2014年前期特殊講義「再魔術化」資料 2014.05.12

質問票への回答のための資料

連休で一回飛んだので、最初から復習。

4.21の資料

上記4つや、シラバスの講義内容に書いた、数学における再魔術化の様な、様々な再魔術化の概念・解釈を検討するわけだが、その前に、まず、この概念のもとになったもので、その対抗概念でもある、脱魔術化の説明。

これは、マックス・ウェーバーの社会学の基礎概念として有名であることは、前回説明したとおり。

しかし、これが何かと、はっきり定義せよ、と言われると、案外難しい。ウェーバー社会学は未完であるために、実は、その理論のどれをとっても、これが決定版というような定義・説明をすることは難しい。

その中で脱魔術化の説明は、さらに難しいように思う。その理由は、これが体系的・理論的文脈で登場した言葉ではないから。

たとえば、有名な「社会的行動の合理性の分類」は、「経済と社会」という著書における理論展開の中で、ちゃんと幾つかの節を切って、その中で議論が展開されている。

しかし、脱魔術化という言葉は、そういう体系的文脈で説明された言葉ではない。そのために様々な解釈が可能。

一般には、この言葉は、ウェーバーの有名な1918年の講演「職業としての科学」(「"天職"としての学問」と訳す方が適当だが、こう訳されている)で使われた言葉として有名。

しかし、現在のドイツ社会学で、最も有名なウェーバー研究者と思われる Wolfgang Schulchter の著書(短い論文集) Die Entzauberung der Welt, 2009, Mohr Siebeck Tuebingen によると、初出は、1913年の「理解社会学の緒カテゴリーについて」(北大の社会学者橋本努さんの講義資料)であり、それは劇作家・小説家の Emil Ludwig の同年の著書 Wagner oder die Entzauberten 「ワーグナーあるいは脱魔術」から来ていることを示唆している(はっきり、そうだとは言ってない。証拠はないので。たまたま、同時に書いた可能性もあるので。アカデミックな学者は、こういう風に大胆かつ慎重でなくてはいけない)。

いずれにせよ、Emil Ludwig は、ワーグナー信奉者によるワーグナーの神格化 Vergöttlichung に対し、ワーグナーの青年時代を描くことなどにより脱神格化 entgöttlichen しようとした。

実は、Emil Ludwig やマックス・ウェーバーの脱魔術化 Entzauberung という言葉は、詩人シラーが約1世紀ほど前の1788年に、その詩、ギリシャの神々 Die Götter Griechenlands において嘆いた Entgötterung der Natur 自然の脱神化から来ていると考えられている。参考リンク1:その詩の一部をシューベルトが歌曲にしたものとその和訳

これは哲学者のハイデガーや彼の弟子でもある京都学派の哲学者西谷啓治が、彼らのニヒリズム論で用いた概念と同じ考え方で、科学による自然の解明により、自然の中にあった神性が消えていき、自然と人間の魂との交流が失われ、それが単なる「物」と化すことを言う。

同様に、世界の脱魔術化とは、世界の中に満ち溢れていた「魂」、Geist、spirit、つまり、聖霊とか妖精のような「心」を持ったものが失われ、世界がすべて「死んだような」物と化すことを言う、と、この講義では理解する。

このことを前提にして、以下、Berman, Harrington, Ritzer が、脱魔術化(再魔術化ではないので注意!)をどの様に理解しているかを検討する。

まず、Berman から。

4.28の資料

Berman の脱魔術化の視点は、ウェーバーの視点と非常に近い。実際、ウェーバーを多く引用している。

ただし、ウェーバーよりは、科学による「人間性の疎外」のファクターに重点が置かれている。

という風に言えるには、ウェーバーの脱魔術化は何だったのかを言わなくてはならない。しかし、すでに注意したように、ウェーバーが何を考え、どう主張したかには十分確定したものがない。そこで、この講義では、一応の標準として、前回紹介した、 Wolfgang Schulchter の著書(短い論文集) Die Entzauberung der Welt, 2009, Mohr Siebeck Tuebingen の巻頭論文(論文集と同名)の脱魔術化の説明により、ウェーバーの脱魔術化を理解することにする。それを大雑把にまとめると、次のようになる。

  1. 古代ユダヤ教という、最初の一神教が生まれたことにより、脱魔術化の第一歩が始まる。多神教の方が自然。多くの神は、多くの聖霊、魂。
  2. しかし、ユダヤ教には、魔術的要素がある。脱魔術化は長い歴史により実現された。
  3. ギリシャ的合理性の哲学とキリスト教の統合、教会による宗教の統合などを経て、決定的に重要だったのは、16-17世紀のプロテスタンティズム。
  4. ウェーバー社会学の特徴として、このプロテスタントの思想を近代の思考方式の始まりとみなすという点がある。ウェーバーは、プロテスタント。
  5. 一つのポイントは:教会や秘跡による救いの概念の放棄。たとえば、カルヴァン派の教義にその極端な形がみえる。キリスト教の絶対的神は妖精や日本の神様のように取引をしないということ。賽銭や供物をあげてもだめ。
  6. そして、脱魔術化されたキリスト教を、さらに自然科学的思考が、つまり、ヨーロッパのもう一つの伝統、ギリシャ的伝統が、さらに脱魔術化し、現代の脱魔術化成立。

バーマンも、ほとんど、これと同じ議論をするが、ただし、6の自然科学の部分に強調点がうつる。そのポイントは、

  1. デカルトの思考法、ガリレオの思考法により、自然科学が、ヨーロッパの思考法を牛耳るようになる。
  2. そのポイントは、思考する対象から、身を引くこと。
  3. つまり、世界への参加を拒否して、世界を見ること。
  4. これをスコットランドの精神分析家 Laing の概念を使い説明している。
  5. そして、魔術化されていた時代の意識をParticipating Consciounessと呼ぶ。
  6. 脱魔術化とは、この participation 参加が失われること。
  7. 図を書いて説明。

これに西谷、田辺などの京都学派の哲学者の思想との関連を見る。

ここから、5.12の資料

前回の資料の末尾では、京都学派の哲学者と、Bermanの「脱魔術化」の関係を見ると書いたが、

少し予定を変えて、西谷の「脱魔術化」を取り上げた後に、シラバスの(授業計画と内容)の

「5..数学の近代化と「再」魔術化:合理化された「形而上学」としての公理的集合論」と書いた項目の話の内、

不完全性定理で知られる論理学者クルト・ゲーデルの「脱魔術化」を取り上げる。

そして、その後で、西谷、ゲーデルの「脱魔術化論」と、

西田幾多郎の後の京大文哲学教室教授だった田辺元の「脱魔術化」に対する姿勢を比較する。

ただし、この人たちが、「脱魔術化」と言ったのではないので注意!!

これらの人は、ウェーバーの脱魔術化の概念に近い言葉を使って、西洋近代の文化的傾向を語っただけ。

それが、Berman の「脱魔術化論」に非常に近いので、それを「脱魔術化」という言葉で呼んでいる。

ただし、西谷はウェーバーを意識して発言しているのは、下に示す『宗教とは何か』などの記述から明瞭にわかる。

しかし、実際には、西谷とゲーデルでは、脱魔術化は、そういう言葉ではなくて、「ニヒリズム化」として説明されている。

西谷のニヒリズム論

西谷啓治(1900-1990)は、ニヒリズム論を巡って思索した京都学派の哲学者・宗教学者。

http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-nishitani_guidance/

京大文学部哲学教室教授。ただし、戦後、一時期、公職追放になっている。後に復帰。

大谷大学の非常勤講師として長く勤めて、本人も、それに愛着があったらしい。

大谷大学が清沢満之の大学であったのがその理由とのこと。

西谷の残した史料は、今は大谷大学図書館に所蔵されている。

最初、ドイツ神秘主義を中心に仕事を進めたが、後期になると仏教の概念を用いる議論を多くした。

このことと、京都学派というと仏教・禅という、世間的イメージのために、仏教が根幹にある人にみえるが、

実は、この人の問題意識の中心には、キリスト教圏の思想があることは明白

(実は、京都学派の哲学者は、ほとんど皆そう。西田でさえも、そうである)。

60代位までの西谷が、宗教について語りだすと、自然に「キリスト教の神」になってしまう。

まだ、西谷の研究を始めたばかりなので、暫定的結論だが、

西洋近代と、日本人・東洋人である自分の葛藤の問題を、

ニヒリズム論という形にし、宗教的な思索を通して解こうとした人だろう。

しかし、実際にお坊さんであるわけでもないし、キリスト教徒でもない。

飽くまで近代人化・西欧化した日本の哲学者。

西谷にとってのニヒリズムとは、本質的に、ウェーバーの近代化のことだと考えられる。

実際、『宗教とは何か』 1961年 (全集第10巻)で、ウェーバーの名前を出さないものの、

ほぼ、ウェーバーの近代化論にそって、キリスト教が社会を支配した時代から、

現代(執筆時の現代は1950年代)にいたる西洋文明の思想史を説明している。

それは、自然科学的世界観がキリスト教的世界観を駆逐することによって起きる

ニヒリズムの問題として説明されている。 

そのキーワードは、indifference 無関心。

これを使って、Berman の思想と、西谷の思想の近さを説明。

以下、続く。