)である、といえるだろう。

その故に最終章の違和感を除けば、どっちつかずのリッツアーの議論にくらべて、スッキリしていて、議論によどみがないと言える。