2014年前期特殊講義「再魔術化」資料 2014.05.18

5.12の資料(一部、赤で強調。これは今回追加)

前回の資料の末尾では、京都学派の哲学者と、Bermanの「脱魔術化」の関係を見ると書いたが、

少し予定を変えて、西谷の「脱魔術化」を取り上げた後に、シラバスの(授業計画と内容)の

「5..数学の近代化と「再」魔術化:合理化された「形而上学」としての公理的集合論」と書いた項目の話の内、

不完全性定理で知られる論理学者クルト・ゲーデルの「脱魔術化」を取り上げる。

そして、その後で、西谷、ゲーデルの「脱魔術化論」と、

西田幾多郎の後の京大文哲学教室教授だった田辺元の「脱魔術化」に対する姿勢を比較する。

ただし、この人たちが、「脱魔術化」と言ったのではないので注意!!

これらの人は、ウェーバーの脱魔術化の概念に近い言葉を使って、西洋近代の文化的傾向を語っただけ。

それが、Berman の「脱魔術化論」に非常に近いので、それを「脱魔術化」という言葉で呼んでいる。

ただし、西谷はウェーバーを意識して発言しているのは、下に示す『宗教とは何か』などの記述から明瞭にわかる。

しかし、実際には、西谷とゲーデルでは、脱魔術化は、そういう言葉ではなくて、「ニヒリズム化」として説明されている。

西谷のニヒリズム論

西谷啓治(1900-1990)は、ニヒリズム論を巡って思索した京都学派の哲学者・宗教学者。

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-nishitani_guidance/

京大文学部哲学教室教授。ただし、戦後、一時期、公職追放になっている。後に復帰。

大谷大学の非常勤講師として長く勤めて、本人も、それに愛着があったらしい。

大谷大学が清沢満之の大学であったのがその理由とのこと。

西谷の残した史料は、今は大谷大学図書館に所蔵されている。

最初、ドイツ神秘主義を中心に仕事を進めたが、後期になると仏教の概念を用いる議論を多くした。

このことと、京都学派というと仏教・禅という、世間的イメージのために、仏教が根幹にある人にみえるが、

実は、この人の問題意識の中心には、キリスト教圏の思想があることは明白

(実は、京都学派の哲学者は、ほとんど皆そう。西田でさえも、そうである)。

60代位までの西谷が、宗教について語りだすと、自然に「キリスト教の神」になってしまう。

まだ、西谷の研究を始めたばかりなので、暫定的結論だが、

西洋近代と、日本人・東洋人である自分の葛藤の問題を、

ニヒリズム論という形にし、宗教的な思索を通して解こうとした人だろう。

しかし、実際にお坊さんであるわけでもないし、キリスト教徒でもない。

飽くまで近代人化・西欧化した日本の哲学者。

西谷にとってのニヒリズムとは、本質的に、ウェーバーの近代化のことだと考えられる。

実際、『宗教とは何か』 1961年 (全集第10巻)で、ウェーバーの名前を出さないものの、

ほぼ、ウェーバーの近代化論にそって、キリスト教が社会を支配した時代から、

現代(執筆時の現代は1950年代)にいたる西洋文明の思想史を説明している。

それは、自然科学的世界観がキリスト教的世界観を駆逐することによって起きる

ニヒリズムの問題として説明されている。 

そのキーワードは、indifference 無関心。

これを使って、Berman の思想と、西谷の思想の近さを説明。

以下、続く。

ここで黒板に絵を描いてバーマンと西谷の説明を比べた:

バーマン

バーマン脱魔術化

西谷

西谷脱魔術化

パノラマ画像

脱魔術化

これらの二つの「脱魔術化」の図を合成すると、4月28日に説明した、ウェーバーの脱魔術化のシュルフターの説明になっていることが分かる。

黒板で絵を合成してみながら、次と比較する:

4.28の資料から

Berman の脱魔術化の視点は、ウェーバーの視点と非常に近い。実際、ウェーバーを多く引用している。

ただし、ウェーバーよりは、科学による「人間性の疎外」のファクターに重点が置かれている。

という風に言えるには、ウェーバーの脱魔術化は何だったのかを言わなくてはならない。しかし、すでに注意したように、ウェーバーが何を考え、どう主張したかには十分確定したものがない。そこで、この講義では、一応の標準として、前回紹介した、 Wolfgang Schulchter の著書(短い論文集) Die Entzauberung der Welt, 2009, Mohr Siebeck Tuebingen の巻頭論文(論文集と同名)の脱魔術化の説明により、ウェーバーの脱魔術化を理解することにする。それを大雑把にまとめると、次のようになる。

  1. 古代ユダヤ教という、最初の一神教が生まれたことにより、脱魔術化の第一歩が始まる。多神教の方が自然。多くの神は、多くの聖霊、魂。
  2. しかし、ユダヤ教には、魔術的要素がある。脱魔術化は長い歴史により実現された。
  3. ギリシャ的合理性の哲学とキリスト教の統合、教会による宗教の統合などを経て、決定的に重要だったのは、16-17世紀のプロテスタンティズム。
  4. ウェーバー社会学の特徴として、このプロテスタントの思想を近代の思考方式の始まりとみなすという点がある。ウェーバーは、プロテスタント。
  5. 一つのポイントは:教会や秘跡による救いの概念の放棄。たとえば、カルヴァン派の教義にその極端な形がみえる。キリスト教の絶対的神は妖精や日本の神様のように取引をしないということ。賽銭や供物をあげてもだめ。
  6. そして、脱魔術化されたキリスト教を、さらに自然科学的思考が、つまり、ヨーロッパのもう一つの伝統、ギリシャ的伝統が、さらに脱魔術化し、現代の脱魔術化成立。

バーマンも、ほとんど、これと同じ議論をするが、ただし、6の自然科学の部分に強調点がうつる。そのポイントは、

  1. デカルトの思考法、ガリレオの思考法により、自然科学が、ヨーロッパの思考法を牛耳るようになる。
  2. そのポイントは、思考する対象から、身を引くこと。
  3. つまり、世界への参加を拒否して、世界を見ること。
  4. これをスコットランドの精神分析家 Laing の概念を使い説明している。
  5. そして、魔術化されていた時代の意識をParticipating Consciounessと呼ぶ。
  6. 脱魔術化とは、この participation 参加が失われること。
  7. 図を書いて説明。

ゲーデルの「脱魔術化論」

ここで話を大きく変えて、数理論理学者クルト・ゲーデルの話をする。これは林が色々な講義や本などで「数学の近代化論」として説明しているもの。

ウェーバーの「脱魔術化」は、彼の「近代化」の概念の一部分、つまり、「近代化という社会、組織、文化、文明の傾向のひとつの特徴が脱魔術化」である。したがって、ゲーデルの「数学の近代化論」が「数学の脱魔術化論」として読めるても不思議はないのであり、実際に、そう読むことができる。

まず、クルト・ゲーデルの紹介

イギリス、セント・アンドリュース大学の有名な数学史のサイトの記事

英語の Wikipedia の記事

論理学、数学基礎論、数理物理学などに仕事があるが、哲学的な講演や文章もかなりの数を残している。

思索のパターンは、少なくとも1950年代以後は非常に哲学的。

ゲーデルの「脱魔術化論」:世界の左傾化

ゲーデルの歴史観

ゲーデル全集第3巻 pp.374-387,、未発表エッセイと講義、に The modern development of the foundations of mathematics in the light of philosophyというタイトルの未発表文書がある。

この文書はアメリカ哲学会で予定されていた講演のコンセプトらしいが、確定的なことは分かっていない。タイトルは編集者がつけたと思われる。ゲーデルの死後に発見された 「Vortrag, Konzept (講演、コンセプト)とラベルされた、アメリカ哲学会からの封筒」に入っていたもので、ドイツ語速記の原稿全集では、ドイツ語への翻刻と、それの英訳が、左ページドイツ語、右ページ英語という形式で掲載されている。

そのドイツ語翻刻の先頭はこう始まる: Ich moechte hier versuchen, die Entwicklung der mathematischen Grundlagenforschung seit etwa der Jahrhundertwende in philosophischen Begriffen zu beschreiben und in ein allgemeines Schema von moeglichen philosophischen Weltanschauungen einzuordnen.

林の和訳:私はここで、世紀の変わり目(19世紀から20世紀への変わり目のこと)のころからの数学の基礎付け研究の発展について、それを哲学の概念を用いて記述し、また、それを可能な(複数の)哲学的世界観についての一つの普遍的図式(das Schema, スキーマ, 型、形式、略図)で整理してみたいと思います。

この、可能な(複数の)哲学的世界観についての一つの普遍的図式、ein allgemeines Schema von moeglichen philosophischen Weltanschauungen というのがゲーデルの歴史観。それは概略を説明すると、次のようになる:

  1. さまざまな世界観は、それが形而上学あるいは宗教から、どれだけ離脱(Abkehr)しているかにより分類すると、実り多いと思われる。そのような分類方法を用いると、世界観が二つのグループに分類されてしまうことが直ぐにわかる。懐疑主義、唯物論、実証主義のグループと、唯心論(Spiritualismus)、観念論、神学のグループである。そして、それぞれのグループの中でも離脱の度外の大きさというものがあり、例えば、懐疑主義は唯物論よりさらに形而上学から離れており、観念論は弱められた神学といえる。
  2. よく知られているように、ルネサンス以後、哲学は、左から右へと、発展(Entwicklung)した。もちろん、例外もあるし、この様に単純にはいえないのだが、概略としては、哲学は形而上学から離脱する方向に進んだのである。特に物理学においては、この傾向は、現代においてピークに達し、例えば客観的観測可能性(Erkenntnis der objectvierbaren Schverhalte)の否定などはそれである。この結果、われわれは物理学の意味として予測可能性(Beobachtungsresultate vorauszusagen)のみに甘んじなくてはならない。それがすべての理論的学問(theoresticshen Wissenschaft)の目的(Ende)なのである。(ただし、この予測可能性は、プラクティカルな目的(praktische Zwecke)、たとえば、テレビジョンを作るとか、原爆を作るとかには全く十分なのであるが)。
  3. その様ななかで、唯一数学のみにおいては、そのような考え方(Auffassung der Mathematik)が起きなかったことは奇跡と言わねばならない(Es muesste ein Wunder sein)。数学は本来アプリオリな学問であり、その故に、ルネサンス以後の支配的時代精神(Zeitgeist)に抗して、常に右方向への傾向を維持したのである。それゆえにジョン・スチュアート・ミルの数学の経験論などは支持を得ることができなかったのである。実際、数学はむしろ、物質(Materie)から離れ、その基礎を追求する、より高い抽象化(zu immer hoeheren Abstraktionen weg)の方向に進んだのである。
  4. そして、世紀の変わり目のころ、ついに時は到った(hatte auch ihre Stunde geschlagen)。いわれるところの集合論のパラドックスが発見され、懐疑論者たちが、それを大げさに騒ぎ立てた。私が「いわれるところの」(angeblich, そう思われているという意味。英語の alleged)とか、「おおげさに」(uebertrieben)とかいうのは、実際には、矛盾は数学の中ではなく、数学と哲学の境界で起きたのであり(nicht in der Mathematik sondern an ihrer aeussersten Grenze zur Philosophie)、また、それが完璧に誰もが納得する形で解決されたからである。
  5. しかしながら、こういう議論は、時代精神(Zeitgeist)に抗するには役立たず、数学者の多数が、数学が真理のシステム(ein System von Wahrheiten)という信念を放棄し、数学を恣意的な仮定からの推論の体系と看做すようになったのである。
  6. <中略>
  7. この様なニヒリスティックな結論(nihilistischen Folgerungen)は時代精神にピッタリはまっていたのであるが、ここで数学の持つ特性のためにリアクションが起きた。つまり、時代精神も、そして、数学本来の精神をも同時に満たそうという、奇妙な配合種(merkewuerdige Zwitterding)としてのヒルベルト形式主義である。
  8. <中略>ここで、ヒルベルト形式主義の技術的説明とそれを否定したゲーデルの不完全性定理の説明が入り、特に、第一不完全性定理を、数学の精神(右)を時代精神(左)で満たそうとした試みと説明し、それは不可能だと断じている。そして、その後で第二不完全性定理について語り、そして、次のように結論する:
  9. ヒルベルトの唯物論と古典的数学の諸相の組み合わせは、この様に不可能なのである。

この内の左傾化論が、近代化論、脱魔術化の部分。実は、数学だけは右傾化したと言っているので、これは再魔術化論になっているのだが、これは後で説明。

ゲーデルの議論とウェーバー、バーマン、西谷の議論の比較